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その2


 週末ということもあってか、混みあった電車で一時間ほど揺られて、わたしは自宅マンションのある地元まで戻り、駅から十五分の距離を、ダンボールを抱えなおしたり、足を止めたりしながら、己の体力のなさを嘆き、痛む腰を叩きながら薄暗い夜道をひたすら歩いた。

 玄関先にダンボールを置き、わたしはそのまま短い廊下に靴を履いたまま倒れた。

 タイルの床が冷たくて気持ちいい。

「はあ……」

 結局、宇宙人の真相はわからずじまい――って本気で気にするほどのことじゃないけど。

 重たい体を起こし、わたしは今一度外へと出た。

 マンションの下にあるコンビニで無料の求人誌を全種類カゴの中に突っ込み、冷蔵ケースの缶ビールに手を伸ばしかけてやめた。

 失恋をしたり、嫌なことがあったら酒に溺れるというが、溺れるほどに飲めない。

 ミネラルウォーターと牛乳と菓子パン数個と履歴書を見繕って会計を済ませた。

「はあ、無駄遣いできないなぁ……」

 コンビニ店員の覇気もやる気もない「ありがとうございました」を背中で聞いて、押し扉を開いて、クーラーで冷やされた涼しい店内から、むしむしとした、どこかで虫の鳴く店外へと飛び出した。

 袋の中からミネラルウォーターを取り出し、口の中のビール臭さを消し去るように流し込む。

「帰ってシャワー浴びて、明日写真撮って、履歴書書いて……」

 考えるだけで気が重くなるが、仕事を辞めたことには後悔していない。

 春人と彼女がいる職場――わたしのときも、春人は付き合っていることを公にしなかったから、隠して付き合うだろうけど、二人と顔を合わせるのは拷問めいたものがある。

 春人は今まで通り同僚として接してきて、新しい彼女はわたしとは社交辞令的な会話だけを交わす日々。

 彼女は春人がわたしと付き合っていたことを知っているのかは知らないが、わたしは春人と彼女が付き合っているのを知っているのだ。

 いつものような愛想のいい笑顔を向けられるわけもない。

 帰宅し、どうせ母ぐらいからしか電話のない携帯を充電器に繋いで、シャワーを浴びる。

 今日は週末の夜なので、気を使って電話をしてこないが、土日のどちらかには北海道の実家から電話が来るだろう。

 さて、わたしは仕事を辞めたことを素直には言えないので、どう誤魔化すか考えなければならず、それは新しい職場での面接よりも先にうそを吐かなければならなくなる。

 シャワーから出て、タンクトップと短パン、首にタオルを巻いて冷蔵庫からミネラルウォーターを出して喉を潤す。

 テレビを点けると楽しそうなバラエティ番組が流れている。

「しかしねぇ……。面白い人たちもいたもんだ」

 仕事や春人のことを考えていても気が滅入るだけだ。

 少しでも楽しいことをとなると、ヘルメット、タイガー、馬の三人になってしまう。

 テレビの中でお茶の間に笑いを振り撒く人たちよりも、あの三人を傍から見れば笑える。その見た目の奇抜さだけでなく、それぞれのキャラ(個性)が独特すぎて、嫌悪しようともできない。

 いや、わたしが本気で反発し、文句を言おうともヘルメットは空を見上げたまま曖昧に頷くだろうし、タイガーは背中を丸めて汗を掻きながら謝り、馬はそっぽを向いて投げやりな言葉を吐くだけだろう。

 実に面白い。

 同級生でもない、会社の先輩でもないのに、どうして他人に対しての配慮がここまで適当な三人が同じテーブルについているのか不思議でならない。

 わたしとヘルメットは失恋をし、タイガーと馬は現在進行形で恋愛中。

 世の中とは不思議なことばかりが起きる。

「これも異存なのかな……」

 ロマンチックなセリフを呟いたかと思えば、ぼけっと空を見上げるヘルメット。

 見た目も喋り方も優しい印象のお金持ちのおじさんはタイガー。

 ちょっとぶっきらぼうなのに、面倒見のいい馬。

 そこに紙袋のわたしが加わった――って、わたしだけ安っぽくない?

 今日の出会いは偶然で、運命的だったかもしれないけれど……現実を顧みれば、わたしは無職なのである。

 三人に一時の安らぎと元気をもらえたことに感謝しつつ、わたしが明日を生きるため、仕事を探しますよ!



 週の明けた月曜日の朝一で、わたしは意を決して近所のスーパーに開店直後、すぐに電話をしてみた。

 求人募集が出ていたのは、レジ打ち(時給八百円~)。

 すると、店長と思わしき電話口の向こうの人に面接の都合のいい日を教えてくれと言われたので、無職なわたしは今日すぐにでもと返答すると、午前十一時に面接に来てくれと言われ、わたしは慌てて化粧をしてスーツに袖を通した。

 わたしが電話をしたスーパーはマンションから徒歩で二十分弱。駅とは反対方向に行った国道沿いにある。

 マイナーな店舗にしては店構えも大きく、しっかりしており、駐車場への車の出入りも頻繁で客の入りも上々だろう。

 店内に入ると、活気あるお勤め品のお知らせが店内放送で流れる。

 サービスカウンターで年齢のいったお姉さんに面接のことを言ったら、話が通ってなかったのか内線でどこかに連絡をしたりして、数分待たされた末、店の奥へと案内された。

 店の裏の品物の予備の置かれているバックヤードゾーンを通って、奥の一際明るい事務室に通された。

 そこはパソコン数台に、電話数台があり、擦りガラスで区切られた小さな商談スペースまである、わたしのいた会社と似ているような気がする。

「あ、先ほど面接の電話をくれた方ですね? どうぞ座ってください」

「は、はい。失礼します」

 わたしをここに連れて来てくれたお姉さんは店長と思わしき、わたしの前に座る首にタグをぶら提げた、バーコードのないバーコード頭のおじさんに会釈して仕事へと戻って行った。孤立無援状態だけど、前の会社と同じで、わたしに最初から味方などいない。

「履歴書を拝見させていただいてよろしいですか?」

 わたしはバッグから三つ折りにした履歴書を差し出すと、店長さんは電灯の明かりをわたしの方に反射させる頭頂部をこちらに向けながら、眼鏡をかけて穴が開くほどわたしの履歴書を見ている。

 それを待つわたしは落ち着かないわけだ。

 高校の入学から卒業、そしてハウスクリーニングの会社へと四月に入社して、七月に退社――勤務期間三ヶ月という短い就労期間を見て、きっと「この子は採用してもすぐに辞めてしまうのじゃないだろうか」とか、そんな算段をしているに違いない。

 わたしの頭の中にはいくつもの、正論だと言い張る言葉が思い浮かんでは消えて、消えては思い浮かぶがどれも情けない言い訳にしかならない。

 たぶん、それはどんなうそや正論で取り繕おうとも、自分自身を貶める言葉にしかならないことは、幾多のシミュレーションで確認した。

「なるほど。家から徒歩で二十分ですか……。パートの募集なので、平日の午前十時から午後三時までの固定時間での仕事になりますが、よろしいですか?」

「え? 土日とか……あの、それ以前に」

 わたしのこと採用してくれるの?

「土日はアルバイトがたくさんいるので、間に合っているんですよ。平日の開店から昼間、午後のパートさんが来るまでの時間に人が不足しているんです。それに今のご時世、交通費を出さなくていい、若くて元気のある方は実に魅力的な働き手です」

 人件費とて馬鹿にならないから、わたし一人で平日の午前中の穴を埋めてしまおうという算段か。

「はい、その条件でお願いします」

「じゃあ、今日から働けますか?」

「是非!」

 お金のないわたしは一日でも早くお仕事をしてお金を稼がないといけない、時給で働くパートタイマーになった。

 今までの月収を約束されたOLとは違い、働いた分だけ給料になる、実に世知辛くもシビアな現実が目の前に突きつけられた。

 時給八百円――わたしは何時間働けば、貯金を崩さずに家賃を払え、食費や光熱費を賄えるか計算すると非常に億劫だ。

「――隣が更衣室になっています。新品の制服がありますのでサイズが合うのを着てください。あと、バッジです」

 受け取ったバッジにはこう書かれていた――研修生。

「研修期間、二週間は時給マイナス三十円です。よろしくお願いします」

 一気に気が重くなったとともに、計算をしなおす必要があった。



 白い襟の立つ店指定のYシャツに黒いネクタイに黒いタイトスカート。

 その上から黒いエプロンを纏って、左胸のポケットに研修生のバッジを装着し、バレッタで髪を後ろでひとまとめ。

「着替えました」

 事務室に顔を出すと、先ほどの店長の姿はなく、背が高く、足の長い若い男性が、先ほどまで店長の座っていた場所で足を組んでタバコを吸っていた。

「おまえが新人か。経験は?」

 ぶっきらぼうに聞かれる、主語の抜けた問いに、わたしの頭は洗濯機よりも早く回転して、現在の正しい答えを一瞬で導き出せた。

「初体験です!」

「……いや、うん」

 灰皿にタバコを押し付け、困り顔の男性は、ぎっ、と椅子を軋ませて立ち上がった。

 スカイツリーはテレビでしか見たことないけど、東京タワーを高校の修学旅行で見に行ったので、それを真下から見上げたときのことを思い出した。

 それぐらい、この人でかい。

 たぶん、春人よりも。

「初体験でなく、未経験な。……最近の若者は日本語ってもんをだな」

 黒髪を後ろに流すように撫で付けた、大きな男性はわたしと距離を取り、足を開いて事務室の真ん中で立った。

「まず、礼儀や挨拶、最低限のことを教えるから覚えるように」

 男性は大きな体の通り、大きな声で、

「いらっしゃいませ! ありがとうございました!」

 腹の底に届き、耳がキーンとなる。密室での講習。

「元気に愛想良く、ほら、ビビってないで笑え」

 大きな足、一歩で近づいてきた男性は、わたしの頬をむにっと引っ張った。

「ひゃ、ひゃい」

 わたしは春人にも見せていた、仕事のときに、部長や課長に怒られるときにも見せていた笑顔を見せる。にかっ。

「……作り笑顔百点」

 わたしの頭を、ぽんぽん叩く。

 春人とは違う、甘いタバコの匂いがする。

「最初から全部覚える必要はない。中途半端に覚えて、一人で出来ると過信し、お客様に迷惑をかけられる方が困る。迷惑をかけるならおれだけにしろ。おれは、おまえの教育係に任命された、レジ係りのチーフ。名前は夏喜。呼ぶときは名前でもチーフでもいいが、チーフなんて何人もいるから、名前を覚えておけ」

「はい」

 ネームプレートも夏喜。チーフってことは、それなりに偉いってことなんだろうね。

「行くぞ、新人。店に入るときは、元気に挨拶。おれの後に続けばいい。最初は誰もわからないことだらけだ、さっきのような間違った日本語を使うなよ」

 夏喜チーフの大きな背中を追って、わたしはバックヤードを抜け、店内へと制服を着て緊張で強張った顔のまま入る。

 さっきは客と同じ視点で歩いていた通路、白いタイル床、明るい電灯、店内に流れる「おさかな天国」――すべてがまるで別世界だった。

「いらっしゃいませー! ほら、おまえも」

「い、いらっしゃいませ……」

 かぁーっと顔が熱くなる。

 人前で大声を出すのって、すごく恥ずかしい。

「まあ、最初から上手く出来れば、この世に素人なんて言葉も、この店に研修生のバッジもいらないわな……」

 夏喜チーフは、ぼやきつつも、先ほどまでと打って変わって、舞台でスポットライトを浴びて演じる役者のような最高の笑顔で、陳列棚の乱れを正しながら、てきぱきと、わたしが小走りにならなければ追いつけないような早歩きでレジの方へと向かう。

 夏喜チーフは、一番端のレジで操作の仕方を教えてくれた。

 特殊なボタン操作の後、鍵で現金の入った引き出しを開ける方法に、バーコードの使い方、値引きされた品の値引き方法に、バーコードの読み取れない品の手動で打ち込む方法などなど。一度で覚えるのが不可能なほどの機能のすべてを教えられた。

 レシートのペーパーの取替え方だけは覚えた。その予備は足元の引き出し。ここになくなったら頃合を見計らってサービスカウンターに予備をもらいに行けと。

「まあ、近くで見ていろ。っていうか、レジ打ちはまだ早いから、お客様の品物を袋に入れたり、袋の用意を頼む。エコバッグのお客様には渡すなよ。ビニール袋も無料じゃないんだ」

 夏喜チーフのぶっきらぼうで、少々早口な説明にわたしはとりあえず頷いた。

 そして、レジがお客さんに向けて開く。

 わたしの最初のお客さんと呼べるほど、わたしの仕事はなく、さすがチーフと名乗るだけあって、テキパキなんでもこなしてしまう。

 隣で見ていたわたしは、ただただ夏喜チーフの横顔と大きな背中を見ているだけ。

 かっこいい、ってこういう男の人に対して使う言葉なんだろうね。



 わたしは、たぶん、恋をした。

 春人に振られてまだ一週間も経ってないのに……。

 夏喜チーフを見上げるわたしは春人を見上げていたときと同じような感覚だった。

「わたし、節操なさすぎだよぉ」

 家に早足で帰ってきて、恥ずかしさを押し隠すためにソファーにダイブしてクッションに顔を埋める。

 春人はもうわたしに振り向かないし、会うこともないだろう。

 その代わりができてしまった。

 わたしの居心地のいい場所。

 口はきついけど、優しいし、ぶっきらぼうに言う割にはすごく気遣ってくれる。

 あと無表情で無愛想なんだけど、お客さん――お年寄りや子供に向ける笑顔はすごく優しい。

「人ってこうやって恋に落ちるんだ……。三ヶ月前、春人を好きになったときと同じ」

 夏喜チーフの携帯番号もメールアドレスも知らない。

 でも、仕事に行けば毎日のように会える。

 初めて東京に出てきて右も左もわからなくても、日本語が通じるから平気だろうと高を括り、初めての一人暮らしも始めて、初めての出社日の前日は緊張しすぎて寝れなかった。

 会社に行き、わたしと彼女の教育係りになった春人も同じように緊張していた。

 初めて新人を任せられたとか、出会ってから二時間は頻繁に言葉を噛んだ。

 そんな彼の懸命な姿、最初の週末での新入社員の歓迎会で慣れない幹事を任せられ、てんやわんやしつつも、わたしに「楽しめてる?」と声をかけてくれた春人は優しかった。

 何度も話し、色々な表情を見せてくれた春人にわたしは惚れ、春人からの告白にその場で迷うことなく返事をした。

 そのときの、わたしは緊張して上ずった声だった。

「でも、三ヶ月って、人の心ってこんなにも変わりやすい。わかんないもんだ」

 春人のことをわたしも言えない。

 四日前、笑顔で別れて、すぐに新しい彼女のところに行った春人。

 三日前、会社に退職届けを出して、わたしは一人で泣いた。

 人の心も、感情も、気持ちも、表情さえも、梅雨時の空のように変わりやすい。

 わたしは携帯を握って、メールを送った。

 春人でも、夏喜でも、母でもなく――ヘルメットに。

 報告! わたし、好きな人ができました。



 その夜に返って来たヘルメットのメールは「よかったですね。おめでとうございます」といつもながらの丁寧というより、心の篭ってなさそうな感情のない平坦な言葉で、笑顔なのかどうかもわからないヘルメットの奥に表情を隠して、このメールも打ってきたに違いない。

 だから、わたしが東京に残れる最低条件としての、仕事が見つかった。それもスーパーのレジ打ちだとメールを送ったら「今度から買い物に行くときは電卓を持っていき、紙袋さんを見かけたら自分で計算しますね」とのこと。

 ついでだから、タイガーに送ったら「おめでとうございます。がんばってくださいね」と来て、わたしはこういう反応を期待していたことに気付いた。

 口数少ない馬に送ってみたら、二人よりも早く返信が「カニ」と来た。わけわかんないが、北海道に帰らないことを喜ぶのではなく、嘆いている様子。だから、内陸だって。

 馬に「年の功」と言われるほどのタイガー以外は本当に酷いものである。

 女心をわかっていない!



 次の日も、その次の日も、わたしは夏喜チーフに教えられながらレジ打ちの仕事をした。

 何度も何度も耳にタコが出来るぐらいに同じことを教えられたけど、夏喜チーフは物覚えの悪いわたしが覚えるまでため息を吐きながら何度も教えてくれた。

 機械音痴のわたしが、こんな接客とレジなんて機械を操る、高等技術を要する仕事に就いたのかわからなかったが、夏喜チーフとの出会いを運命と考えたら、夏喜チーフがいたからなんだろうって都合のいい解釈をしちゃった。

 体が近づく度に香る、服に染み付いた甘いタバコの匂いが目を瞑ると思い返される。



 金曜日の仕事終わり、わたしの携帯に一通のメールが届いていた。

 研修生のバッジのついた制服をハンガーにかけてロッカーに仕舞い、髪を束ねたバレッタを取って、髪を振り乱して癖を取りながらメールを確認する。

「本日、『宇宙人の集会』を開こうと思いますが、参加されますか? もし、紙袋さんが参加されるのであれば、今回は紙袋さんに好きな人が出来た記念の祝勝会みたいなものにしようと思っていますが、いかがでしょう?」

 別に恋人になったわけではないけど、彼らはわたしが失恋して泣いていたことを知っている。

 そんなわたしがまた懲りずに恋をした。

 あのときは、もう誰かを好きになるなんて考えられなかったのに、人間というやつは都合よく出来ている。

 わたしのハートは簡単にときめいてしまう仕様らしい。

「仕事も終わったから、これから行くよ。場所はこの間の池袋?」

 もう泣かない。

 泣く必要もなく、今日あの変な被り物の三人に会ったらこう言ってやろう。

「変だ! って」

 見た目は三人とも、タイガー以外の二人は中身も変だ。

「時間は特に決めておりませんので、先に着いた人が席を確保することにしましょう」

 ロッカーの戸締りをして、先ほどタイムカードを切るために一度入った事務室にもう一回顔を出して、

「おつかれさまでした!」

 携帯を握ったまま、元気に声を張る。

「おつかれさまー」

 電話や事務仕事をしていた人たちが、顔をこちらに向けて挨拶を返してくれる。実にいい職場だ。

 バックヤードの隙間を通り、店の表側へと回ろうとしたとき、店内に続くドアが内側から乱暴に開けられ、油断しきったわたしのおでこに、ごちんと音をさせて当たった。

「いたっ」

 あまりの衝撃に目の前に星が降った。

 その場にしゃがみこみ、両手でおでこを押さえて、揉み解す。

「あ、すまん。急いでたんだ。大丈夫か?」

 聞き覚えのある声に、涙目を必死に開くと、大きな夏喜チーフがわたしを心配そうに見下ろしていた。

「夏喜チーフ。危ないですよ……」

 こんな弱いわたしでも簡単に額は割れないらしいが、頭がガーンガーンと鳴っている。

「悪かったって、どれ見せてみろ」

 目の前に足を開いてしゃがむ夏喜チーフはわたしの手を強引におでこから外した。

 わたしの手を包み込むほどに大きな手。包み込まれているのに冷たくて、不思議。

「大丈夫だ。赤くなってるけど、血も出てないし、腫れてもない」

 夏喜チーフにそのまま手を引かれ、立ち上がらされたわたしが視線を上げると、腰を曲げておでこ同士がぶつかるような距離に夏喜チーフの顔面があった。

「ん? なんか顔が赤いぞ……。来い」

 夏喜チーフに強引に手を引かれ、わたしは事務室に連れてこられた。

 今、帰るために元気に挨拶したのにまた舞い戻ってきたらアホみたいじゃないですか。

 おでこは赤いし、夏喜チーフの顔面が眼前に迫って心臓がドキドキして、顔が赤くなっちゃってるし……もうどうしていいやら。

「あったぞ。――ほら、手どけろ」

 夏喜チーフはわたしの前髪をかき上げて、おでこに冷却シートを貼ってくれた。

「ありがとうございます……」

「おれが悪いんだ。すまないな、女の子の綺麗な顔に傷をつけちまうところだった」

 まるで顔から火が出るようなことって、こういうことを言うんじゃないのかな。

 すごく怒ったときに、血管が切れるような音がするっていう表現は使われるけど、顔から火が出るときも、頭の中に、ぼっ、って音がしたような気がした。

「あの……、夏喜チーフ、急いでたんじゃないんですか?」

 眉を顰めて、わたしのおでこを見る夏喜チーフが急いでいた理由を思い出して指摘する。

 これでどうでもいいことだったら、おでこはぶつかり損――まあ、こういうのもいいか。

「あ、そうだ。デリカの人手が足りないんだった」

「なにかあったの?」

 奥のパソコンの前で入力作業をしていた女性が尋ねてくる。

「ああ、パーティー用のオードブルの注文が入ってんだけど、今日チーフ休みで、新人しかいないからわかんないんだよ。おれもデリカの方はわからんし、どの道、あの量じゃ人手が足りない」

「何人前?」

「五人前の洋風と和風を四つずつ。十九時に取りに来る」

「うわ~、大儲けのチャンス。お客さん、逃さないでよ」

「うっす。だからこその、チーフ出動要請だ」

 夏喜チーフは机の上の電話の受話器を上げて、慣れた手つきで番号を押す。

「くそっ、寝てるな。出やしねぇ」

「夏喜、ゴー」

「……わかりました」

 わたしはその一連のやり取りに目を向け、首を傾げていると、

「そうだ。このまま帰るなら途中まで乗せて行ってやるぞ。デリカのチーフの家まで直接起こしに行く。今日休みだから絶対家で寝てるからな、あいつは」

 どうやら、デリカコーナーのチーフさんはご近所で一人暮らしをしているらしく、休みのため今日は出てこず、休みの日はいつも寝ているそうだ。で、それを直接家まで乗り込んで、叩き起こしに行くと。

 その途中にわたしの住むマンションがあるから送ってくれることらしい。

 気がつけば、工事現場で被るような頭と耳しか隠せないヘルメットがわたしの頭の上にのり、わたしは黒くて大きなホンダのバイクに跨った。

「ほら、ちゃんと掴まってないと、ぶっ飛ぶぞ」

 バイクの種類なんてわからないけど、ホンダぐらいはわかるさ。書いてあるもん。

 夏喜チーフに腕を引かれ、わたしはおでこを夏喜チーフの背中に預けるように抱きつく。

 ぶろんっ、とお尻の底から突き上げられるような震動と、腹の奥底に響く大きな音にビックリしている間に、バイクは走り出した。

 前が見えないのが余計に怖くて、昔無理矢理乗らされた遊園地のジェットコースターの百倍ぐらい怖かった。シートベルトの存在って絶大。

「おまえ、おれを絞め殺す気か? レスラーの腕力だったら、おれの肋骨は砕けてたぞ」

 それぐらい必死に掴まっていた――だって、すっごく怖いもん!

 速いし、音大きいし、振動するし、風がビュービュー吹き付けるし、すぐ隣を対向車線の車が通り過ぎるし!

「また来週な。あと、そのおでこ、痛くなって病院に行きたくなったらおれを呼べ。おれが責任を持って連れて行ってやるから、ほら」

 携帯電話を差し出され、わたしはあたふたしながら番号交換をした。

「ゆっくり休めよ」

 夏喜チーフは大きくて、真っ黒なヘルメットを被り直し、バイクを走らせた。

 マンションの敷地の外、ウインカーを点滅させて車道に出る際、振り向くことなく片手をあげて、颯爽と走り去って行った。

 これがバイク乗りの男だよ!


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