その9
タイガーの恋する相手を知ってから一週間。
また今日も『宇宙人の集会』が開かれる予定が昨日の段階でヘルメットからメールが来ていたが、正直、気が重い。
タイガーは純粋にミリさんに恋をしているのに、ミリさんは仕事のお客さんとしか見ていない。
もちろん、それは間違いではないのだろう。
何十、何百というお客さんの相手を毎日していれば、同じようにミリさんの美貌に惹かれて、交際を迫るような人もいるだろう。
この一週間、仕事の間もずっとタイガーのことを考えていた。
ミリさんはよくないと、どう切り出せばいいのか……どうすればタイガーが傷つかないのか、わからない。
そもそも傷つかないで恋をするという考え自体が無理なのかな。
スーパーでのパートを終えて、家に帰ってきて、シャワーを浴びて、夕方までちょっと休憩を取っていると、携帯がバイブで震えた。
「もしもし?」
「あ、お姉さん。今日の夜、泊めてくれないかな?」
単刀直入に用件を切り出す電話の相手はニールだった。
「うん、いいよ。ニールも『宇宙人の集会』に来る?」
「未成年者はビアガーデンに入れないよ」
けらけら、明るく笑うニールの電話口の声はわたしの胸に、なにかが、ぐすり、と刺さった。わたしも未成年なんですよ、なんで毎度顔パスなんですかねぇ!
「八時頃、池袋に行く。近くに行ったら電話するね。で、明日カラオケ行こう!」
「うん……。ニール、わたしね、聞いて欲しいことがあるんだ。夜、よかった相談にのってね」
「恋話大歓迎だよ」
興奮気味のニールはいつも楽しそうでいいね。
「あ、あと! お姉さんのオムライス、ヘッドが絶賛してたから、あたしも食べてみたい! いいかな?」
「それは構わないけど……」
ヘルメットはわたしのオムライスの味をニールにどう伝えたのだろうか。
「お泊りってことは、まさか、また別れたの?」
「先週ね」
どうやらヘルメットを頼るようにってお願いした先週の段階ですでに、何人目かわからない新しい彼とは別れたらしく、またニールの付き合った男性の名前を最初から聞かされたら、わたしは頭がこんがらがりそうだ。
別れる速度もだけど、交際に至るまで好きになれる人と出会える確率が、ニールの周りではどのようにはじき出されて、そんな出会いを繰り返しているのだろうか。
「じゃ、夜ね」
電話を切り、身支度を整える。化粧なんて軽めでいいんだ。
わたし天道虫。夜の蝶にはなれないし、なるつもりもない。
「独創的でオリジナリティが随所に染み出ている、舌が痺れるほどの驚き――そう称しましたが?」
いつものようにわたしが最後にビアガーデンに到着すると、先週夏風邪で休んだ馬を弄るよりも先に、先週のタイガーの尾行のことよりも先に、ニールから聞かされたヘルメットに食べさせた先々週のオムライスのことを、ニールにどう言ったのか問い詰めた。
そしたら先の回答が来た。
「独創的もオリジナリティも同じじゃないの?」
「それだけ常軌を逸脱したすごさってことですよ」
「いやはや、わたしもご相伴に預かりたかったですね」
タイガーがいつもながらの優雅な微笑みを称えて、ビールジョッキを傾ける。
先週、わたしにとっては衝撃的なタイガーを取り巻く事実を知ってしまったわけなんだけれど、タイガーにとってはあれが当たり前で、ミリさんはお客さんであり、金づるでもある羽振りのいい社長さんを逃さないために、恋愛ごっこの演技をしている。
いつもながら、マスクを被って、汗を滴り流す笑顔のタイガーは、その恋愛ごっこを本物の恋愛と思って受け止め、愛に邁進している。
「そんなの食ったら腹壊すだろ」
毎度ありがとう。茶々を入れてくれる馬。
「弱いからそうなるんだよ。夏風邪ひいたり、夏バテじゃない?」
「……おまえはポジティブ過ぎだろ」
「あ、馬、久しぶり!」
馬はそっぽを向いて小声で「喧しいやつだ」と呟いたけど気にしない。
それでこそ馬だもんね。
「ヘルメットは先週ニール預かってくれてお疲れ。今日はうちで預かるね。この後、約束してるんだ」
「またですか……。あの子は本当に家に帰りませんね」
「ニールの家って実際どうなの? あんな小さな子が毎週末外泊なんて」
「ぼくからは強く言えないんで、もしよければあなたの方から、あの子を更生させてあげられませんかね?」
「ヘッドにはすごく懐いてるんだから、ヘッドから言ってあげればいいんじゃない?」
「懐いているというよりおもちゃにされていると言った方が……。あと、ヘッドはやめてください」
初めてニールと会ったとき、ヘルメットに案内されて池袋の西口公園で会ったニールは面白そうにヘルメットのヘルメットを叩いてヘルメットを困らせていた。
「でも、更生ってなにからなににすればいいのやら……」
恋人も好きな人も次に会うときには変わっていて、ニールに会う前にヘルメットに言われたのは、今どきの女の子ってことで、特異な立場にあるから踏み込むなって言われた気がする。
「ニールがなぜビニール傘をいつも持っているか聞ければ答えは見えるかもしれません。そういうのは、さすがにぼくから言うわけにはいきませんので」
「雨降ってないのに、いつも持ってるもんね。夏なんだからかわいい日傘とかにすればいいのに」
「それではニールではなくなってしまいますよ」
ビニール傘に意味があるのかな。
「あんまりメンバーを探るようなことをするなよ。紙袋」
「わかってますよ~」
んべ、と馬に舌を出してやる。
「あ、じゃあ、馬の好きな人ってどんな人? 人間?」
「おまえ……人が踏み込むなって言ってる傍から……そもそも、おれは馬を被っているが馬ではない。人間だ」
律儀にわたしのボケを拾ってくれる馬は実はいいやつなのかもしれない。二回に一回はメールを無視するけど。
「男と女どっち?」
「怒るぞ?」
あはは、と声に出してわたしは笑ってしまう。
「ごめん、馬、ちゃんと復活したね。それでこそ馬だ」
「おまえのテンションはよくわからない」
馬はそっぽを向いて足を組んで不満そうに人差し指で膝を叩いている。
「あ、そうそう。ちょっと面白い話があるんですが、みなさん聞いていただけますか?」
わたしの正面に座るタイガーが珍しくみんなに対して喋るので、わたしから体ごと顔を逸らしていた馬だけでなく、わたしの隣で相変わらず夜空を見上げていたヘルメットまでをも振り向かせた。当然、わたしも。
「紙袋さんはお気を悪くされるかもしれませんが、あくまでも事実なので脚色なしです」
タイガーの前振りでわたしは、その面白い話がなんであるかわかったよ。
「先週の『宇宙人の集会』のあとですね、わたし、新宿の飲み屋に行ったのですよ。そしたら、そこにですね、紙袋さんに似たすごく綺麗な女性がいたんです」
飲み屋というのはもちろんキャバクラであるのだけれど、キャバクラであることをヘルメットも馬も知っているのかもしれないが、わたしがいることを気遣ってくれているのかもしれない。そういう気の回し方がタイガーの優しくていいところ。
「ほう」「へえ」
わたしからあからさまに顔を逸らしていた馬も、ヘルメットも面白がってわたしの顔を見ている。
「でも、こんなのがいたら酒もまずくなるだろう」
くっく、と喉を鳴らして馬の被り物を前後させる馬。
たぶん、あの被り物の下で、人を見下した顔をしているに違いない。
「実はもう一つの人格とかあるんじゃないですか?」
なぜ二人とも、わたしであると確信しているのだろうか。
「あ、すまない。酒がまずくなる以前にこいつに似た綺麗な女性という言葉はこの世には存在しない。おっさんの間違えだ」
「……殴っていい?」
わたしは馬の鼻を、ぺしん、と叩いてやった。本物の馬が、鼻息を荒げるように、ぶるん、と前後上下に揺れる。怖い。
「まったく……。三人とも、酷いんだから。それじゃあ、普段のわたしはなんなのよ」
腕を組んで椅子にふんぞり返ってみると、
「乱暴な人?」「元気な子」「ふん」
ヘルメットは首を傾げ、タイガーは大人の笑顔で、馬に至っては鼻を鳴らした。
「わかったよ、あんたたち三人がわたしをどう見てるのか。やっぱタイガーだけだよ、優しいのは。ありがとう、タイガー」
「いえいえ」
「タイガーだけだよ、この中でいい男は」
「……いい女のいないところにいい男も来ない」
今日の馬はなかなか饒舌にわたしにケンカを売ってくるね。
「先週、夏風邪で休んで寂しかったの? 構ってほしいんでしょ?」
「ば、馬鹿なことを言うな。おれはここへは暇潰しと監視のために来てるんだ。おまえと遊んでいる暇など、一秒たりとも――」
「照れてる照れてる。まったく素直じゃないんだから~。仲間に入れてほしければそう言えばいいのに」
「いえ、それがですね、馬さんがここにいる主な理由は監視なんですよ。最初にここに入るときから、そうでしたよね?」
せっかく動揺した馬の攻め入る隙かと思ったんだけど、ヘルメットが冷静に、いつもの平坦な声で馬の言葉を確認するように尋ねる。
「そうだ。おまえたちが変なことをしないためにな。そして、みんなを旅立たせるため――この集まりが一日でも早く解散する日をおれは待っている」
『宇宙人の集会』を退会(?)するときは、恋を諦めたり、嫌になったり、面倒になったりしたら来なくてよさそうだけど(そもそも、そういう制約や規約のある集まりではない)解散するってことは、みんなの恋が成就することを願うって考えれば馬もいいやつに思えるのに。
「じゃあ、そのためには馬も恋を成就させなきゃね」
馬が一番プライベートも素顔も謎なんだから。
「そう簡単にできるものならしているさ。それに、一番問題なのは、ヘッドだろ」
馬もタイガーと同じように片思いの恋をしている――けれど、タイガーの恋の真実を知った今、恋に臆病になっているヘルメットは以前付き合い、振られてしまった女性を今も思い続けている。
「ちょっと失礼します。トイレへ」
タイガーが食事の席では余計な一言を呟いて、席を立った。
タイガーは席から離れがてら、マスクを外して、ズボンのお尻のポケットに突っ込んだ。
「……脱ぐんだ」
その後ろ姿が見えなくなるまで見届け、テーブルの方へと向くと、ヘルメットは空を見上げ、馬はノートパソコンを取り出していた。
自分の世界に入るのが速すぎる二人。――食事を前にしたタイガーも同じぐらい速い。
「ねえ、ちょっとタイガーのことで相談があるんだけど……」
わたしは先週の潜入調査のことをタイガーが戻ってくるまでの短い時間を利用して、端的に要点だけを掻い摘んで話した。
キャバクラで働く女性を好きになり、プレゼントを贈り、わたしは体験入店した、タイガーが好きな女性にその気はまったくないことも。
「……さっきの話、似た人じゃなくて本人だったんですね」
ヘルメットが素直に驚いているけれど、あのときは、わたしが一番驚いていたよ。
「で、おまえはどうしたいんだ?」
「え……?」
タイガーの恋は叶わぬものだと気付かせてあげたい。それが本音。
「それで、あのおっさんは幸せになれるのか? 今、その女に恋している気持ちはどうなる?」
「それは……でも、今のままじゃ!」
馬がわたしのお節介を制しようとするのはいつものことだけど、今日ばかりはなんか雰囲気が違う。
「おまえに『あの女はやめとけ』って言われて、『そうですか』と素直に恋心を諦め、捨てることはできるか? おっさんを自分に置き換えて考えてみろ」
「わたしの……」
わたしの好きな人、夏喜チーフ。
でも、デリカのチーフ、レミさんと付き合っているかもしれない。ううん、付き合っていなくても、すごく親しい関係にあるのは確か。
初めてその場面を目撃したとき、ニールにやめた方がいいと言われたけれど、わたしの中に不安な気持ちは僅かに燻っているけれど、好きという気持ちは薄れていない。
「できない。直接、聞かないと納得はできないし、諦められるほど適当に恋してない」
わたしは悔しくて――自分の浅はかな考えを善意としてタイガーに押し付けようとしていたことが悔しくて、それを馬に気付かされたことが一層悔しくて、テーブルの下で赤くなるまで拳を握った。
「同じことだ。おまえが、おっさんが告白をして振られるとわかっていても、おっさん自身が告白して実際に振られてみないと諦められないだろうし、キャバクラの女ってんなら、そういう店に足を運ぶってことは、そこに会いに行くことも好きでやってんだ。結果は報われないかもしれない。でも、未来はどうだ? このまま一年でも、二年でも通い続け、プレゼントをあげたりすれば、相手の気持ちも変わるかもしれないだろう」
未来は誰にも約束されないか……。
確かに、今はこんなに無愛想で冷たい馬が、突然優しくなったら好きになってしまう確率も、明日日本に隕石が激突するぐらいはあるかもしれない。
「他人からそんなことを言われたら、ムキになって覚悟もタイミングも考えずに告白して自爆してしまうかもしれない。だから、やめておけ」
「うん……」
「そもそも、相談されれば相談にはのるのがここのルールで、勝手に詮索していいルールなんてここにはない」
「ごめん」
本当に、馬の言うことは一理あるし、わたしが間違っていた。
「……わかったのなら、このことはもう忘れろ。――戻ってきた」
馬が馬の口を少しだけ上げた――わたしの背中の向こうを窺っていたのだろう。
「大丈夫ですよ。本人には聞かれていないのですから、そう気を落とさないでください。あなたの優しさは、ぼくも馬さんもよ~くわかりましたし、優しい虎さんはずっと前からあなたの優しさの虜です」
わたしの優しさにしか虜になっていないのは美貌や容姿を誇りたい女としては微妙なところだけど、この適当で、女心の掴みどころがいまいちなのがヘルメットだ。
「ありがとう、ヘッド」
「だから、ヘッドはですね――」
自分で携帯に登録してる癖に、呼ばれるのを嫌がるなんて、おかしなこと。
馬は馬で先ほど取り出したノートパソコンのキーボードを叩いている。
「きゃっ」
突然、背後から聞こえた女性の悲鳴にわたしは飛び跳ねるように振り向くと、こちらに戻ってくる途中、テーブルから立ち上がった女性とタイガーがぶつかってしまった様子。
「――あっ、す、すみません!」
タイガーが、ぺこぺこ、頭を下げている。
その様子にさすがにヘルメットも馬も興味を持ったようで、空を見上げる顔とパソコンを覗く顔をタイガーの方へと向けた。
「ちょっと、最低なんですけどぉー」
椅子に座っていた女性の両足が外へと向いていることから、立ち上がろうとしたところ、タイガーとぶつかってしまったのかな。
しかもこの夏の暑い時期にピンク色のスーツを着てストッキングを履いている……OLかな。
「何事でしょう?」
ヘルメットが声を潜めて、わたしの方へと顔を寄せてくる。ヘルメット越しに囁かれると顔を近づけられてもドキドキしないし、それどころか声が聞こえにくい。
「……たぶん、ぶつかったんだろう」
馬が耳を疑いたくなるような、誰の想像に違わぬ分析を偉そうな態度で口にした。
「それぐらいわかってるって」
「ぶつかって全身複雑骨折とかしていたら大問題です」
「カルシウム不足すぎでしょ!」
ぱしん、とヘルメットのヘルメット(おでこ辺り)を平手で叩いた。
「真面目に……ってか、謝りにいかないと」
「別にぶつかったぐらいだろ? おっさん一人で十分だろう。余計な人間が出て行って、事態を大きくしない方がいい」
「そうだよね……」
タイガーは『宇宙人の集会』の最年長者であり、一番常識を持ち合わせた人だからね、わたしのような小娘が出張って行ったり、ヘルメットのようなヘルメットが出て行ったらヘルメッットだし、馬はもうなんか馬で、余計に事態を大きくするのは確実だし。
「おい、また失礼なこと考えてただろ」
「そう思われたくないなら普段の行動に責任を持てるようにしてね」
背もたれに顔を半分隠すようにして、向こうを覗き見る。わたしは傍観者、当事者になってはいけない。
この『宇宙人の集会』は相談されれば助けるが、無駄に踏み込まない。それにこの件に関してはタイガー一人でどうにかできる……はず。
「スーツ、汚れちゃったんですけど、弁償してくれますよねぇ?」
ぶつかっただけではなく、ぶつかった拍子にお酒か料理でも零してしまってスーツを汚してしまった。それで怒った被害女性はクリーニング代の請求……弁償?
「ねえ、普通クリーニング代とかじゃないの?」
「ええ、ちょっとやりすぎですね」
ヘルメットもわたしと同じように向こうを観察しているのだけれど、表情を黒いヘルメットの中に隠すヘルメットは隠れる必要がなく、表情を読まれることも、視線がどこを見ているかも傍からはわからない。便利だ、ヘルメット。
今日のわたしは必要以上に、ヘルメットと連呼している気がする。
でも、タイガーを放っておけない。気の弱い、優しいタイガーのことだ。相手の言われるままに従っちゃいそうでハラハラ。
他の周りのテーブルの人たちも、ウエイターの人たちも騒動を傍観していて、只事じゃない様子。
「……行くなよ」
ぐっ、と背もたれを掴む手に力を込めて立ち上がろうとした瞬間、背後からの声と手によってわたしは身動きが出来なかった。
「だって――」
「喚くな。まだだ」
「なにが……?」
訝しげに見るわたしの視線を馬はかわして、向こうのタイガーへと視線をやった。
「現状、悪いのはおっさんだ。だが、あのアホそうにがなりたてる女を周りの客は嫌悪し、おっさんに同情の視線を向けている。ここでおまえが突っ込んでおっさんの肩を持ってみろ。周りの同情の視線はただのケンカごととして取られ、どういう形で終息するにせよ、最終的にはぶつかったおっさんが悪いことになる」
この馬の被り物の下の馬の、人間の目は世界をどう捉えているのだろうか。
いつもいつも世界を斜めに見て、傍観しながらも、わたしの行動を御すように厳しくも、鋭い言葉を感情強く発する。
「おい、おっさん」
突然の鋭い声に、びくっ、とわたしもタイガーも震えるように飛び上がってしまった。
ちょうどわたしのところからは死角になって、女性の通路側に出した足しか見えないけれど、その向こう側にいた連れ――男性の声がタイガーに向けられ、タイガーもそちらを向いた。
「おれの女に恥をかかせてくれて、ただで済むと思うなよ?」
この声……。
「どうしました?」
わたしは背もたれに頭を当てて、向こう側からすっぽり顔を隠すように俯いた。
「財布を出して弁償する気なのはいい心構えだが、まずは詫びろよ。膝をついてよ!」
だって、この声――。
がたん、と大きな音をさせて、どこかで椅子がひっくり返った。
タイガーがぶつかった女性の相手の男性が自分の座っていた椅子を蹴ったみたい。
「おや、なかなかに怖い人ですね」
「場所が場所だけにそっち系か?」
恐る恐る、わたしは顔をあげて、向こうを探る――。
「やっぱり、春人だ……」
「はると、さん……? お知り合いですか?」
「みんなとここで出会った前の日に、別れを告げられた人」
ということは、タイガーに因縁をつけた女って、わたしと別れてすぐに付き合いだした、わたしと同期入社の女の人。確か、向こうはわたしみたいに高卒ではなくて大卒。
東京の大学出と、北海道の高校出――冷静に考えれば仲良くなれるわけはなかったんだ。
だってあの人、わたしのこと、たぶん嫌ってたし、見下してた。
同じ会社に同じ日に入って、わたしの同期でありながら人生の先輩。
でも、わたしの方が若くて、仕事の覚えが悪く、色々とみんなに迷惑をかけてしまったせいで、わたしは良くも悪くもみんなにかわいがられたけれど、あの人はそんなわたしを嫌悪していたことだろう。
「春人を奪った……?」
ぞわぞわ、と寒気が全身を駆け巡る。
「……おまえ、本当に男を見る目がないな」
タイガーを見て、恋は盲目って思ったし、夏喜チーフを好きになったときも、自分自身のことだけどそう思った。
でも、今、傍から見る春人はわたしの知る春人ではない。
わたしに微笑んでくれた春人はもっと優しい顔をして、穏やかな性格だった。
「ああいう風に、他人に対して平然と臆することなく凄むことができるってことは、あれが常のものなんだ。会社じゃどうだったか知らないが、おれたちがなにかを被るように、あいつは心に仮面を被って、『いいやつ』を演じていたんだろう」
たくさんの人がいる前で、他人に恥をかかせて、笑っている人間なんて最低だ。
「それこそ、おまえを落とすため――すぐに乗り換えたってんだから、若い女の体目当てとかも十分に考えられる」
ニールの経験をいくつも聞いて、そういう体目当ての男の人が多いことは最近知った。
わたしが望むような、映画や小説に出てくるような純愛なんて現実には存在しない。
「最低だ……サイテーだ……さいていだよ……」
ぎりり、と歯軋りをして、必死に目の中に溜まった涙が零れないように目に力を込める。
「馬さんの言うことは一つの可能性でしかありませんよ」
ヘルメットの白く、冷たい、男のくせに小さな手がわたしの肩に触れる。
「馬、ごめん。これはわたしのことだから、タイガー関係ないから」
椅子を蹴り飛ばして、わたしは今にも膝をつこうとするタイガーの元へと走った。
いつもなら後ろから馬のわたしを制する言葉が聞こえるのだけれど、このビアガーデンの喧騒の中――「いけ」――そう馬の声が聞こえた気がした。
わたしは駆けて、片膝をつくタイガーと、それを見下す春人の間に立ち――大きな春人を目の前で見上げる。
そう、こいつはこんなにも大きくて、鋭い目をしていた。
夏喜チーフのこと、春人に似てるって思ったこともあったけれど、夏喜チーフを知った今、比べてみればどこも似てない。背が高いってだけ。
「お、おま、なんでここに――」
「あんたなんて、最低だ!」
ソフトボールを投げるみたいに大きく振り被って、斜め上に振り上げるように、思いっきり右手を振り抜いた。
ばちん、って気持ちいい音はせず、わたしの手は春人の頬骨を叩いた。
でも、しっかりわたしの右手の平は大きな春人の左頬に届いた。
春人はよろめき、自分で引っくり返した椅子の足に蹴躓いてそのまま後ろに倒れた。
「なんで! なんで、こんな酷いことができるの!」
後ろからタイガーがわたしの名前を呼び、周りのざわめきは一層大きくなったけど、昂ったわたしの感情とかそういうのは、もう周りを気にさせてくれない。
「好きな人が出来たから別れろって言ったり、この人を人前で土下座させようとしたり、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
春人は舌打ちをしながら、テーブルに手をついて立ち上がろうとしている。
春人を見下ろせるチャンスなんて、今までなかった。
だからこそ、強く言える。見上げて叫ぶのは怖いけれど――、
「春人、あんた最低だよ!」
「ってーな……。おまえ、いい加減にしろよ。入社したとき、ずっと優しくして、目をかけてやったのに、なんだよあの態度に、いきなり仕事辞めやがってよ。あの責任、おれが取らされたんだぞ」
立ち上がるとやっぱり大きくて、わたしの知らない怖い顔をする春人。
「いや……」
逃げようと後ずさるわたしの手首を春人の左手が乱暴に掴む。
「いたっ」
「おまえはなんなんだ……。おれの人生を無茶苦茶にしてくれて、まさか、また会えるとは思わなかった」
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
春人が怖い顔でわたしを睨んで、必死に振りほどこうとするわたしの右手首を掴む左手に力を込める。右手首が千切れそうなぐらいに痛い。
「おれは、おまを許さない」
「きゃぁぁぁぁぁぁ」
わたしの手首を掴まえたまま、春人は大きな右手で拳を握り、わたしに向かって――咄嗟に目を瞑って、せめてもの抵抗をと顔を逸らす。
周りからも女性の悲鳴めいた声がスローモーションのように大きく聞こえる。
でも、春人の拳がわたしに届くことはなかったけれど、春人の拳はなにかを殴り、鈍い音をさせ、わたしの右手首は解放され、先ほどの春人のように力に押されて倒れてしまう。
「きゃっ」
「大丈夫ですか?」
タイガーの柔らかいお腹がクッションになってわたしはコンクリートの上に倒れずに済んだ。
顔を上げると――いつものユニクロとエドウィンの背中が見える。
被ったヘルメットを春人の拳にぶつけるように頭を前に出して。
「いってー」
ヘルメットがヘルメットで春人の拳を受けていた。
「ぼくたちの大切な方は傷つけさせません」
「な、なんでヘルメット……ってか、ふざけてんじゃ――」
今度はヘルメットに向かって振り抜かれた春人の拳をどこから現れたのか馬が簡単に捻り上げて、その場に引っくり返した。
目を瞬かせている間に、ぐるん、って大きな春人が柔道の受身みたいに転がった。
ひっくり返って、驚き顔のまま硬直する春人を見下ろすように、馬は悪そうに足を開いてしゃがみ、そして――被っていた馬の被り物を脱ぎ捨てた。
「……ふざけてんのはおまえだろ? 女に手をあげて恥ずかしいと思わないのか!」
今までと違ってはっきり聞こえる馬の鋭くも、心臓に悪い、怖い声。
でも、それはわたしにではなくて……わたしたちを傷つけようとした春人に向けられている。
「失せろ!」
わたしを含めた周りの人、みんなが竦むような怒鳴り声を馬が上げると、春人は立ち上がり、彼女の手を引いて立ち去ろうとする。
その背中に馬は、
「今度、おれたちに関わってみろ。ただじゃおかない」
そしてヘルメットは、
「許しませんよ」
最後にタイガーは、
「すみません」
三者三様……性格がそのまんま表れている。
この三人から逃げるようにビアガーデンを後にする春人の背中に、わたしは――。
「春人! わたし、もうあんたのこと好きでもなんでもないから、わたしにも、この人たちにも二度と関わらないで!」
足を止めた春人。
「さようなら」
春人に別れを告げられたときも、職場に辞表を出したときも、春人には言えなかった、過去を吹っ切る言葉。
もう、わたしは過去には縛られない。
あんたよりいい男、ここに三人もいるもん。




