八十四話
気づいたとき、俺は地面に足をしっかりと着けて立っていた。視線の先にはアネスト先輩が氷剣を構えて立っている。少々服が破けているため、寒くないのかと聞いたら、全然という答えが返ってくる。
光が目に差し込んだ。どうやら雲の隙間から太陽が顔を除かせているらしい。しかしながら雪はパラパラと絶え間なく降り注いでいる。光を反射させて煌めく雪は、まるで花のようだ。
手を伸ばした。けれども掴めない。きっと、これからも。
「先輩」
胸元が濡れていた。先ほど謝ったが、まるで気にした様子もなく笑顔を見せていた。寧ろ喜んでいるようで、顔が熱くなるのを自覚した。そんな俺の様子に、先輩は首を傾げる。拙い言葉で説明したが、俺の感情は伝わる気配がしなかった。
「なんだ?」
だが、それでいいのだと思えた。ここは異世界。異世界に、俺はいるのだ。
「やっぱり俺、自分が嫌いです」
自分でも驚くほど、心が軽い。複雑に絡み合った何が解れ、綺麗に並べられている。何者でもなかった何かが、胸を張って立っている。ハーン・ウルドという人物が、ここにいる。
……俺は、ハーン・ウルドは、前世を知っている。だから、自分を好きになることは出来そうになかった。嫌いだった。弱いと蔑んだ。そして、彼女に償いたいと願った。
「そうか」
けれどもそれを、彼女は望んでなかった。ルーナの願いは、俺が生きること。ただそれだけだった。知っていたはずだった。彼女の思いは既に届いているはずだった。仮に、俺の全てが彼女に伝わったとしても。それは、変わらない命懸けの願いなのだろう。この瞳が欲望の塊だと知ってもなお、綺麗だと言ってくれるのだろう。
この瞳による魅力を、俺は催眠に近いものなのだと思っていた。だが違うのだ。この世界では、それは強い個性に過ぎないのだ。偽りから削った石ではなく、泥から探り出した光だった。
この世界は、正しく俺の理想の世界なのかも知れない。ルーナは、アネスト先輩は、俺を受け入れてくれる。大嫌いな俺を、受け止めて、許してくれる。
だからこそ。
「俺は、自分が嫌いです。貴女達に、甘えたくなる自分が」
手に力を込めた。爪が食い込み、痛みを感じる。
誰も望んでいない。俺の贖罪を。全てを知った先輩は望まない。被害者であるはずのルーナも望んでいない。そもそも被害という言葉ですらなく、ルーナを好いていた兄すらも、俺という存在を嫌悪しているがそれを望んでいない。
財宝の力で、ルーナは肉体を残さずに消えてなくなった。そして財宝もまた、その姿を消した。残ったのは、小汚い子供のみ。
誰もが思った。財宝を盗み出したのはルーナだと。それがドラゴンの怒りに触れたのだと。俺の言葉など、誰も聞かなかった。ただルーナへの怒りを撒き散らすだけだった。そこには、兄も含まれていた。
俺はただ生きるだけでよかった。償うべきだなど、言われなかった。与えられた食事に口をつけ、生きるために必要な物を言う。それだけが俺に望まれている行動だった。親としての義務という、無機質な優しさにすがるだけだった。
この世界に、俺の罪はない。
「この罪は、俺の罪だ」
俺だけの。前世という罪。
この世界を恨んだ。何故こんな姿をしているのだと叫んだ。けれどもその叫びは、俺の悲鳴に過ぎなかった。そのことに気付いていなかった。前世ならば。そう逃避を繰り返した。この世界を、まっすぐに見つめていなかった。ルーナのことを、ルーナの命を、どこかで軽視していたのだ。
最初は無意識だった。正気を保つためだったのかもしれない。ただ、甘えという言葉が自分には合う。この世界を否定することで、現実を否定したかったのだ。矛盾だらけの思考、堕落した思考。それを持ちながら、生きてきた。その矛盾にどこかで気づいてもなお、それは止まらなかった。
その思考に浸るのは心地好かった。その場所は、楽園だった。けれどもそこに、ルーナはいなかった。始めから、ずっと。ルーナはそこになかった。
改めて思う。俺はクズだ。自己中心的な、誰のことも考えていない、愚かな男。
この世界は、前世じゃない。ここにいる俺は、前世を生き、そして死んだ。俺は、ハーン・ウルドはこの世界に生きている人間なのだ。それを、真に理解していなかった。
俺がしなければならないのは、抱きしめてもらうことではなかった。俺が、受け止めなければならなかったのだ。俺が行かなければならなかったのだ。例えそこが、楽園とは程遠い場所だったとしても。ルーナのいる場所に、この世界に。
間違えた。間違えていた。全て、間違えていた。
手を伸ばすだけで良かったのだ。俺の中にいる、ルーナの手を。
「間違えることは、罪ではない。君に教わったことだ」
「……そうだとしても、許せることじゃない」
「誰が君を憎むというのだ?」
「他人じゃない」
俺が、許せない。この世界の、誰よりも。
愛していると言った、自分。一緒にいたいと言った、自分。
「愛している。愛しているんだ」
そう叫んだ。消え行く彼女に伝えた。返ってきたのは喜びだった。何事にも変えがたい、幸福。行動の結果への満足。
「けど、間違えていた」
その言葉は、独り善がりだった。愛していて欲しいのだという、欲望だった。泥にまみれていた。けれども先輩は、ルーナは、そんな泥すら飲み干して、光に変えて見せる。それこそが、この世界の愛。生涯を懸けて、命を懸けて、他者を受け入れる覚悟。
「ああ」
光によって、雪は輝く。その、何と美しいことか。俺は今まで、その光の眩しさに目を背けてきた。
「この世界は綺麗だ」
一つになっていく。二人が、一人に。
「でも、変えられないこともある」
まっすぐに先輩を見た。アネスト・グリージャーという、女性を、個人を、正面から見つめた。俺を命懸けで愛してくれた、二人目の女性。
「ならば何も変わるな」
「俺はクズですよ?」
「そうだとしても、かまわない」
「……俺は、愚かだ」
「君が言うのなら、そうなのかも」
「醜くて」
「ああ」
「考えなし」
「……」
「それに、卑劣だ」
彼女の瞳は揺るがない。
「受け入れよう、全て」
――――その姿の、何と眩しいことだろう。俺には重すぎる。
「謝るのを止めます」
ただ、感謝を。
「そして、誇ります。貴女とルーナの、想いを」
だからこそ。
「俺は、相応しい男になりたい」
少しだけ、上を目指そうと思う。
先輩は少しだけ首を傾げた。俺の意図が、分からなかったのだろう。それでもいいと言葉にしているはずだと、不服に思っているのかも知れない。そんな先輩の姿へ、怒りや不安を抱かない自分に、驚きを感じた。
笑みを見せてしまったようで、先輩の眉間に皺が寄った。その様子に更に笑みが濃くなり、比例するように皺が大きくなっていく。
「やはり言葉じゃ分からない。どうしてそうなる?」
「意地ですよ」
何があろうとも。愛し合ったのなら、思い合ったのならば受け入れる。それがこの世界の愛の形。極論を言ってしまえば、相手がどんな人間であってもかまわないのだ。愛しているのだから、仕方がないのだ。
でも、俺には罪がある。
「この罪は、俺の覚悟だ」
それもまた我欲なのだろう。けれども前世を、一人の人生を忘れることも捨てることも出来なかった。だから誓う。生きるのだと、誓う。それは同じ言葉だけど、異なる決意。
「伝えたいんです。胸を張って」
もう一度、彼女に。前世を生きた、俺なりの言葉。欲望の中にあった、本当の言葉。
「泥にまみれたままじゃ、聞こえない」
だから、その言葉に相応しい男になりたい。
「俺は生きます。この世界で、生きて行きます。伝えるために、伝え続けるために」
愛しているという、言葉に乗せて。
「……そう、か」
先輩は頭を少し掻いた。理解は出来ないが、言いたいことは分からなくもない。そんな複雑な表情を見せる。
前世の愛こそ、本物なのだと考えていた。ルーナの気持ちに喜びながら、それは歪なものであると、どこかで嫌悪していたのだ。けれどもそれは大きな間違いだった。その気持ちは、この世界においても何も変わらない。ただ、少しだけ違うのだ。
「だがな、ハーン」
手に持つ氷剣の剣先が此方を向く。
「だからと言って、私が君を諦める理由にはならない」
「俺は、ルーナを愛しています」
「それがどうしたのだ?」
風が吹く。寒いはずの北風が焼けるように熱い。
「それもまた、私の愛した君だ」
先輩の髪が光によって輝く。やはりまだ、俺には眩しすぎる感情だった。
「貴女はルーナを知らないはずだ。なのに、彼女を受け入れられるんですか?」
「可笑しな事を言う」
アネスト先輩は、当たり前を語った。
「それもまた、君だ」
体の中から。奥底から。沸き上がるものはなんだろう。違うのだと分かる。きっとそれは少しの違い。
俺の前世では、一人を愛することが全てであり、浮気は死刑だった。
だからこそ欲望は積み重なった。抑圧が後押しすることで、世には禁じられているはずの欲が蔓延った。俺という子供もまた、その欲に、泥に浸かった。泥を丁寧に積み上げて、作り上げた祭壇をもって邪神に祈った。理想の世界を。
それでも、俺という人格は前世で形成されたことに変わりがなかったのだろう。
ハーン・ウルドに、先輩を愛するという選択肢はない。何故なら俺のそれは、誰かに捧げるものだから。
「生きるとは、誰かのために」
「違う。誰かと共に、だ」
それが、合図だった。
金属がぶつかり合う音が、雪に包まれた静かな世界に響き渡る。先輩の氷剣と、俺の拳が会合する。傷は負わなかったが、触れた場所が冷たくなっていく。
「受けれてくれ、私を」
悲鳴のようなその声に震える。それでも俺は、正面から先輩を見つめる。
「なら殺してみろ……ッ! それがこの世界の、貴女の形なら!」
剣を左へ受け流し、その力を利用して回転するように先輩の体を蹴り上げる。不意を突いたその一撃は、正確に脇腹を殴打し、見た目だけは華奢な体を吹き飛ばした。
触れた義足に残る感覚に、罪悪感が沸き上がる。けれども俺はそれを飲みこみ、雪に包まれた先輩に言葉を叩き込んだ。
「貴女が命を懸けるなら、俺はこの人生を懸けてルーナを愛する!」
誰も望んでいない。この世界の誰も、俺の形を望まない。
だから俺は、愚かなままでいようと思う。罪を背負ったままでいようと思う。美しいこの世界で、醜い異常であり続けようと思う。
前世にしかないこの想い。捨てるには、愛しすぎた。
「―――ははっ!」
何事もなかったかのように、先輩は軽やかにその身を起こす。右手に剣を持ち、持たぬ手で脇腹を擦る。とても、嬉しそうに。
「……感じたぞ? やはり君は、魅力的だ」
艶やかな唇を、赤い舌が這う。
「殺す殺す殺すッ! ――――決めたぞハーン。君がその形を崩さないなら、私はそれすら飲み込んで見せるッ! 命を懸け、君を殺すッ!!!」
肌が痺れるように痛む。全身が凍るように冷える。脳が逃げろと悲鳴を上げる。
「どれだけ貴女が意気込んだところで、変えやしないですよ。————やれるものなら、殺ってみろ。俺の愛は、重いぞ……ッ!!」
「上等ッ!」
俺を襲う殺気が次第に強くなっていく。それとは裏腹に、先輩は手に持った氷剣を消し、無防備な状態になる。
『―――ッ!』
先輩は無防備なままで、何かを口にする。音は聞こえた。鼓膜が震えた。だが、理解出来ない。その音を、認識出来ない。ただあるのだと知覚した。
ドラゴンドリー。それはドラゴンの忠実なる人形。彼らだけがドラゴンの叡知の一端に触れることができ、彼らによって文明は発達したと言い切ることができる。
そんな彼らはウルタスという王国の歴史に、貴族として描かれている。それは貴族がドリーとなったのではなく、ドリーになったものが貴族になったからだ。ドラゴンの財宝を手にするだけで地位が確立するのだ。その叡知を得られる存在が、重要視されない訳がない。
なかでもドラゴンに気に入られた人形は、特別な力を手にし、王国でも上の地位へと登り詰めた。―――公爵などの、上の地位へ。
その力こそ、ドラゴンの言葉。口にするだけで世界に影響を与える、畏怖すべき栄華の言語。その、一節。
たった一言。されどドラゴンの詩。
力を持たせた財ではなく。ドラゴンの持つ、力そのもの。
「殺す殺す殺す殺すッ! 必ず、殺すッ!」
生まれ出でたのは、一本の剣。氷で作られた、一本の剣。先輩の持つ生涯の魔法である、『氷剣』によって生まれた剣。
ただその姿は、先程までの物とは一線を画す。
それは、氷で作られた剣であるはずだった。少なくとも、それを知覚したとき俺はそう認識したし、そのような見た目をしていた。形は剣だ。けれどもそれは氷独特の透明度を保持していたし、強固さを表すようなゴツゴツとした質感を持っていたはずだ。
「――マジかよ……」
その氷は、燃えていた。
何を言っているのか。いや何を見ているのか、知覚しているのか、理解が出来ない。認識が追い付かない。現実に意識がついていかない。
先輩の体を越える、一本の巨剣。もはや刀と呼べるほど鋭く、冷ややかな美しさを持つ。その美しさを構築しているのは、確かに氷である。ただ、燃えている。
激情を表すように轟々と、紅の焔を噴き出して。辺り全て、草木を全て、白い雪に至るまで凍らしている。
「言ったはずだ、必ずと!!!」
即ち、必殺。
それは、誰かを殺すときの言葉。次の党首にのみ継承を許された、『一家伝承』の言葉。一族の魔法。必殺の、殺し文句。
「愛している――――――だから殺すッ!!!!!」
その姿は、恐ろしくも………美しい。
殺意が体を包み込む。苦しいほどの熱の籠った、燃えるような殺意。焔のように熱く、氷のように狡猾に。俺を怯えさせるはずのそれは、俺の口角を引き上げるには十分だった。
『クリス』
始動語を唱える。俺の義足、心臓、剣を作り出したドラゴンの名前を。
『いいのか?』
製作者と使用者の縁を通し、人間の言語でクリスが問う。
『何が、だ?』
『気付いているのだろう?』
『それが、どうした』
水晶の心臓が呼応する。水晶の義足が熱を持つ。
『お前達もまた、この世界なら。彼女の命と共に受け入れてやる』
受け入れよう。その上で、俺であろう。この世界なりに彼女を受け入れて、俺なりに彼女を愛する。
『この心臓は俺を動かし、この脚で俺は進む』
もう否定はしない。目を反らさない。今世からも、前世からも。
『俺の力だ。黙って利用されてろ、ドラゴン』
心臓から、血液と共に針金が流れたような。突き刺す痛みが身体中に走る。足が業火に焼かれたように熱く、全身が苦しい。
『——————————アハハハハハハハッ!!!!!!!!!!!!!』
耳障りな声が頭に響く。
『いいぞッ! それでこそ、私が唾を付けた価値があるッ!』
『…ハイハイ』
肉が裂ける。骨が砕ける。そう錯覚するほどの激痛が走る。けれどもそんなことは、俺にとって、どうでもいいことだった、
痛いくらいが何なのだろう。苦しいぐらい、どうしたというのだ。……死ぬわけじゃない。それぐらい、飲み干せばいい。
「俺だって、愛しているんだ。――――だから、生きるんですよ」
自分が嫌いだ。過去が憎い。けど、それを受け入れてくれる人がいる。
変わろう。受け入れてくれるからこそ、誠実であろう。その場所に行き、そこで叫ぼう。ずっと。声が枯れて出なくなっても。風が、俺の体を運ぼうとも。
俺は愚かだと叫ぼう。そして、ありがとうと伝えよう。
「これが、俺の形だ」
————————俺の義足は、常時発動型の財宝であり複数使用型であり、開放型の財宝でもある。つまりはネットの財宝のように、強力な一撃を放つこと出来る。
何故それを今まで使用してこなかったのか。それは使用するには、あまりにもリスクが大きいからだ。
『……本気で使用すれば、お前の体は砕け散るだろう』
威力が高すぎるのだ。その反動は計り知れない。制御するには、肉体の強さと修練が足りない。それこそクリスが直接目の前で制御しない限り、負荷のない使用は出来ない。
『だが、お前の心臓がそれを補佐する』
水晶の心臓。ハートへと変えられた俺の心臓の代わりに、移植されたその財宝。その財宝は常時発動型。
『全身に魔力を供給し、その健康状態を維持する。それがその心臓の能力だ』
体が悲鳴を上げている。義足に肉体のあらゆる場所から、ありったけのエネルギーを奪われてその機能を停止しようとしている。
―――だが。同時に、回復している。
『右足に全てを込めろ。そして左足で支えるのだ。安心しろ―――その足は、決して折れない』
血液が急激に流れ込み、真っ赤に染まった両足。クリスの指示通り、意識を右足に集中する。……すると。あれほど赤かった左足が、その色を蒼へと変えていく。まるで空のように、美しい蒼色。
そして右足は、競り合うように醜い血色に染まった。
『さぁ、さぁ、さぁッ!!! ―――あとは、分かるな?』
『……ああ』
俺に出来ること。俺の個性。俺の、手札。彼女の命を守るため、磨き続けた。
あとは、硬くなるだけだ。
「……ッ!!!!!」
空間が叫ぶ。助けてくれと悲鳴を上げる。体が圧し潰されるような重圧を受けていた。それは多分、世界の悲鳴だ。……世界は急激な変化を嫌う。だからこそ、止めてくれと抵抗しているのだ。
世界を変えかねない、その存在に抵抗しているのだ。
「アネスト・グリージャー!!! 『氷剣』、アネスト・グリージャーだ!!!」
心臓で砲弾を。義足で砲台を。魔法で――――鱗を。
「『金剛』ハーン・ウルド」
これでようやく、一歩進める。
「『緋游氷剣』ッ!!!!!!!」
――――その一歩は、ドラゴンの一歩だ。
「『金剛游脚』ッ!!!!!!!」
進もう。