四十九話
「で?」
俺はとても簡単に、続きを催促したつもりだった。何せ伝える文字は一文字だ。確実に先輩の耳に入ったことだろう。でも、何故か先輩は黙ったまま。俺は首を傾げて頭を悩ませる。もしかしたら聞こえなかったかもしれない。
「で、何ですか?」
「は?」
いや、何を呆けているのか。それとも恍けているのか。
「だから。誘惑なのは分かりましたから、アレがどういった存在なのか、それを早く教えて下さい」
そう俺が更なる催促を先輩に放つと、先輩の表情は驚くほど間抜けなものになった。口をポカンと大きくあけて、ただでさえ大きな瞳を更に大きく見開いている。先程まで零れそうなほど溜まっていた涙が不釣り合いに輝いていた。
『――――ッ!』
近づく、音。とても耳障りで、煩わしい音。
「チッ! おいハーン。残念だが、お嬢様にあいつ等のことを聞いている時間はないみたいだ。さっさと逃げるぞ」
黒い化け物。先輩が吐き出した奴の情報は、ドラゴンの誘惑が関係しているということ。つまりは、『人』では抗うことの難しい存在であるということ。そんな存在の内、一体の姿が、もうすぐそこまで近づいている。
俺は先輩が誘惑という言葉を口にした瞬間から、足を止めていた。だから奴が俺達に追いついてくるのは当然のことだろう。
でも、俺は足を動かす気にはならなかった。
「逃げません」
「はぁ!?」
気づけばそんな言葉を口にする。先生の驚愕した声が続く。別に俺は、恐怖がなくなったとか。そんな勇ましい理由でそう言ったのではない。ただそうする意味がないと判断したから、そう口にしたのだ。
「ふッ!!」
ドラゴンの宝玉。その力を、空いた片手で放つ。
『―――!?』
網となった、粘度の高い液体。剣より放たれたその液体は、黒い化け物を包み込みその体をダンジョンの壁に縛り付ける。瞬間、化け物はその呪縛から逃れようと体を震わせる。その動きに触れるだけで、吹き飛ばされそうなほど激しい動きだ。未だヌラヌラは健在だが、それも時間の問題だろう。しかし、時間稼ぎとなればそれで充分。
「これで時間は出来たでしょう? 逃げる必要はありません」
「お前……。それだけ強力に力を引き出せるなら、早くやっとけよ!」
「何度もやったら警戒されるじゃないですか」
あの化け物に知能があるかどうかは甚だ疑問だが、こんな小細工が何度も続くとは思えない。何せ、ドラゴン製の化け物だ。アレに対して、あくまでこの剣の力は奥の手として。命綱の一つとして使用するつもりだった。
でも、もう気にする必要はない。何せもう分かってしまったから。あの化け物共から、逃げられないことを。
ドラゴンが玩具を見逃すはずがない。
「だから俺は知らなければならない。先輩、教えて下さい。アレはどんなモノなのか。俺が、生き残るために」
俺は肩から先輩を下し、壁にもたれるようにしてからそう問うた。目を見つめる。先輩は、相変わらず怯えるように俺を見る。そこに嫌悪感はなくて、そんな先輩に俺はどうしようもない苛立ちを覚えてしまった。すると目線を通してその感情が伝わったのか、先輩は体を震わせる。
「分かった……。話す、から――――」
か細い声で、先輩は語り始めた。
ドラゴンの誘惑。俺の元友人、テスラも掛かったダンジョンの罠。
それはとても。そう、狂おしいほどに、魅力的に映る。誰もがその手を、伸ばしたくなるほどに。
俺は断定する。ドラゴンは、それを置くのだと。英雄とか、聖人とか、そんな高尚で素晴らしい人物やその素質を持つ卵達の前に。
そしてドラゴンは見る。
誘惑に負けて、堕落するか。誘惑に勝ち、真に素晴らしい人物であると証明するか。どちらに転んでも、ドラゴンは見続ける。その様を。その未来を。誘惑に強弱があるとするならば、きっとそれはドラゴンの好みによって決定される。この義足の製作者、クリスの好みは当然前者の結末だ。俺には、よく分かる。
テスラは英雄の卵なのだろう。そして俺は、言うなれば『娯楽』の卵なのだろう。だから俺とテスラの前には、誘惑が置かれた。テスラはそれを手にして小さな英雄となり、俺はそれを彼に譲ったことで義足と剣を手に入れた。俺達二人の未来がどうなるのかはさすがに分からないが、俺の未来に限って言えば碌なものではないだろう。まぁ、どんな未来だとしても、生きることが出来ていれば文句はないが。
アネスト・グリージャーが何者かと言われれば、俺は迷わず英雄の卵であると言うことができる。その魅力はもとより。その人を心で判断することのできる目は、英雄もしくは聖人となる素質として十分だろう。性格も良く、多くの人々に慕われている。ドラゴンから見てもさぞ『素質』に溢れていることだろう。
でも、ドラゴンは彼女の前に誘惑を置かなかった。今までは。
理由は俺の知る由もない。ただ今になって彼女の前に誘惑を置いた理由は、彼女の話を聞いた時点でよくわかった。
アネスト・グリージャーは悔しかった。唯々、悔しかった。
武闘会。クレオ・ビーンとの闘いで、負けてしまったこと。それがとても、悔しかったのだと言う。
負けることは想定していた。勿論負けるつもりはなかったが、それでも相手が強者であることは知っていた。けど、悔しかった。負けた自分が、許せなかった。
自分は努力をしてきた。そう彼女は自負していた。だから自分は強かったし、同学年では最強であると自覚していた。事実、そうだったと俺は知っている。しかし彼女は敗北した。相手に余力を残した状態で。
完敗という言葉が、相応しいだろう。俺からすれば勝負になっていたことが素晴らしいが、彼女はそんな考えには至らなかった。
『ああ、変わらなかった』
そう、考えた。らしい。
つまり自分は。アネスト・グリージャーという人物は、努力が足りなかった。だからこそ、クレオ・ビーンとの実力差は変わらなかった。変わらなかったから、負けた。全力を、引き出せなかった。彼女はそう考えた。
―――そして、思い出した。かつて自分が、その口から。その愚かな口から吐き出した言葉。
『だが、どうやらお前では仕方がないようだ』
そして、苦しくなった。
『現状を変えたければ、少しでも努力をすることだな』
そして、気づいた。どこか、心の奥の奥。深淵の片隅で、負けても仕方がない。そう思っていた自分に。諦めていた自分に。
自らを高める、時間という絶対的な差。それを考えたとしても、自分があの人に『絶対に』負けるという理由にはなってはいないはずだ。
時間で負けているならば。努力で勝ればいい。あの人がこれまでに努力した時間。それを遥かに上回るほどの努力。それだけで、それだけを行うだけで、自分は勝利していたのではないか。
悔しくなった。試合で、負けたこと。それが唯々、悔しくなった。
苦しくなった。自分が、弱かったこと。自分の心が、とても弱かったこと。自分が愚かで、怠惰な人間であったこと。そんな自分が、浅はかにも誰かを導こうとしたこと。誰かはそんな自分を、仮初でも応援してくれたこと。けれども自分は、それに答えることが出来なかったこと。――――その全てに、その事実に。唯々、苦しくなった。
だから、ダンジョンに潜った。護衛を振り切り、学園の監視をすり抜け、ダンジョンの、その深層へ挑戦した。
強くなるために、がむしゃらに。アネスト・グリージャーは、あの地獄のような深層で何週間もの時を過ごした。そして戦った。モールワイバーンのような、誰もが出会って絶望するような魔物達と戦い、そして勝利した。
そんな彼女の姿は、さぞ魅力的だったことだろう。少なくとも、ドラゴンという種が、目を付けるほどには。『誘惑』が、彼女の前に現れるほどには。
彼女は、手を伸ばした。圧倒的な力に向けて。そうすれば、その力を手に入れることが出来る。そうすれば、自分は強くなれる……ッ!
―――けれどもその手は、空を切る。
『その力が欲しいか?』
何かが彼女に問うた。
『欲しい、欲しい! 私は、強くなりたい……ッ!』
自然と彼女は、そう答えていた。
『ならば試練を与えよう。乗り越えられれば、その力は君のモノ。覚悟はあるかね?』
『当然……!』
彼女は気づかない。それが努力ではないことに。その力が、何かを変える力にはなり得ないことに。
そして二重に敗北した彼女は、無様に逃亡する。
逃げた先には、かつて彼女が導こうとしていた『誰か』がいた。




