八十二話
降り注ぐ雪の量が少なくなってきた。それでも寒さは変わらないはずなのだが、どうしてだか辛さを感じない。
「そんなこと、先輩には分からないじゃないですか……」
先輩の顔は見えない。俺に見えるのは、白く染まった地面だけ。
「俺がいない世界のルーナは、きっと俺を―――――」
俯くことを許さないと、目を反らすことは許さないと。そう語るように、先輩の手は俺の顔を動かし、その瞳に俺を写す。
「そんな世界は存在しない」
「どうして、そんなことが言い切れるんですか?」
「私はここにいる。君はここにいる」
両手に力が込められた。顔が潰されて、唇がつぼむ。
「いまこうして、私を笑わせてくれる君はここにいる」
別に笑わせる気なんてない。ただ、そう反論する元気は俺になかった。
「可能性など、想像するだけ無意味だ」
ああ、そうだ。俺は妙に納得してしまう。この人は異世界の人間なのだ。そう強く再認識する。この世界の人間には、平行世界という概念もまた存在しないのだ。
「現実を受け入れろ、ハーン」
知っていたはずだった。それは最初から、知っていなければならない言葉だった。そうやって、言い聞かせてきたはずだった。
過去は変わらない。罪もまた、無くならない。そう強く、思っていたはずだった。
「————」
だが、俺は結局のところ現実を受け止めていなかったのだろう。自分の犯した罪に向き合っていなかったのだろう。―――————ルーナと会えない事実を、忘れたかったのだろう。
「先輩……、俺は―――」
頬に当てられていた両手が、不意に離れる。熱のなくなったその場所に当たる風が、妙に冷たい。けれどもその寒さに怯えるよりも先に、顔が柔らかい感触に包まれた。それは滑らかな肌をした両手よりも温かく、包み込むように形を変えた。
……ルーナ。彼女の笑顔が目に浮かんだ。
「彼女は、幸福だよ」
「どこが―――ッ!」
「君に愛された」
過去が頭の中でグルグルと乱れていく。十年。あまりにも短い時間が流れていく。
「……違う」
「何が、だ?」
「だって、ルーナが―――」
冷たい。温かいものに包まれているはずなのに、顔がとても、冷たい。
「————ルーナが、いないんだ」
耳に届いたその声は、あまりにも情けなく。弱い、子供の声だった。
「いない。いない。ルーナが、どこにも、いない」
美しかった。
「見えるのに、分かるのに、ここにあるのに……ッ!」
優しかった。
「どこにも、いない」
愛していた。
「いないじゃないですか……ッ!」
それの、どこが幸福だと言うのだろう。俺が奪ったのだ。彼女の未来を俺が―――。
「君じゃない」
「……え?」
「託したんだ。君に」
顔を少しだけ上げる。見上げる形になった先輩の顔はとても近く、とても綺麗だった。
「ハーン。君は、間違えている。君が奪ったのではない。彼女が―――ルーナが託したのだ」
俺の体の中で、何かが強く光った気がした。
「……でも、それは、俺の瞳が」
「それが、どうしたというのだ?」
先輩は飄々としていた。俺の言葉など意にも介さず、子供をあやすように、その言葉を繰り返した。
光が強くなるのを感じる。俺にはそれが恐ろしくて、その恐怖を怒りに変えることでしか紛らわすことは出来そうになかった。
「ルーナは俺の瞳のせいで! 俺が、望んだせいで!!!!」
「バカにするな」
そんな俺の言葉は、先輩によって簡単に握り潰された。
―――――それがどうした。
「私達は君を、命懸けで愛している」