第5章 誓い―戦闘態勢
「お帰りなさい」
仕事を終え、凍るような寒空の下から帰ってきたセイヤが新居のドアを開けた時、リサの声と部屋の中を満たしていた暖かい空気が迎えてくれた。
「あ、ああ……ただいま」
セイヤは玄関に立ち尽くしてしまった。お帰りなさい…お帰りなさい…お帰りなさい…リサの声が頭の中でリフレインする。セイヤがずっと長い間、求めていた言葉だ。
「どうしたの? 入らないの?」
リサが顔を出した。リビングの片隅には段ボール箱が積まれていたが、部屋はだいぶ片づいている。
借りた中古アパートは2Kのささやかな住まいだが、夫婦二人ならこれで充分だ。
「あ、ああ」
おもむろに部屋に上がって上着を脱ぎ、とりあえず着替えを済ませる。
「食事の用意できてるけど、どうする? 先にシャワー浴びる?」
キッチンからリサの声が届く。
「じゃあ、お腹空いているし……食事にしようかな」
ああ、これが夢の『食事にする? お風呂にする?』かあ~と、しばし浸ってしまった。今までずっと殺風景な寮住まいだっただけに、この家庭らしい空気にいちいち感動してしまうセイヤであった。
キッチンとつながっている部屋へ入ると、漂ってくる夕飯の匂いにリサが用意する食器の音、そこにはホッとする安息の空間があった。
「あ、これ、運んでくれる?」
「ああ」
リサからシチューをよそったスープ皿を手渡される。おいしそうな匂いと共に立ち上る湯気が鼻をくすぐり、お腹のムシを誘う。
すでに食卓にはさまざまな副菜が並び、晩餐の始まりを待っていた。
記憶の奥底に微かに残っていた家庭への思慕。ようやく本当に欲しかったものが手に入った。
心を巣くっていた孤独と警戒心と渇望感が、安らぎと幸福感へと替わる。セイヤは初めてこの世界に感謝した。
そう――セイヤが家庭というものから遠ざかってから、だいぶ経つ。
小さい頃に家族を失い、8歳以降ずっと養護施設で育った。
今はもう、両親の顔をうまく思い浮かべることができず、両親の写真を見てこんな顔だったのかと思う程に、失った家族のことは記憶の彼方に行ってしまった。
ただ、喪失感だけがずっとセイヤの心に巣くい、居座り続けた。
両親が交通事故に遭い、病院に担ぎ込まれた時「お父さんとお母さんを助けてください」と幼いセイヤは一生懸命に祈った。
けれど、神様は頼みを聞いてくれなかった。厳しい現実が待ち受けているだけだった。
それからのセイヤはもう神頼みなどせず、喪失感だけを抱えながら、淡々と生きた。
自分を護ってくれる両親はもういない。独りぼっちとなったセイヤは無難にやり過ごすことだけを覚えた。慎重に、計算高く、用心深く、失敗しないよう、あらゆる想定をして準備をするクセもついた。他人と争うこともできるだけ避け、譲れるものは譲るようにした。
10歳の時、養護施設で一度だけ派手なケンカを仕出かし、先生にも施設の子どもたちにも恐れられたことがあるが、基本的にセイヤは『穏やかで手のかからない静かな子』として育った。先生の教えに疑問を持っても、とりあえず従うようにしていた。10歳の時のあの一件を除いて、リサと出会うまで、先生にも反発したことがない。従順を装い、心を閉じていた。
なので、人とも深くつきあったこともない。つきあいたいとも思わなかった。
本当に守りたいもの、欲しいものがなかったからかもしれない。そもそも遠い過去に失ってしまった家族以外に守りたいもの、欲しいものなどなかった。
そんなセイヤの目の前に現れたのがリサだった。
リサは先生に反抗的態度をとり、怒ったり泣いたりした。
心に蓋をしていたセイヤにとってそんなリサが気になった。皆が眉をひそめるようなネガティブな感情を素直に顕わにするリサがうらやましかったのかもしれない。
なのに、リサはあえて危ない道へ行こうとし、無茶をし、まるで死に場所を求めているように感じた。
自然に『リサを守ること』が優先順位の上位となった。
自分にとって譲れないもの、守りたいものができた時、セイヤはただただ純粋に嬉しかったのだ。『リサを守る』ことによって自分の欠落感・喪失感が癒される気がした。
セイヤの心の蓋をいつの間にかリサが開けてしまっていた。
そして今、セイヤは過去に失ったものを取り返したのだ。
セイヤは席に着き、リサと食卓を共にする。食卓にはシチューやらサラダやら、いろいろな惣菜、副菜が所狭しに並んでいる。
「今日は一緒に暮らす初めての日だから、がんばって作ったし、材料もちょっとだけ贅沢したけど、明日からはおかずの数は減るからね。それと、復職したら手抜き度も高くなるし、家事は分担してもらうからね」
リサは釘を刺す。
「じゃあ、温かいうちに」
「いただきます」
まずはシチューを口に運ぶ。肉がやわらかく煮込まれていて、口の中でとろけた。肉のダシと玉ねぎの甘さが溶け込んだスープの旨みが口全体に広がる。それらが胃の中に落ち、体中がポカポカしてきた。あっという間に皿が空になる。
今までセイヤにとって食事といえば、プラスチックかスチール製の食器に盛られ、トレーに乗せられた無味乾燥な給食スタイルだった。それが陶器のお皿に盛られ、テーブルに並べられているだけで、数倍おいしそうに見える。
そして何といっても、この料理は不特定多数への給食ではなく、自分のために作られたものなのだ。
――オレはリサを救ったつもりでいた。けど救われたのは、オレのほうかもしれない。
「あの、シチュー、おかわりしていいかな」
「もちろん」
「けっこう好きなんだよなあ」
「シチュー?」
「ああ」
「へえ」
穏やかな晩餐タイムは進む。
この先、何事もなく平和が続けば、この幸福感はいずれ日常に埋没していくだろう。でも、それでいいのである。それこそが今の二人の願いだった。
リサは頭に『セイヤの好きなもの』として、とりあえずシチューを記す。ほかにもきっといろいろあるはず。セイヤのお皿にシチューをいっぱいによそいながら、ついでに自分もおかわり。何だか食が進む。余ったら明日の昼食にと思ったけど、これは残りそうにない。
二人はあっという間におかわりのシチューも平らげ、ほかの副菜もお腹に収める。もうお腹いっぱいだ。
安穏なひと時に身を寄せながら、セイヤは固く誓う。
――この暮らしだけは守りたい。どんなことをしてでも守る。
・・・
セイヤとリサの新しい生活が始まってからまもなく、新居にルイが訪ねてきた。
セイヤは仕事に出ていたので、停職中のリサはルイと女同士二人で盛り上がる。
「結婚おめでとう」「ありがとう」と、ありきたりな挨拶もそこそこに、ルイはしげしげとリサを見つめてしまった。
「リサ、雰囲気変わったね~」
学生時代はいつも黒っぽい服を着ていたリサが、明るい淡いピンク色のワンピース姿になっていたのと、何といっても長かった髪をバッサリ切って、顎のラインに沿って切り揃えたショートになっていたからだ。
「髪、ずいぶん思い切ったんだね」
「私もこんなに短くされちゃうとは思わなかった」
リサはお茶の用意をし、ルイが持ってきてくれたクッキーをテーブルに並べる。
「え?」
ルイは怪訝な顔をした。
「セイヤもこんなに短くするつもりはなかったって言ってたし」
「まさか、それセイヤが切ったの?」
「だって、今月はもうお金かけられないもの」
「……」
「ま、セイヤは器用だし、揃えるくらいならできるって言うから」
「……チャレンジャーだね」
目を白黒させつつ、ルイはリサが淹れてくれた紅茶を口にした。
そんなルイを尻目に、リサはこぼす。
「でも、わりと難しかったみたい。切っているうちに、いつの間にか短くなっちゃったって。時間もすごくかかっちゃって、けっこう大変だったんだから」
「何というか……二人ともお疲れ様」
「ま、髪が短いほうが、洗うのに水道代やシャンプー代も多少、節約できるかなって」
「……大変そうだね、生活」
ルイは、リサとセイヤがそれぞれ無給処分・減給処分になった話はいちおう聞いていたが、新婚早々のケチケチ生活が想像つかなかった。女の子ならもうちょっと華やかで甘い新婚生活を夢見るだろうに、現実はかなり厳しそうだ。
なのに、何でもないことのようにリサは穏やかな顔をして笑っていた。
「元はと言えば、処分受けるハメになったのも私のせいだし」
「処分受けている間は結婚を延期すればよかったのに」
恋愛を思いっきり楽しむという発想はなかったのかしら、とルイはクッキーをつまむ。ま、あの『堅実』『着実』という言葉が服着て歩いているようなセイヤにとって、恋愛という不安定な関係を楽しむ余裕などないのかもしれないけど――と思っていたら、案の定、リサはこう応えた。
「早く落ち着きたいって、セイヤが駄々こねるから」
「へえ、あのセイヤが駄々をこねる姿なんて想像つかないけど」
「意外と面倒な男よ」
「筋金入りの安定志向だからね」
二人は声を出して笑い合う。
クッキーのおいしさは格別だった。細かく砕いたナッツが練り込まれていて、香ばしさが鼻腔に伝わる。太るかなと思いながらもついつい手が出てしまう。
そんなクッキーをお供に二人の他愛もないおしゃべりは続いた。
その時、ふと時計を見たリサが「そうそう、今日もルイ、テレビに出るよね。ちょうど今その時間じゃない?」とテレビを点けて、ルイが出演する番組にチャンネルを合わせた。
「ああこれ、この間収録した分ね」ルイもテレビに目をやる。
それは、国際情勢を議論するちょっと硬派な番組で、テレビの中のルイはシべリカ国に対して警戒を促すようなコメントを出していた。
ここでほかのコメンテーターが発言する。
「でも、あなたが言っていることは全て憶測ですよね。あなたの立場から見れば、お祖父さまを戦犯として処刑したシべリカ国は憎いでしょう。中立の立場ではありませんね。だから、あなたの発言をそのまま鵜呑みにはできませんよ」
それに対し、ルイは堂々と応えていた。
「はい、それは当然です。私は旧アリア国の立場で発言してます。でも今、世界に喧伝されている『旧アリアは戦犯国家だ』という見方は、戦勝国のシべリカ側の視点で語られてますよね。中立の意見ではありません。戦勝国の考えだけを聞くのも偏っていると思いませんか?」
「そういえば、そうですね。たしかに旧アリア側の事情はあまり聞こえてこない」
別のコメンテーターが頷いていた。
ちょっと前まで、ルイは世間から「戦犯の子孫が反省をせず、証拠もないのにシべリカ国を貶めている」と批判に晒されていた。リサはそれを心配していたが、今はルイの話を聞こうという者も現れ、仲間もできたようだ。世論の風向きはちょっとだけ変わりつつあった。
楽しい時間はあっという間に過ぎた。窓からはオレンジ色の雲を抱く空と黄昏た陽光が白壁の家々を黄金色に染めているのが見える。
「さて、そろそろお暇するね」
ルイは名残惜しそうにしつつも立ち上がる。
「え、もうすぐセイヤも帰ってくるよ」
リサは慌てて引き留めたが、ルイは首を横に振った。
「またの機会にする。今日はリサの顔を見に来たの。入院している時も、面会謝絶が続いていたし、お見舞いがなかなかできなくて、気になっていたから」
でも、お見舞いに行けなかった理由はほかにあった。
テレビに出るようになったルイはちょっとした有名人になっており、そしてリサもまた『特戦部隊のヒロイン』としてマスメディアに祭り上げられていた。ルイがリサを見舞ったことが世間に伝わり、二人が友人同士だと知られたら、面倒なことになる気がした。もしかしたらリサに迷惑がかかるかもしれない。だから病院にも行けなかった。今日だって周りに人がいないことを確認し、警戒しながらここに来たのだ。
けど、そんなことはおくびにも出さず、ルイは二カーッと笑った。
「じゃあ、また今度」
「うん、また」
二人は軽い挨拶で別れた。そう、またいつでも会えるのだから。
アパートの外に出たルイの足取りは軽かった。
夕刻の海風がルイの許を通り過ぎる。セイヤへの想いはふっ切れた気がした。いや、本当はまだちょっと心残りはあるけれど、時間が解決してくれるはずだ。
眼下に、家々の隙間から覗く海を眺め、そういえば養護施設と学校は海のすぐ近くだったっけと昔を振り返る。
そして思う。学生時代のセイヤは淡々としていて『情熱』『執着』から遠くかけ離れた生き方をしてきた人だけど、本当は違うと。
かつて一度だけ、セイヤはそれを見せた。けどそれ以降、自分の心を閉じてしまった。
でも今やっと、セイヤは本当の自分を心置きなく出せるようになったのかもしれない。
もちろん、リサも変わった。学生時代は家族の死を引きずり、何かに縛られ、重い荷物を背負っているような感じだった。けどその荷物を下ろしてあげたのがセイヤなのだろう。
――リサとセイヤはお互いにかけがえのない伴侶を得た。
ルイはリサのいる部屋に向かって、改めて「おめでとう」と小さくつぶやく。そう、これでよかったのだ……。
その時、夕暮れの空に照らされながらも、影となって色を落としていく家々と海を背に、緩やかな坂道を上ってくるセイヤの姿が見えた。
「あれ、来ていたのか。もう帰るのか?」
ルイに気づいたセイヤは、声をかけてきた。
「あ、うん……久しぶりだね」
ちょっと照れくさい。セイヤと会うのは養護施設を出て以来だった。けど、電話やメールでは話したりしていたので、久しぶりという感じはそれほどなかった。それでも見ないうちに、ずいぶん逞しくなったように思う。
「今まで、大変だったね」
「まあな。ルイも大変そうだな」
「うん、でも負けるわけにはいかないから」
「オレに協力できることがあれば、言ってくれよな」
「ありがとう」
ルイはサギー先生のことを伝えようかと思ったが、やめた。証拠もない。でも警戒すべき相手だ。だから、こういう言い方をした。
「……戦うべき相手の姿が見えてきた気がする。負けたくない」
「……オレもだ」
セイヤはそう言っただけで、思わせぶりなことを言ったルイに何も訊かなかった。
おそらくセイヤも何か感じるものがあるのだろう。敵は、すでにこの国を侵食している。放っておけば、この暮らしは破壊されるかもしれない。
ルイの心は祝福の気持ちから警戒心へと変わった。実は、テレビでいろいろ発言するようになってから、嫌がらせや脅迫めいた声も届くようになっていた。
「ルイ、気をつけろよ」
「セイヤ、あなたもね。じゃあ、また」
ルイはセイヤとは反対方向に、緩やかな坂を下りていく。家々の窓や門燈に灯りが点き始め、その隙間から見えていた海と空の境目が分からなくなっていた。
陽が沈んだ薄暮の空はあっという間に夜の帳を下す。
ルイは家路を急いだ。
――私にはやるべきことがたくさんある。
足早となったルイの心はもうすでに戦闘態勢に入っていた。
甘いほのかな恋心は霧散する。
夜の色へ塗り替えられていく空の下、セイヤはルイの姿が見えなくなるまで見送った。
ルイにも絶対的な味方がいるといいよな――そう思った時、ふとジャンの顔が思い浮かんだ。
「いやいやいや、あんな肉食野獣系、お嬢様のルイに合うはずがない……かな?」
考え込みながら3階へ上り、我が家のドアを開ける。
「お帰りなさい」
夕餉の匂いと共にリサの声がセイヤを迎えた。




