四十八話
足を動かす。ただひたすらに足を動かし、逃げる。壁を、天井を、空中を。全てを足場として、俺はあの黒い化け物から少しでも距離を開けるために足を動かす。
「う、うぇ、ちょっ、待ってくれ、ハーン……。き、気持ち悪い…」
肩に乗せている先輩が何か言っているが、無視である。例え三半規管でさえ強化されるこの世界の生物でも、上下左右がグルグルと変わり続けるという現象に耐えるのはとても難しい。それは俺が一番良く知っている。慣れれば何とかなるけれど、時間が必要だ。彼女にそれを与える余裕はない。だから彼女がゲロをぶちまけようとも、俺は足を止めるつもりはない。残ったミヤ先生が作り出してくれているこの逃走時間を、無駄にするつもりはない。
「逃げるためです。仕方がないでしょう」
「こ、この移動方法に何の意味が…」
何を聞いているのか。ショートカットに決まっているじゃないか。
ダンジョンの内部は生物が無作為に掘り進んでいることで変化しているから、とても入り組んでいるのだ。多少なりともドラゴンが整備しているものの、無数の生き物が目まぐるしく活動しているため、完璧な直線や曲線なんてものはごくまれ。見れたらラッキーぐらいの目撃頻度なのだ。
だからこそのこの移動法。いや、逃亡方法。簡単に言えば、図形のクイズである。
A点とB点を、最短の長さで結びなさい。―――ほら簡単。これを実際の空間に落とし込んで、この義足の力を使って実行する。それだけだ。
記憶力は悪い。だが入口から先輩と出会った地点までのルートは、頭に叩き込んである。先生に物理的に叩き込まれた方向感覚と繋ぎ合わせることで、行きと帰りで変化している道も何とかなるものだ。何とかならないのは、大型の魔物が跋扈する深層だけである。
「喋れるなら、あの黒い奴らが何なのか聞かせて下さい、よッ!」
「うぐぅ」
先輩に理由を説明する気にもなれず、俺は質問を質問で返すこととなった。その拍子に、踏み込んだ足から生まれた衝撃が苦しかったのか。それとも俺の質問が聞かれて欲しくなかったものだったのか。先輩はうめき声をあげると、先程まで繰り返していた避難の声をキッパリと止めた。
そのまま先輩は口を閉じたまま、気絶したかのようにグッタリと体の力を抜いた。正直その方が運びやすかったので、これ幸いと俺は足を速める。背負った方が先輩は楽なのかもしれないが、それでは両手がふさがる。悪いが先輩にはこの形で我慢してもらわなければならないだろう。
先輩が流す血の匂いにつられて襲い掛かってくる魔物を、空いている右手で持った剣で斬り払いながら俺は更に進む。正直不安だったが、ここらの魔物が複数で襲ってきても、俺でも追い払う程度なら対応は可能らしい。勿論、道中の魔物を先生があらかた殲滅していたことが大きな要因だろうが。あの先生によってやられた魔物全てが、今この瞬間に俺に襲ってきたらと思うと、心底ゾッとする。
それとこの剣がヌラヌラしていることも、俺と先輩を助ける意外な要因となっていたりもする。斬る瞬間に粘着性の高い粘液を生成。そして魔物を斬ると同時に、その粘液を放出。魔物の体中をヌラヌラさせることで、反撃を妨害することができるのである。しかも気持ちが悪いのかそれ以上追ってこない。まったく、ヌラヌラは最高だな!
因みに、薬にもなるので斬った魔物の傷も時間が経てば癒えるだろう。なんて平和的なんだろうか。世界中の武器がヌラヌラしていれば世界は平和になるだろうに。
「―――――……だ」
「え?」
ヌラヌラの有用性に感動していると、どうやら先輩が口を開く気になっていたらしい。聞き逃してしまった。気づけば肩に触れている先輩の体が固くなっているのを感じる。
「何か言いましたか?」
気になるが、足は止めない。優先順位を考えれば当然である。それに先輩に聞いたものの、俺はあの化け物の正体に関して、正直それほどの関心を寄せていなかった。気になりはするが、別に知らなくてもいい。……その程度。
あいつ等の正体が分かろうが分からなかろうが、俺にとってあいつ等は危険な存在で、今やることはその危険から逃げること。そのことに変わりはないのだから。
そんな思考回路になるほど、俺の頭のスイッチは大きく切り替わっていた。奇怪な存在が俺達を、正確には俺の運ぶ彼女の命を狙ってくるというのに。
命の危険に焦ることはなかった。俺にとっての危険の元凶である、先輩を捨て置く気にもならなかった。別に、勇気が溢れている訳じゃない。事実、俺は恐怖を感じて逃げている。それでも俺の頭は明白に最適な逃走経路を見つけ出していた。
きっとその理由は、信頼というとても簡単で難しい言葉で説明できるのだろう。
俺は、ミヤという人物を。その実力を信頼したのだ。あの人が後ろで足止めをしている。なら逃げる時間は十二分にある。そう思い、安心しているのだ。
「だから、アレは……」
先輩は俺が聞き逃した答えを改めて言おうとし、口ごもる。何やら勇気が出ないといった様子だが、イライラするから言わないなら言わないでハッキリしてほしい。というか俺が聞き逃しただけで一度は言えたのだから、躊躇う理由が分からない。
話をしようとすると、若干速度が落ちるのだ。ミヤ先生が足止めしてくれていることを考えたとしても、それもいつまでもつか分からない。先生は俺より遥かに逃走という行為に秀でているから命の心配はしていないが、先生が逃げ始めたら化け物が探すのは俺たち。正確には、グリージャー先輩だ。
弱い俺があの化け物共から安全に逃げ切るためには、先生の作り出したこの時間――――――……一秒たりとも、無駄にしないッ!
「もったいぶらずに、早く聞かせてくれよお嬢様? あの化け物共は何だ?」
そうそう、もったいぶっているとしか思えない。ケツの穴を見せるような話でもあるまいし。話すならハッキリと素早く。ほんと、先生の言う通りだ……。
……―――ん?
「にしても便利だなその財宝。師匠に譲る気はないか?」
―――あれ?
「…ミヤ先生」
「なんだ」
「何故僕と一緒に走ってるんですか?」
「それはな、逃げているからだ」
「あいつ等はどうなったんですか?」
「それはな、後ろを見た方が早いと思うぞ?」
『―――――――ッ!』
黒い化け物がそこにいました。
「ええええええええええええええええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
「うるせぇなぁ……あいつ等よりも煩いぞ」
綺麗なフォームで俺に並走するミヤ先生。いつも通り、不機嫌そうな顔で俺を睨んでいる。
「すみません……って、いやいや! 足止めは!?」
「ムリ。あいつら強すぎ。速攻で逃げてきた」
なにその爽やかな笑み!? 初めて見たんだけど!?
「俺の信頼を返せよ!」
「そんなもん肥溜めにでも捨て置け。覚えときな、生存の心得。一つ、無様でも命を守れ」
その通り! 納得しちゃったよ畜生め……ッ! ―――ああ、この人俺の師匠だわ。こんな人だったから弟子入りしたんだったわ……。
「あああ、追いつかれるぅ!」
後ろを見ると、先ほどよりも黒が近い。見える黒は一体のみで、更に安全な距離は確保できているものの、その距離は少しずつ縮んでいる。正直もう泣きそうだ。というか濡れてないか俺の頬。
「泣くな。どうにかするために、アレが何か聞いてるんだろうが。正体が分かれば解決法が見つかるかもしれないだろう? ―――ほら、話してくれよお嬢様」
先生は走りながら俺の方を見る。正確には俺の肩にいるグリージャー先輩を。
「やはり無理だったのですね。先生でも」
肩に担いでいる先輩が苦しそうに呟く。そしてその呟きを耳にした途端、急に体の体温が上がったような感覚になった。不思議と眉間に皺が寄った。もう見捨ててしまおうか。きっと、そうすれば助かるだろう。俺も先生も。
でも、俺はそれを実行しなかった。少しだけ、俺はそのことに驚いた。
「喋る気があるなら、早く話して下さい」
その代わりか俺の言葉に力は籠り、突き放すようだった。ビクリと先輩は震え、怯えるように口を開く。……何故だろう。両親の顔を思い出した。前の、両親だ。それも俺が小学生だった頃の、若い両親の顔。
先輩の様子が、叱られる前の子供のようだったからか。
「誘惑、だ」
思わず、足を止めた。
「私は、ドラゴンに、勝てなかったんだ―――」




