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1 悩み

「はい、じゃあ次、Aの四小節目から全員で」

「はいっ」


先生の声に皆が大きく返事をする。指揮棒が上がると同時に、楽器を構える。この瞬間が、わたしは大好きだ。指揮棒が揺れる。皆が息を吸う。わたしも大きく息を吸い、マウスピースに口をつける。指揮棒が動いた。張り詰めた空気に、わっと多彩なハーモニーが充満した。





「お疲れさまでしたっ!」


今日も無事に部活が終わった。音楽室から出ると、すでに廊下は消灯されているのか真っ暗で、部長が帰宅を急かす声が静かな廊下に響いている。


「あの、竹下先輩……」


わたしが鞄に楽譜をしまっていると、同じホルンパートの後輩、ひよりちゃんが近づいてきた。


「ひよりちゃん。どうしたの?」

「ここ、リズムが分からなくて……。明日でいいので教えてもらえませんか?」


わたしは少し考えて、こう返事をした。


「ごめんね。わたし、忙しくて。由香ちゃんに教えてもらって」


由香ちゃんはひよりちゃんと同じ、ホルンの二年生だ。はっきり言って、由香ちゃんの方が、ひよりちゃんよりも少し上手い。


「はい……。お疲れさまでした」


しょぼん、と肩を落とすひよりちゃんに無理やり微笑んでみせて、わたしは帰りの準備を急ぐ。


ごめんね、ひよりちゃん……。

三年生になって、はや一ヶ月。新しく入ってきた一年生の指導に、コンクール曲の練習……はっきり言って、もうお手上げ状態だった。

しかもこのところ、まだ基礎のなっていない一年生ばかりに気を取られて、二年生の由香ちゃんやひよりちゃんの演奏は全く聴いてあげられていない。ホルンの三年生はわたし一人しかいないから、余計に手が回らないのも事実だ。

駄目だなぁ、と思いつつ、私自身どうしたらいいのか分からなかった。


今日も、咄嗟にひよりちゃんの申し出を断っちゃったし……。


ひよりちゃんは人見知りだから、きっと声をかけるのにもすごく勇気が要っただろう。それなのに私は、愛想笑いで誤魔化してしまった。さらに、関係のない由香ちゃんにまで迷惑をかけて……。

ああ、もう、また自己嫌悪。こんなんじゃ、先輩失格だよ……。





それでも、ホルンを吹いているときだけは、ちっぽけな自己嫌悪も忘れられた。それまで憂鬱だった気持ちも、マウスピースに口を付けて息を吹き込んだ瞬間、パッと消えてしまう。

特に最近は大好きな合奏中心の練習だ。パート練習で一年生を鍛えたあとは、すぐ楽器に慣れさせる。それが我が西中学校吹奏楽部顧問、松原先生の方針だった。


それに、西中の吹奏楽部は万年銀賞の弱小校。部員数は毎年50人弱で、コンクールは入ったばかりの一年生も含めた全員でAパートに出場している。だから一年生は他校のそれよりも早く楽器に慣れる必要があるのだ。


「じゃあ今言ったところに注意して、Cの五小節目から全員でもう一度」

「はいっ!」


西中の今年のコンクール課題曲は、マーチだ。マーチといえば、ホルンは八分休符と八分音符が連続する裏拍が中心だ。旋律はほとんどなくて、常に下からメロディを支えるポジションになる。

人によっては、つまらない、地味だという人もあるが、わたしはそうは思っていない。トロンボーンやクラリネットの軽快なメロディが弾んで聴こえるのは、裏でホルンやチューバやコントラバスが、それぞれリズムを刻んでいるからだ。


それに、と、わたしは思う。


裏拍にしろハーモニーにしろ、流れるような旋律に自分の発したリズムやハーモニーが重なるときには、言いようのない心地よさがあるのだ。


もともとわたしの性格が、専ら縁の下の力持ち的な立ち位置だからかもしれない。母にはよく、「千紗は里紗と違って自分の意見を言わないから心配よ」と言われるが、わたしはこの性格を全く苦にしていない。ちなみに里紗というのは、二つ下の妹だ。里紗もまた同じ吹奏楽部でフルートを担当している。楽器でも、わたしとは全く正反対の性格なのだ。



「ストップストップ。ここ旋律おかしいぞ。フルートとクラリネットだけでもう一回」

「はいっ」


松原先生の声に皆が楽器をおろす。ふう、少し休憩……なんて言ってられない。他のパートがやってるときも、気を抜けない。先生がするアドバイスは、全員に共通しているからだ。


例えば今やっているCの五小節目。フルートとクラリネットの流れるような旋律がメインの部分なのだが、実は同じような部分がハーモニーとしてホルンにもあったりする。楽器が変わると音色も変わる。吹く人が変わると、もっと変わる。でも、気をつけるところは一緒のはずだ。


それに、フルートには妹の里紗がいる。里紗、入部して二週間でどれだけ成長したんだろう。

わたしはそっと耳を澄ます。

クラリネットの堅い音色と、フルートのやわらかな音色が混ざり合って、耳に響く。こういう音色を、なんと表現したらいいのだろう。楽器の組み合わせが変わると、音色も変わる。もし、ホルンでこの旋律を吹いたら、どんな音色が生まれるんだろう。


そんなことをワクワクしながら考えているうちに、演奏は終わってしまった。ああ、里紗のフルート、聴き逃した。まあ、どれが里紗の音色かなんて、聴き分けられる自信はないんだけど。


それまで目を閉じて聴いていた松原先生が、目を開いた。これは今からアドバイスをするぞという合図。皆、楽譜にさしたシャープペンシルを急いで握る。


「音がバラバラだ。統一感がない。特にフルート。ファーストのピッチ、おかしいんじゃないか?」


言われて、フルートの愛花ちゃんが首をかしげる。三年生の彼女は、つい半年ほど前、ファーストになったことを喜んでいた。ということは、里紗はセカンドかな。


「もう一回チューニングし直してみろ。あ、セカンド、サードはよかったぞ」


おお、里紗、褒められてる。なんて、姉のわたしまで嬉しくなってしまう。

里紗も頑張ってるんだ。わたしも負けないように頑張らなきゃ……。


「……んぱい、先輩、竹下先輩」

「えっ?」


ハッとして横を見ると、二年生の由香ちゃんがわたしの制服の袖を引っ張って、なにやら必死に小声で訴えている。ぼーっとしていたのが情けない。


「どうしたの?」

「真樹ちゃんがお腹痛いって。さっきからずっと……」

「えっ!?」


驚いて見ると、一年生の真樹ちゃんが楽器を抱えて座ったまま、苦しそうに背中を丸めている。その背中を心配そうにひよりちゃんがさすっていた。


「真樹ちゃん、大丈夫?」


わたしが小声で言うと、真樹ちゃんは青ざめた顔で頷いた。

どうしよう、絶対、大丈夫じゃないって……。


「先輩、先生に言った方がいいんじゃないですか」


由香ちゃんが眉を潜めて言った。


「うん、わたしもそう思う。悪いけど、由香ちゃん、言ってきてくれる? わたしはひよりちゃんと、真樹ちゃんを保健室に連れて行くから」


わたしは楽器を置いて真樹ちゃんに近づいた。さっき気付いたときよりも、さらに血の気が引いている。

由香ちゃんも楽器を置いて立ち上がると、指揮台の先生のところまで報告しに行った。


「え……?」


そのとき、由香ちゃんが舌打ちをした気がしたのだけど、さっきの演奏の続きが再び始まっていたためよく分からなかった。


「先輩?」

「あっ、ごめん。行こっか」


気のせいかもしれないし……疑うのは由香ちゃんに悪いよね。なるべく考えないようにしよう……。


それからひよりちゃんとわたしで真樹ちゃんの両腕を担いで、端のドアから目立たないように音楽室を出た。




ーー音楽室のドアを閉めるとき、わたしが由香ちゃんに睨まれていたことなんて、このときは知る由もなかった。


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