六十七話
結局ダッグはそのまま走り続け、アイツが持ってくれていた俺の荷物がいくつかダメになってしまった。勿体ないが、俺が悪いので仕方がない。心の広い俺は、とりあえず今度会ったら一発殴るだけで許すことにしようと思う。
いつもの誰もいない噴水広場。水が凍り寒さが辛いそんな場所でも、ここは何故か落ち着く。俺はそこで荷物を降ろし、少し休むことにした。
今日の買い物で旅の準備はある程度終わった。あとは旅の中で調達すればいいと考えている。ネットやミヤとダンジョンに潜ることで得ることが出来たお金は、今回の買い物でもう殆どなくなってしまった。
これからは旅をしながら路銀を稼ぐ生活になるだろう。前世を含めてそんな生活を自分からするようになるとは……考えもしなかった。
この世界の地下には、俺という小さな生物からすれば無限のように広がるダンジョンが存在する。そこには常に進化を続ける魔物が存在して、奴らを討伐すれば貴重な素材が手に入り、金になる。少々危険だが、食うには困らないだろう。――――まぁ、だが、その日暮らしになるのは間違いない。
だけど、そんな生活を想像してワクワクしている自分がいる。ああ、そうだ。俺は憧れていた。異世界の、ファンタジー。誰も見たことのない景色、生き物。それらを想像するだけで、旅への期待が高まる。
前世では、少し調べれば世界中の画像や動画を見ることが出来た。それはとても恵まれたことだ。俺はよく知っている。………でも、簡単に知れるからこそ。胸の中にくすぶっている未知への渇望はどうすればいいのだろう。――――そんなことを、考えてしまう。
神秘なんて存在しない。そう言い切れてしまうのは、とても幸運で不幸なことだ。だからこそ俺は、理想の世界を望んだ。
――――やっぱり。俺は愚か者だ。
欲望のままに渇望し、なんの対価もなく手に入れる。それがどれだけ――――……そう、どれだけ罪深いものなのか。俺はよく、知っている。
過去を変えることが出来るとしても。俺は絶対にしない。
何故ならそれは、否定になってしまうから。今の俺を。俺の、命を。―――――――――――――――――そして、彼女の思いを。
ああ、いや、違う。そうじゃない。
俺の思いは、願いは。そんな高尚な言葉に変えられるものじゃない。
「……」
彼女の名前をそっと呟く。
その名に答えるように、冷たい何かが肌に触れた。空を見ると、柔らかい雪が舞い降りてきている。俺の声は、そんな彼らに吸い込まれていった。
「俺は…」
―――――……俺は。ただ彼女に嫌われたくないだけだ。それがとても、恐ろしい。
彼女は俺が旅に出ることを喜んでくれるだろうか。俺の思うままに、望むままに旅立つことを。
――――きっと、喜んでくれるだろう。あの素敵な笑みを浮かべて、俺の望みが叶ったことに喜び、俺が幸福になることを願い、俺が生きていることに……涙する。だからこそ俺は恐ろしいのだ。彼女が俺を嫌うことを。この世界の人間が俺に向ける、嫌悪の視線。それが彼女の美しい瞳から向けられることを。
それが。とても………とても、恐ろしいのだ。
「泣いて、いるのか…?」
温かい何かが、頬に触れる。思い掛けず触れられたそれが、人の手であると気づくのに時間はかからなかった。その温もりがとても懐かしく感じ、瞳からボロボロと何かが零れていく。
―――ああ、彼女もまた。こんな冷たい雪の中で。
「泣かないでくれ、ハーン。君が泣いていると、私も……」
悲しそうに、俺を抱きしめた。
「先輩、俺……」
甘い匂いが鼻腔を刺激してくる。温かい熱が俺を包みこむ。俺はゆっくりと、先輩の顔を見る。……やっぱり、この人は綺麗だ。そんなことを、改めて思う。
「私は、君に命を救われた。私は君の、支えになりたい」
だから……―――――――――――――。
その次の言葉が紡がれる前に、俺は彼女を突き放した。
喉を貫かんとする氷の刃を避けるために。
「―――――――私に君を殺させてほしい」
…………いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや!!?? どうしてそうなった!?




