その8
それからは適当に食事をしつつ、たまに談笑を交えた程度で、やはりこの『宇宙人の集会』は一緒にいてもそれぞれ自分のことをしている割合の方が大きい。
「馬さんがいないと時間の感覚が狂ってしまいますね」
携帯で時間を確認したタイガーにつられ、わたしも空を見上げていたヘルメットもそれぞれ携帯で時間を確認する。
これを好機とみて、わたしはニールにメールを送った。「今」と。
その直後、時間を確認していたヘルメットの携帯が着信を報せる光とバイブの震動を発する。
「もしもし?」
わたしたちに背を向けて電話に応じるヘルメットは当然ヘルメットを脱いだ。
もしかして、電話をかければ最初のうちからすぐにヘルメットのヘルメットを脱がすことができ、馬の被り物も脱がせることが可能なのではないか、と今さらながらに気がついて、今までの浅はかさを呪った。
「――ええ、わかりました。そういうことなら……すぐに行きます」
電話を切ったヘルメットは深くため息を吐いた。
「どうしたの?」
どうしたのか、わたしにはわかっているけれど、わたしのキャラならここで、深く詮索すべきだ。馬がいれば、ぐちぐち文句を言いそうだけど、今日いないし。
「ニールです……。彼氏とは別れてはいないそうなのですが、親とケンカをしてプチ家出をしてきて、昼にカラオケでお金を使ってしまって帰れないというので、迎えに行ってきます……」
重々しげな顔をしてため息を吐く。
付き合いの長いヘルメットにとって、ニールのこういう状況は「またか」と言いたくなるぐらいのことなんだろうね。
だからこそ、わたしはそれを利用させてもらったんだけど……細かな設定にわたしは口出ししていないから、プチ家出は本当かもしれない。
「すみません、今日はこれでお開きにさせていただいてよろしいですか?」
「うん、いいよ。ニールのところ行ってあげて。それにちょうど頃合じゃない?」
いつも八時過ぎには自然と解散の運びとなる『宇宙人の集会』であるので、わたしはこの時間を狙っていた。
この時間なら自然に解散できる――そう、今日、この場所からヘルメットを早急に立ち去らせるためにニールに一芝居打ってもらったのだ。
「そうですね。解散しましょうか。わたしも行くところがありますし」
タイガーはポテト残り一本すら許さないとでも言うかのように、紙の下に隠れた最後の一本まで目ざとく見つけて口へと運び、胃へと落とす。
「では、虎さん。本日はご馳走様でした。あなたも、その……今日は少ししか話せませんでしたがお疲れ様でした」
「うん、ニールのことよろしくね」
「はい」
ヘルメットはヘルメットの奥できっと微笑み、軽く会釈してテーブルから離れて行った。
「さて、じゃあ、わたしも……帰ろっかなぁ……」
わたしも立ち上がり、う~んと夜空に向かって腕を伸ばす。
未だテーブルについたままのタイガーを窺うと、タイガーは慌てて荷物をまとめた。
「わたしも出ます。どうぞ、紙袋さんは先に出ていてください。会計はわたしがしておきますから」
どうやらタイガーはマスクを外すのを見られたくないらしい。
最初にここで会ったときに、馬に「赤信号みんなで渡れば怖くない」と言われて、渋々紙袋を被ってみたけれど、あれはすごく恥ずかしいし、今まで平然と被っていた人間が突然それを脱ぐときほど間抜けな光景もないだろう。
それも、知り合いに見られるなんてすごくアホっぽい。
「じゃあ、わたしは気を利かせて先に帰るね。タイガー、ご馳走様」
「いいえ、また次回」
わたしは素直にテーブルから離れ屋上から店内へと逃げるようにして入り、出入り口付近で腰を屈めて物陰に身を潜ませた。
しばらくするとタイガーがレジで会計を済ませる姿が見える。
タイガーの素顔は知らなかったけれど、着ている背広やYシャツの胸ポケットにある金色のタイピンで、タイガーをタイガーと判別できた。
マスクの下の顔は、なんというか、想像に違わぬ、極普通の顔で、首がないとか、頭に角や触角が生えているとか、髪の毛がバーコードということもなく、普通のどこにでもいる小太りの優しそうなおじさんって感じ。
でも、レジでお釣りをもらうときとか、一々お礼を言ったりして礼儀正しい様は、実にタイガーらしく、その行動やハンドタオルで汗を拭う様はマスクを被っていてもいなくても一緒。
わたしがずっとタイガーに抱いていた、優しそうなおじさんってイメージがピッタリそのまま当てはまる人。ヘルメットの中身にはちょっと驚いたけど、顔の下半分を外気に晒していたタイガーの素顔には正直驚きはない。
タイガーが店内に戻ってきて、外へと出るために歩き出す。
わたしは来る前に百円ショップで買ってきたマスクとサングラスと三百円の英文字になんの意味があるのかわからない中国産のキャップを被って正体を隠す。
これではまるでコメディドラマに出てくるドジな探偵みたいだ。
それでも、わたしは姿と気配を週末の街の喧騒の中に、自らを溶け込ませて、人の多い駅へと向かう道中も、その後ろ姿を見失わないように追いかける。
山手線の乗り場、券売機に小銭を投入して切符を買う。
わたしも事前に仕入れていた情報――タイガーは『宇宙人の集会』のあと、必ずなのかはわからないけれど、少なくとも初めて会ったあの日は、このあと新宿に行くと口にしている。だから今日もその可能性は少なくない。
改札を通り新宿方面に向かう電車のホームへと走る。
週末の夜、人が多く、すぐにでも見失ってしまいそうだけれど、目的がどこであるかわかっている以上、限られた行動範囲の電車内で近づくのは探偵として二流だとかドラマで見たけれど……混雑に押し流されて、わたしはどうやらタイガーと同じ車両に乗ってしまった。
ドアの方へと顔を向け、窓に顔が映り込んで、車内のどこかにいるであろうタイガーに見つからないように、満員に程近い車両の中で俯く。背広からするタンスの中の匂いと、汗と、男の香水の匂いと、アルコールとタバコの匂い、色々なものがない交ぜになって吐きそうになるぐらい気持ち悪い。
東京には女性専用車両があるらしけど……わたしは狼の中に落とされた羊みたいに、無防備に普通車両の中にいる。
電車から吐き出されるように新宿駅に転がり出て、すぐに階段の在り処を探し、そちらとは逆の方へとわたしは身を隠し、タイガーが同じ車両の、同じドアから出てくるのを人ごみに紛れて見届ける。
「うん、わたしの勘は冴え渡る」
満員電車で疲弊したタイガーが清い酸素を欲するようにホームに出た途端、大きく上を見上げて深呼吸をした。
客が降り、ホームで待っていた人たちが乗りこみ、電車は風を起こして走り出す。
電車が完全に見えなくなり、ホームの混雑具合も多少改善された頃、タイガーは階段を目指して歩き出すので、一定の距離を保ったまま、ときには人の背中に隠れてタイガーを追う。
まさか、自分がこんなドラマの主人公みたいなことをするとは思わなかった。
見つかるとは思えないけれど、下手をしたら見失ってしまうという緊張感はなかなか。
駅を出て、これまたどこから湧いてきたのかわからない人が視界を満たす。
「おお、ここがお昼休みにウキウキウォッチングしてるところ……」
人ごみの向こうのタイガーを見失わないようにしながらも、お昼の生放送番組が行われるビルを物珍しげに見上げる。
正直に言おう……わたしは一人で駅まで戻れる気がしない。道がわからない。
駅の構内なら案内板があるからいいけれど、外に出ると駅が右か左かも人ごみでわからないし、新宿は色々な線路が乗り合わせているから、余計にわからない。
ネオン煌く、広場のようなところから、まだ煌々と明かりの灯る家電量販店を横目に、わたしは左に曲がった。
すると景色は一変して、人は少なくないのだが、アルタ前の通りを表とした場合、ここは裏というわけでもない横。
飲食店が、ぽつぽつと点在し、その少し離れたところにはゴミがまとめて詰まれていて、それを漁るホームレスと思わしき人がいて、目が合ったらちょっと怖い。
ちなみに、わたしの顔に合っていない大きなサングラスは百円のおもちゃなので、見た目は黒くなっていても透過性は結構ばっちり。
そこを突き当たりまで行くと、今度は右へと曲がった。
今度は途端に人の姿がほとんどなくなり、いるのはお高そうなスーツに金色に輝く反射光が目に痛い、これまたお高そうな腕時計をした、香水臭い茶髪や金髪の男の人たちが、まるで不良の一団のように四人から五人がグループになって横に広がって歩いている。
道路の端に避けてやり過ごし、なにやら派手な看板の掲げられ、これまた明るい電飾の灯る界隈へとやってきた。
「……ここって、噂に聞く新宿二丁目ってところ?」
テレビで人気を博し、すっかり世間からはそういう奇異の差別の目は薄れている、男の人なのに男の人が好きな人が集う場所。
そこらを見れば男の人がキャミソールワンピを着て、逞しい胸板を強調するように露出しながらタバコを吸っていたり、女性以上に濃く化粧をしていたり、わたしが東京の人ごみを初めて生で見て驚いたときよりも、今、驚いているかもしれない。
ここは別世界。
「って、見惚れてる場合じゃない……」
結構な距離タイガーをつかずはなれず追うと、繁華街からは大分離れ、隅っこの方へと来てしまった印象。わたしはここがどこだか本格的にわからない。
しかし、タイガーは迷うことなく一軒のお店の中に吸い込まれるように消えて行った。
店の看板を確かめるようなことも、道中にいた客引きにも反応せず、最初からそこが目的であったかのようにタイガーはそこへと消えた。
店内の様子は当然窺い知ることはできないけれど、ここはどうやら普通の女性が接客をするお店――刑事ドラマとかで出てくるのを見たことがあるキャバクラと呼ばれる場所。
「場末のスナックって言葉はよく聞くけど、繁華街外れのキャバクラ……」
奥まった通路の壁には、指名NO.1の指名手配のポスターみたいなのが貼ってあるけれど、黒目の中がキラキラ輝いていたり、目元が異様に強調されていたり、ギャルの人たちが好きなプリクラの盛り機能みたい。
こういう夜のお店で働く綺麗に着飾った女性たちのことを夜の蝶とか呼ぶけれど、そんな感じ。みんな茶髪や金髪で手の凝った髪型(ガム絡んだら絶対取れなさそう)に派手なドレスにメイクに、もうキラキラとしか表現できない。
「お客さん?」
背後からかけられた声に、圧倒されて口を開いたまま間抜け面でポスターを見ていたわたしの口から心臓が飛び出しそうになる。
わたしは我に返って、両手を挙げて降伏のポーズを取ってゆっくり振り返る。
いつしか、通路に貼られたキャバ嬢さんたちの写真を指名一位から順に見ていて、どんどん逃げ場のない奥へと来てしまっていた。
「……ストーカーとかじゃないよね?」
壁に貼られた写真の人がそのまま飛び出てきた――って表現したいんだけれど、写真はやっぱり加工されているせいか、本物と写真は女目線で見ると、別人とまではいかずとも、違うとはっきりとわかる。
けれど、この人……一位の人。
「すみません。えっと……」
今の格好を思い出して、キャップを脱いで、マスクとサングラスを取り素顔オープン。
最低限な化粧しかしないわたしに人様のことをとやかく言う権利はないんだけどね。
彼女たちが蝶であるのなら、わたしは天道虫とかそんなの。
「知り合いがここに入って行くのが見えたので、その……興味本位と言いますか。すみません!」
「なんで謝るの?」
優しく微笑んだ女性は写真の中で化粧やドレスで着飾るよりも魅力的に思えた。
「で、その知り合いを尾行してどうしたの?」
「えっと……」
知り合いって言っても顔は今日知り、名前も仕事も知らないので、詮索されたらボロしか出ない。それに、素顔のわたしたちを繋げる接点はなにもなく、ヘルメットがわたしのスーパーに来たときのように、プライベートな時間に遭遇しては他人の振りをされてしまうかもしれない。
スーパーはわたしのテリトリーだけど、ここは新宿のどこであるかもよくわからない、明らかな敵地であり、タイガーのテリトリー。孤立無援で地の利も活かせない。
わたしはいつもの作り笑顔で、目の前に立つ派手な蝶を見上げる。
「その人、お世話になった人だから、こっそり応援したいんです。でも、わたしがなにかしているのがばれたら、その人は優しいから、気を使っちゃって恩返しにならないんです。それどころか照れ屋だから、わたしが突然現れたら、好きな人の前で変なことしてしまうかもしれないんです。そしたら恩返しもなにもなくなっちゃうんです」
表情を悟られないように、勢いよく、スーパーでお客さんに迷惑をかけてしまったときに謝るときよりも素早く、そして深く頭を下げる。
「その人……すごくいい人なのね」
「はい! すごく優しくて、謙遜してばかりで、押しが弱いから損をしてそうな幸薄そうな人です……」
ごめん、タイガー。わたしはあなたをそう見ていました。
それでもタイガーは魅力的で、紳士な男性だと思う。絵本の中の足長おじさんはタイガーだって言われたら「やっぱりね」って言えるぐらいにいい人。
タイガーは気も利くし、あの人に愛される人はきっと幸せになれると思う。
「いいわ、悪い子じゃなさそうだしね。でも、どうする? お客さんとして中に入る? さすがに目立つと思うんだけど」
「そんなお金もないんで……出てくるのを待ちます」
一人で新宿駅まで戻るための道順などわかるわけがない。
でも、終電近くなるようなら八王子行きの電車がなくなっては困るので、出費は痛いが最悪タクシーだ。ここから自宅までは不可能でも、新宿駅ぐらいまでならなんとかなる。
元より、タイガーがいなければ新宿駅まで夜の新宿を一人で歩いて行く勇気はないし、女としてそこまで魅力的ではないと思いたい。
「じゃあ」
蝶のような女性は嬉しそうに手を打った。
「うちのお店に体験入店しない? とは言っても、うちもこんな繁華街の隅っこでお客さん少ないし、それでなくても最近は景気が悪くてお客さん少ないから、正式に雇うことはできないし、お給料も出せないけれど、わたしのポケットマネーからタクシー代ぐらいは出してあげる」
「え、でも……」
「でももなにも、こんな繁華街の隅っことはいえ、夜遅く、若い女の子が一人で外にいたら警察に補導はされなくても、酔っ払いさんとか、悪質なキャッチに絡まれちゃうよ」
それは想像するだけで怖い。
しかし、警察に補導されることはないって……この人から見ても、わたしは未成年には見えないんだね。ちょっとショック。
「それでも、わたしなんかが、そんな……」
「大丈夫。衣装も化粧品も体験入店する子用の予備がお店にあるから。わたしに任せて」
目の前の夜の蝶を見る――胸元が大きく開き、肩を全部出した、糸のように細い肩紐でしかラメ入りのワンピースドレスを支えるところがない。
「あの……わたしもそういうの着るんですか?」
「キャバクラだもん。男の人を喜ばせて、鼻の下を伸ばさせて、お酒を飲んでもらって、お金を落としてもらうのがお仕事」
男の人もそれをわかってこういう綺麗な女性が肌を大きく露出したお店にお酒を飲みに来るんだろうね。お酒を飲むだけならコンビニにビール売ってるし、居酒屋なんて最近はどんどん安いお店が増えている。
「さ、行きましょう。大丈夫、わたしの隣に座ってるだけでいいから、雨宿り気分で寄ってって」
板チョコレートのような金色の取っ手のついたドアが女性の手で押し開かれると、中は静かなジャズの流れる薄暗い店内で、目の前には居酒屋のレジのような会計があった。
「おかえり。って、その子は?」
「わたしの友達で、お店の雰囲気を知りたいからって体験入店。お給料はわたしのポケットマネーで出すから、体験入店用の衣装と化粧道具だけ借りるね」
会計の向こうで座っていた若い男性がわたしの姿を認めた瞬間、目を丸くしたけれど、夜の蝶の迷いのない偽りのわたしの自己紹介のおかげで、まったく疑われることなく、会計の裏のドアへと通された。
こういう融通が利くのは指名NO.1だからだろうか。
「というか、本当にわたし入っちゃったよ……」
会計裏の隠し部屋は高校の部室程度の広さ――わたしの部屋と同じぐらいあった。
壁際にテレビで見たメジャーリーガーの選手控え室みたいなロッカーが並んでいて、そこに、ここで働く女性のものと思われる私物があり、中央にはテーブルと丸いクッションソファーが点在している。そのテーブルの上はタバコがたっぷり押し込まれた灰皿に、ペットボトルとバスケットに入った様々なお菓子が散らかり放題。
高校の部室という表現はあながち間違えではないぐらいに汚い。――わたしは運動部ではないので、実際にはそれを体験も経験もしてはいないので通りがかりに横目で見ただけ。
「はい、服と下着脱いで」
鏡の前で夜の蝶は化粧品(家中の空瓶を集めても、ここに常備されている種類と量の方がわたしの家にあるのより多い)を探りながら、わたしに脱ぐようにって……。
「なんで、下着まで?」
「キャミ着るならワイヤーがないやつか、透明のやつにしなきゃ」
肩紐が細いドレスを着るのなら、ブラジャーの紐が肩にのっていたら不恰好を通り越して恥ずかしい。
「サイズは?」
衣装ケースの中にはドレスだけでなく、新品のブラジャーまでも大量に詰め込まれていて、わたしは申し訳ないやら恥ずかしいやら、今すぐに逃げ出したいやらの衝動に押し潰されそうになりながら、一つ、指差した。
ブラジャーを含めた服を全部脱ぎ、新品のブラジャーをつけて、豪奢なドレスを頭から被るようにして着替えた。自分の姿が映される鏡を自分で目を覆いたくなってしまう。
「そこ座って。髪を作るから」
髪を高く盛られ、ウィッグやらなんやらをつけられ、頭が軽くなったのか重くなったのかわからないぐらいに弄繰り回され、終わった姿を鏡で見れば、そこには別人がいた。
左上でぐちゃぐちゃっとパイナップルの葉のようにまとめられた髪。それに伴い、他の部分が地肌が見えそうなぐらい薄くなり、風通しがよくなってしまった印象。
「で、メイクのポイントは目よね。普段はこういう軽めなの?」
わたしの普段の軽いメイクを落として、惜しげもなく高そうなファンデーションなんかを塗りたくり、赤すぎる口紅やら、おっかなびっくりつけまつげをつけ、アイシャドウがありえない水色……。
最早、わたしという面影はここにはいない。
鎖骨と肩を大きく露出し、わたしの慎ましやかな胸を包むのはシルク生地のドレス、足を踏み出せば、カツカツ、音のするヒールに、宇宙に引っ張られるように天にのぼった髪に、ジェイソン以上に顔を隠した厚ぼったいメイク。
まったくの別人というほど面影がないわけではないけれど、女の子向けのアニメの主人公が変身したぐらいには別人。
「どう? こんなメイク初めてでしょ」
夜の蝶はわたしの肩に手を置いて、鏡に映るわたしと目を合わせる。
「はい……すごいです」
「これでお店に出られる。お客さん相手にはなにもしなくていいし、お客さんから一番遠い席にいればいいから、わたしと同じテーブルについてね」
「はい……」
ここまでしてもらって今さら言えないけれど、キャバクラってなにをするところ?
色々な形に配されたソファーと衝立の仕切りで区切られたテーブルがスペースを贅沢に使って赤い絨毯の上に点在している。
薄暗いシャンデリアの照明、ところどころで銀色のミラーボールが回り、ジャズの静かな音色が流れながらも、そこかしこから笑い声や話し声、アルコールやおつまみを注文する声、「乾杯」という掛け声が聞こえる。
わたしは手に持たされた持ち手のないハンドバッグの中身がなにかを知らないけれど、両手で大事に持つようにって渡された。これ、ミステリードラマなら仕込みナイフとかだよね。
「ミリさん、指名入ってまーす」
ウエイターに先導されて、ミリと呼ばれた指名NO.1の夜の蝶に続き、わたしはカルガモの子供のように歩き難い靴で柔らかい絨毯を踏みつけ、転ばないように追いかけるので精一杯。
俯くなとは言われていないけれど、変に視界が開けたらキョロキョロしてしまいそうなので、転ばないように薄暗い中、足元に注意を払って前を行く、モデル歩きのように右と左の足をクロスさせて優雅に歩く踵を追いかける。
「社長さん、お待たせいたしました」
ミリさんが店内の一番奥まったテーブル席で立ち止まり、姿勢を正してこれまた優雅に微笑む――わたしに言わせれば、わたしの作り笑顔の方がクオリティは高い。
とはいえ、その差をミリさんはメイクで誤魔化し、わたしは慣れないメイクで作り笑顔が崩壊する。
さすがにわたしも社長と呼ばれる男性を無視するわけにはいくまいと、その顔を――直視できなかった。
思いっきりタイガーがコの字型に並べられたソファーの中央、テーブル二つのちょうど真ん中に足を広げて座っている。
そこにはいつもの気弱なタイガーはおらず、社長と呼ばれただけあって威風堂々といった佇まいがテレビで見た成金社長と比べると一割程度の社長オーラを出して社長然としていた……。お金持ちのタイガー、やっぱり社長なんだ。
「あ、ミリさん! 待ってました。あれ? そちらの子は新人さん?」
「はい。わたしの友達で今日だけの体験入店――社会勉強なので、この子にもわたしたちの世界を目の前で見せてあげたいんです。いいですか?」
タイガーのテーブルにはタイガーを挟むように、同じような露出多めの格好をした女性が二人いて、それぞれにお酒を注いだりしていた。
そしてみんなわたしと同じような小さなポシェットのようなハンドバックを持っている。
「どうぞうどうぞ。ミリさんのお友達なら大歓迎だよ。名前は?」
名前……「紙袋です」とは当然言えないから、ここは普通に本名でもばれないのではないのだろうか。
わたしが口を開きかけた瞬間、
「センチです」
ミリさんの言葉に顔面からずっこけそうになったけど、せっかくのメイクと髪を崩せないので力いっぱい踏ん張った。
「あはは、ミリさんのお友達だからセンチさんですか。いいセンスですね」
タイガーがタイガーであるからこそ、わたしはセンチなんて単位の名前も笑ってすまされてしまう。
「源氏名だから、本名なんていらないから、気にしないで」
ミリさんに耳打ちされたわたしは一つ聞きたくなった。
ミリさんは漢字にできるミリさんなのか、単位のミリさんなのか。
「失礼します」
タイガーの隣に座っていた女性の一人がもう一人の方へと移動すると、ミリさんがわたしの腕を引いて席へと入る。
「失礼します」
わたしも緊張しながら――声でばれないかな?――タイガーから一番離れたミリさんの隣に座る。
果たして、キャバクラとはなにをするところなのか……この経験が後の人生にどれだけ役に立つのかわからないけれど、今はタイガーのことを探るためと思えばきっと。
「なにか食べますか?」
「そうですね。じゃあ、体験入店のセンチさんにフルーツの盛り合わせとお菓子、四人に好きなドリンクを。わたしはウイスキーをもらおうかな」
「はーい、ありがとうございます」
ミリさんが手をあげると、ウエイターの人がやってきて、注文を伝える。
こういうところはファミレスとかと変わらないけれど、ここで消費される飲食代は全部タイガー一人で持つんだよね。
それにこうして席に女の子を置くのもチャージ料ってお金がかかって……もしかして、わたしでもこうやってお金を稼げるのかな?
ミリさんがタイガーに「最近どうですか?」と聞いたりして、こういう場での日常会話をしていると、すぐにお酒が運ばれてくる。もちろん、わたしの前にもカクテルと思わしきものと銀色の器にぶつ切りにされたフルーツがてんこ盛り。
運ばれてきたフルーツなのか、それともカクテルの方なのか、すごく甘い匂いがする。
運ばれてきたボトルのウイスキーとピッチャーに入った水と大量の氷。それでわたしから一番遠い場所に座っている女性がテーブルの端の方でお酒を作っている。
すべての行動が「こんなのテレビで見たことある」って思えるぐらいに、ドラマで見た作られた世界ではない本物が目の前にある。
わたしたち女性の前には出来合いのカクテル、タイガーには女の子が作った水割りウイスキーで乾杯。
それからしばらく歓談というよりは、タイガーを気分よくさせるための、ミリさんが率先してタイガーの都合のいいこと、タイガーの功績を褒め称えるようなことをたくさん喋り、聞き、向こう側の二人は合いの手を入れるように「すごーい」などと賞賛する。
しかし、驚くのはこういう場所でのタイガーの自慢は自慢にはならないところ。
いつものビアガーデンで聞けば、どんなすごい契約を取って利益が何千万だって話になればただの自慢話で嫌気が差すかもしれないけれど、ここでは傍から聞けば自慢話もミリさんが聞きだすことで、タイガーの遠慮がちな功績にしかならない。
でも、実際には同じだけのすごさがあるのだから、喋り方、聞き方一つで羨む人、妬む人も出てくるかもしれない話も、単純にすごい話となるのは、引き出しの引き方が上手いからなのだろうか。
何十、もしかしたら何百と来るお客さんの一人一人をミリさんたち、キャバクラで働く女性はプライベートを把握している。
どんな仕事をしているのか、どんなものが好きなのかなど、男性が喜ぶ話題を巧みに振り、お客さんも気分を持ち上げられて、気持ちよく話せる。
タイガーにしてみれば、ここでは自分が中心の、女性たちが優しくしてくれる最高に気持ちのいい場所であり時間なんだろうね。
心なしか顔が赤くなっているのは、お酒のせいか、それとも――。
タイガーも一人の男の人。
綺麗な女性たちに囲まれてすごく楽しそうに笑って、幸せそうな顔でウイスキーを飲んでいる。
こういう時間をお金を出して買う――今まで詳しく知らなかったわたしには考えられなかった世界だけれど、よく知るタイガーの幸せそうな顔を見たら、なんだか納得できてしまうし、働く女性にしても、男性にそうやって喜んでもらえたら働き甲斐があるのかもしれない。
「あれ? 今日はタバコ、吸いませんか?」
ミリさんが思い出したようにタイガーに尋ねる。
「ええ、今は禁煙です。健康のため……これから仕事も忙しくなりますからね」
「体のためにはいいことですね。社長さんなんだから倒れたりしたら、社員のみなさんが大変ですもんね」
「ミリさん、あの……」
タイガーは足元に置いてあった紙袋の一つを持ち上げて、ミリさんに渡した。
「プレゼントです」
「わあ、ありがとう。いつもいつも。見てもいい?」
「えっと……ちょっとお恥ずかしいので、あとでにしてもらえますか?」
「うん。今度また同伴出勤してあげるね」
その紙袋の中身はきっと――ってわたしに下着をプレゼントするのはどうかと尋ねておきながら、もう準備していたのだから、わたしへのビアガーデンでの質問はただの最終確認みたいなものか。
しかし、あげたタイガーも照れ臭そうに顔を赤くし、もらったミリさんもまんざらではない様子。
あれ? もしかしなくても……タイガーが好きな二十八歳の女性って。
好意が伝わる相手――指名。
接客業――居酒屋ではなくキャバクラ。
下着をプレゼント――お店のホームページとかにスリーサイズ情報とかが出ている?
「なるほど……」
「なに?」
思わず漏らした言葉をミリさんに聞き拾われてしまったよう。
でも、タイガーの好きな人がこの人というのなら、どんな運命か偶然か知らないけれど、キャバクラの内部潜入できたことを含めて、これはチャンスなのではないだろうか。
「いえ、その……ちょっとお話があるんですけど、いいですか?」
「ええ。――すみません、ちょっと待っててくださいね」
ミリさんはタイガーにそう言って、わたしを連れ立ち、人気のない通路へとやってきた。
「どうしたの?」
声を潜められると、ジャズの音楽、他のお客さん、キャバ嬢の大きな声で簡単に掻き消されてしまいそうになる。
「えっと……すごく真面目な質問をしていいですか?」
「あ、もしかして応援したいって人見つけられなかった?」
わたしが応援したい人がタイガーって言っていいのかわからないので、伏せておこう。
だからここは、いつもの作り笑顔と馬にすぐにばれてしまううそを重ねて――、
「応援の方については、どうせ見守ることしかできないので、お店の中に入れただけで十分です。ありがとうございます。――それとは関係のないことなのですが」
ミリさんは不思議そうに首を傾げる。
「すごく検討違いなこととか、馬鹿なことを聞いているようでしたらごめんなさい。でも……知りたいんです。ミリさんは、あの社長さんを好きですか?」
ミリさんは目を丸くして驚いている。
わたしだってスーパーで接客業をする身だから、キャバクラの仕事を知らなくても、ある程度はわかるつもりである。
そこで働く人はお客さんに嫌われてはいけない。
スーパーの仕事でも、自分が間違ってなくても、お客さんに文句を言われたら、心になくても謝らなければいけない。心の中でいくら悪態を吐こうと、表情や態度に不機嫌を出していけないのは常識。
言葉は悪いが、媚を売るように好かれなければいけない。
「――わたしたちは特別なお客さんを作れないっていう決まりはないけれど、仕事に恋を持ち込む気はない。それにね、ここでは恋愛ごっこって言ったら言葉が悪いけど、恋をしているように錯覚させること、それこそがわたしたちの仕事なのよ。だから、あんまり夢見ちゃダメよ」
わかっていても、なにか文句を言ってやろうと開きかけた口からは言葉が出ず、金魚のように、口を、パクパク、させるだけで、言葉が見つからなかった。
常のわたしなら馬に御されても、ミリさんに突っかかっていっただろうけど……。
タイガーを味方する身、タイガーの純粋な恋心を知るわたしはタイガーのあの優しい思いや好意が、叶わぬものだと知ってしまい、心が挫けそうになった。
タイガーが目の前で振られたわけではないのに、この恋の結末を知ってしまったから。
「そんなの……酷い……」
精一杯、この場には決してそぐわぬ言葉――最悪の悪態のつもりで呟いたけれど、ミリさんは悲しそうに笑った。
「あなたには、この仕事向かないわね」
最初から仕事としてやる気なんて毛頭ない。
「ここでの優しさはね、例えるのなら募金を募っている子供に『募金してあげるわよ』って見下して、善意を振り撒くようなものなの。そうしなければ務まらない。相手を本気にさせても、自分が本気になったらダメなの……。わかってもらえないかもしれないけれど――もう、帰りなさい。ここはあなたのいる場所じゃないから」
店内を突っ切って、会計後ろの控え室に通された。
「メイクは落としていきなさい。必要ならメイク道具使って普段通りのメイクをしてもいいよ。あと、服は適当に置いておいて。下着はあげる。あと、これタクシー代」
惜しげもなく差し出される一万円札が、鏡台でメイクを落とすわたしの手元に置かれる。
「じゃあ、気をつけてね」
ミリさんはわたしの肩に触れて、静かに部屋の外へと出て行った。
タイガーに差し出された二万円は断れたけど、ミリさんからの一万円は拒めないのは、今の状況のせいか、タイガーの気持ちを知ってしまったせいか。
だって、ミリさんの稼いだお金って、タイガーみたいに彼女を好きになって指名した人が、彼女のために使ったお金なんだよ。
そんなの普通なら気が引けるけど、ミリさんの本音を知ったら拒むことはできない。
お金じゃ愛は買えないんだよ……。
わたしは目元から溢れ出そうになる涙を堪え、会計のところに座る男性に会釈して店の外へと出て、建物の細い道を通って道路へと出て、今さらながらに店の名前を見上げて確認する。
『Queen Bee』――女王蜂。
蜂蜜が使われたカクテルが名物みたいだけれど、わたしは当然一口も飲まず、グラスの中で氷が溶けて、味が薄まっていただろう。
店内に漂う蜂蜜の甘い匂いなんて、香水やタバコの匂いでほとんどわからなかった。
車の通りのあるところまで出ると、週末のせいかタクシーはすぐに見つかり、時間もまだ終電が出るまで時間があるせいか混雑もしておらず、見つけたタクシーに乗り込み京王線新宿駅まで運んでもらった。
車内では、ため息しか出なかった。




