死人に口なし
――死人に口なし、とはよく云うが、僕はその言葉をうまく理解することはできなかった。
TVでは、幽霊だ怪物だのと特集が組まれ、霊を面白おかしく話題にして、あまつさえ死人には語る言葉すら無いだなんて横暴にも程があるのではないか。
僕らが生きている今も、どこか遠くでは人が死んでいる。もしかしたら僕らが今日を生き延びたのも誰かが死んだからで、その犠牲によってこの命があるのではないかと考えたことはないだろうか。
――いいかい、今から話すことは真偽のほどは定かではないし、それどころか眉唾ものの話であると自負している。実は、僕はもう死んでいるんだよね。
そう語る彼の顔はひどく青ざめ、頬を汗が伝い、冷えたコンクリートに落下した。
街頭に群がる羽虫は時折その行き先を間違い、僕にぶつかってきてはまた街頭へ集まりだす。その様は路頭に迷っているようにも見えるし、己が運命に必死で抗っているようにも見えて、少しシンパシーを感じたりもしたが、何分相手は虫なのだから、このシンパシーは当て所もなく宙を彷徨う無為なものとなる。
――聞いているのかな――そんな彼の言葉で僕は現実に引き戻される。迷子の羽虫を手で払いながら、僕は彼に視線を戻した。呆れたような顔をした彼はややオーバーな身振りを交えつつ、また口を開く。
「僕はね。通り魔だったんだよ。いや、通り魔になる予定だった、と言った方がいいな。まだ人を殺したこともないし、そうしようと考え至ったのもこの一回だけだ。
僕にはそうしなければならないだけの理由があったんだけれど、それは今回は関係ないし、そんな与太話でお涙頂戴なんてことはしたくはない。ついでに言うとなぜ君に話そうと思ったかというのも大して重要ではない。君がそこに立っていたからさ。いいかい、これは一種の懺悔のようなものさ。
さて、本題に移ろうか。通り魔をしようとした僕がなぜ死んだのか? 答えは簡単だよ。僕が殺されたからだ。今、君が立っているそこで僕は殺されたんだ。
妙な偶然もあるもんだ。僕を殺した犯人も通り魔だったんだよ。不思議な縁というか何というか、通り魔と通り魔がここで出くわしてしまった。その結果がこれってことさ。
やっぱり僕に通り魔は向いていなかったらしい」
そう語る彼の視線は真直ぐ僕を射貫いている。僕はこの場から立ち去ることも考えたが、彼の視線はそれを許さなかった。情けない話だが足が竦んでしまったのだ。何も言わずただ茫然と立ち尽くす僕の姿を見て、彼は満足そうな顔をする。
「いいね、そういうの。幽霊冥利に尽きるというか。通り魔をしようとして殺された間抜けな僕に冥利なんてものはないだろうけど。
まぁ今のはいわば前口上さ。導入部分でしかない。僕が本当に話したいのは、犯人は別人だったということさ。無計画に通り魔をしようとした僕と違って僕を殺したやつは"犯人"の行動をチェックし、どう通り魔を実行すれば濡れ衣を着せることができるのか、そうして彼は成功した。僕を殺し、自分は逃げることに。
僕は悲しいんだ。別人が捕まったことも、ここを通る皆が口々に僕が死んだことを話のタネにすることも。所詮人の死なんてものはこんなものなのかと実感したよ
この無情な仕打ちに対して何かできないか色々試してみたんだけどね、やっぱり駄目みたいだ」
そういうと彼はまたも大げさに肩をすくめてみせた。
「さて、最初に話した通り、信じるに値しそうもない、途方もない話だっただろう?
それでもこうして話そうと思ったのは、僕を殺したやつへの怨恨によるものなのかもしれないし、"犯人"への懺悔なのかもしれない。もしかしたら人の生死がこれ程までに軽視されている現状を憂いてのことなのかもしれない。ただそれも今となってはわからないこと。なぜなら、死人に口なし、なのだから」
そう話した彼は取って付けたような笑顔を顔に貼り付け、相も変わらず頬を伝う汗には目もくれず、僕に同意を求めるかのような視線を向ける。それに僕は弱弱しい視線を返すことしかできなかった。
地平線の向うでは朝日が顔を覗かせているに違いない。白みだした空と相も変わらず頭上で輝く街頭、そしてそれに群がる羽虫。
それらを尻目に――わかることはここに君が立っていたから、ってことだけさ――と、そう残して彼は闇へ消えた。
やはり死人に口は無い方がいいな。これほど死人に口なしという言葉を有難がったこともない。でも不思議なものだ。死人に口なしというのなら、僕に話しかけることもできないだろうに。
僕は安堵と不安を胸に抱きつつ、ポケットの中のカッターナイフに手を伸ばした。だが、それももう叶いそうにない。