二人の時間の終わり
「出会いの海の大水槽」へと続く 薄暗く照明が落とされた通路を
田口くんの男の子らしい太い右の腕に 自分の左の腕を絡めつつ
そのしっかりとした肩口に頭を軽く預けながら 寄り添うように歩いていると
自分がちゃんと「女の子」をしている気分になります
彼の大きな手に包まれている自分の手の感触も大好きですが
こちらはこちらで それとはまた違った心地良さを感じるのです
そんな気持ちで つい弾んでしまう足取りのまま通路を抜けると
かなり広いエリアに入り 私達の左手には壁一面が水槽になっている
「出会いの海の大水槽」が見えてきました
その大きな水槽は 私の住むアパートの屋根の天辺くらいある高さと
教室で例えると大体三クラス分の幅を持っており その全てがガラス張りで
海の中を覗いているような そんな素敵な気持ちにさせてくれるのです
その美しい光景に 彼も私も思わず感嘆の声が漏れてしまい
特に水族館に来たのは生まれて初めての私は 思わず自分の右足の事を忘れて
つい駆け出してしまいバランスを崩し 転びそうになってしまいました
慌てて私を抱きすくめるようにして 支えてくれた彼の胸元で
緊張して固まっている私の頬に彼は軽く手を添えながら
優しい口調で注意してくれます
更に緊張しどういう表情をすれば良いのかわからず困った私は 照れ隠しで
ちょっとふくれた顔をして拗ねた感じで謝ると そんな私を彼は苦笑しつつ
繋ぎ直した大きな手で水槽の前に連れて行ってくれたのです
そうして水槽の中に広がる美しく素敵な光景に見入っていた私は
一匹の綺麗な模様のお魚を見つけると そのゆっくり泳いでいる姿を
目で追って見る事にしました
私の右手から左手の方に泳いでゆく姿を 水槽のガラスに手を添えて見ていると
綺麗な模様のお魚は 自分の前から泳いできた大きな魚を躱す為に
天井の方へと慌てて向きを変えて上がって行きます
その動きに釣られて私も視線を上へとあげると その私の視線の先には
田口くんの普段自分に良く見せてくれる人懐っこい表情のそれではない
とても真摯に水槽の世界を見入っている その生真面目な横顔を
私はつい息を飲んで見つめてしまいました
人懐っこい表情の時のやんちゃで明るい元気な男の子ではない
「男の人」を感じさせる その端正な横顔は とても凛々しくて
先程その胸元に抱きすくめられた時より更に私を緊張させるのです
「目が離せなくなる」とは 言葉では知っていましたが
それはきっとこういう事なんだな・・と 痺れたような頭で考えていると
その私の視線に気が付いた彼が視線を少し下に落とすと
私達は見つめ合う形になり 私はその黒い瞳に吸い込まれそうになります
目を離してくれない彼と目が離せない私は 少しの間そうしていましたが
私達の横を通り過ぎた来館者の笑い声に 私は我に返ると
自分の顔がまた急激に赤くなっていく事に気が付き その顔を見られないように
慌てて彼の肩口に顔を押し付けながら 緊張し震える声で
「そんな見られたら・・恥ずかしい・・」と伝える事しか出来ないのです
これは・・心臓に悪すぎる・・
少し寝不足だった事もあり それにこうも刺激が強い事が重なると
さすがに頭がクラクラとしてきます。
そこへ彼の少し動揺したような震えた声で
「ごめんなさい つい・・」と言う言葉を耳にすると 彼も自分と同じく
緊張してくれていると感じて私は少しだけほっとし安心するのです
そんな気持ちと彼の肩口から伝わる温かさに
微睡んでしまいそうになっていると 隣で水槽を眺めていた
ここに来る通路で私達の前を腕を組んで歩いていた
高校生カップルの女の人が笑顔で話し掛けてきました
お姉さんの言葉に それに答えた彼の言葉やその後のやり取りと
こちら驚いた表情で見つめる 高校生二人の視線に気恥ずかしさを覚え
彼の背後に隠れていると 私達が初めてのデートだと知った御二人から
何とお祝いと称してお菓子や飲み物をプレゼントして頂いたのです
元気良くお礼を伝える彼の後ろで 私も小声でしたが何とかお礼を伝えると
二人は笑顔で手を振りつつ去っていき 二人を見送った私達は
「せっかくだし頂きますか」という事になりソファーに足を運ぶのでした
大水槽を眺めながら座れるカウチソファーに二人で腰を降ろすと
先程の高校生カップルに頂いた飲み物とお菓子を有り難く摘みながら
彼と私は お互いが読んだ漫画や小説の話を楽しくし始めるのです
私も自分では かなり読書をする方だと思っていましたが
彼のそれはもっと幅が広く 学術書関連や古い奇譚話なども読んでおり
それを聞いた私は何か一つお話をして欲しいとおねだりをしました
「じゃあ・・夏の丁度良い感じで薄暗いので 少しだけ怖い話を・・」と言って
彼がしてくれたのは夢占いに関するお話でした
それはお隣にある中国が 三つに分裂していた戦乱の時代のお話で
その中の一つ「蜀」と呼ばれる国に仕えていた「魏延」と呼ばれる武将が
ある夜とても不思議な夢を見たそうです
それは自分の頭に角が生えてくる夢で その事を不吉に思った彼は
夢占いの専門家にどういう意味の夢なのか尋ねたらしいのです
彼の話に耳を傾けていた夢占いの専門家が言うには
「角が生えている動物はみんな強い だからそれは貴方がもっと強くなる」と
云う吉夢だと伝えたそうなのです
それを聞いた魏延さんは 彼の言葉に とても喜びましたが 本当は・・という
そういう話にも彼はとても詳しかったので 私が他のお話もおねだりすると
他にも三つばかり怖いお話をしてくれた後 話題を変えて温かいお話をしようと
彼が最近読み始めたという 私も大好きなオー・ヘンリーの話になったので
二人で自分の好きな短編のお話に花が咲きました
そんな風に大水槽のお魚を眺めながら 二人で色々なお話をしていると
私達と同じく水族館に遊びに来ていたらしい同じクラスの
沙智さんや友美さん達が こちらに歩いてくると声を掛けてきました
彼女たちに周囲を囲まれ 何故二人きりでいるのか尋ねられると
別に悪い事をしている訳では無いのですが どう答えて良いのか分からず
私はあたふたとして戸惑ってしまい田口くんの大きな背中に隠れるように
自分の身体を縮こまわせてしまうのです
彼とクラスの女の子たちのやり取りを彼の背中で聞いていると
沙智さんが「せっかくだから一緒に回ろうよ!」と提案して来ました
彼女の提案に同性の女の子に誘われた事が無い私が戸惑っていると
「沙智や友美達なら良い奴らだから 仲良くなれると思うよ」と
田口くんから耳打ちされ転校初日から少しずつですが
二人とは会話が出来るようになってきた私も 頑張ろうと思い 頷くと
みんなで一緒に水族館を周る事になったのでした
私は せっかくの彼との二人きりの時間が終わってしまった事に
少し残念に思いながら せめて帰り道は来た時と同じく
二人きりで帰りたいと思いつつ
次のエリアへと足を進めるのでした