暖かくて痛くなる
小さな天窓以外に 外からの明かりが入らないその場所は
昼間でも薄暗く電灯も点けずに 事務用の椅子に腰を降ろした志保子は
少し俯いたまま、その端正な顔立ちに不安な表情を浮かべ
奥目がちな瞳を閉じて、自らの思案に耽っていた。
他に何か「彼」は言っていなかったか・・
そう思案に耽っていた志保子の耳に 何やら物音が聞こえてくる
志保子は考える事を 一旦諦めると周囲に注意を払う
志保子は自分の勤めていた薬局の傍にある
コンビニエンスストアーのバックルームで
息を殺して外の音に耳を澄ませてみた。
「あの時」とは違い、人の悲鳴や叫び声はもう聞こえては来ないが
「あれ」が出す「カチカチカチ」という歯を鳴らすような不快な音が
澄ました志保子の耳に僅かにだが届いてくる。
「あの時」の光景を思い出し思わず漏れそうになる声を
志保子は口に手を当てて何とか抑える。
「あれ」は耳が良いのだ・・特に人間の声に激しく反応する
「悲鳴というのは 元々仲間に危険を知らせる為に 備わっている機能だから
もし周囲に助けてくれる人が居ない もしくはそんな余裕がない人ばかりなら
出来るだけ悲鳴を出さないようにした方が 良い場合の方が多いと思う」
彼の教えてくれた その言葉を「あの時」すぐ思い出せたから
すぐさまハンカチを齧って 難を逃れる事が出来た事を思い出し
それを知らず「あれ」に掴まり、その餌食にされた人を間近で見た記憶で
志保子は気分が悪くなり、口元を抑えて沸き起こる吐き気を何とか堪える。
目を瞑りその時の恐怖に押し潰されそうになる心を、何とか奮い立たせようと
楽しかった事や嬉しかった事を志保子は思い出そうとする。
志保子にとって、それは容易な事で「彼」の事を思い出せば、
どんな辛かったり悲しかった時でも胸の奥が暖かくなる。
そして同時にそんな風に自分の心を 暖かくしてくれ癒してくれる
とても優しくしてくれた「彼」が 困るのを承知で言ってしまった
幼かった自分の浅はかで身勝手な言葉を 思い出し後悔で胸が痛くなる。
一人の寂しさを充分に知っていた自分なのに
一人の自分に手を差し伸べてくれた「彼」が
一人になった時に 自分は「彼」を慰めるどころか
自分がまた一人になってしまった事で「彼」を責めてしまった事を思い出す。
「彼」の事を思い出すと何時もそうなのだ 暖かくて痛くなる。
胸の奥からあふれてくる自己嫌悪で 暗く落ちそうになる気持ちで
志保子は身体の一部といって良い 歩行杖の杖先を見つめると
返品と書かれたダンボールに詰まった 雑誌や単行本が見える。
気を紛らわす為に、ダンボールを近づけて その中身を覗くと
その中の一冊の本を見て 志保子は思わず声を上げそうになる。
あの時「彼」と一緒に読んだ単行本が入っているのだ。
「彼」が「おいなりさん」と名づけた茶虎の猫と二人と一匹で読んだ。その本に
志保子は手を伸ばしたのだった