雨の気配
志保子さんの住むアパートの部屋の玄関先で
品の良い浴衣姿で可憐に佇む彼女を見て、僕はこんな事を考えていた。
よく映画はもとよりアニメや漫画などで見られる事だが
魔王が攻めて来たとか、ゾンビが湧いて出て来るなど、大変な事が起きて
主人公が囚われたお姫様や、取り残された自分の好きな女の子を
助けに行く事を決意するシーンや、その後、様々な困難に立ち向かい
苦労しながら一生懸命に頑張っているシーンを見ても
正直そこまで頑張れるものなのかと思っていたものである。
僕の周りにいた女の子が、邪悪と極悪を絵に書いたような
沙智や友美のような子が多かったのは確かだが
品がない言い方で申し訳ないが、女の子は星の数ほどいるのである。
まあ後になって星だから手が届かないという現実に気が付く訳だが
それは置いといて、その中のたった一人の為に、そこまで頑張れる訳が
無いだろうと、少々高をくくっていたのである。
でも今なら分かる。これは行くしかないわ・・と。
むしろ来るなと言われても行きたくなるレベル。
そんな思いに囚われていたからか、彼女の
「田口くん、わざわざ来てくれてありがとう・・」の
言葉にも返事を返すことを忘れて見蕩れていた僕に
少し不安そうな表情で彼女は浴衣の袖口を
その細くしなやかな指先でちょこんと軽く摘むと
気恥ずかしげに頬を薄く染めて、可愛らしく
「へ・・変かな・・」と、小声で口をすぼめて聞いてくるのである。
その可憐な仕草にむしろ僕の頭が変になりそうである。
「へ・・変じゃないよ!」と、動揺してるのが自分でも良く分かるくらい
震えている声音で答えながら、もう少し気の利いた事をと考えるが
まったくと言って良いほど思いつかず、 仕方なく感じたままの気持ちを
僕はそのまま口にする。
「すごく綺麗で・・艶っぽいと思う・・」
そう僕が答えると、彼女はその白い頬を更に赤く染めながら俯きつつ
「あ・ありがとう・・」と、これまた「それは僕のセリフですよ!」と
叫び出したくなるような仕草と声音で言ってくれるのである。
正直もう家に帰って、彼女と出会ったその日の夜には「志保子さん」と名付けた
僕の布団枕を、普段そうしている様に抱きしめながら、ベットの上で
ゴロンゴロンとしたくなってしまうくらいである。
でもその前にと、僕は気を取り直して、お見舞いとして持ってきた品を
入れた袋を、彼女に差し出しながら
「これアイスと梨を持ってきたんだけど 良かったら・・」と
何とか声を落ち着かせて手渡そうとすると、今日は杖を突かずに靴箱に
手を置いて姿勢を保っていた彼女は、慌てて袋を受け取ろうとして姿勢を崩すと
僕の方に倒れ込んできたのだ。
慌てて僕は前に飛び出し、彼女の華奢な身体を胸元に抱きしめると
彼女も縋り付くように僕の背中に手を回し、傍から見ても自分達から見ても
僕達は抱きしめ合ってるとしか思えない状態になったのである。
これまでも抱きしめる感じには何度かなったが、今回のように
互いに抱きしめ合うのは初めてであり、心臓の鼓動が早くなるのを感じていると
僕が抑えていた事で開いていた玄関扉は、後ろでゆっくりと締まり
少し薄暗くなった視界と、胸元に感じる彼女の静かな息遣いに
僕はまったく身動きが取れなくなってしまう。
彼女も同じなのか僕の背中に回した手を解こうとはせず
むしろ少しだけ回した手の力を強めると、頭を横に動かし
僕の胸元に頬を添えるので、ますます身動きが取れなくなってしまう。
とても静かな室内で、そうやって抱き合っていると
遠くからゴロゴロと雨を知らせる雷が鳴る音が聞こえ
そういえば今日は夕方から雨だったな・・と。
僕は思い出していたのだった。