十九話
ダンジョンの、ぬかるんだ道を駆ける。
力強く足を踏み込むことが困難な道は、非常に走り辛い。しかしコツさえ掴めば多少はマシになる。
ネットには感謝せねばなるまい。別にアイツに教わったのはこういう場所での走り方ではないけれど。
現在俺には二つの幸運が訪れている訳だ。一つはネットに協力をして貰った、雨の中での訓練が生きていること。そしてもう一つが、俺を補食しようと向かって来ている魔物が鈍重であること。
現世から所有している馬鹿なゲーム脳がその魔物を分析すると、素早さを値を犠牲にして攻撃力と防御力を特化したことにより、生存競争を生き抜いて来た魔物であろう。
生きる上で絶対に必要なものが、栄養。
熾烈な生存競争が繰り広げられるダンジョンの深部において、どれだけ栄養を摂取出来るかが魔物にとっては重要になってくるだろう。
努力で肉体が成長するこの世界であるが、成長するためのエネルギーがないことには強くなることも無いはずだ。周囲を見る限り元気に植物は生えているが、肉食の魔物にとってそれは関係ない。
そんな中で目の前に弱そうな得物が現れる。
まぁ、食おうとするはずだろう。
現在行われている逃走劇は、あの魔法陣が発動した時点で決定されていた訳だ。形状的にはカバなのに肉食なのはツッコミを浴びせたい所ではあるが、異世界なんだからそれは仕方があるまい。
この場所は入り口から容易に辿り着くことが可能である、猿のような魔物が住む大樹が多く生えていた場所と同じ。広い空洞の中に定住を決めた魔物や魔虫などの生き物が生息し、一種の調和が生まれている。
ミヤ先生曰く、ドラゴンがダンジョンの中に時々作りだすというこの空間。仮にこういった場所の名前を『エリア』とすると、猿のいた場所が『林エリア』でこの場所は『湿地エリア』だろうか。
林エリアも大きかったが、この湿地エリアはそれ以上に広大だ。俺を追い続ける魔物から逃れるためにはこの場所から出るのが一番なのだろうが、果てが見えない。そして例え端に付いたとしても、それが行き止まりか出口かは分からない。一体、どうすればいいのだろう。
俺は弱い。だからこそ、危機察知能力は高い。
阿呆な俺は先程悲鳴を上げてしまった。
そしてこのエリアに生息する魔物は、後ろにいる魔物の他にも当然存在する。聴覚も高いであろう深部の魔物が、それを気付かなかったはずがない。どうやら後ろの魔物を警戒しているようであり、逃走劇には干渉して来ない。だが俺という獲物を諦めたようではなく、横取りを狙ってこちらをジッと見つめているのを感じる。
「グォォォォォォォン」
背後から、魔物の咆哮。重く低いその声は、聞いていると体が重くなる錯覚を覚える。
───いや。事実、体が重くなっている。
「なッ!?」
足の筋肉が体重を支えられなくなり、ぬかるんだ地面に膝を付く。
泥が跳ねて、頬にぶつかる。更に重くなっていく体が、泥の中に沈んで行くのを感じた。
科学的には理解不能。でもこの世界ならば、十分に有り得る当然の現象。
魔法。非常に稀だが、動物や虫であっても使用することがある力。
知性がなく知能が低ければ、その力自体を理解することが出来ない。そのため、魔法を操る個体は少ない。しかし肉体を強くすればその分だけ知能は高くなるだろうし、長く生きれば生きるほど少ない知能でも『何かある』程度に魔力の存在を知ることが出来る。
また長生きすれば、次第に『こんなことが出来れば良いのに』と強いイメージが生まれる。それが魔力と感応して、本能が魔力を動かし、魔法を扱うことが可能になる。
背後の魔物は、鈍重だ。獲物が今のように逃げれば、もっと遅くなればいいのに。と、考えるのは自然なのかもしれない。十分に有り得るのだ。ここは深部。それも、エリア。生存競争を繰り返した先の、生き易い場所。
親が出来ることは、自分も出来る。そう考えるのは、自然。出来ると思えば、親よりもその上達は速い。
よって魔物が魔法を使えるようになると、その子も両親のどちらかの魔法を使用出来るようになると考えて良い。そして魔法を使用出来る魔物は生存競争に勝ち残る可能性が圧倒的に高くなり、深部へと進む。深部まで辿り着いた魔物はそこで子を生し、子はまた子を育む。
つまりダンジョンに生息する魔物は、深部に進めば進むほど、魔法を使用出来る個体が増加する。
同時に、命を失う可能性も加速する。
だから、気を付けなければならなかった。
「─────グゥゥッ!」
体の中から、強制的に空気が抜ける音。同時に体が本来の重さを取り戻し、湿度の高い空中を飛ぶ。
原始的な攻撃。けれども、強烈な攻撃。
体当たり。その威力は、大きかった。
泥の中に転がる体。幸いなのは、落下の衝撃を泥がクッションになって抑えてくれたこと。
水分を一気に含み、大量の泥が付着した服は重い。これでも、新調したピッカピカの服なんだぜ?
注文通りに出来上がったこの服を受け取ったのが、前日。明日はこれを着て頑張っちゃうぞ。なんて、考えなければ良かった。やっぱり、それによって女子に嫌われるのを目論んだ罰だろうか。
「グォォォォォォォォン」
水と泥。そして魔法によって、先程よりも遥かに重くなった体を無理矢理起こす。立つのは無理。しかし、寝たままでいるのは、危険過ぎる。現在の状況においては、五十歩百歩かもしれないけれど。
体の状態を確認。内蔵が痛いけれど、骨は折れていない。
硬度を上げるのが俺の魔法。元々硬い骨だ。魔法によって更に硬度が上がっている今。早々傷つくことはないだろう。─────魔物が本気を出していないことを忘れれば、安心だ。
目の前のガバっぽい魔物以外に、俺の周囲で動く影。
とうとう横取りを企んでいる魔物共が動き出した。いや、魔物だけではない。右方の茂みからコチラを覗いているのは、カマキリのような魔虫。緑色の体を茂みに擬態して、俺を補食しようと様子を伺っている。近くの泥が蠢いているから、そこにも何かがいるだろう。恐らくだが、そいつは食べカス狙い。確認出来ないが、他にも沢山いるのは間違いない。
全てが俺を栄養にしようと狙っている。このままなら俺は、自然の礎になるだろう。
例え複数の命を所有してようとも、その分だけ殺されてしまえば関係ない。
『──────────ッ!』
音。
最初に目の前の魔物が動き出す。それが、開始の合図。
周囲の俺を狙っている生物全てが、動き出した。警告音をかき鳴らし、それを喰らうのは自分だと主張。音は混ざり合って、それぞれを判別するのは難しい。
「ひぃッ!」
その中で唯一聞き分けられた音は、悲鳴。
最も聞き慣れた、一人の男の声であった。
突然だが。
───────────────美しさは、強さだ。
強い者は、美しい。
強い者は、同種の異性を惹き付ける魅力に溢れている。
魅力とは、より強さの証。
魅力とは、強い生命力の証。
強い生命力を持つ者同士が繋がれば、子は強く、逞しく育つ。
この世界は、努力すればするほど。鍛えれば鍛えるほどに、『生物』として強くなれる。
外敵から身を守る力。丈夫な子供を生む力。異性を惹き付ける力。
それぞれ三つの力が、同時に上昇。
本来ならば、俺のように魅力が最底辺のまま肉体が強くなることなど有り得ない。
その逆も、また然り。
三つの力は、並んでいるのだ。
だから、強い者は美しい。
この世界に生きている全ての生物は、それを本能で知っている。
ならば。
同種を惹き付ける『魅力』を、他の種族はどう感じるのだろう。
美しさは、強さだ。
ならば。
『見ただけで、相手を惚れさせる』ような。
この『瞳』を、どう感じるのだろう。
ここには『人間の女』は存在しない。
そして、俺は命を失いそうになっている。
ならば。
俺が取るべき行動は、只一つ。
─────────俺は、『瞳』を開いた。