四十七話
乾いた風の音がした。どこかで嗅いだ甘い香りに交じって、毎日のように嗅いでいる気分の悪い臭いがした。
彼女は強かった。ずるをした俺よりも。異形の足を手に入れた俺よりも。遥か高見に存在していた。だから彼女は人間の男達を魅了した。そこにいるだけで、男達の瞳を攫っていった。彼女はあの場所で負けたけれど、それは彼女よりも強く美しい者がいたという、どうしようもない事実があっただけだった。けしてそれは彼女が強者であるという、少なくともドラゴンという存在を一度忘れたときに断定される真実を、曲げるものではなかった。
ただ。残酷なほどにダンジョンという場所は、空間は。彼女の瞳から炎を奪うのに適していた。俺の目に映るその姿を、情けなく、哀れに感じる姿に変えるのに適していた。
「は、は……。まさか、君が、いるなんて」
彼女は顔を隠すように俯き、恥じらうような小さな声を放ち、それでも寄り添うように少しずつ、俺の傍まで歩みだした、
とても惨めな姿だった。誰よりも惨めで無様な二度目の人生を送っている俺でも、そう感じるほどに彼女は弱弱しかった。左足を怪我したのか、引きずるように前に進む彼女。俺はただその姿を間抜けな顔で見ていた。
そして、なんとも長く感じた一分ほどの時間が過ぎた後。
彼女は情けなくも蹲った体制のままであった俺のところまで、あと一歩。そこまで近づき、ゆっくりと。俺に、彼女よりも圧倒的に醜く弱い俺に、縋るように倒れ掛かった。
「ちょッ! 先輩!?」
土と血液の香りがする、彼女の金の髪が俺の頬に当たった。掠れた小さな吐息が、俺の耳に当たった。胸に当たった柔らかい感覚が心地よくて、嫌になった。
「これも……、罰、なのか」
彼女の体が震えた。笑っているようだった。自分を嘲るように。
「―――はぁ。なんとも、情けない……」
抱きしめようかと考えた。でもそれは何故か違う気がして、宙をつかむように伸びていた腕は地面に向かってダラリと垂れた。硬い石に当たって、痛む。
「情けない…。情けない」
小雨のように、彼女は同じ言葉を繰り返した。雨が止む気配は、まったくと言ってよいほどなく。俺の肩を少しずつ、確実に、濡らしていった。
「あぁ、情けない」
手が痛む。何が俺の手を、強い力で握りしめていた。それは万力みたいに強い力で、骨が助けてほしいと悲鳴を上げたのだが、俺にはその声に答えることはできそうになかった。
―――だって、赤ん坊が親の手を握るような、弱い力だったんだ。助けてほしいと、悲鳴を上げていたんだ。
「情け、ない…ッ!」
俺は、俺には。その声に答えることは、できそうに、なかった。
「ハーン」
電気を当てられたように、体が激しく動いた。先輩の傷ついた体もつられて動いてしまい、思わず空いている左手を、先輩の背に回す。
「今日のお前の仕事は、そのお嬢さんを運ぶことだ。背負って……いや、引き摺ってでも良い。お嬢さんを運べ」
先生の言葉に怒りが沸いた。こんなにも傷ついた人間を、引き摺ってでも運ぶだなんて。正気ではない。俺は、本気で先生を睨んだ。正直、初めてかもしれない。こんな煮え立った感情を先生にぶつけるのは。
けれどもミヤ先生は、そんな俺の視線を受けて不適に笑う。なんとも愉快に笑っていて、俺はとても不快な気持ちになった。先生はその表情のまま、真っすぐに腕を伸ばすと人差し指で一点を示す。
「私の仕事は、あの化け物共の相手をすることだ」
その瞬間に気づいたのは、正気ではなかったのは俺だということ。示された空間。先輩が現れたその何でもない空間が突如不気味に歪み、そこから複数の何かが現れたということ。
『―――――――――――ッ!』
頭が割れたのかと思った。それほどの不協和音だった。自分が漏らしたはずの悲鳴すらも、俺の耳には入らない。聞こえていたとしてもそんなものを意識する余裕がないほどの、金属を擦り合わせたかのような異常音。とても、生物から発せられて良い音ではない。
いや、あいつらは生物なのだろうか。
「クソッ……。もう、来たのか―――」
例えるならば、ゴーレム。ドラゴンが娯楽で生み出した、動く罠。
ただそれは土や鉄などの鉱物で構成されていて、生命の力というものを感じない。そう授業で習った。あくまでも、動く罠なのだ。そういう道具。システムに過ぎない。
……だから、あいつらは違う。あいつらは生きている。正しくは、生きているように動いている。でも、それでも、生き物という言葉が当てはまるのか。当て嵌めてしまって、良いのか。
影のようだった。薄暗くて、掠れるように揺らめいていて、けれども確かにそこに存在してしまっている。体を覆う筋肉のような物体が不気味に脈動し、牙と爪が輝く。まるでそれは、戦うためではなく奪うために存在するよう。いや、恐らく。事実そうなのだろう。これは、こいつらは、道具なのだ。奪うための道具。奪うために存在する、二足歩行の化け物。
そう、化け物だ。生き物では決してない。生き物であってたまるか。
生きるという言葉は、生きるということは、こんな無様なものな訳がない。
「生存の心得。一つ、煩い奴が出てきたら耳栓しとけ」
また体が激しく動いた。再び思考が正気に戻る。……俺は、バカだ。一体何を、考えているのだろう。
頭を振った。頭に住み着いた余分なモノ達を振り払うように。それでも奥底に張り付いたモノは取り払うことはできず。握られた手を無理矢理振り払い、両の手で頬を打ったところでようやく頭がクリアになる。
「生存の心得。一つ、―――」
「……ヤバい危険が現れたら、なんも考えるな―――でしょう?」
ミヤ先生は不適に笑う。憎たらしくも、綺麗な笑顔だった。
「及第点だ。バカ弟子ッ!」
全身に力が籠った。何も、考える必要はないのだ。……あの化け物共が、何なのか。生きているのか生きていないのか。そんなことはどうだっていい。考えるよりも先に、やれることはある。
俺は立ち上がり、先輩の体を無理矢理持ち上げると肩に担いだ。丁度腹の部分が肩に当たる形だ。腹筋はしっかりあるはずなのに、柔らかい感覚が伝わってくる。そうなる前に先輩からの若干の抵抗はあったが、説得している暇はなかった。
次に太腿の途中から繋がる水晶のような義足に力を込め、地面をしっかりと踏んだ。そして先生の姿を一切視界に入れることはなく、次に行う行動の準備を完結させた。
「な、何を!?」
その行動とは、たった一つ。とてもシンプルで、俺に似合う惨めな行動。
「グリージャー先輩。涙を拭いて下さい」
突然肩に担がれたことに驚いた先輩に、俺は声を掛ける。
「……え?」
「冷たいです。風邪になったらどうするんですか。俺が」
肩がビチョビチョなんだよね。貴女に比べてそういった耐性が低いんだから、勘弁して下さい。これ以上濡れたら体冷えちゃうじゃん。
「―――すまん」
「……何ちょっと悲しそうにしているんですか。謝りませんよ」
か、悲しそうになんて―――。
そこまで耳に届いたところで、後ろで化け物共が動き出す気配がした。とりあえず先輩は無視しておこう。
「行きますよ、先輩!」
「だから何を!? そして無視をするな! それに先生が―――」
何だか言っているけれど、無視だ無視。先生が危ない? ……そんな訳がないだろうが。バカじゃないの? あの人は俺の自慢の師匠だ。俺よりも、遥かに上手いんだぜ?
「舌、噛まないで下さいね」
「だから無視をするなと……ッ! 質問に答えろッ!」
質問? なんだったけ? ―――ああ。何をするかって? 簡単じゃないか。もしかして、この人は俺よりもバカなんじゃないのか?
「生きるんですよ。惨めに、無様に……―――逃げて!」
右足で、地面を踏み抜く。前方に体は押し進められ、その拍子に左足を前へ。そのまま左足で前方の地面を蹴って、更に体を前に。次は、右足だ。
走る。その簡単で誰にでもできる動作を、より速く。後方の敵から逃れるために、より速く。俺の得意分野。先生から教わった生きる術。
「なっ、なら私を置いていけッ! 分かるだろう、あいつらはわひゃひを!?」
―――舌噛まないでって、言ったじゃないですか。
注意はしたんだから、俺は悪くないよね。
ともかくこの逃亡は、モールワイバーンに追われた時に比べると楽しい逃亡になりそうである。




