五十二話
長い時間が流れた気がする。自分のことなのに、ひどく曖昧だ。クリスは、時々思いついたように俺に時間を知らせた。「遊び時間」が、一体どれほどのものになったか。本当に楽しそうに、俺に知らせた。
最初はその情報が俺が俺という生物であると理解するための、唯一と言ってもいい確認材料だったのだが、その数が100を越えた辺りから俺の頭は考えるのを放棄した。痛みも、苦しみも、全てが他人事のようになった。
……玩具を題材にした映画があったのを覚えている。
小さな子供によって、遊ばれる玩具達。彼らは生きていないようで、生きていた。子供にばれないように、ひっそりと。俺は彼らに感情を移入する。強い共感と、仲間意識を感じる。きっと彼らもこんな気持ちだったのではないだろうか。
「何を勝手に俺で遊んでやがる」
そう、一言。
楽しそうに遊ぶクソ餓鬼に言い放ってやりたかったのではないだろうか。俺はただ、抵抗しないでやってるだけだ。俺は、お前に遊ばれるような矮小な存在じゃない。俺は、遊ばせてやってるんだ。俺は、本来ならこんな立場に甘んじていない。俺は、自由だ。
俺は、俺は、俺は。俺だ。
心の奥底から、止めどなくあふれ出てくる言葉。それらを餓鬼に、ぶつけたくて仕方がない。だが、できない。何故なら所詮は、餓鬼の玩具だから。小さくて、何の力もないモノだったから。
玩具は玩具。糸を引かれたら、動くしかない。遊ばれたら、遊ぶしかない。
―――自分が特別であると認識していた。そのことに気づく。
何せ、俺は違う。明確に。
一線を画している。この世界の人間と、俺。全く持って違うもの。境界線は確かに引かれているはずで、引かれているはずの線の此方側には、俺以外いないはずだった。
だからこそ、特別。ああ、俺は。特別だ。
「どうした、ハーン?」
清々しいほどに整った容貌が視界に入った。クリス。ドラゴン。圧倒的なまでの、特別。なんともまぁ、楽しそうな顔をしている。まるで子供のように無邪気に遊んでいるようで、それでいて老練された技術で娯楽を楽しんでいるようでもある。盤上の王を、ゆっくりと追いつめていくように。
「………、ぁ―――」
辛うじて音がでた。虫だって、もう少しマシな音を立てて飛ぶだろう。残念ながら俺は、コイツに罵倒の一つでもぶつけてやる体力も残っていない。いや、寧ろ、こうやって思考することで手一杯だった。罵倒の言葉も思いつかないのが現状だ。
「ふふ」
聖母のような微笑みだった。そこに何の悪感情も感じられない。だからこそ、感覚がない体に悪寒が走ったのを理解した。クリスは美しいその手を、芸術のようなその手を此方にのばす。
「よくやったなハーン」
クリスは俺の体を、優しく撫でる。
「私達の勝利だ」
裂けた体から、露わになった心臓を。優しく慈しむように、そっと。
「……ッ!」
叫びたかった。泣き叫びたかった。死が近づいている。もう直ぐそこまで来ている。命が、この命が、無くなってしまう。失ってしまう。
その恐怖を叫びたかった。止めてくれと、泣き喚きたかった。遊ばないでくれ。もう放っておいてくれ。頼む。頼む。俺は、俺なんだ。玩具じゃないんだ。
だが、それは叶わぬ願いであると知っている。
今俺は、こいつに生かされている。それをどうしようもないほどに理解している。体は裂け、喉は潰れ、骨は砕け、体に収まる以上の血液が流れ続けている。満身創痍。いや、そんな言葉では足りない。殆ど死んでいる。その言葉がふさわしい。唯一傷を負っていない箇所、義足が異常な熱を帯びているのを感じる。きっとコレを通し、クリスは俺を生かしているのだろう。俺は何故か冷静にそれを分析していた。
「感謝しようじゃないか。ありがとう、私の言葉を信じてくれて」
遊びに勝つのは簡単だった。ああ、とても、簡単だった。
何せ、何もしなければいい。それだけでよかった。クリスの糸に従い、クリスの言葉に従う。それだけでよかったのだ。頭を空っぽにする。俺という存在を、自我を、消す。人形になる。玩具になる。それだけでいい。
俺は勝利した。化け物を打ち倒し、ゴールに到達した。殆ど記憶はない。それすらも、余分なものであると思ったから。ただ明確にわかることは、俺の体はグチャグチャに崩れているということ。苦しくて、苦しくて仕方がなかったこと。生き残れた、こと。
そう、俺は生き残れたのだ。
何て喜ばしいことなのだろう。あの地獄のようなお遊びから、生き残れた。それはとても、喜ばしいことじゃないか。嘆くことはない。悲しむことはない。
だから、だから頼む。治してくれ。喜ぶから、感謝するから、治してほしい。その手を、放してほしい。
もうこれ以上、俺の心臓を、撫でないでくれ。
「やはりお前は私の自慢だ」
―――ブッ。
「・・・あ」
古ぼけたロープが千切れたような、安っぽい音が聞こえた。それと同時に、潰れたはずの喉から間抜けな声も。
「良くできました。ご褒美をやろう」
蠢いている。クリスの手の中で、何かが。理解が出来なかった。それを頭が拒んでいる。
「―――――――――――――ぅぅぅぅぅうううううああああああああ!」」
喉が震えた。出せないはずの声が、溢れるように漏れ出る。伝えなければと、叫ばなければと、声を破裂させる。
「かぁ……、え、ぜ」
「ん?」
「おれの、いのち、だ」
手の中のそれは、歪に動き続ける。本来の形を、失っていく。
「ああ、大丈夫だよ。ハーン、大丈夫だ。約束したじゃないか」
クリスは甘く、優しく、美しいその声で、俺をあやすかのように、大丈夫と繰り返した。大丈夫、大丈夫と。
その言葉はまるで麻薬のように、本来「ソレ」があった場所の空白を満たすかのように、暖かい光となって俺を包み込む。怒りも、憎しみも、虚しさも、悲しみもまた、光に溶かされるように俺の中から消えていった。
「でもすまないな、ハーン。コレは、もう私の物だ」
愛おしそうに、クリスはソレに口づけをする。
「だからお前には此方をあげよう。頑張った、ご褒美だよ」
視界が霞む。瞼がゆっくりと、降りてくる。体中の力が、抜けていく。消えていった感情に釣られるかのように、体が溶けていくような感覚だ。
そんな中、胸に生まれた空洞に、何かが落ちてくる。
「さあ、眠るがいい。休息の時間だ」
そして俺は、意識を失う。
ハーン・ウルド。ドラゴンの試練―――――――――――――突破。




