八十一話
体が浮くような感覚があった。いや、文字通り浮いていた。次の瞬間には全身に衝撃が走る。パラパラと俺の体に冷たい何かが降り注ぐ。それが雪であること、木にぶりかったことに気づくのには暫くの時間を要した。
強く引っ張られる。倒れたはずの体が起こされる。胸倉を掴まれていた。
「すいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいません!!」
何がなんだか分からなかったが、俺の口は先輩への謝罪を繰り返した。蹴られた衝撃で頭がクラクラとしている。視界が定まらない。
「すいませんすいません………?」
無意識に頭を庇っていた手を退ける。先輩の顔は、髪が隠して見えない。訳の分からない状況にも関わらず、やはり綺麗な金髪だなと思う。同時に、伸ばした方が似合うのにとも。
そのまま暫しの間、俺の胸倉を掴んでいながら、何もしない先輩を見つめた。
「バカに、しないでくれ」
「え?」
髪が揺れる。金糸のような、輝く髪。そこから覗いた赤い瞳からは、ゆっくりと、雫が溢れていた。
「私達を、バカにしないでくれ」
感じたことのない、痛みだった。
「ハーン。お前は、間違えている。決定的に、今も、間違えている」
ポツポツと溢れた涙は、俺の胸元へと落ちてくる。それらが俺には、針のように鋭利な凶器に感じた。雫が服を通して皮膚に触れるたびに、その場所が痛むのだ。だが、不思議と先輩を退かそうとは思えない。
「私は、私達は、君を、愛しているんだ」
寒さのせいか、血色の悪くなっている唇が幾度となく震える。口が何度も動き、止まり、音を出そうとしては、閉じる。そんな動作が、繰り返される。先輩は、何かを探そうとしているようだった。暗闇の中で、必死に手足を動かして。どこかにある何かを、伝えようとしているようだった。
「……ッ! 私は、君に—――――」
悔しそうだった。先輩は、自分に怒りを覚えている。
「聞いて、ほしい。言葉の足りぬ私を、恨んでもらってかまわない。でも、知ってほしい」
赤い瞳。燃えるような朱。艷めく宝珠。俺の眼前に、それが迫る。
「それが、どうした?」
頬を温かい何が包む。それは絹のように滑らかで、柔らかく、心地よい。
両頬から熱が伝わってくる。どこか、懐かしい熱だった。
「ハーン。ハーン。ハーン……。どうして、君は、一人になろうとする?」
先輩が口を開くたびに、吐息を感じた。蠱惑的なその風は、そっと鼻腔に触れ、甘い香りを伝える。鼻先が触れ合うのではないかと心配した。どこかで期待している自分もいた。視界に覗く艶やかな肌は、触れれば温かいのだろう。
「君が言ったはずだ。言葉は何のためにある?」
ジッと見つめてくる赤い目も、何度か瞬きが繰り返される。その度に長い睫毛がサラサラと動いた。
「何度だって言おう。君に伝えるためならば、幾度となく。愛していると、言葉を紡ぐ。——―————だから、信じてほしい」
唇は、いつの間にか紅を引いたように赤かった。
「それが、どうしたというのだ?」
俺の体は、寒さで固まってしまったかのように動かない。まさか先輩もまた、財宝を所持しているのではないかと疑い、直ぐにその思考を放棄する。俺はただ、アネスト・グリージャーという人物に魅せられていたのだ。彼女の持つ清廉とした美しさと、その言葉に籠っている圧倒的な力。それらが俺の肉体を縛り、脳が行動を制止する。
「私には、君の言っていることの大半が理解出来ない」
その言葉に失望はしない。俺の話はあまりにも突拍子なく、先輩———この世界の人間には理解し難い過去なのだろう。そもそも、この世界には輪廻という言葉も転生という言葉も。死後の世界という概念もないのだから。
「だが、君が。ハーンが間違えているのは分かる」
先輩の言葉には確信が宿っていた。
「君は何を、償うというのだ?」
「—————ッ!」
体を縛っていた鎖が、崩れた感覚がした。脳が急速に動き出す。それを許してはならないと、魂が震える。
「全部に決まっているでしょう!!!!」
突然上げた奇声とも言える声にも、先輩の瞳は揺るがなかった。この距離ならば唾も飛んでしまったことだろう。それでもグリージャー先輩は、頬に添えた両手を離さない。それどころか、いっそう力を込めた。
「何もいらない」
ゆっくりと先輩の顔が近づき、額が触れ合った。
「何も、いらないぞ?」
先輩は、笑っていた。
「こんなにも、愛おしい」
その笑顔が何かと重なる。
「君に、愛されるなら」