その6
翌日、今日も今日とて夏喜チーフの元、仕事を徐々に覚え、一人でも少しずつ出来るようになり、自他共に認める成長が感じられた。
夏喜チーフとの進展も、心トキメク展開もなければ、プライベートな会話もないままに仕事が終わり、夏の日差しの中帰り着いて、すぐにシャワーを浴びた。
夕飯の買出しは夕方になってから。
昨日はタイガーにメールをして挫折したけれど、今日は馬。
「わたしの好きな人に好きな人がいるかも」
タイガーに送ったのと同じメールを送信。
しかし、三十分、一時間待っても返事が来ないので、もう一通。
「メール、届いた?」
すると、わたしの一時間を無駄にするかのような一言がすぐに返って来た。
「届いてはいる。見てもいる」
「じゃあ、返事してよ!」
「おれは相談にはのる、聞くだけだがなと言った。だから、ちゃんと読んでやった。返信するとまでは約束していない」
こいつはこいつで流暢に人を不快にさせることをペラペラ喋るもんだ。
馬の被り物の下の表情は見えない、このメールを打つ馬の素顔も見えない。
わたしは馬の顔を知らない。なのに、なぜかどんな顔をしているのか想像できてしまう。
すっごい、いやなやつだ。
「そういうのって社交辞令で、本当に相談されたらのるのが人間ってもんでしょ?」
わたしは大人になって、冷静に諭してみるも、
「めんどい」
メールの返信が、わたしが送信してから携帯を置くまでの間に届くぐらいに早いのが余計にむかつく。
「本当に面倒だと思っても、そういうのオブラートに包んでよ」
そう送ったら、即答が止まった。考えてるのかな?
その日、結局馬からのメールの返信はなかった……酷すぎっ!
わたしの相談相手は頼りない。
ニールに相談しようにも、土曜日に直接会って、見ているわけだし……。
それにニールは、夏喜チーフのことよくないって言った。
わたしが聞きたいのはニールの否定ではなく、励ましや応援、背中を押してくれる力強い言葉。
わたしはやっぱり、恋をしているんだ――。
金曜日は一般的に平日最後で、週末と称される。
ハウスクリーニングの会社なら土曜は仕事があったけど、日曜・祝日は休み。
今のスーパーはわたし自身は土日休みだけど、基本的に休みなしで営業している。
土日も関係なく働いている人には週末という言葉すら関係ないのかもしれないし、お客さんの多い接客業だと土日や祝日に休みを取って出かけるなんていうのは難しい。
「今日で研修は最後だ。最終確認の意味も込めて、今日は一人でやってみろ。周りの人たちにもすぐにヘルプにいけるようには言ってあるし、どうしようもないときは誰でもいいから頼れ。まだ未熟なんだから、頼ることは恥ずかしいことではない」
「はい」
いつものように出勤して、今日の勤務内容を夏喜チーフに教えられる。
ちなみに夏喜チーフも週休二日制なので、わたしの面倒を見れない日もあり、そういうときは店長が代役を務めてくれる。
開店してすぐにお客さんがレジに来ることはないが、わたしはずっと緊張していた。
隣のレジのおばちゃんは優しく微笑んでくれているけれど、いつもは夏喜チーフがいたこの場所に、一人きりで立っている。今にでも、「隣のレジをご利用ください」って立て札を立てたい。
胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸をしていると、商品棚の方に夏喜チーフの姿が見え、彼は口パクで「がんばれ」と言ってくれた。
わたしは手を振りたい衝動に駆られるも必死に押さえ、笑顔で微笑んだ。
いつもの作り笑顔百点の笑顔。
大きく深呼吸をし、両手で頬を持ち上げ、買い物カゴに目的のものだけを入れたお客さんに向かって、わたしは営業スマイルを向け、何度も教え込まれた、腹の底から声を出して、お客さんを気持ちよく迎える。
「いらっしゃいませ」
大丈夫、困ったらみんなが助けてくれる。
お昼を過ぎた頃――困ったことが起こった。
それはわたしにとっても、スーパーにとっても、お客さんにとっても。
近所の会社や工事現場などで働く人たちがお昼休みで弁当などを買いに来る、わたしの働く時間帯で一番混む時間がそろそろだと店内の時計で確認していると、入り口付近に人が集中していることに気付く。
タイムセールとかの予定はないので(あったらレジ打ちの値段とかが変わるので事前に連絡あるはず)、そういう特売とかではない。
「お客様、困ります」
夏喜チーフや店長の声が聞こえる。
それを聞いた隣のレジのおばちゃんが、
「やーね、強盗かしら」
暢気なのか緊張感なく、それが事実だったら、お金を預かるわたしたちはすごく怖くて、危ないことを平気で言っている。
深夜のコンビニではないのだから、白昼堂々強盗が来るとは考えにくい。
レジに手をつき、ぴょんぴょん跳ねてみる。
徐々に近づいてくる声と人ごみ、そして聞こえてくる女性客の悲鳴と思わしき声。
「ぼ、ぼくの方が困ります」
そして聞き慣れたくぐもった声が、わたしの耳に届いた。
「まさか……」
夏喜チーフと店長を含む、若い男性従業員に四肢を掴まれながらに暴れる、見慣れた姿が見えた。
黒いフルフェイスのヘルメットに、ユニクロにエドウィンという定番の組み合わせ。
そして、なぜか手には電卓を持っている。
「ヘルメット!」
わたしはレジを飛び出し、従業員の背後からヘルメットに声をかける。
無論、周りで聞いていた人たちは、ヘルメットを被った人間をヘルメットと呼ぶ、極当たり前のわたしの言動になど反応しない。
「えと、ヘッド!」って、これじゃあ、暴走族っぽくない?
そう思ったときにはすでに遅し。
みんながわたしを見て、ヘルメットの拘束を緩める。
「あの、それ……」
みんなの視線がわたしに集まる。
「その人、わたしの知り合いです……」
「あ、紙袋さん。ぼくはぼくじゃなくてですね、まったく知らない他人ですよ」
余計なことを言うヘルメットの頭を、ヘルメット越しに平手で叩いた。
「い、痛いですよ」
ユニクロの袖を引っ張って身を屈ませて、耳元に囁く。
「話合わせなさい。じゃなきゃ、あんた警察沙汰だよ」
「ですが、ぼくたちは他人の振り、見て見ぬ振りがルールで――」
「うるさい、黙れ」
ヘルメットの顎の部分に手を突っ込んで、思いっきり下に引っ張ると、ヘルメットは黙って、つんのめった。
ニールはニールで問題だし、タイガーはおおらかすぎだし、馬はもう馬だし、ヘルメットは一番馬鹿なんじゃないかなと、本気で思った。
「すみません、お騒がせしました。この人は、強盗とかそういうのじゃなくて、その」
ヘルメットがヘルメットを脱がない理由が思い浮かばない。
「宇宙人なんです」なんて真顔で言おうとしたら、月面着陸のアメリカ人の姿が思い浮かんだ。
人間は装備なしで宇宙で生きられないように、宇宙人も地球では装備なしでは生きられない――って、わたし、ヘルメットに毒されすぎだ。
「紙袋さん、困ってます?」
「あなたのそのヘルメットのせいでね」
隣のレジのおばちゃん以上に暢気なヘルメットの足を踏む。
頭がいくらガードされていようとも、それ以外は生身の人間と一緒。
「ここでは、ヘルメット着用ダメですか? でも、紙袋さんの前ですし」
ヘルメット着用の許されるスーパーなんて絶対にない。
コンビニだって強盗と思われるから、店内ではヘルメットを脱ぐのが常識。
「それと、わたしをその名前で呼ばないで。今のわたしはこっち側なの。ヘルメットだって、プライベートでは見て見ぬ振りをしろって――」
だから、ここで他人の振りをして、わたしの前に現れたの?
でも、わたしはここで働いているなんてヘルメットには教えてない。
「ねえ、ヘルメット」
ヘルメットの顎の部分に手を突っ込んで、わたしの顔の高さまで屈ませる。
「なにをしにきたか知らないけど、他のお客さんにも、わたしにも迷惑かけないで」
「すみません。これ、脱ぎますね」
「え、そんなことは――」
わたしの胸の中で二つの思いが錯綜する。
一つは、あれだけ嫌がってたのになんでわたしのためにっていう驚き。
一つは、隠され続けた顔を拝みたいという好奇心。
「これを脱がないと、あなたにご迷惑をおかけしてしまうみたいですので、あなたのためならぼくはすべてを脱いで、恥部すらも曝け出します」
そこは隠しておいて、って心の中で叫んでいながらも、ヘルメットに両手をかけて持ち上げようとするとヘルメットの顔が、どんななのか――ニールの話ではイケメン――穴が開きそうなほどに目力を込めて、見つめる。
それはなにもわたしだけでなく、周りの人たちも、こんな珍妙な行動を取るヘルメット男の素顔に興味津々。
ゆっくりと、わたしにはヘルメットを脱ぐというただの動作が、スローモーションに流れるように見える。
きつそうに頭に被された重たいヘルメットを持ち上げると、白い顎、頬と徐々に顔が外気に晒されていく。
固唾を呑んで見守る中、店内の明るい照明の下に現れたのは、色素の薄い栗色の髪に色白の肌、少年のような顔立ちをした、二枚目とはいえないが、決して三枚目でもない、派手か地味かと聞かれれば地味といえる、中性的な外国人のようにも見える顔が現れた。
この顔で宇宙を見上げるようにぼけっと空を見上げていれば絵になるかも知れず、見る人によってはイケメンなのかもしれない。
わたしの感性からすると、春人や夏喜チーフとは対極にあるようなか弱そうな男性。
「こんにちは」
いつもの一定のトーンの声での、はにかんだような笑顔をわたしに向けての挨拶に、なぜか心臓が飛び跳ねた。
「みなさん、ご迷惑おかけしました。ぼくが常識知らずなばかりに。申し訳ありません」
律儀に腰を折って丁寧に謝るヘルメットを見て、事を大事にしたくないのか、店長は困ったように笑って、「今度からお気をつけくださいね」と口頭注意に留まった。
屯していたお客さんが散り散りに散って行き、人だかりが解消される。
「あと二時間ちょっとでわたしの仕事終わるから、どこかで待ってて」
「はい。あなたが見えるところで観察させてもらいます」
「ストーカーか!」
「冗談ですよ。でも、外は暑いので、店内のフードコートの方で待たせてもらいます」
フードコートと言えど、アイスクリームとドーナツしかなく、イートインコーナーもすごく小規模。ほとんどがお持ち帰り用。
「ごめんね」
「いえ、待つのは慣れてますし、無為に過ごす時間ほど有意義なものはありません」
ヘルメットはヘルメットを脇に抱えて後ろ姿を向けて歩いていく様は、まるで宇宙船から降り立った宇宙飛行士にすら見える。ユニクロとエドウィンだけど。
映画の「アルマゲドン」とかでそんなシーンあったよね。一人じゃないけど。
あのBGMが頭の中で流れてしまう。
わたしは敬礼でもして見送るべき?
「レジに戻って仕事をしろ」
夏喜チーフに肩を掴まれ回れ右をしてレジの方へと早足でかける。
わたしのところ、一つが空いてしまっているせいで、その分のお客さんが他のレジに流れてしまっている。
「混んできたから俺も手伝うけど、来週からはちゃんとだな……いや、それよりも、変わった友達を持ってるんだな。――彼氏か?」
「ち、違いますよ!」
わたしたちは先週と同じように、一つのレジに入って、夏喜チーフ主導で手早く、バーコードを読み取り、わたしは袋を用意したり、トマトなんかの潰れやすいものを別に袋に入れたり手を動かし続けた。
お弁当だけのお客さんには聞く前から箸を用意。作業服の人には混んでいるときは聞かずに渡してもいいって。
手を動かしながら、なんでここにヘルメットが来たのか考えるも、あの気まぐれ宇宙人のことなんてわたしにわかるわけがない。
今はそれより、夏喜チーフの背中を見ながら夏喜チーフと一緒に楽しいお仕事。
午後三時、わたしはキリのよいところで、レジを閉めて最後の一人のお客さんの会計をする。
バーコードを通す、ピッ、という音が心地よく、値引きされたものをレジのキーボードで打ち直すのも大分慣れた。でも、まだ夏喜チーフや他のパートのおばちゃんたちみたいに、叩くような速さでボタン操作はできず、まだ若干戸惑いながら人差し指だけで押すという表現。
タイガーの携帯の打ち方と同じで、ちょっと情けない。
「お疲れ様でしたー」
店内からバックヤードへと戻り、着替える前に事務室に挨拶をする。
「おつかれー。一人でどうだ?」
「なんとか……他の人がいるから、どうにかなるかなって思います」
「まあ、誰だって一人じゃ生きられない。それが人生だ」
パソコン前でデスクワークをする夏喜チーフが真理を説いている。
「肉屋や八百屋みたいに品物の目利きはいらないし、パン屋やデリカみたいに作る必要もないし、特に小難しいことはない。レジさえ打てるようになればな。細かいメンテナンスの仕方なんかは追々教えるし……。まあ、お客様の商品を大切に扱うように」
「はい」
「あと……これは完全に仕事外のことなんだが、あれはなんだ?」
あれ、と言われて思い浮かぶのは、わたしにとっても、あれ、としか表現できないヘルメットのこと。
母からの電話で仕事を辞めたことを伏せ続けているように、ここでも上手い具合に――これからどれだけの期間一緒の職場で働くかわからない上司相手に、どんなうそを吐けば良いのか。
「友達……いえ、仲間です」
「なんだ? サークルかなにかか?」
大学には行っていないので、そういうのはない。というか、わたしの履歴書、夏喜チーフも見てるから、わたしが十八歳って知ってるはずなんだけど。ビアガーデンにも平気で入れてるし、大卒ぐらいに見えちゃうのかな、わたし。
「そんな感じです」
わたしはうそを吐いた。
こういうとき、わたしは作り笑顔百点満点が出るのかもしれない。
他人にうそを吐くとき、平気な顔をして嘯くとき、自分の本心を悟られたくないとき――でも、わたしだけじゃなくて、みんなそうだよね?
「さっきも聞いたが……彼氏なのか?」
「え?」
先ほど真っ向から否定した問い――耳を疑いたくなるような問いに、わたしは表情を強張らせる。
顔から血の気が引いていくような、いやなのにいやじゃなくて、いやじゃないのにいや。
彼氏と思われる、執拗に気にされるってことは夏喜チーフ、脈あり?
「い、いえ! 違います! あの人は、その仲間の一人で……ちょっと天然っていうか、地球の常識が欠落しているというか……前が見えていない人っていうか」
あれ? わたし、なにを言ってるんだろう。
「……前も足元も見ないで空ばかり見上げている変な人、です」
変な人なんだけど――ヘルメットの下の素顔も全然タイプじゃないんだけど――なんか気になる人。
助けられたから? 救われたから?
東京に友達のいないわたしは『宇宙人の集会』のメンバーを他人に説明する言葉を考えておらず、咄嗟にも出てこず、持ち合わせてもいない。
他人でもない、親友でもない、恋人では絶対にない。
でも、特別な人。
友情でも愛情でもないってことは、仲間で恩人。
こういうのって、実生活でどの程度、説明に役立つ言葉なのだろう。
漫画やゲームやファンタジーの世界では仲間って言葉は普通に出てくるし、納得できるし、当たり前のように意味も関係も理解できるけど、結局なに?
「そうか……。ただの他人ではないんだな」
「は、はい」
「引き止めて悪かったな、お疲れ様」
「……お疲れ様でした」
事務室をあとにし、更衣室で着替えて、もう一度事務室に顔を出して挨拶をするときには、すでに夏喜チーフはいなかった。
私服でバックヤードから店内へと通じるドアを通って最短距離で突っ切ることは許されないので、一度、ぐるっと細く、色々なダンボールが犇く裏を通って表へと出て、お客さんと一緒に店内に舞い戻り、ヘルメットがいるであろう小さなイートインコーナーへと足を運ぶ。
平日の昼過ぎという中途半端な時間のせいか、テーブル二つ、椅子八つの席にはヘルメットしかいなかった。
テーブルにカップを置いて、いつもと同じようにぼけっと窓の外の空を見上げている。
「いつもと違う……」
いつもは夜のビアガーデンの屋上。
夜ではなく昼間に見る――それもヘルメットを被っていない素顔のヘルメットを見るのは初めてで、太陽光を浴びて窓辺に座る姿は実に絵になる。
「お待たせ」
わたしが声をかけ、ヘルメットがこちらへとゆっくり首を向けて、わたしを視認した瞬間、大きな欠伸をした。
「おいおい、それはちょっと失礼でないかい?」
「すみません。昼時は眠くて、ついまどろんでしまうんです」
わたしは『宇宙人の集会』のメンバーのことをなにも知らない。
ヘルメットがどんな生活リズムで生きているのかもわからないけれど、バイクには絶対に乗るタイプの人間ではないし、色白で体毛の薄い細い腕、栗色の髪の毛に少年のような幼い顔つき。
どこか日本人離れしているように見えるのは、いつも遠くを見据え、なにを考えているかわからないせいだろうか。
「って、もしもーし。わたしと話しているのに、なんでぼけっと空を見てるのかなー?」
テーブルを叩いて抗議すると、ヘルメットは噤んでいた口を柔らかく緩ませた。
「紙袋さん、最初の頃とは印象が全然違いますね」
やんわり微笑んで、感情の起伏が乏しい、平坦な声音と口調で喋るヘルメットの声で、枕元で絵本でも読み聞かされたら、簡単に睡魔に苛まれて眠りに落ちてしまうのではないだろうか。
「……催眠術師だったりして」
ヘルメットの正体候補にリストアップしておこう。
「最初の頃はもっとこう……か弱いイメージでした」
「そう? わたしは、ヘルメットのこと最初は変な人だと思って……今もだ」
「ちょっと酷いです」
「あはは、ごめんごめん」
わたしは笑ってヘルメットの肩を叩く。
この人と話すのは面白い。
春人と話すのとも、夏喜チーフやこのスーパーの従業員の人たちと話すのとは全然違う、自分らしさ、素を曝け出して、取り繕うことなく話すことができる。
東京に出てきて出来た、知り合いなんて仕事関係の人たちしかいなかったから、プライベートのメールや電話なんて春人としかしなかったし――。
ヘルメットは仲間であり、友達であり、もっと特別な人なんだ。
わたしに勇気と元気をくれた、大切な人。
「でも、迷惑をかけてしまったのはぼくですので、お詫びの意味も込めてソフトクリームでも食べますか? 奢りますよ」
「いいの? わたし、ミックスいっちゃうよ?」
「……地味に三十円高いですね」
そう言いながら、まるでお年寄りが立ち上がるように、ゆっくり慎重にテーブルに手をつきながら立ち上がったヘルメットはソフトクリームの売り子さんにサンプルを指差して、ほとんどジェスチャーで希望を伝えている。
「話すより早いもんね」
「はい、お待たせしました」
わたしのミックス、ヘルメットのチョコ。
「ありがとう。ご馳走になります」
ぺろっ、と一口舐める。最初の一口はバニラ側、次はチョコ側、三口目で真ん中を舐めてミックスを味わう。
「東京で食べるソフトクリームもおいしいね」
「北海道のには敵いませんか?」
「うん、向こうの方が断然おいしい。乳製品といえば、北海道だよ」
「ぼくも、いつか北海道に行ってみたいですね」
「それって……」
このシチュエーションだと色々と考えてしまう、わたしの女としての脳。
「北海道の広大な大地に、ミステリーサークルを描けばUFO呼べるかもしれません」
もう、ずっこけるほどわたしはヘルメットに期待していないことに気付いた。
「広大な大地に見渡す限りの自然、無限に広がる青い空。いいですね、北海道」
たぶん、ヘルメットの求めるものは素直に自然じゃなくて、そこに変な思いを馳せるための場所でしかない。
「ところで、なんでわたしがここにいるって知ってるの?」
そんな質問、答えを聞かなくてもわかるんだけど確認のため。
「えっと……勘です」
「うそ。ニールでしょ?」
「いえ、これは本当に違います。彼女も『宇宙人の集会』の一員です。仲間のプライベートは絶対に他言しません」
うそを言っているようには思えない。
「でも……じゃあ、なんでここにいるの?」
「ニールはあれでも頑固でしてね、最寄り駅すら教えてくれず、京王線上の大体の方向しか教えてくれなかったので、昨日と今日の二日間、朝からずっと色々なスーパーを巡っていました。駅から徒歩三十分圏内のスーパー全部」
「なんで、そこまで?」
バニラとチョコの合わさったソフトクリームが染み込んで、しなっとなったコーンに噛り付く。ふにゃっ、としていてこれはこれでおいしい。
「それに関しては、ぼくから文句を言わせてもらいますよ」
ちょっと怒った風を演出しているけれど、素顔に迫力はないし、声のトーンもいつも通り一定。
「月曜日、虎さんが紙袋さんから相談されたと相談されました。火曜日、馬さんが紙袋さんに愚痴の捌け口にされたと愚痴の捌け口にされました。水曜日、ぼくは静かに携帯が鳴るのを待っていたら、ニールに恋人が出来たと連絡が来ました」
「三人とも、色々酷くない?」
タイガーはタイガーだし、馬は本当に馬だし、ニールはもう早すぎるし!
「それを言っちゃうヘルメットも酷いよ」
「いえ、これは告げ口ではなく、相談の相談の相談です。みんなでみんなの恋を応援するのが『宇宙人の集会』です」
食べ終わったコーンに巻いてあった紙をぐちゃぐちゃに手の中で丸める。
「なぜ、ぼくには相談してくれなかったのでしょう?」
「ちょっと頼りないかなって」
「ぼくに対する評価、酷くないですか?」
「最初は『年の功』のタイガーに頼ったんだけど頼りなくて、意表をついて馬に相談したら無視された挙句、話を途中で切られて、もう諦めた」
「どうせ、ぼくなんて頼りないですよ」
窓の外を見ながら、最後の一口のコーンを口の中に押し込むヘルメットの横顔は拗ねているようだった。
「ごめん。本当はね、好きな人がいる人の方が気持ちを汲んでくれるかなって思ったんだ。好きな人に好きな人がいるかもしれない気持ちってさ、考えたことない?」
今はヘルメット、恋をしていないかもしれないけれど、失恋をして過去に恋をしていたのなら、不安にそう思うこと、あってもおかしくない。
だって、わたしの場合、それに気付かずに、心構えもないまま、兆しも感じ取れないまま、突然別れを告げられた。その理由がわたしに不満があった、とかならまだ納得できたかもしれないけれど、好きな人ができた――だもんね。
そりゃ、付き合って三ヶ月でキスすらしていないのだから言えない不満とかがあるかもしれないってのはニールと出会って、ニールの恋愛感を聞いて、自分が奥手と呼ばれる存在だと自覚したぐらいには、ニールの出会ったその日にホテルに行くこともあるってことに耳を疑いたくなるほどには驚いた。
「ぼくは、そういうことばかり考えていたかもしれません。だから、振られちゃったんでしょうね」
自分の失恋話すらも感情をのせずに話すヘルメットの横顔から、わたしは感情を読み取れない。
「人の心は、ぼくにはわかりません」
ヘルメットを外して振り絞るように言ったその言葉だけは、どこか寂しさの感情がのっているように思えた。
夕方の買い物客が増える前に、わたしたちはスーパーの外へと出た。
「うわあ、暑いです……」
まだ高い位置にある太陽を、手でひさしを作りながら呟いたヘルメットは、迷うことなく脇に抱えていたヘルメットを被ろうとしていた。
「ちょっと待って。それを被る方が暑いと思うんだけど!」
脱北海道民をしてもうすぐ四ヶ月のわたしには東京の夏の暑さは地獄の窯のようにすら感じるけど、周りが項垂れないで必死に背筋を伸ばして生きているのだから、わたしだって負けられない。
「その点なら心配いりません。防熱使用です」
ヘルメットを裏返して見せてくれた――その中は保冷剤がビッシリと詰まっていた。
「これは……涼しい以前に顔を低温火傷とかしない?」
「さすがに冷凍庫から取り出してすぐだと皮膚に悪いので、水で濡らしてから少し常温に置いて設置しています。濡らすことで、冷たさの持続時間倍増です」
真夏にヘルメットを被っていても汗を掻かない理由がよーくわかったよ。
口元が大きく開いてる上に、後ろで紐なり留め具で固定していないぶかぶかに被っているタイガーは夜でも暑そうに汗をダラダラなのにね。
馬もヘルメットと同じようになにか小細工をしているのかもしれない。口の部分を開いてボタンをつけちゃうぐらいだし、耳に扇風機がついていても驚かない。
「やっぱ、まともなのはタイガーだけだ」
隣ではヘルメットがヘルメットをすっぽり被る。
「涼しい?」
「はい。でも、これは涼を取るためだけのものではないんですよ」
「どういうこと?」
「……ぼくにとって見えすぎる世界は毒ですから」
地球の大気が宇宙とは違って肌に合わないからってのと同じような感じかね。
わたしもよくまあ、ヘルメットのノリに付き合っているものだ。
「これからどうする? ここら辺は遊ぶような場所もないから、わたしの家に来る?」
「いいんですか?」
「な~んにもないけどね。あ、クーラーもないよ」
「……帰ります」
「なんでよ。実家にもクーラーなんてないから、いらないと思ったんだけど、東京の夏は暑くてばてそう」
いくらばててもクーラーなんて高価なもの買えるわけがない。せいぜいが、電気屋で限定五台とかで特売される扇風機を買おうかどうか迷う余地があるぐらい。
朝早くに並びに行く労力なんてどこにもないから扇風機すら、わたしの家にはないんだけどね。
「いいから、文句を言わずに寄っていきなさい。東京に友達いないから、まだわたしの部屋にはニールしか入ったことないの。田舎の人間はおもてなしするのが好きなのよ、たぶん」
わたしは人の少ない小さな集落のような町で生まれ育ち、隣近所みんな家族のように親しく、夕飯を一緒にすることなんて珍しくもなんともない。
だから、東京では隣の家に引越しの挨拶をしたときも、特段会話らしい会話もなく、友好関係も築けぬまま素っ気無く終わってしまって寂しかったのだ。
「でも、いいんですか? ぼくが彼氏さんより先に入ってしまって」
「……いいんじゃないかな。友達で仲間だし。でも、ヘルメットは脱いでよね」
なにもかもをも渋るヘルメットの手を引いて、わたしは徒歩二十分の家までの距離を早歩きで、真夏の炎天下の中、ヘルメットという荷物の手を引いて歩いた。
男の人の手なのに全然筋肉質ではなく、わたしより細いぐらい。それに冷たい。
この人、普段はなにをしている人なんだろう。
いつものようにコンビニに立ち寄る。
もちろん、店の外でヘルメットは脱がせた。だってレジにいるいつも見るアルバイトの若い男性が奇異の目で見ていたのだから、警報でも鳴らされかねない。
店内に入った途端、雑誌コーナーの方へと一瞥をくれてから、レジの前を横切り奥の弁当、飲料コーナーへと来たので、わたしはヘルメットのあとを追って、飲料コーナーでミネラルウォーターなんかをカゴに入れて、ヘルメットになにが欲しいのか聞いてみると、
「いえ、別に」
表情薄く首を振るのみ。
「ねえ、そうやって何事にも興味なさげに生きてて楽しい?」
「楽しいとか楽しくないとかはよくわかりません」
「じゃあ、好きな食べ物は?」
「……オムライスなんかが好きですね」
「子供っぽいね」
「前にも、そう言われたことがあります」
はにかむヘルメット。
「もしかして、前の彼女に作ってもらったとか?」
「ええ。彼女の得意料理でした。でも、レストランで出るような、ふわふわとか、とろとろとかではない、普通のです」
「じゃあ、作ってあげる。せっかく会いに来てくれたんだし、いつもタイガーにご馳走になってるしね」
「それなら虎さんに作ってあげるべきではないんですか?」
「なに? 不満なの?」
「いえ、不満はありませんが、不安は感じます」
そりゃ、わたしは料理なんてたま~に炒め物を作るぐらいだけど、オムライスぐらい頭の中で簡単にイメージできる。
わたしの脳内では綺麗な黄色い卵でコーティングされたオムライスがほくほくの湯気を立ち上らせて白い楕円の皿にのせられている。
赤いケチャップを伸ばすように中心にかけて、はい、出来上がり。
「よし、脳内イメージ完璧」
「あの、冷凍食品とかでもいいですよ」
冷凍食品の入ったケースを開けようとするヘルメットが余計なことをしないように手を掴んで、冷凍食品コーナーから連れ去る。
「たぶん、材料は家にあるから。――腐ってなきゃ」
野菜室とかこの数日開けた記憶がないけれど、わたしとて炒め物とかの簡単なのは、たまに作るのだ。インスタントラーメンを料理と言い切らないだけ、マシだと思うよ。
「あの、ぼく、納豆ご飯とかも好きですよ?」
不安顔で遠慮しているヘルメットの手を、これでもかと力を込めて握ってやる。
飲み物とお菓子とついでに清涼感のある梅のゼリーを二人分ずつ買って家へと帰る。
我が家にクーラーも扇風機もない。駅前で配られていた英会話教室の団扇が二本あるだけの、暑いお部屋に初めてわたしは男の人を招く。
「って、見ないで!」
部屋に入った瞬間、部屋の奥にある真正面のベランダに干してある下着が丸見えだった。
「見てませんよ」
ヘルメットは玄関にヘルメットを置いて、わたしが慌てて部屋の中の男の人には見せられない汚点を片付け隠す。
干されている下着、脱ぎ散らかした靴下、食べかけのお菓子の袋に今朝食べたシリアルの皿、開きっぱなしの雑誌に、置き場所がなく散らかり放題の化粧品。
そして溢れるゴミ箱に、収集日に出し損ねているゴミ袋。
ニールは全然気にしなかったみたいだし、女の一人暮らしなんてこんなもんであるのだけど、今日突然、男の人を部屋に招くなんて昨日のわたしも、今朝のわたしも、昼にヘルメットがスーパーにやってきて驚いたわたしも、どのわたしも想定していない。
「もう、ヘルメットでも被っててよ!」
「……無茶苦茶ですね」
ヘルメットは小さく笑って、玄関の方へと足を投げ出して、部屋に背を向けてくれているので、とりあえず目に付いて困るものを見えないところに隠した。
「ごめん、いいよ」
「はい、おじゃまします」
ヘルメットは病院から帰ってきた猫みたいに、部屋の中をキョロキョロ確認しながら部屋の奥へとやってきたので、動かないようにソファーに座らせた。
「テレビでも見てて。オムライス作るから――って、こんな時間だけど食べる?」
「昨日の夜に食べてから、今日はまだソフトクリームしか食べていないので、人体に害がなければ食べれると思います」
わたしの料理の腕(オムライス初挑戦)をなんだと思っているんだ。
「あ、ぼく、食が細いので、あまり量あると残してしまいますので……」
「うん、わかった。空腹のときに一気にたくさん食べると気持ち悪くなるもんね。どんなにおいしいものでも」
「おいしいのは確定ですか?」
「当たり前じゃん。脳内イメージ完璧!」
エプロンを纏っていると、背後でテレビの点く音が聞こえた。
チャンネルを回しているのも背中でわかる。
「なんか……ヘルメットが自分で動いているのって貴重かも」
わたしのところに来たのは仲間はずれにされたくないからなのかな。
髪を後ろで縛って、本気での料理(実は初めて)に気合を入れる。
冷蔵庫の中を確認すると、必要な食材は一通り揃っていた――野菜も腐ってなかった。
「って、先にチキンライスを作るんだから、ご飯炊かなきゃだ」
米をカップで測って、水道水で磨ぎ、炊飯器にセット。
ここまでの流れに無駄はない。ヘルメットにわたしがどう思われてるか知らないけれど、これぐらい手際よくやっていれば、「出来る女」の評価をもらえるんじゃないかな。
ヘルメットの柔和な笑みを期待して振り返ると、ソファーに体を預け、リモコンを持ったまま眠っていた。
「……なんで、寝てんのよ」
怒る気にもなれず、わたしはただ落胆した。
ご飯が炊けるまで、野菜の下拵えをするぐらいしかすることはないけれど、二人前、おかずのことなど考えない、オムライスだけの食事など、すぐに用意できる、たぶん。
窓から吹き込む夏の涼しい風が眠るヘルメットの栗色の髪を撫でるように揺らす。
「人形みたい……」
リモコンを握らせたまま、テレビの主電源を落とし、わたしは窓の外、ベランダの向こうに広がる、白い雲の浮かぶ青い空へと目をやった。
短命のセミが必死に存在を誇示するように鳴いている。
そうだ、風鈴を買って窓辺に飾ったら、小さく風が吹くだけで気分だけは涼しくなれるかもしれない。
「夏なのに恋人がいないって寂しい」
わたしの十八年の人生の中で、恋人がいた期間はたったの三ヶ月。恋人のいた夏なんて過去に一度もないけれどさ。一度でもいた経験があると、去年までは考えなかったことを考えるようにもなってしまう。
テーブルの上で腕を枕にして、ヘルメットの顔を観察する。
「なんなんだろう、この人」
わたしたちの出会いは本当に不思議な巡り合わせなのに、なぜかその相手がわたしの部屋で寝ているのだから、人生はよくわからない。
炊飯器の、ピーッ、という高い音でわたしは飛び跳ねるように起きる。
「……やば、寝ちゃってた……」
まだ空はオレンジ色にもなっていない、ちょっと日の陰り出した頃合。
頭が目覚めるまで、ぼけっと窓の外を眺めていると、
「おはようございます」
不意にかけられた声に、わたしの体は強張り、心臓が飛び出しそうなぐらいに驚いた。
「ヘルメット……」
電気もテレビも点けない、外から吹き込む夏の風がレースのカーテンを揺らす音と、炊き上がり保温になった炊飯器の出す音だけが部屋の中を満たす。
「寒くありませんでした? タオルケットなどでも探せればよかったのですが、女性の部屋を勝手に漁るわけにもいきませんでしたので、すみません」
「平気……ごめん。すぐ作るね」
慌てて立ち上がり、まな板の上で人参と玉ねぎとピーマンをみじん切りにし、鶏肉を切ってオリーブオイルで炒め、ご飯を入れてケチャップをぶちゅーっと。
赤いところと白いところがあったり、塊がそのままで上手く解れなかったり、黒く焦げたところもあるけれど……。
「よし、完璧」
「え!」
「どうせ卵で包むんだから平気。それより、ヘルメットは黙ってテレビでも見てて」
ずっとこちらを、ちらちら見ていたヘルメットを睨んで、黙らせる。
台所は女の戦場なんだし、料理の腕を他人にとやかく言われたくない。
こうしたい、っていう完璧なイメージが頭の中にできていても、それを実現できない自分が一番不甲斐なく思っているんだから。
小さな器に卵を二つ割って、なんとなく砂糖を少し入れて掻き混ぜ、熱したフライパンにマーガリンを溶かし、卵を流し込む。
なるべく薄くすればいいんだよね。
フライパンを傾けて卵を広げて、焼いていく。
「あの、焦げ臭くないですか?」
「気のせい!」
別のフライパンで炒めたチキンライスを卵の上に落として包む……固まっているせいか、上手く綺麗に丸まらない。
「よし、できた!」
「……あの、紙袋さんの格闘している背中とフライパンからする音と匂いと、紙袋さんの完成イメージが一切噛み合っていないと思うのですが」
「あ、それは換気扇を付け忘れてたからだよ」
ぽちっ、とボタンを押して換気扇を回して、黒い煙を吸わせて外に追い出す。
しどろもどろしているヘルメットに有無を言わさず、スプーンを持って、ソファーの前のテーブルに運ぶ。
「はい、お待ちどうさま。わたしの初めてのオムライス」
「……あ、ありがとうございます」
ケチャップを取りに戻り、やたら黒い部分の目立つ、包むというより溶接するかのように卵に焼き付けてしまったチキンライス。
その上にわたしはケチャップを絞る。
「サービスでハートにしてあげた。東京に来たら一度は行ってみたいと思ってたんだー。メイド喫茶」
「働く方ですか?」
「あんな可愛いフリフリ、わたしには似合わないから、お客さん。さ、どうぞ」
「い、いただきます」
ヘルメットがオムライスの真ん中にスプーンを落とす。
「どう?」
「まだ食べてません。覚悟を決めているところです」
「食べさせてあげようか?」
「全力で遠慮させていただきます」
初めての手作り料理を目の前で食べてもらうのは嬉しいやら楽しいやら。
ヘルメットがゆっくり口を開いてスプーンを運び、租借する様を黙って見届け、飲み込んだところで。
「おいしいでしょ?」
「……それは質問ではなく、決定事項なのですね」
薄ら笑いを浮かべながら、決しておいしくはないであろうわたしのオムライスを食べ進めてくれる。
「ありがとう」
小食だって言うヘルメットがオムライスを最後まで食べ切ってくれたのは涙が出るぐらい嬉しかった。
料理の勉強、今度真面目にしよう。
「ところで、タイガーと馬の恋愛は進展しているの?」
「いえ、どうでしょう」
大きな梅が丸ごと入った、冷蔵庫で冷やしておいた梅ゼリーを二人で食べる。
ソファーに客のヘルメットを座らせ、わたしは台所を背にしたヘルメットの斜め右で床に直座り。
春人とだって、部屋に二人きりというシチュエーションなんてなかったのだから、わたしにヘルメットに近づく度胸も勇気もない。
「把握してないの? 一応リーダーみたいなものでしょ」
「応援と相談はしますけど、直接口出しして、手を貸すようなことはしません。ぼくたちはみんなバラバラの仕事をしていますし、住んでる場所も、生活リズムもバラバラです。誰かのために自分の生活を犠牲にすることは難しいのではないでしょうか? 現に『宇宙人の集会』も毎週金曜日の夜に開かれることが主です」
そんなだから『宇宙人の集会』で一つのテーブルについても会話らしい会話がなく、そのまま無為に時間を過ごしているんじゃないかな。
お金持ちで見た目通りにたくさん食べる、たぶんあの会の最年長のタイガー。
馬の被り物同様に無表情でどこか冷たくも、我関せずを決めていたかと思うと、いつしか会話に割り込んでくる馬。
この二人は誰かに恋をしているらしい。
「二人の好きな人か……。ねえ、恋人とかが出来たら、この会は出なきゃいけないの?」
「いいえ、特にそういうわけではありません。付き合ってからも悩みや相談事というのはありますでしょうし、片思いを続ける人には相談相手にもなります。――というのは理想論で、恋人が出来たり結婚してしまった場合は報告には来てくれますが、その後はないですね。ニールのように、誰かと付き合って、別れたら戻ってくるというのはあります」
「じゃあ、現状はわたしを含めた五人ってこと?」
「……ニールは数に数えていいのかわかりませんけど」
「会の中での恋愛とかの制約は? 結婚相談所は会員と付き合っちゃいけないとかあるみたいだけど」
「それもありません。むしろ、会の中で好きな人が出来て付き合うようなカップルが出たら、ぼくがこうして作った会も報われるのかもしれません」
「報われる?」
「ニールからどの程度聞いているか知りませんが、ぼくは前に一人の女性と別れました。すごく好きで、大切な人。でも、その人はもうぼくの前には現れないでしょう」
スプーンをカップの中に落として、ヘルメットは癖のように窓の外を見る。
「恋は盲目って言いますけど、それによりどれだけの人が傷つくのか、あのときのぼくにはわかりませんでした」
「誰かを傷つけたの?」
「傷つけられ、傷つけてしまいました……。ぼくのしたことは決して許されないんです。ぼくには人の心がわかりません。だから、怒らせること、傷つけることでしか、ぼくのとった行動がどういう結果を招くかがわからなかったんです」
窓の外に思いを馳せるヘルメットの頬に涙の筋が伝った。
「すみません……。こういう話、するの……久しぶりで……オムライスで色々思い出してしまいました」
ヘルメットは掠れた声で、もう一度謝罪の言葉を呟いた。
それは声も存在感も弱く、今にも消えてしまいそうなぐらいに――。
「なんで、謝るの……?」
ヘルメットの立てた膝、そこに手を伸ばし、触れそうになってわたしは躊躇う。
触れたら、壊れてしまうのではないだろうか。
「人間は……わかりません。わかりあうことは、できないんです……」
「だから、宇宙人なの?」
「ええ……。ぼくも、あなたも、みんな……」
「……そう」
わたしは宇宙人の言語も思考も理解できないし、存在だって認めない。
でも、もし存在したとしても――英語すらまともに話せないわたしは、アメリカ人とだってコミュニケーションを取れないのだから、宇宙人なんて完全に圏外。
「世界は怖いんです……」
震え、大きな涙の粒を零すヘルメットの横顔を見て、わたしは躊躇った手を伸ばし、ヘルメットの頬に触れた。
男なのに、夏なのに、異常なほどに色白で、痩せこけた、髭すら生えていない頬は、氷のように冷たく、指に触れた瞳から零れた涙の粒は、温かかった。
「ぼくは、世界を……見たく、ないんです」
泣きながらこちらを向いたヘルメット――。
わたしはその華奢な体を抱きしめた。
春人にだって、したことも、させたこともない、アメリカ人なら日常的にするかもしれない、日本人には気恥ずかしいハグ。
「あんた……だから、ヘルメット被ったの?」
わたしの肩にヘルメットの顎がのる。
「泣くなら下を向くなって言ったのは、あんただよ……」
「はい……すみません……。少しだけ、このままでいさせてください」
レースのカーテンを揺らす、開け放った窓から吹き込む夏の風が熱を持った昼間のものから、涼しささえ感じる夜のものへと変わっていく。
わたしなんかの女の腕でも抱きしめられるヘルメットの体は見た目よりも華奢で小さくて……ひんやりと冷たかった。
この小さな体に、か細い体に、どれだけの過去を背負って生きて、あのヘルメットを被るまでに至ったのだろうか――今のわたしにはまだわからない。
でも、ヘルメットの心、少しだけ、開いた音がしたよ。
この日、わたしは一つの決意を今一度胸に誓った。
「ヘルメットも、タイガーも、馬も、ニールも、みんな幸せにする」
わたしの壊れかけた心を救ってくれた人たちと、わたしの東京での最初のお友達。




