鳩の恩返し
最近、ついてない。
にわか雨に振られる。びしょ濡れになる。自宅に干していた布団もぐっしょり。風を引く。仕事でよくミスをする。介護している利用者に思い切り顔を叩かれる。車椅子のタイヤに脛をぶつける。青あざができる。残業が溜まる。お金は溜まらない。好きな人が転職して結婚する。彼女がいることは知っていた。こんなことになるなら玉砕覚悟で気持ちだけでも伝えておけばよかったと後悔する。涙で枕もぐっしょり。台所に置いた段ボールもぐっしょり。中を見たら傷んだ玉ねぎがドロドロに溶けていた……愕然とする。
大きな不幸は幸い無いが、地味な不幸も続くと辛い。
よく晴れた日、京都市を南北に切る賀茂川沿いを一人歩きながら、人生について思いを巡らす。
陽光を受けて煌めく賀茂川を泳ぐ鴨達、中州で羽根を広げ日光浴をする白鷺、上空を旋回する鳶、尾羽を振りながら芝生を歩くセキレイ、若葉に覆われた櫻の樹の中で鳴きまくる雀、ゴミ箱のゴミを漁るカラス、ベンチで老人が撒く餌を遠慮なく啄ばむ鳩、鳩、鳩……
彼らを眺めていると、鳥もいいな、と思う。空を自由に飛ぶことができるし、人間のように面倒なことを考える必要もない。
こんなことを聞いたら、「何を言ってるんだ!野性の厳しさを知りもしないで!」と鳥に怒られるかもしれないが、正直、鳥が羨ましい。
そんなことを考えている内に、地面にまで垂れ下がった大量の柳の葉に頭から突っ込んでしまった。
やはり、ここの所ついてない。
賀茂川を離れて長い坂を上がり、住宅街の古い賃貸アパートへ向かう。
一階の自宅に入ると、私は無造作にカバンを放って、ベッドに倒れ込んだ。1LKの一室は狭い。防音もイマイチで、よくどこかの部屋からドラムを叩く音が響いてくる。今もその音がする。
タタン、トタタン、トタタタタ。
私はベッドに寝転んだまま、ぼんやりとドラムの音に耳を澄ませた。すると、ドラムの合間に奇妙な音が混じる。
タタン、トタタン。クルッポー。
タタン、トタタン。クルッポー。
クルッ、クルッ。
あれ?これって、まさか……
嫌な予感がして、起き上がる。そっと周囲を見回すと、案の定テーブルの下に奴がいた。
鳩だ。
濡れたコンクリートのような色をした胴体、黒い線の入った羽根、ふわっとした鳩胸、薄紫や淡い緑色の滲む首筋、嘴の上の白い模様、何を考えているのか分からないギョロッとした小さい眼……見紛う事なき鳩だ。
何故、鳩が、部屋に。…あっ。
窓の方を見ると、少し開いていた。しまった…どうやら朝からずっと開けっ放しにしてしまっていたようだ……不用心極まりない。
私はがっくりと項垂れたが、空き巣が入って来なかっただけマシだ、と思い直した。まずは、部屋に入って来た鳩をどうするかだ。
私はひとまず立ち上がった。しかし、鳩は床をグルグルと歩き続け、私の動きに全く興味を示さない。さすが鳩。人間に慣れ切っている。
鳩の反応がないことをいいことに、私は窓の方にゆっくりと移動し、鳩がより出入りしやすいように窓とカーテンを完全に開けた。そして、鳩の後ろからじわじわと近づいて行き、窓際に行くように追い込んでいく。鳩は私が近づくとさすがにせかせかと反対方向へ歩みを速めた。窓の前に鳩が行くと、私はパンッ!と両手を打つ。
驚いた(と言っても無表情だが)鳩は羽根を派手にバタつかせ、狭い部屋を旋回した後に窓の外へ飛び立った。ふう。壁に衝突しなくて良かった。一件落着である。
今度はきっちりと窓を閉め、私はベッドで眠り込んだ。
翌朝、起床後にシャワーを浴び、朝食とメイクを済ませて家を出た。普段通りの景色を歩く。
20分ほどで勤めているデイサービスセンターに到着すると、私は職員の休憩室に入った。他職員に挨拶をしていると、上司の一人が訝しげに私を見てきた。
「おはようございます…何か?」
「何コレ?」
「え?」
「肩のとこ、何か付いてる…糞、違う?多分」
「ええっ!?」
私はすかざず洗面所に行き、鏡で自分の肩を見た。確かに右肩の辺りに鳥の糞らしき白い筋のようなものが付いていた。
なんてことだ。通勤の間、私はずっとポロシャツの肩に鳥の糞を付けたまま歩いていたというのか。やはり、今日はついてない。糞は付いたけど。
私が赤面していると、上司や同僚達が笑いながら、
「良かったじゃん。運が付いたんだから。“ウン″だけに」
と、およそ私以外しか笑えない駄洒落を言った。
「運が付いたんだから、今宝くじ買ったら当たるかもよ」
と、冗談交じりに励ます人もいた。
その時はまともに受け取るまいと思っていたが、仕事帰り、ついやけになって私は宝くじを買ってしまった。上司には運が付いたと言われたが、元々そんなにくじ運が強いわけではなく、自信がないので10枚ほどまとめて連番で買ってみた。
連番なので、私の買った番号は下記のようになった。
118101
118102
118103
118104
118105
118106
118107
118108
118109
118110
サマージャンボの結果発表は7月。あと一か月ほどなのですぐに確認できそうだ。
それからというもの、私は垂れ流すようにとりとめのない日々を過ごした。スマホに付いているスケジュール用のアラーム機能が、結果発表日の朝に鳴っていなければ、宝くじのことなど忘れていたくらいだった。
その日はちょうど休日で昼近くまで寝ていた私は、けたたましいアラーム音で飛び起きてから着替えた。パソコンの電源を立ち上げ、自分が買った宝くじのホームページを表示する。
ホームページには、サマージャンボの結果発表を閲覧できるページがあり、私は恐る恐るマウスでそのページを表示するアイコンをダブルクリックした。カチカチッ。
すると、一目で一等を外していることが分かった。買ったくじの番号の並びに1つも引っ掛かりもしない番号が、画面に並んでいたのだ。だよねー。世の中そんなに甘くないよね。
鳩の糞だけで一等の5億を当てようなんておこがましいことは流石に考えてはいなかったし、そもそも期待なんてしていなかったから、そう落胆せずに済んだ。
しかし、前後賞、組違い前後賞、2等、3等……と賞金が減り当たる確率が徐々に高くなるにつれて、気分の方は落ち込んでいった……き、期待なんてしてなかったんだからッ……!
私はすっかり意気消沈してチケットをすべてゴミ箱に捨てた。ゴミ箱は既にいっぱいになっていたので、翌日ゴミ出しに行くことにした。可燃ゴミの日なのだ。
翌朝、アパートの外へのろのろと出て、ゴミ置き場にゴミ袋を置く。ゴミ置き場においてある鳥避けの網をゴミ袋に被せていると、ふいに後ろから声がした。
「宝くじ、するんですか」
私が振り返ると、背の高い青年が立っていた。ラフな英字プリントのTシャツを着て、ゴミ袋を持っている。私と同じようにゴミ出しをしていたようだ。
同じアパートの住人だが、数ヶ月前ここに引っ越して挨拶に行った時以来会っておらず、名前は覚えていない。
彼は、半透明のゴミ袋の中にうっすらと透けて見える宝くじのことを私に聞いていたようだった。
「え?あー…はい、今回が初めて、ですけど。えっと…?」
私がぎこちなく答えると、彼はゴミ袋を置き、両手で何かを持っているかのような仕草をしながら、
「二階の田山です」
と言って、小刻みに両手を動かした。この仕草には見覚えがある。ドラムを打つ時の動作だ。タタタンと頭の中で音が鳴る。ああ、と私は納得する。
「ドラムの人」
「はい。いつも、うるさくしてすみません」
そう言う割には、遠慮なく叩きまくっている気がするが。彼は、のほほんとした様子で悪ぶれていない。
「いえ、ウチは別にいいんですよ。そういえば、田山さんは宝くじされるんですか?」
「はい、時々。元手よりちょっと多いくらいしか当たらないけど」
「すごいじゃないですか。全然当たらないよりいいですよ」
「そうかな…はは」
田山さんは少し照れたように頬を掻いた。
「あの、良かったら見ます?当たったやつ」
「え?」
私の戸惑いを察してか、彼は慌てて、
「あ、迷惑じゃなかったら、ですけど」
と、付け加えた。
「そんなことないですよ。見てみたいです」
私は思わずそう返事していた。正直当たりくじに興味はなかったのだが。何故だろう。
「今、タンスの中なんすよ。ここじゃアレなんで、えーと、部屋、は、さすがに入りにくいか」
田山さんは困ったようにキョロキョロと周囲を見回す。その様子がなんだか可笑しかった。
「あの、そこの、近くの、カフェ行きませんか。当たりくじ持ってくるんで。ちょっと待っててもらえますか」
「はい」
そう言って二階への階段を上がっていく田山さんを見送った。彼の気遣いがちょっと嬉しくて、なんだかワクワクしている。こんな感覚は、久しい。
数か月前までは他の人への想いに一喜一憂していたのに、なんて薄情なんだと自分でも思う。
ただ、時間も、景色も、気持ちも、賀茂川の流れのように変わっていくのだと、そういう当たり前のことを、私は分かっていなかったのだ。落ち込み過ぎて見えていなかったが、くよくよ悩んでいても仕方ないということが、ようやく分かった。
そして、部屋に飛び込んだ、あの鳩が巡り巡って私にくれたチャンスを手放さないようにしたい、と思った。田山さんとのこの新しい出会いが、見たことのない未来に繋がると信じて。
拙い文ですが、読んで頂きありがとうございました。