六十五話
「……そうだ。―――おいハーン。これから私のことは呼び捨てでいいぞ」
「え?」
卒業試験が終わり、少し落ち着いた頃に先生が唐突にそう呟いた。
「だから……もうお前は私の授業から卒業しただろ? なら先生と呼ぶ必要はない」
「え、じゃあ」
「ミヤでいい」
至極当然であるかのように、先生はそう言い放つ。表情にも変化がない。
先生の言うことは理解できる。どうやら俺は先生の合格を頂けたようで……即ちそれは先生との関係が違うものへと変わることを意味する。だから先生という言葉は相応しくない。
ただ、俺にとっては簡単には受け入れ難いことだった。前世で中学を卒業しても、俺は担任の先生を呼ぶときは先生という敬称を付けていた。その感覚が、どうしても消えないのである。俺の先生という言葉には、彼女への尊敬が含まれているのだ。それを捨ててしまうのは、その尊敬も捨ててしまうような気持ちになってしまう。
それを彼女に伝えたとしても、理解はされないのだろうけど。
「……ミヤさん」
「はぁ!? 私はお嬢様か!? ――――気持ち悪いッ! ミヤにしろ!」
先生は体を震わせる。そんなに嫌ですか。
「じゃあ……、ミヤ殿」
「だからミヤでいいって、言ってんだろうがぁぁぁぁ!!!!」
「ぎゃぁぁぁぁ!!!!」
く、首を絞めるのは御勘弁!
―――――――――――――――――――むっ、先生意外と………。
「………ッて、そんなこと考えてる場合じゃねぇ!!! ミヤ、ミヤ、ミヤ! これでいいですか!?」
「――――なんか呼び捨ても気持ち悪いな」
「なんという理不尽!?」
俺にどうしろと?
「まぁ、そのまま呼び捨てで良い。これからは対等だからな」
「対等?」
「旅の仲間に身分はいらない―――同じ物を、同じ量食べる。それが鉄則だ」
先生は―――ミヤは、ニヤリと笑う。
「本当はお前に色々と教えたいことがあったんだ。旅の中で教えてやるよ――――これからは、旅の仲間としてな」
ミヤは俺を離すと、真正面に立ち、腕を組んだ。俺との戦いで、体が土埃に塗れている。それでも綺麗だと感じるのは何故だろう。
「きゅー!」
俺がミヤに見惚れていると、空気を読まないハートが俺の元へやってくる。撫でてと言わんばかりに、頭を俺に擦り付けた。毛並みがサラサラで気持ちがいいのだが、コイツの元の姿を知っているからどうも可愛がれない。
「やっぱ、何か気持ち悪いんだよなー?」
ミヤはハートと距離を取って頭を捻っている。ミヤも見た目に関しては愛らしいと感じているのだろうか。それでも気持ち悪いと感じているのは第六感が優れているからか。
「あれ? プランはどこに行った?」
そこで、ハートはプランが抱えていたのを思い出す。辺りを見回してもそれらしい姿が見当たらない。
「きゅ、きゅー。きゅきゅきゅ、きゅー!」
ハートが器用に空を飛びながら、体を動かして何かを表現している。小さい体を必死に動かすその姿は、とても愛らしいのだが……正直何を伝えたいのかまったく分からない。
「よく分からんが……用事でも出来たのか?」
「きゅ」
そうだよ。と、言っているのか頷くハート。腕を組んでいるのが腹立つ。
「チッ! お前の弟子は師匠に挨拶もないのか」
「いやいや用事なら仕方ないでしょう」
そう言いながらも、俺は疑問を抱いた。プランの性格なら、何か一言でも告げて帰りそうだが……ああ、だからハートが必死に伝えようとしてたのか。
「――――まぁ、いい。私はもう行く」
ミヤは体に付いた土埃を払いながら、そう言った。その様子に、もう疲労は見えない。魔力の大半を使い切っているはずなのだが……さすがと言うべきか。
「ハーン。私を旅の仲間に入れたからには、覚悟を決めてもらうぞ」
「か、覚悟ですか?」
「ああそうだ」
ゴクリ…と、唾を飲み込む。あのミヤから出た覚悟という言葉だ。いったいそれにどんな意味が込められているのだろうか。正直めっちゃ怖い。
「お前、私がどこに住んでるか知ってるか?」
「へ?」
「職員用に寄宿舎があるんだよ。私はそこに住んでいる」
「は、はぁ」
「そしてお前は今日、私の授業から卒業した。この意味が分かるか?」
「ど、どういう意味なのでしょう?」
「つまり! 教師じゃなくなった私は! あと一週間ほどで宿無しになる!!!」
ミヤは大きく胸を張っているが……、大変じゃないか?
「えっ! どうするんですか?」
「どうしようもない。正直この試験でお前がダメダメだったら、落第にするつもりだったし。私がこの学園から出ていくのはもう決まってたんだ。申請も終わってる。さすがにそれを無かったことには出来ないんでな」
なんだか聞きたくない一言を聞いてしまった。……すみません。自分ちょっと、先生は試験を始める前から卒業を認めてくれていたんじゃないかと思ってました……。調子にのって、すみませんでした。
「だから一週間後に旅を始めるぞ。準備しとけよ」
「―――――――――――はい?」
いま、なんと?
「二度も言わせんな。顎骨砕くぞ」
「すいませんでした!」
ミヤの授業を卒業したからといって、彼女へ土下座する機会はなくなりそうにない。本当にやりそうというか、多分やる。
「けど一週間後なんて唐突な……」
「知るか。お前が私を旅に誘ったんだろ」
いや、それは間違いないんだけど。俺の都合は? ―――――――……この人が配慮する訳ないか。
「じゃあまたな」
ミヤはそう言うと、此方に背を向けて歩き出す。俺に言うことはもう無いらしい。拒否権というものは、俺にはないのだろう。ミヤらしい。
痒いのか背中をボリボリと掻きながら、ミヤはダルそうに歩いていく。後ろ姿は女性そのものなのだが、いかんせん仕草がオッサンすぎる。少し前に俺が見惚れた女性はどこへいったのだろう。
「ミヤ先生!」
俺はそんな彼女に声を掛ける。
「楽しい旅にしましょう!」
「……アホか。楽しい旅なんてねぇよ」
彼女は首だけで此方を向く。
「それに言ってるだろうが――――――――――ミヤでいい」
……そして、楽しそうに笑うのだった。




