六十八話
「何言ってるんですか!?」
「だ、だって仕方がないだろう!」
雪雲の隙間から零れる僅かな光が俺達を照らす。光に包まれた氷剣は、宝石のように輝きその存在を世界に示す。その恐ろしくも美しい刃は、持ち主の望みを叶えんと俺を睨みつけていた。
「命を救われて、心を救われた! お前は、私の英雄だった!」
赤い瞳が俺を見つめる。燃え盛る炎のように熱い瞳。その熱に当てられたかのように、先輩の頬は真っ赤に染めあがっていた。
「私は……、少し君を誤解していた。確かに君は強い人間だった。だが……いや、だからこそ、君は弱い人間でもあるのだろう」
先輩は、右手で剣を此方に向けながらも。左手で苦しそうに胸を抑える。
「お前には分からないだろう、ハーン……! 不意に見てしまったお前の涙! それが私をどれだけ苦しめているのか分からないだろう!」
――――痛いのだ。先輩は、そう語る。
「痛くて堪らないんだ。君が悲しむことが、君が苦しむことが、君が――――笑顔じゃないことが」
……憎いんだ。先輩は、言葉を紡ぐ。
「憎くて堪らないんだ。君の悲しみを、苦しみを拭ってあげられない自分が。君を笑顔にできない自分が」
辛いんだ。――――――先輩は、嘆く。
「辛くて、辛くて、堪らないんだ……。君は、私に怒りを覚えるだろう? 私が、私が……」
……君を、愛していることを。
先輩は、涙を、流した。
「ああ。……ああ、そうだ。君は、私を怒るだろう。時には憎しみを覚えるかも知れない。君は自分を恨んでいる。だからこそ、君は自分を愛する者を許さない」
「俺は……」
「でも、ダメなんだハーン。私は、もう駄目だ」
剣を持たない腕で、先輩は乱暴に涙を拭う。
……何故、先輩は泣いているのだろう? 最後に会ったときは、綺麗な笑顔で笑っていた。それなのに、目の前にいる人は涙を流しているのだろう。
また俺のせいなのか。また、俺は誰かを悲しませているのか。
「私は君と違って、弱いだけの人間だ。強さに縋り、だからこそ簡単に誘惑に負ける」
「……それは、違います。先輩は強い人だ」
「―――ありがとう。君がそう言ってくれるから、私は笑顔になれる。……でも、そう言ってくれるのは君だけ。父には、久しぶりに頬を叩かれたよ。失望したとね」
素直に、驚いた。俺が出会った、先輩の父親であるガラフ様は、子供を大切にしている優しい人だと思っていた。じゃないと可笑しいんだ。あの感謝の言葉には、娘が無事だったことへの心からの安堵が込められていた。そんな人が、そんな酷いことを娘に言うなんて…。
「ありえないという顔だね。……けど当然だ。護衛であるツキミヨを振り切り、自らの欲に任せて試練に挑んだ。――――まるで子供の癇癪だ。幼稚な行動だよ。学園中の生徒がどこかで私に失望しただろう」
「そんなことありません! 先輩はドラゴンのせいで――――」
「――――ははは。君は……まるで異なる世界からやってきた、旅人のようだ」
無いはずの心臓が飛びあがる。驚きのあまり、声すらでなかった。先輩はそんな俺を見て、申し訳なさそうに苦笑する。
「つまらない、冗談だったな…。でも、君の思想はそれほどに異質だ。国中の人間を探しても、君のような考えを抱く者はいない。変わり者と噂の王女だって、きっとそんなことは思わない。――――でも、そんな君だから。私達は救われたんだろう」
「わたし、たち?」
「テスラだよ。彼の結末は、きっと本来だったら悲惨なものだった。けれども君は、不思議なことに彼を救おうとした。……未だにそれを理解することは、私にはできない。ただ、彼が今、病室の窓から空を見上げられているのは、君の功績だ」
テスラ。彼の名前を聞いて、胸が苦しくなるのを実感する。彼を救うようなことを、何故したのか? そう聞かれたのは、一度ではない。それは他ならぬ、ネットやダッグの口からだ。
彼らはテスラの友人だった。だが彼らは今、テスラのことを友とは呼ばないだろう。
それはこの世界では当然のこと。ドラゴンが作り出した誘惑。そのせいだったとしても、テスラが俺の命を脅かしたことには変わりがない。悪意がなくても、罪には変わりない。―――いや、彼の心に悪意はあった。だが彼はそれを押し殺していた。ドラゴンによって、暴き出されるまでは。
だから彼らはテスラを友とは呼ばない。そんな悲しいことがあっていいのか?
人に悪も欲もあるのが当然だ。それに負けた人間は責められても仕方がないだろう。でも、テスラや先輩は、ドラゴンという生き物に誘惑されたから行動を起こしてしまったのだ。本当に悪いのはドラゴンで、テスラや先輩じゃない。
「……ッ」
そんなことを叫ぼうとして、喉で言葉が痞える。それが意味のない言葉と分かったからだ。
悪いのはドラゴン? ならドラゴンを断罪すればいいのか?
そんなことは、無意味だ。だからこそ、張本人を裁くしかない。恨むしかない。
「プランもまた、君によって救われた。君の周りは、君によって救われた人間で溢れている」
「俺は、何も……」
「―――少なくとも、私の命を救ってくれた」
先輩は再び涙を流しながら、笑顔を見せた。
「私は、傲慢だ。弱く、醜く、愚かだ。―――……ハーン。こんな私を、どうか恨んでほしい。憎んでほしい。君からの贈り物ならば、それすら愛おしい」
冷気が風となって、肌を突き刺す。思わず目を閉じること、一拍。瞼を開けたその瞬間には、周囲の風景が一変していた。
見渡す限りの、氷。氷が形作る刃。空から降り注ぐ雪が全て剣へと変わったかのように、地面を凶器が埋め尽くされていた。
「異質な君を、きっと私は理解できない。異質な君に、私の思いを伝えられない。――――――それが、苦しくて堪らない。私は理解したい! 伝えたい! そして君の傍で、誰よりも近くで、君に救われたように、君を救いたい!」
殺意が、俺を包み込んだ。魂を揺さぶる、濃密な殺気。この世界の人間にとってそれは――――愛と呼ばれる。
「だから、君を殺す。もう、止められないんだ」
――――――王国流双剣術『氷剣』アネスト・グリージャー。
「ハーン・ウルド。君を、愛している」




