四十一話
「ああ、おはよう」
「―――おはよう、ございます」
本当に、人生って上手く行かない。
分かっている。そんなの分かりきっていることじゃないか。二回目なんだ、多少は学ぶさ。自分の思い通りに全てが進むわけない。人生には必ず失敗とか挫折とかがあって、だからこそ思っていたものよりも良い道に進むことが出来るようになる―――とか何とか自分に言い聞かせても、やるせねぇっ!
俺とグリージャー先輩との関係性は、他人から、挨拶をする程度の知り合いへと昇格してしまったのだ。これは小さい一歩だが、生理的に嫌われる瞳を持っていながら、更に相手に嫌われようとしながらの、この結果。別の意味で、大き過ぎる一歩と言ってもいい。
「何でアイツが、あの人と……?」
そんな声が俺に届く。嫉妬とかいう感情は籠ってはおらず、ただ只疑問から溢れたその言葉。誰だってそうなると思う。学園のアイドルが唐突に犬の糞に触れだしたような状況に出会って、驚愕しない奴はいない。そしてその殆どが、先輩のことを心配そうに見つめるもの当然だ。
何せ、彼女の様子は非常に普通だから。
登校途中、通学路ですれ違った知り合いに挨拶する程度の手軽さ。いや、実際その通りの状況。俺が普通の人間であったら彼らの視線には嫉妬が籠ったのかもしれないが、女性である彼女と挨拶を交わしたのは、世界で一番醜いとすら感じるはずの俺だ。嫉妬とかそういう感情が湧く前に、ギョッとするのも無理はない。彼女は一体どうしたのかと。
「うん、挨拶は大切だぞ。例え心が籠っていなくてもな」
「――――なんですか。もう嫌なんですよ、貴女の顔を見るのが……ッ!」
俺は全力で彼女を拒絶するものの、彼女の様子は変わらない。寧ろどこか楽しそうである。あれか、マゾか。マゾヒストなのか。気持ち悪い。
「ふふふ。こうも遠慮なく悪態を吐かれるのは、幼少の頃以来なくてな。少々、嬉しくなってしまったよ」
よし、分かった。何も言わない。言うものか。前世ならいざ知らず、この世界で自分から女性の好感度を上げるようなヘマはするものか。
というか前は同じように拒絶したらぶん殴られたのに、何で今は好感度が上がっているっぽいんだよ。あれか、情緒不安定なのか。気持ち悪い。
「いやはや。やはり友人というものは良い。これからも仲良くしよう、ハーン」
「ゆッ!?」
周りの人間がざわめく。朝食前の、殆どの生徒が食堂へ向かう道での出来事だ。俺達の様子も見ている者は多く、彼女のその言葉を聞いた者も、当然多い。つまりはそのざわめきもまた大きいということなのだが、俺にはそれを冷静に判断することは出来なかった。
「え、ゆって、え、ゆってッ!?」
「友人だ。私と君がな」
あ、血が引く音が聞こえる。
誰だ。五月蝿いぞ。カチカチカチカチと。
「な、何故そこまで絶望を体現したような顔をするんだ……」
俺は男女間の友人関係は存在しないと考える。だって、無理だろう。体は、多くの子孫を作るように機能しているのだから。この世界では、特に。
「ここ、殺さないで下さい」
蚊の鳴くような声で懇願すると、俺の真っ青な表情とは対照的にグリージャー先輩の頬は朱色に染まる。その反応が、更に恐怖を加速させた。
「だ、誰が知り合って間もない君に剣を向けるものか! わ、私はそんなに節操のない女ではないッ!!」
頭がクラクラする。急速に溜ったストレスから逃げようと、どうやら脳が意識を停止しようとし始めているらしい。しかしここで気絶しては冗談では済まない。恐らくこの気が良く面倒見の良い先輩は、俺の介抱をしてくれることだろう。そんな心の距離が縮みそうな行動など、起こさせて堪るものか。
「はぁ、はぁ、じゃあ一体、何が目的なんですか……ッ!」
俺の荒い息だけが聞こえたのか、周りの聴衆が俺が先輩にセクハラっぽいことをしていると判断し始めたようだが知ったことか。ああ、そうだよ。俺は変態だ。そう思っておけ。そして引くがいい。変態には、関わるなッ!
「……う、うんッ! ば、場所を移して話そうか」
大きな声を出したことが恥ずかしくなったのか、グリージャー先輩は態とらしく咳払いをしてから小さな声で提案を出す。俺はそんな彼女に最大限の警戒を続けながら、ゆっくりと頷いた。
甘い香りがする。プランの魔法が作り出したものと同じ、安らぐ香りだ。
公爵家のお嬢様である、アネスト・グリージャーが住む寮の部屋は非常に豪華であった。一応貴族な俺でも見た事もないような、豪華絢爛な品々が何十点も。正直居辛い空間の中で、その部屋に漂う香りだけが心落ち着く。
「プランの魔法は、私が一緒に考えて作り出した魔法なんだ。あの匂いも、私が大好きなこの香を元に作られているんだよ」
先輩は嬉しそうにそんな思い出を語る。その顔には微笑が浮かんでいて、はしゃいでいる子供のように純粋でありながら、妙に色っぽい。この部屋に来るまでに、少しばかり落ち着いた俺はそんな彼女を見て、ああ美人だなと素直に思う。同時にこんな人と恋人になったら、人生がどれ程華やかになることかと考える。
けれどもそれは、前世を引き摺っている俺のバカな思考。彼女に好きになられたら、どれ程人生が危険な代物になることか。学園最強クラスの彼女と、ドラゴンの財宝を手に入れたものの、基本スペックと戦闘技術が底辺な俺では実力に差が有り過ぎる。最悪、権力を酷使して行為を迫られることだって有り得るのだ。この人がそういうことをする人だとは思いたくないし、事実大丈夫なのだろうけれど、恋という感情は人に何をさせるか分からない。
「―――どうぞ」
艶やかな黒髪が視界に入る。気付けば、一人の女性が洗練された動きで紅茶を俺に差し出している。多分目の前に座っている彼女の従者なのだろう。ネットの部屋に行ったときも思ったが、こうやって客人として丁寧に扱われるのは非常になれないものがある。
「……何か、ご不満な点がございましたか?」
俺の様子を自分に不備があったのかと勘違いしたのか、従者の女性は俺に質問を投げかける。その表情は無表情で、口調も淡々としており、感情は読めない。
「いえ、何も。―――ただ、感情をもう少し表に出して頂けると助かります」
「―――それは失礼致しました。私、愛想が悪いことは自覚しているのですが……何分生来のものでして」
「いやいや、そういうことではなく。もっと、気持ち悪がって貰わないと」
「はい……?」
そう、そんな感じで。
「はははっ。ツキミヨのそんな顔を見るのは始めてだっ!」
何が楽しいのか、先輩は素直に俺を気持ち悪がる従者の女性を見て笑い声を上げた。そんな彼女の様子に、従者の女性は不満そうな顔を一瞬見せてから、表情筋を動かすのを止める。
「どうやら彼は、女性が苦手のようでな。気持ち悪がられたり、嫌われたりすることで、安心感を得ているらしい」
元の無表情へと戻った従者の女性に対し、俺の事を説明する先輩。
彼女の言うことは、大体当たっている。ただし、女性が苦手というよりも、この国の文化が苦手という理由だ。安心感は、手に入れているけれど。
「では何故、この部屋に...?」
「それは私が、彼の友人になったからだ。―――だろう?」
「違います」
グリージャー先輩の問いに答えるのに一秒も掛からない。
「説明をしてほしいと言っているんです。何故、僕に近づくのか。それ相応の、理由を聞かせてほしいと言っているんです」
じゃなきゃ、貴女と同じ部屋にいる何て、絶対にするものか。
「ふぅ、つれないな。仮にも公爵家のお嬢様で、かなり魅力的な私が友人になってほしいと言っているのに、どうしてそんな態度を取るのだ?」
「貴女はもう知っているでしょう。……というか、貴女自身が先程言ったではないですか。―――僕は、女性と仲良くなりたくないのです」
「ふふふ。その言い方では、流れている噂を信じそうになってしまうぞ?」
「下らない冗談を言うのは止めて頂いてよろしいですか? 早く、理由を」
「―――仕方ないなぁ」
心底残念そうに、彼女はようやく俺の聞きたいことの、答えを口にし始める。従者の女性が入れた紅茶を飲みながら、優雅にゆったりと。
「何、簡単なことだ。君を、守ろうと思ってな」
「僕を守る?」
――――――余計なお世話だ。
口に出そうになった、そんな言葉をグッと飲み込む。さすがに、それは不味い。まだ、話は途中なのだから。
「ああ。君は仮にも、ドラゴンの財宝を所有している人間だ。色々と、その力を利用しようとする輩はいることだろう。学園に流れている噂と、ガスパー家の長男と友人関係にあることで今は抑えられているようだが、これから確実に、君に近づく者は増える。断言しよう」
まぁ、正しい。何も言う言葉はない。噂によって俺を拒絶するムードが生まれ、自然と生徒達の中で俺は輪に入れないという決定がなされているのが現状だ。更にネットという大きな存在が俺を友人としているのも、俺に近づこうとする者がいないことの要因の一つ。
ネットの友人である俺を一度拒絶しておきながら、何食わぬ顔で近づこうとすれば、ネットの怒りを買う場合がある。更に集団の決定を拒否することになり、その人物は多くの敵を作ることになるだろう。それでは、リスクが大き過ぎる。
対して流れに身を任せておけば、ただ財宝という身に余る力を所有している醜い男一人を無視するだけで良いのだ。邪険にせず、いないものとすればネットは怒らない。ダッグ曰く、彼は俺と友人となってから、周りの人間にそういう対応をしてきたらしいのだ。
しかしながら。財宝というのは、色々な意味で、魅力的だ。
たとえ誘惑のない財宝だとしても、それは人の目を惹きつける。
俺はこの両足を布によってしっかりと隠しているが、何かの拍子に誰かの目に入ることは確実にあるだろう。更にこの剣は、例えヌラヌラしていても、視界の端に入れば目を奪われるほどの代物だ。
ほしい。そう思う人間は間違いなくいる。ドラゴンとの約束により、奪うことは出来ないものの、俺と仲良くなることによって譲り受ける。という方法によって手に入れようとする者は現れるかもしれない。実際、あまりこの話は広まっていないものの、ネットに財宝を譲ったという前例はあることだし。
「だから私と友人になって貰おうと思ってな。先程も言ったが、私は公爵家のお嬢様だ。ハッキリ言って、権力がある。そういった人物の友人になれば、へたな人間は―――沢山寄ってくるだろうが、へたな行動は起こされないぞ?」
それは結構、魅力的な提案だった。正直な話、俺はコネがほしい。将来安全で安定的な生活を送るためにも。鬱陶しい輩は、無視すればいいだけの話。別に俺は、出世したい訳ではないのだから。
「理由は、何ですか?」
「ん? だから、君を守るためにだな……」
「違うんですよ……ッ! 僕が聞きたいのは、どうしてそんなことを考えたか、その理由です」
なのに素直に頷かないのは、この答えを知りたいからだ。もしもその答えが、俺への純粋な厚意ならば―――。
「プランのため、だ」
胸の中で、スッと何かが落ち着くのを感じる。彼女の赤い瞳を見た。思えば、彼女と目を合わせるのは、この部屋に着いてから初めてのことかもしれない。
「大切な、幼馴染でね。彼が師と仰ぐ男が危うい立場に陥れば、優しい彼はきっと同じ場所に行くだろう。自分の危険なんて、考えもしないはずだ」
苦笑した彼女の表情は、前世で出会った友人の姉のようであった。友人のことを、恥ずかしそうに話すあの表情。顔立ちはまったくもって違うけれど、同じだ。
「ハーン。君が私に近づきたくないのは分かっている。しかし、私にも近づく理由はあるのだ。あの男のために、バカみたいな夢を追う男のために、私と友人になってくれないか?」
残念ながら、断る理由が見つからなかった。




