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2. 嫌い

ずいぶん遅くなってしまいました。申し訳ありません。

 結局、真樹ちゃんの腹痛はただの食あたりだと分かった。食いしん坊の真樹ちゃんらしい。

 わたしは鞄から楽譜を取り出して、音楽室に向かう。今日はパート練習の日だ。

 気が重い、なんて考えてしまう自分が憎らしい。最近ホルンを楽しめなくなってる気がしてならない。楽器を吹くのは楽しいのに、人に教えるのは大の苦手。だから真樹ちゃんにも回りくどい説明をしてしまって、迷惑をかけている。いっそ一年生の教育は後輩に任せたほうがよかったんじゃないか。

 ケースから楽器を取り出してかつぐと、わたしは出席表に丸をつけた。ホルンパートの皆はもう来ている。こぼれそうなため息をしまって、わたしはパート練習にでかけた。


「こんにちは」


 パート練習で使う教室に入ると、今まで楽器を吹いていた三人の後輩が一斉にわたしを見た。

 ――あれ……?

 いつもならこのタイミングで挨拶を返してくれるのに、ひよりちゃんと真樹ちゃんは俯いたままで、由香ちゃんは楽器を構えなおしている。

 嫌な予感がした。

 わたし、なにかしちゃかな……。


「明日は課題曲の合奏だよね。この前注意されたとこ、もう練習した?」

「…………」


 ひよりちゃんが申し訳なさそうに下を向く。その隣の真樹ちゃんは今にも泣きそうだった。由香ちゃんだけが、ひとりわたしの言葉を無視して自分の演奏を続ける。

 やっぱりわたし、なにかしちゃったんだ……。

 完全なる無視、だった。先輩にこんな態度をとるくらいだから、きっと、すごく大変なことをしてしまった。わたしは俯いて唇を噛む。すべては自分の至らなさが原因なのだ。


「ねえ、みんな……」

「先輩、課題曲を合わせたほうがいいんじゃないですか。あさっては合奏だし。それにホルンだけで合わせたことないですよね」


 由香ちゃんが一息に言った。わたしを睨みつけるように、こちらを見据えてくる。

 由香ちゃんはわたしなんかよりずっとしっかりしていた。入部したときからホルンも上手だったし、そして何より飲み込みが早い。


「じゃあ、やろっか。真樹ちゃんも吹けるところだけでいいから一緒にやろう」

「……はい……」


 ひよりちゃんがメトロノームをセッティングする。細かいところに気がつくのは、ひよりちゃんの長所だ。

 真樹ちゃんが不安そうに楽器を構える。それを見て由香ちゃんが、ちっと舌を鳴らした。わたしは驚いて彼女を見る

「先輩がそうやって甘やかすから、真樹ちゃんは全然上達しないんですよ」


 はっとして由香ちゃんを見ると、その目は鋭くわたしを睨みつけていた。真樹ちゃんがおろおろと立ち上がる。しかし由香ちゃんはそれを制して、わたしに歩み寄った。自分の楽器を置いて、身ひとつでわたしの前に立つ。


「優しい先輩を気取ってるのか知りませんけど、甘やかしたって本人のためにならないことくらい、先輩も分かってますよね? 先輩は引退するからいいけど、最終的に困るのは真樹ちゃんでしょ。それに真樹ちゃんを理由にわたしたちをほったらかしにするのも意味がわかんない。そんなの両方できない先輩が悪いのに、真樹ちゃんが悪いみたいに言うところも気にくわない。ひよりだって、この前先輩に楽譜見るの断られたって言ってました。わたしだって……。桜井先輩のいた頃に戻りたい。桜井先輩だったら、こんなことにはならなかった」


 こぶしを握って震わせる由香ちゃんに気圧されて、わたしは何も言えなかった。我に返った由香ちゃんが再び席に着いたときには、楽譜を持ったまま教室を飛び出していた。

 もう、なにもかも嫌だ……。

 優しい先輩なんて気取ってない。甘やかすつもりなんてない。ただ、言えないだけなんだ。厳しく言ったら嫌われてしまうんじゃないかって、そればっかり考えて。これが甘やかすってことなの?

 確かに、最終的に困るのは真樹ちゃんかもしれないけれど。ちっとも上達しない真樹ちゃんにだって、少しは非があるでしょう?

 ひよりちゃんももう二年生なんだから、楽譜くらい自分で読んでよ。どうしてそんなことまでわたしがお世話しなきゃいけないの。

 先輩ってなんなの?

 わたしは誰もいない階段にうずくまる。そのまま声をあげて泣いた。

 たった一年早く生まれたからって、すべてが優れているわけじゃない。たった一年の人生の差なのに、わたしは先輩で由香ちゃんたちは後輩なんだ。

 ふと、由香ちゃんの言葉を思い出す。


『桜井先輩だったら、こんなことにはならなかった』


 桜井先輩……。

 桜井先輩はわたしの一つ上の先輩で、ホルンパートだった。変な冗談でいつも皆を笑わせてくれて、励ましてくれた。先輩なのに話しやすくて、他のパートの後輩からも好かれていたっけ。ホルンも上手で、誰より聴く人の気持ちを考えて吹く人だった。わたしはそんな桜井先輩を、今でも尊敬している。

 桜井先輩。

 ……桜井先輩だったら、こんなときどうしただろう。

 先輩に会いたい、と強く思った。



 次の日も、また次の日も、わたしは我慢して部活に行った。正直、ここまで部活が嫌いになったのは初めてで、何度休もうと思ったか知れない。だけど、音楽から逃げることだけはしたくなかったのだ。

 パート練習ではみんな一言も口をきかなくなった。それぞれが、ひとりひとりで演奏する。同じ教室にいるのに、離れ孤島にいるように心細い。それが音色に出てしまったのか、合奏のときは松原先生にひどく注意されてしまった。


「真樹ちゃん、ここ八分音符だから、もうちょっと歯切れよくできる?」

「はいっ」


 真樹ちゃんの教育係はいつの間にか由香ちゃんに変わっていて、わたしはひとり、それを聞きながら、離れ孤島で練習する。

 由香ちゃんの厳しい物言いにも、真樹ちゃんは落ち込まずに一生懸命ついていった。わたしもああすればよかった、と今さら思ったところでどうにもならない。真樹ちゃんの性格を考えても、厳しくして落ち込むような子ではないのに。分かっていたはずなのに、保身に走ってしまった自分が憎い。

 ひよりちゃんは、いつもわたしと由香ちゃんたちの間で練習していた。わたしが教室を飛び出してしまった日、ひよりちゃんはわざわざメールをくれたのだ。無視してごめんなさい、と。

 ならばどうして無視したのか。謝るくらいなら、最初からしなければいいのに。そう思ったけれど、またわたしのずるい心が邪魔をして、いいよ、と返してしまった。

 ひよりちゃんははっきり言わなかったけれど、メールの内容から察するに、無視は由香ちゃんの指示のようだった。それに真樹ちゃんもひよりちゃんも従っていたのだ。

 否、従っていたのではなく、自分の意思かもしれない。先輩として頼りないわたしに嫌気がさしたのなら、きっとそうだ。

 毎日を暗澹たる気持ちのまま一週間が過ぎようとしていたとき、わたしに天機が舞い降りた。



 一週間後、音楽室に行くと桜井先輩が遊びに来ていた。わたしの思いが通じた気がして、しぼんでいた心が少しふくらむ。


「やっぽー千紗ちゃん! 久しぶりー! どう、元気?」


 中央女子高校の制服に身を包んだ先輩は、相変わらずおちゃらけた調子で言った。制服が違うせいか少し大人びて見えたけど、よかった。中身は変わってない。


「先輩。お久しぶりです。会いたかった……」

「なに千紗ちゃん、そんなにあたしのこと好きなの? 想い人的な?」

「違います」


 ちぇ、と口を尖らせて、先輩はわたしの持っている楽譜を覗き込む。一気に真剣な表情になった先輩を尊敬の眼差しで見つめ、次の言葉を待つ。


「これ、課題曲だよね。マーチ。わたしも今高校でやってるんだ」

「そうなんですか……先輩、高校でも吹奏楽やってるんですね」

「まあね。惚れたからね、こいつに」


 そう言ってわたしのホルンを指差し、そっと触れた。

 桜井先輩は、本当にホルンが好きなんだな。

 うらやましいな、とわたしは眉を下げる。好きだからこそ、楽しいのに。嫌いになりたくないのに。今のわたしはどうだ、ホルンが嫌で嫌でしょうがない。こうなったのは、誰のせいだ。わたしのせいじゃないか――

 そんなわたしの心中を読んだかのように、桜井先輩は口を開いた。


「まあ、めっちゃ嫌いになることもあるけどさ。ほんと、ベル叩き割ってやろうかってくらい憎くなることもあるけど。最終的には惚れてるんだよねー。惚れたもん負け? みたいな?」


 そう言ってにっと笑った桜井先輩に、わたしは驚きを隠せない。


「先輩も、ホルンが嫌いになることあるんですか?」


 思わず身を乗り出してたずねたわたしに、一瞬きょとんとして、それから先輩は、ふと優しい表情になった。


「あるある。上手く吹けないときとかね、もう本当にムカついて、自分もホルンも嫌いになる。部活も行きたくなくなるし。でもそういうのって、誰が悪いわけでもないでしょ? 教え方が悪い先輩のせいでもないし、吹けないわたしのせいでもないし、まして楽器のせいなんかじゃ全然ない。悪いのは気分と寝つきだよ」


 最後の方は意味が分からなかったけど、でもわたしは十分心が洗われた。

 誰が悪いわけでもない。由香ちゃんもひよりちゃんも真樹ちゃんも、わたしも。

 ぎゅっとこぶしを握ったわたしを見て、桜井先輩は微笑んだ。


「よし、じゃあ帰るとするかー」

「えっ、先輩、寄ってかないんですか?」


 驚いて問うわたしをよそに、桜井先輩はさっさと帰り支度を始める。


「なんかおなか空いちゃってさ。腹が減っては楽器は吹けないでしょ? そういうわけで、じゃあね」


 わたしが呆然と見送る中、桜井先輩はあっという間に帰ってしまった。まるで嵐のようだ。

 楽譜と楽器を持ってパート練習の教室に向かいながら、わたしは考える。もしかして桜井先輩は、すべて知っていたんじゃないか、と。わたしが後輩との関係で悩んでいることも、ホルンが嫌いになりかけたことも、すべて知っていたんじゃないだろうか。人の気持ちに敏感な人なのだ。あの短い会話で、わたしのもやもやを感じ取ったのかもしれない。

 でも、もう大丈夫だ。先輩のおかげで、黒い雲は消え去った。なんてって悪いのは気分と寝つきだもの。


「こんにちは!」


 わたしは思い切って、明るく言ってみせた。



駆け足執筆だったため、少々展開が急かもしれません。後日改稿いたします。

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