六十話
ガラフ・グリージャー。この人は王の右腕と呼ばれている。……呼ばれているのだが、俺が持つこの人の情報は驚くほど少ない。
現国王が幼少の頃からの友人で、王が最も信頼を寄せている。ということは誰もが知っていることだが、王国に流れている彼の情報はその程度のものだ。曰く偏食家だとか、変わった趣味を持っているだとか、そんな噂話はあるものの、所詮は噂話。真実とは言い難いだろう。
功績というもので彼を計るものまた、難しい。確かに彼は現国王と共に学生時代、ダンジョンにて多数の財宝を手に入れたという逸話を持つ。しかしながらその話はあくまで昔話でしかなく、国王の影に隠れて彼に関する話は薄い。
そう、彼はまるで国王の影のようだ。
特に目立つこともなく、ただ王に仕え、そして支える。公爵という立ち位置でありながらその姿勢を崩されていないのは、確実に彼の実力なのだろう。
「やあ、君がウルド君だね。そして、ガスパー君。二人とも楽にしてくれたまえ」
初めて間近で見るガラフ様の姿は、とても若々しい。先輩の兄だと紹介されたら俺は信じていることだろう。柔らかなその笑顔は美しく、爽やかだった。
先輩と同じ金髪は当然のごとく白髪などなく、艶やかで絹のよう。肌は白く健康的で、先輩と違う青い瞳が硝子越しに此方を眺めていた。掛けている銀の装飾がされた眼鏡が彼の整った顔立ちを彩っていた。
この世界の人間は確かに若々しく、全盛期が長い。生物としての成長のおかげだ。しかしながら彼の見た目は若すぎる。それは彼が少しばかり童顔なのもその理由にはなりそうだが、やはり根本的な原因は勿論彼が常識を越えるほどに魅力的だからだろうか。
俺達は挨拶をすませ、ガラフ様の向かい側になるソファーに座ることになった。プランはハートの面倒を見ると言い、この場にはいない。
ガラフ様への挨拶はネットが先に行い、俺はその真似をしただけだ。こんな大物に会う機会などないと思っていたので、俺は貴族だがそういった礼儀を学んでいないのである。親は俺を嫌っていても最低限の学問は学ばせようとしていたが、俺はそれを拒否して肉体を鍛えることに終始したという経緯だ。
ガラフ様の隣には、久しぶりに見た先輩の姿があった。先輩は何やらソワソワとした様子だったが俺は無視を決め込む。悪いがどうでもいいし、ガラフ様に失礼を働く訳にもいかないので気にしている暇がない。
「どうした? 二人共緊張しているのかい?」
「この学園に、公爵様を前にして緊張しない学生はいないでしょう。お会いできて光栄です」
「ははは。少なくともネット君。君は冷静のようだが?」
「とんでもない! 手足の震えを抑えるのに必死ですよ!」
チラリと隣に座るネットの様子を見るが、微塵も緊張した様子はない。しかしながら彼の指を見ると、確かに僅かに震えている。俺とは違いこの世界の人間であるネットには、目の前の人物が発する魅力が恐怖となって襲い続けているのだろう。そんな中で冷静に会話を続けているのは本当に尊敬できる。
「でも安心するといい。実を言うと、緊張しているのは此方の方でね。……何せ一年間に二人もの財宝保持者が現れ、おまけにその内の一人はドラゴンの試練を乗り越えて、聖獣を携えているという。―――ほら、緊張しない方がおかしいだろう?」
ガラフ様の顔を見るが、柔和な笑みが崩れていない。言葉と違って、緊張など微塵もしていない様子だ。この人は俺達のことを凄いことをしているかのように言っているが、俺は現国王が学生時代にダンジョンから一年間に七つもの財宝を手にしたという逸話を知っている。
「七つの財宝と七つの試練」は、この国の人間にとってはあまりにも身近な本だ。
本の中に彼の記載は少ないが、目の前で笑う彼が物語の中核を担っていた人物であったことは想像に難くない。
「今日は国の政治家として、君達の話を聞きにきた。財宝保持者として、これからのことを、ね」
そう言って彼は硝子越しに此方を見つめる。
「しかしながら、ハーン君。話を聞く前に君には伝えなければならないことがある」
「な、なんでしょうか?」
自分の声が上擦っている。ネットは生物的な恐怖で指が震えていたが、俺は小心者だから体が震えている。なんて情けない。さすが俺。
「ほら、アネスト。いい加減覚悟を決めなさい」
ガラフ様はそう言うと隣に座る先輩の肩を叩いた。
「し、しかしお父様。やはり私は……」
「くどい。早く立ちなさい」
そう言うと、ガラフ様は戸惑う先輩を無理矢理に立たせた。若干抵抗を見せた先輩だったが、それでも軽々とした動作だった。
「ハーン君、伝えたいというのは他でもない。娘の命を救ってくれたこと。そのことに対して、感謝を」
ガラフ様は頭を下げる。右手で先輩の頭を抑えながら。それは公爵という立場の人間がするには、あまりにも深すぎる感謝だった。
「ちょ、止めて下さい!」
俺は慌ててそれを止める。正直に言って迷惑だと感じた。ガラフ様が言っていることは理解できる。俺が行ったことは結果として先輩の命を救った。だからこそ父親としてその礼を言いたい。それは理解できる。しかしながら、頭を下げるのは違うのではないだろうか。
家からは勘当に近い扱いを受けている俺だが、男爵という身分だ。しかしながら、あくまで次男。貴族という階級の中では下の方に位置するのは間違いないだろう。それに対してガラフ様は公爵。それも国王の右腕と呼ばれている男。このウルタスという国の実質的なナンバー2と言ってもいい。そんな男が俺に頭を下げる? なんの冗談だろうか。
「ハーン。お前が止めろ」
慌てる俺に同調するのではなく、ネットは寧ろ止めに入った俺を制止した。それに憤った俺はネットを見るが、返された視線は冷たいものだった。
「お前がしっかりと話してくれたから、お前の気持ちは理解しているつもりだ。……だけどなハーン。ここは受け入れろ。公爵様にも、立場がある」
言葉が刃物のように感じるのは久しぶりだった。ネットの言葉は俺に刺さり、グラリと倒れそうになる体を抑える。
ああ、そうだ。
この世界の人間は、愛という感情で命を奪う。それなのに、いや、それだからこそ、命を尊ぶ。
命を救うという行為は重い。もしも俺が国王の娘の命を助けたのなら、例え国王であれ俺に頭を垂れるだろう。それがこの国の常識。頭を下げないのならば、どんな人間でも軽んじられる。複数ある命の、たった一つであっても。
「……ハーン。私を許してほしい」
先輩が頭を下げたままで、声を発する。その声は透き通るような綺麗な声だったが、懺悔するかのように震えていた。
「あの後、ミヤ先生に運ばれて学園まで帰ることができた。……私は、この命を失っていないことに、泣いたよ。――――――君がまだ、帰ってきてもいないのに」
ポツリと、何かが落ちた。
「私は、汚い人間だった。それをハッキリと自覚した。だからこそ君に会えなかった……」
会えばきっと、私は君に感謝をしてしまうから。
「君は私に感謝はいらないと語った。それでも私は、君に伝えたかった。これは、私のエゴだと思う」
だけど。
「私は、君に、伝えたい。――――――――――ありがとう。私の命は、ここにある」
何一つ、欠けることなく。………それが、どれだけの安堵なのだろう。俺は彼女の気持ちを完全に理解することはできない。
俺にとっての、生きるための命。
彼女にとっての、誰かを愛すための命。
似ているようで、どこかそれは違うのだろう。俺には前世があるから、きっとその二つはピッタリと重ならない。
ただ分かるのはどちらも大切なもので、不意にそれを失いそうになると恐ろしくなること。それがそこにあることを自覚すると、安堵するということ。
「―――――――――――先輩。俺は自分が生きれる可能性が一番高かったから、試練を受けたんです。先輩は自分を汚いと言いましたけど、俺なんか百倍汚いですよ」
欲深く、他人を顧みず、愚か。それが、ハーン・ウルドという人間。
「だから、感謝なんて本当はいらないんです。それでも感謝して頂けるなら、勝手にどうぞ」
「……そう言ってもらえると、私も助かる。ありがとう、ハーン」
「――――なんで嬉しそうな顔をするんですか……」
顔を上げた先輩は、笑みを浮かべていた。
「何度でも、言っていいのだろう? ありがとう。私の命を救ってくれて」
「あー、もう。好きにして下さい……」
この人に感謝をされると、心がむずがゆくなる。俺は本当は、感謝なんてしてほしくないのだ。
テスラとの時間を作ってくれたこと。それがテスラからの願いだったとしても、俺はまた一つ。アネストという人物に感謝していたというのに。
「生きてて、嬉しいですか先輩?」
「ああ、嬉しい」
先輩は、よりいっそう可愛らしい顔で笑った。
「おやおや、私達は蚊帳の外のようだねネット君?」
「ですねー。親友がすみません……」
「ああ!! す、すみません公爵様!」




