志保子・・お前もか・・
人の気配が全く無くなった世界 不法侵入した小学校の教室
サイズがまるで合わない椅子に 窮屈な感じで腰を降ろしながら
当時の志保子との記憶を より鮮明に思い出すために
隣の机に忘れてあった 小さな黄色い帽子を装着した私は
遠くから微かに聞こえる波の音に耳を澄ませる
あの時も こんな風に波の音に耳を澄ませながら
頬に触れる彼女の柔らかな唇に胸がときめいた事を思い出す
前の日の夜遅く僕の家の居間で
泣き疲れぐっすりと寝てしまった志保子さんを
何時もより大分早く仕事を終えて迎えに来た志保子ママが
起こして連れ帰ろうとするが 起きた彼女は泣き疲れて寝ていた分
「もう少しだけ文くんとお話したい」と
グズってなかなか立ち上がろうとしない
その彼女の言葉に嬉しくて同意したい気分ではあったのだが
お母さんの手前 明日もまた会えるからと何とか宥めていた僕のシャツの袖を
彼女は軽く摘みながら「文くん おんぶ・・」と
可愛い仕草でおねだりしてくるのである
彼女の子供っぽいおねだりを叱る志保子ママに 笑顔で送りますよと伝えながら
彼女の小柄な身体をおんぶすると 我が家を出て鍵を閉めてもらい
三人で連れ立って志保子さんの家へと夜道を歩く
街灯の灯る夜道を歩きながら 彼女の我儘に付き合わせてと恐縮するお母さんに
甘えて貰えるくらい志保子さんと仲良くなれたのは凄く嬉しいですよと
嘘偽りない本心を伝えると感謝の言葉を返して貰え少し誇らしげな気持ちになる
僕が彼女の為に出来る事はとても少ないのだ
出来る事で して欲しいと頼んで貰えるのなら出来るだけ答えたいと思う
そしてお母さんに 今日した宿題の話や彼女と作った晩御飯の話をしていると
娘の苦手な教科や料理を教えてくれてありがとうとの感謝の言葉と
それに続く お母さんの笑みを含んだ
「志保子とは もうキスくらいしたの?」と云う質問に
「そういうのは・・まだちょっと早いと思うんで」と慌てながら答える
すると僕の背中に身体を預けて寛いでいた志保子さんが耳元で
「キスはまだだけど もっと凄い事されてまーす」と悪戯っぽく囁き
その言葉に焦った僕は彼女のお尻を軽く叩いて何とか黙らせたのだった
お母さんの「志保子も楽しみに待ってると思うけど」と
これまた かなり返答に困る言葉を曖昧な笑みで誤魔化しながら
「まあそのうち・・」と少し音葉を濁して答えると
「花火楽しみ・・」と耳元で聞こえる彼女の甘い囁きに
顔が熱くなり 頬が赤くなるのを感じながら
表情のわかりづらい夜で良かったと思いつつ
二人を家まで送り届けると おやすみなさいの挨拶を交わして
親公認を確認出来た事に足取りを弾ませ家路に着いたのだった
これまでも毎日のように顔を合わせていた僕達である
彼女と唇を重ねる機会が無かった訳では無いのだが・・
僕が彼女とのキスを我慢していた理由は
初デートの水族館で大水槽を眺めながらの会話にまで遡る
志保子さんに大水槽の手前の通路で休憩所に押し込まれた時
僕はカツアゲされるのかと思ったと冗談めかして彼女に伝えたら
そこはせめてキスされるかと思ったと答えて欲しいんですけど・・と
ジト目の拗ねた表情がとても可愛い感じで言われて
なら初めてのキスはどういうシチュエーションで
サブオプションに何を付けるのが良いか二人で話し合ったのである
「夏祭り」「花火をバックに」「お互い浴衣で」「あごクイ」の
この四つは欠かせないと 指折り数えながら答えた彼女の表情は
真剣そのもので 話しているうちに だんだんエキサイトしてきたのか
身振り手振りをまじえて 少しだけ鼻息荒く訴えてくるその姿に
僕は引きつった笑顔で 内心ほんのちょっと引きながらも
自分と同じ職人並みのこだわりを持つ その願望という名の妄想力の逞しさに
「志保子・・お前もか・・」と思ったものである
一応は系統は違えど同じ職人として 彼女のマイスターレベルを測る為に
「他には何かないの?」と
僕は近い将来 宿命のライバルになる可能性を考えて尋ねてみると
彼女は口調や声音は遠慮がちにではあったが その内容は
「後ろから自分をギュッと抱きしめる感じで」
「手のひらで優しく目隠しをされながら」
「あっ・・あと壁ドンとかも・・」と
追い詰められたり捕縛されたい犯人願望丸出しの
僕の手が四本か五本生えてないと不可能な要望をしてくるのである
彼女の乙女な要望に応える形で 僕がルパンの銭形刑事よろしく
「愛の警察官」になって 彼女を追い詰め捕縛すれば良いかと思いながら
気恥ずかしい気持ちで少々口篭もりつつだが
「じゃあ僕らも 今度の花火大会でしようね」と伝えたところ
彼女は僕の手を優しく握り締めて 嬉しげに頷いてくれたのだった
七月の最後の週には日立港の花火大会があり
あと十日もせずに彼女の柔らかそうな唇にキスが出来ると
その時点で何も知らない僕は胸をときめかせたものだ
だが・・その素晴らしい約束を交わしたすぐ後に
僕達の初デートに乱入した沙智と友美たちの提案で
僕の必死の抵抗も虚しく あれよあれよという間に
日立港花火大会には五年四組の男女合わせて十人の
団体様で向かう羽目になってしまったのであった