八十話
「そうか……。君の過去にそんなことが―――――」
「――――鼻血。出ていますよ」
「……」
凄いキリッとした表情をしていたが台無しである。無言で拭っているけど無かったことにはならないからな。このムッツリめ。
「―――――――……はぁ」
「す、すまない」
俺はそんな先輩の姿に思わず溜息を吐いた。白くなった息が宙を流れていく。先輩は申し訳なさそうに謝ってくるが、また鼻血が垂れてきているから言葉に説得力がない。
体が震えた。アホなやり取りのせいで体が冷えてしまったらしい。少しでも暖めようと、両手で体を抱きしめるように組んだ。寒いのは苦手なのだ。脳内に、彼女の最後の姿がちらつく。
「まぁ、これで分かりましたよね?」
口から出た白い息が、宙で霧散していくのを見つめた。空からは、あのときのように冷たい雪が降り注ぐ。
「何が、だ……?」
先輩は恥ずかしそうに、取り出したハンカチで鼻血を拭う。先程までは治まっていたのに、また顔が赤く染まっていた。そんな先輩の姿に、思わず苦笑する。
「何って? 俺がどうしようもないってことですよ」
笑顔に釣られるように、体の力をゆっくりと抜いた。後ろへ頭から倒れていく。少しすると、体が降り積もった雪に包まれた。体中から、静かに熱が奪われていく。体温で溶けた雪が、氷水となって服の中に染み込んできた。
「そうだな、ハーン」
そんなことは分かりきっていた。
「――――お前は間違っている」
分かりきったことだった。
「――――はい」
目を反らすように、目を閉じた。すると体全体で感じる冷気が、より鋭く感じた。このまま雪に混じり合って、溶けてしまえば。そんな女々しいことを、再び考えた。
「俺は、間違えた」
決定的に、間違えた。
「……ああ」
無性に、ルーナの魔法が見たくなった。こんな醜い雪なんかじゃなくて、美しい空色の花。彼女が作り出した、愛おしい花。……抱かれたかった。こんな鋭く痛い雪なんかじゃなくて、彼女の優しく心地よい花に。
運命というものは、あるのだろうか。その問いもまた、俺の逃避の一つだった。
それがあるのならば、俺は異物でしかないのだろう。きっと本来の運命は、もっと幸福で、輝いていたはずだ。どうしようもない。どうしようもないのだ。分かっている。俺はクズだ。分かっている。
クズだから、安心してしまう。ホッとする。
そんな運命が、なかったことに。俺がここにいることに。生きていられることに。ルーナに、愛された事実に。そう考える俺は、決定的に間違えている。間違え続けている。そうそれは、きっと生まれたときから。
「俺は、生まれてこなければ良かった」
望まなければ。前世などなければ。――――いや、前世すら、生まれてなければ。そうすれば、きっと、きっと、全て。
全て、よかった。
「俺は―――――」
何かが壊れた音がした。必死に塞いでいたはずの何か。心の奥底にしまっていたはずの何か。亀裂から、溢れ出る。
それは、甘えだった。堕落だった。罪を犯した俺が、言ってはならないはずの言葉だった。
「俺は、どうして生きているのだろう」
本当は、分からなかった。クリスは俺を玩具だと言うけれど、確かに俺は人形なのかも知れない。ただその糸を操っているのは、クリスではなくて俺。ハーン・ウルドの偽りだらけの使命感。
一度、死んだ。俺は死んだのだ。死んだはずなのだ。
死とはなんだ。終わりか、安寧か、休息か。そんなことは、一度死んだ俺でも分からない。けれども始まりではなかったはずだ。二度目の人生など、起こり得るはずもなかった。つまり俺は、終わってなければならなかった。
そう、俺は始まりから間違えていた。間違えていたのだ。
望むべきではなかった。願うべきではなかった。受け入れるべきだったのだ。今の俺のように、現実と向き合うべきだったのだ。俺は死んだ。一度、死んだのだ。例えそれが望まない死だったとしても、俺はそれを拒絶しなければならなかった。
その誘惑に、抗わなければならなかった。
ドラゴンの誘惑に、勝たねばならなかった。
ああ、そうだ。全ては娯楽なのだ。きっと、どうしてという問いにはその答えがふさわしい。俺は、娯楽のために生きている。ドラゴンの、娯楽のために。
ルーナの命を奪ったあの日から、頭の片隅で予想はしていた。ただ俺には余裕がなく、確証もなかった。そんな俺の予想は、クリスとの出会いで確信に変わった。ああ、こいつらは、きっとそうなのだと。
消去法だ。可能性を、潰していくのだ。
神様? この世界には、そんな概念すらない。そんないる分からない存在など、候補から外していいだろう。異なった世界に、人間という生物が存在すること自体が奇跡なのに、虚ろな存在がいると、どうして断定できるのか。
そんな幻想を信じなくても。この世界には、出来る存在がいるじゃないか。
殆ど、何でも出来る存在が。絶対的な存在が。
そいつらは、無から有は作れない。―――――だから、持ってきたのだ。楽しそうな、面白そうな、玩具を、持ってきた。
―――――異世界から、持ってきた。
ドラゴンは、娯楽を楽しむ。俺は、娯楽の種だったのだろう。それをこの世界に蒔き、育ちきってから摘む。蒔いたドラゴンがどんな存在かは知らない。ただ摘んだのはクリスだった。それがアイツとの縁だった。
その事実に気付いてから、どうしても一つの思考が頭に残り続けた。それはどれだけ否定しても、頭の片隅に張り付いていた。そんな作られただけの人生、遊ばれるだけの人生ならば、いっそ。と。
それは選んではならない選択だった。選びたくない選択だった。俺は、強欲だ。手に入れたものを、彼女の愛を、命を、手放したくなかった。気づかぬふりをした。思考に蓋をした。ただひたすらに生きることで、必死に塞いでいた。
だがその蓋は、俺が生きる喜びを感じるたびに傷ついていった。友と生きる喜び、恩師に認められる喜び、旅を楽しむ喜び、そして誰かに愛される喜び。それら全て俺が作り出した真っ暗な思考を呼び戻した。
いなければ。最初から、いなければ。
死んではならない。それは彼女への裏切りであり、罪からの逃避。
どうしようもないのだ。俺は生きるしかないのだ。それが正しいのだ。分かっている。……分かっている。
「――――すいません。忘れて下さい、先輩」
体を起こした。服に付いた雪を払う。
「俺は、間違えました。だから少しでも、償います。生きて、償います。例えそれが本当の彼女にとって――――俺の瞳に狂わなかったルーナにとって、贖罪にならないとしても。狂ってしまったルーナに、喜んでもらえるのなら」
そう、それしかない。俺に出来るのは、奪ってしまった命に償うこと。偽りの愛に答えること。
「ハーン……」
グルグルと回っていた思考が、ようやく一本の線に纏まっていく。それは何度も繰り返した作業であり、現れる形もまた変わることはなかった。
結局のところ、結論は一つなのだ。俺が出来ることも一つ。したいことも一つ。
過去は変わらない。変えようとしてはならない。現実を見なければならない。俺は、生きたい。俺は、本気で、ルーナを愛しているのだ。
「ハーンお前は……」
「俺は一人で――――この命と、生きます」
先輩の、表情は見えない。俯いていて、綺麗な金髪に白い雪が積もっているのが観察できる。よく見ていると、体が僅かに震えていた。
「……寒いですね。寮に、戻りましょう」
針を刺されたかのような、チクリとした痛みが体に走った。どうやら俺は、先輩に嫌われたことを少なからず残念に感じているらしい。なんとも女々しい話だ。だがそれが俺なのだろう。ネットやダッグが友達になってくれたのは、奇跡のようなものなのだ。
「―――」
返事はなかった。これが本来の形。先輩は人を心で判断できる素敵な女性だったけれど、本当は俺を気持ち悪く思っているはずなのだ。それがこの世界の人間であり、自然な形。これで良かった。
「先に、行ってます」
雪の降り積もった悪路を歩き出す。帰ったら、温かいスープが飲みたい。そう思った。雪を踏み締める音が背後から聞こえ始める。先輩もまた、歩き出したのだろう。
きっともう、先輩と会うことはない。その事実を自分の中で言葉にすると、悲しく思う自分に苦笑した。
「………ッ!」
先輩が何かを口にした。しかしそれは、俺の耳に届いてこない。次いで、雪を踏み締める音が加速していく。どうしたのだろうと、振り向く。
「お前はぁぁああああああああああああ!!!!」
視界には、先輩の綺麗な足が写っていた。
「間違ってる!!!!」
「上段回し蹴りぃぃぃぃいいいいい!!!???」
なぜ!?