その10
春人が立ち去り、騒動が一段落したビアガーデンの活気は常のものへと戻る。
「はあ……」
ヘルメットは空を見上げ、タイガーは食事にビール、馬はパソコンと相変わらず、統一性のない、このメンバーでのいつもの状態。
「ごめんね、みんな」
三人に対して頭を下げる。
「なぜ、おまえが謝る?」
「……春人はわたしの元彼だし」
「でも、今は他人だろ?」
馬はもうすっかり馬の被り物を被ってしまって素顔は拝めなかった。
「そうですよ。あなたが気に病む必要はありません。ぼくも、あの人嫌いです」
「いえ、原因はわたしの不注意ですので、みなさんにはご迷惑を」
「うん……みんな、ありがとう」
情けないやら、怖かったやら、嬉しいやら、もうなにがなんだかわからないけど、俯くと、涙が零れてきた。
「あんたたち、みんないいやつだ」
「今頃気付いたんですか?」
ヘルメットの軽口もいつも通り。
「泣きたいときは泣いてください。でも、下を向いたらもったいない。あなたの綺麗な涙は地球に吸わせるのではなく、宇宙に見せ付けてやりましょう。きっと夜空に輝くどの星よりも綺麗に輝いているように、宇宙からは見えますよ」
出会ったときと同じようなことを臆面なく言うヘルメットは天然なのか狙っているのか――もう、どうでもいいや。
わたしは言われた通り、色々な感情がない交ぜになった涙をたくさん流した。
一人で泣いていたあのときの寂しいわたしではない。
こんな変な三人だけど、いてくれるだけですごく心強い。
タイガーがいつものように新品のハンカチを、馬がポケットティッシュを、ヘルメットがヘルメットの中の保冷剤を――とりあえず、ヘルメットの横顔を殴った。
「あいつ、こんな石頭を殴って、手痛いだろうね。ざまーみろ」
「だからってニールみたいに叩かないでください。中に震動が来るんですから」
どんなに悲しいことがあっても、楽しいことがあればすぐに笑えちゃう。
それってやっぱり自分一人じゃなくて、一緒になって同じ感情を共有できるからなのかな。
「なにかあったらぼくたちを呼んでください。必ず助けますから」
「……馬なら頼りになるかもね」
パソコンを見ている馬に言ってやると、馬はパソコンの画面に顔を沈めるように隠してしまった。照れてるのかな?
「今日はもう帰る」
「恥ずかしくて逃げるの?」
「いや、今日は待ち合わせがある。それに今日は雨が降りそうだ」
馬が顔を真上に上げると、引き締まった首が暗闇の中に見える。
空と言えばヘルメットの専売特許だが、今日は馬につられて夜空を見上げると、確かにどんよりとした、重たそうな厚ぼったい灰色の大きな雲が黒い空の中に漂っている。
「雨、ですか……」
ヘルメットがいつもより真上を見上げながら、ぼそりと呟くと、
「夏の雨だ」
馬が付け加えるように言う。
この夏、雨は少ないけれど、まったく降らないわけでもないから、どこかのダムの貯水率が減っているってニュースで見た記憶がある。
「じゃあ、今日は解散しましょうか。わたしも帰ります」
「タイガー、帰るの? いつもは寄り道しているんじゃないの?」
「いえ、今日は仕事、溜まっているんです。忙しいんですよ、この時期は」
去年まで学生だったわたしにとって八月は夏休みってイメージが未だ根強く残っていて、スーパーで働いていて、子供たちを見ると、ちょっと羨ましくなる。
「そっか……あ、そうだ」
携帯をポケットから取り出すと、忘れていた、ニールからの着信が五件も入ってる。
「ごめん、ニールが待ってるから、わたし先に行くね」
荷物をまとめて、慌てて立ち上がる。
解散の空気がすでに漂っていても、のんびりしてるヘルメットとタイガーはまだ腰を上げる気配すらなく、馬だけは座ったままパソコンを片付け、すぐに立ち去る用意がある感じなんだけど……もしかして、わたしがいるから馬の被り物が脱げないとか?
「タイガー、ご馳走様」
「はい」
「ヘッド、馬、今日はありがとう。二人とも、その……かっこよかったよ」
表情の見えない二人はなにも言わず――たぶん、それぞれの被り物の下で微笑んだ。
もし、わたしの想像と違う、本当に無愛想な顔を馬がしていたとしても、ヘルメットが寝ていたとしても、本物が見えない以上、わたしの都合のいいように解釈できる。
「じゃあね、また今度」
わたしは今日は一番に『宇宙人の集会』をあとにした。
こうやって慣れていく自分が――あの三人といる自分が好きだったりする。
宇宙人なんてよくわからないけれど、『宇宙人の集会』にいる間、わたしはわたしであり、わたしでなくなる。
誰にも気を使わない、本当に気の許せる友達といるときの、家族といるときのわたし。
ニールと初めて会った西口公園に人ごみで道を見失いそうになりながらもどうにか辿り着き、いつかのベンチのところを覗くと、見知らぬ男が二人、ニールに話しかけていた。
「ナンパかな?」
ニールに呼び出されて遅刻してしまった手前、あれを助けたいという思いはあるのだけれど、先の春人のこともあるし、相手は二人――なにより、ここにあの三人は誰もいない。
臆病なわたしは慎重に背後を取るように近づく。
「――ねえ、さっきからこんなところで彼氏を待ちぼうけ? すっぽかされたんならさ、おれたちと遊ぼうよ。きみ、かわいいし」
池袋にいるのに似つかわしいだぼだぼなTシャツに、これまたトランクスが見えるぐらいまでずり下ろしただぼだぼのズボンを穿く男の一人(二人とも同じ格好)キャップを被った男がニールの顔を覗きこむようにして言うと、
「カラオケでもドライブでも、飯でも奢るよ。家出だろ?」
もう一人の金髪ロン毛の男も続けざまに言う。
さすがに無理矢理連れ去られでもしたら大変なので、空気の読めないわたしは空気を読んで、ニールの前に突撃しようと右足を踏み出した瞬間――ニールが前に立ちはだかる男二人に、物凄くかわいい笑顔を見せて微笑んだ。
それはもう女でも魅入られるぐらいにかわいくて――でも、どこか奥のある怖いぐらいに綺麗な笑顔。
わたしの作り笑顔に似ているのだけれど、次元が全然違う。
なんだろう……。
わたしの作り笑顔が現状を維持するために平然を取り繕う笑顔であるのなら、ニールのは、
「ありがとう。でも、ごめんね。今日は約束してるの。もし、出会えるときが違っていたら、あたしはあなたたちについて行ったよ。あなたたちのような男はあたしを終わらせてくれる最低な人間だから――」
ニールの笑顔は、どこか壊れている。
「あたしの人生はもう終わっているの。あたしを救えるのは二種類の人間だけ」
ピースサインを作って、いつものビニール傘を差す。
「あ、お姉さん。待ってたよ。ラブホ行こ、ラブホ」
男二人の間からわたしの姿を見つけたニールはいつもの人懐っこい笑顔を見せて、手を振って傘を広げたまま、男二人の間を裂くようにしてわたしの前にやってきた。
「ちょ、ちょっと」
なにを言っているのかしら、この子は。
わたしたちは女同士で――それ以前なのか、それ以後なのかわからないけれど、ラブホ――ラブホテルなんて、男女で入るところでしょう。
女同士の恋愛なんて漫画の中でしか見たことがない。
「いいから話合わせて」
ニールの掲げる傘の中に入れられ、顔を近づけてくるニールに耳打ちされ、腕にしがみ付いてくる。
「あたしたち、こういう関係なんです」
懐いてくれる小さなニールは妹が出来たみたいでかわいいんだけれど、言葉と行動が誤解しか与えてくれない。
「ちっ、そうかよ……ったく、上玉だったのによ」
「だから違う出会い方ってか? 生前生後の問題じゃねーか」
男二人はニールを諦めたのか、服装と同じでだらだらとした足取りで離れて行った。
一難去ってまた一難。わたしとニールはレズカップルの誕生である。
「お姉さん、遅刻だよ」
「ごめんね、色々あったんだ」
ニールが腕にしがみ付いたまま、頬を膨らませる。
「あのね――」
簡潔にビアガーデンであったことを話した。特に隠し立てする必要もないし、ヘルメット、タイガー、馬の活躍を、三人を知るニールにも教えてあげたかった。
「お姉さん、前の彼氏とちゃんと別れられたんだ」
「そう言うと、すでに振られていたわたしはあいつに未練たっぷりだったみたいじゃない。春人なんて全然好きじゃないんだよ。たぶん、わたしは異存してただけだから……。でも、ヘルメットも馬もすごくかっこよかった。そんなシーンを見れたから、ちょっと嬉しかったかな」
「お姉さんは、ヘッドのもっとかっこいいところ、みたい?」
「かっこいいところ、あるの?」
「あるよ。お姉さんにはたぶん見せたくないと思うんだ」
「なんで?」
「……ヘッドの捨てられない過去だからかな」
捨てられない過去――それはそれで気になるけど。
わたし、ヘルメットにニールがなんでビニール傘を持っているのか聞ければ、更生できるかもしれないって言うけれど……更生って、この家出っぷりのこと?
それとも、ナンパにほいほいついて行っちゃう危なっかしいこと?
「あたしのこの傘と一緒。絶対に捨てられないよ」
「……そうなんだ」
ニールの傘とヘルメットのなにかは同じで捨てられない?
「よくわからないけど……こっそり見てみたいかな」
先週、タイガーの尾行でキャバクラまで潜入した身だ。怖いものがないなんてことはないけれど、やるならとことんって気にもなる。
馬に釘は刺されたけどね……。
わたしの浅はかな行動がなければ、タイガーのことも知れなかったのは事実だし、それを言うか言わないか、ちゃんと考えればいい。
「じゃあ、渋谷に行こう。ヘッドはいつもそこにいるから」
「渋谷?」
またまたそんなオシャレな場所に、なんでヘルメットはいるのやら。
「行こう」
ニールのボストンバッグをわたしは担いで、ビニール傘を嬉しそうに持っているニールに腕を引かれて人ごみを掻き分けて山手線の駅を目指す。
勢いと流れで、わたしは初めて渋谷に降り立った。
渋谷は電車の乗り継ぎで毎日のように利用していたけれど、ここを目的として電車を降りて、駅の外に出たのは初めてだ。
いつも山手線側から京王線井の頭線に乗り換えるときに見える、渋谷のスクランブル交差点やネオンの明かりには、宝石箱の中を覗きこんだような憧れのような感情を抱くことはあったけれど、平日でも、夜でも関係なく人が多く、一斉に青になって人が縦横無尽に行き交うスクランブル交差点を上から見ているだけで、軽く恐怖した。
東京に来て人ごみには慣れても、交差点という場所で、あれだけの人が四方八方から押し寄せたら、自分がどこにいるのかわからなくなりそうで、気がついたら交差点の真ん中に取り残されそうな気がする。
「マルキュー今度行こう」
「う、うん……」
ニールに連れられ駅の外に出ると、待ち合わせの定番スポット、ハチ公がいた。
こんな夜の九時に近い時間にも、誰かしらがハチ公を囲んでいて、2ショット写真なんて夢のような夢。田舎者には、あの石像は一種の東京の象徴。
「うわぁ……なんか、緊張する」
「逸れないでね」
今日ほどニールが頼もしいと思ったことはなく、今度はわたしからニールの手を取ってしまった。
信号が青になると、車がまだ交差点内に残されていてもお構いなしに人が歩き出す。
その誰もが早足で、背の低いわたしからしてみれば、向こうから大勢の人が体当たりしてくるイメージ。
「こっちだよ」
あれよあれよと、ニールに引っ張られるままに、スクランブル交差点を歩き、センター街を横目に見つつ、車道の横を通る歩道を歩き、右手に有名なデパートを見ながら左に曲がって途中の坂道を上がっていく。
「こっちになにがあるの?」
ドーナツ屋にコンビニに、見慣れた店舗がこうも狭い区間に、ぎゅうぎゅうにひしめき合っている感じがして、この豪勢さが渋谷たる所以なのかとも思った。
「NHKホールと小さなライブホールと……代々木体育館は知ってる?」
「う、うん。テレビで見たことはある」
毎年、有名なアーティストが全国ツアーの東京公演でよくライブをする場所が代々木体育館で、NHKホールは歌番組とか幼児向け番組の公開収録なんかをしている。
信号を渡ると公園のようであり、並木道の遊歩道のような空間へと出た。
「あれ? なんか聞こえる」
木々が生い茂り、外灯の明かりが心もとない中から聞こえる音楽。
「こっそりだよ」
どこかにヘルメットがいる?
ニールに腕を引かれた先では、人だかりが幾重にも出来上がっていて、わたしたちは一番後ろに回った。
「どこにヘルメットがいるの?」
約三十人ぐらいの様々な格好をした人たちが、人だかりの向こうにいるギターの弾き語りをする人の歌を聴いている。
「この向こうで歌ってるよ」
「……え?」
ロックとまではいかないけれど、お腹の底から出すような大きな声で歌う、この声がヘルメット?
マイクやビジネスマンが持つような鞄サイズのスピーカーを通しているせいか、エコーがかかっていて上手く声を聞き取り難い。
「あ、ちょっと離れよう。歌、終わるから」
わたしの聴いたことのない歌、わたしの聞いたことのないヘルメットの声。
ニールに腕を引かれ、遊歩道の間逆、NHKホール側の木の陰へと移動して身を隠した。
ギターが、ジャイィーン、と大きく音をさせると、ピタリ、と音楽が止み、疎らながら拍手が送られ、何人かは財布を抜いてヘルメットの方へと近づいて行った。
それとほぼ同時に半数以上の人たちが止めていた足を動かすように歩き出し、夜の渋谷の街へと身を溶け込ませていく。
人がはけると、その先にいたのは栗色の髪を外灯に反射させる色白の少年のようなヘルメットの中身のヘルメット。
ヘルメットは女性と笑顔で握手をし、その女性を見送ると、腰を下ろし、ペットボトルに手を伸ばした。
「なんで、こんなこと、してんの?」
「こんなこと……? ここはストリートライブとか結構盛んにやってるよ。毎週金曜の夜はここ、土曜の夜は立川の駅の外の橋のところでやってるよ」
「そうじゃなくて、なんでヘルメットがギター持って、歌ってるの?」
ニールは不思議そうに首を傾げたかと思うと、なにか得心いったのか、笑顔を見せた。
「ヘッドは歌手だったんだよ。インディーズでCD出してる」
こんなカラオケでもない屋外で歌ってる理由とか以前に、ヘルメットが歌手だとは知らなかった。その前提にあるべき理由がわたしには情報として欠落していた。
「そいつは知らなかった……。驚きだよ」
ヘルメットは地べたに座ったまま、ギターを担いで、どんよりとした雲の漂う空を見上げながら弦を爪弾く。
なにを思って、毎日空を見上げているのだろうか。
「ヘッドはね、宇宙に歌を届けたいんだよ」
「本気で宇宙人と対話でもしようとしてんの?」
「……そうかもしれない」
すると、ヘルメットは重たい腰を上げて立ち上がり、荷物を片付け始めた。
「どこに行くのかな?」
「バイトだよ。だから、お酒飲まなかったでしょ? まあ、元々飲まないけど」
「よく知ってるんだね」
「いつも同じ行動をしてるもん。ヘッドはね……すごくかっこいいんだけど……すごく馬鹿だから」
「で、でも、いつもニールは金曜の夜はヘルメットと一緒にいるんじゃ……」
「バイト中はあたしは漫画喫茶で待ってるの」
「なんのバイトしてんの? こんな時間から」
「コンビニ。まだ始めて半年ぐらいだけどね、人の少ない夜中から明け方にかけて働いてるよ。で、終わったらあたしを迎えに来てくれるの。どうする? コンビニにも行く?」
「ううん、いい……。帰ろう」
タイガーのことで、わたしは踏み込みすぎて、後の行動を誤っていたら、馬にも言われていたがタイガーを傷つけてしまったかもしれない。
だから、今日はヘルメットの行動探りはおしまい。
インディーズでCDを出し、歌が上手くて、渋谷で毎週歌ってるってのを知れただけで十分。ついでにコンビニでのバイトもね。
わたしの家に帰る前にマンション下のコンビニで買い物をし、一緒にお風呂に入り、ニールに洋服を貸し、ニールのボストンバッグの底から出てきた映画のDVDを一緒に見た。
どっかの、いつかの彼氏に借りたままなんだってさ。
それすら本人が忘れているのだから、当事者でもないわたしがニールのほぼ週代わりの彼氏の名前を覚えられるわけがない。
DVDのタイトルは全然聞いたことのない海外の恋愛映画で全編字幕。
おかげで、わたしたちは一つ屋根の下にいても一人でテレビを見ているときと変わらず、終始無言で画面に見入っていた。ニールも初見だって言うんだから、誰から借りたかなんて覚えてるわけないよね。
「――ねえ、二年前のこと、教えてくれる?」
よくわからない男女の恋愛映画のはずだったのだが、気がついたら主人公の彼は汽車に乗り、ヒロインの彼女は船に乗ってどこかへとそれぞれ別の人生を歩むために旅立ってしまった。人間なんて一度は繋がっても、また離れていくものと示唆しているのかもしれない。
字幕の入らないエンドロールを見ながら、電気を消して雰囲気を出した部屋の中、ソファーで並んで座る、テレビの明かりが反射したニールの小さな横顔を見て問う。
「さっき見た通りだよ。あたしはいつものように都会をふらふらしてて、あの歌声に出会った。そのときは、足を止める人は誰もいなくて……あたしは、ヘッドの前に座ってずっと見てた。あ、昔の映像が携帯に残ってるよ!」
「見たいかも」
「いいよ、ちょっと待ってて」
そう言ってニールはテーブルに置いてある、タッチパネルの最新携帯を他所に、部屋の隅に置かれたボストンバッグの中を暗闇の中、漁り出した。
「これに入ってるはず」
別の携帯と充電器を持ってきてニールはコンセントに差し込み、携帯の電源を入れた。
その明るすぎる液晶画面がわたしたち二人の顔を闇の中に浮かび上がらせる。
「携帯何台持ってるの?」
「今は五台。でも、通話できるのは一台だけ。あとはメールとか電話帳とか写真とかデータがたくさん残ってるからそのままにしてるの」
解約した携帯って言葉にできない思い出や記憶がたくさんあって捨てるに捨てられないもんね。携帯を新規で契約したり、機種変更するときは回収したそうにショップの店員さんは目で訴えかけてるけど。
しかし、ニールの携帯所持数は多すぎるのではないだろうか。
わたしは十八年の人生で携帯はまだ二台目。
ニールは昔の携帯のせいか、ボタンを押しにくそうに手こずりながら、動画を再生してくれた。
画面はブレ、どこかの商店のシャッターの前でギターケースを開いて置いて、ギターを持ち、スタンドマイクを用意までして、スピーカーがキンキンなるような大きな声と音で音楽を奏で、汗を飛ばしながら歌を歌っている。
「……これ、ヘルメット?」
「うん、そうだよ。今と全然違うけどね。ヘッドはヘッド」
解像度の低い、粗い画像の中のヘルメットは今の倍ぐらいふくよかというよりは体に筋肉がついていて、髪は金髪で、今ははんぺんみたいに白い肌だけど、二年前のヘルメットは血色がいい。
「正確にはこれ、三年ぐらい前になっちゃうのかも。あたしがヘッドを見つけて二度目ぐらいのときだから。映像で残ってる一番古いヘッドだよ」
もしかしなくても、他にもヘルメットの動画があったりするのだろうか。
「なんで……」
携帯にはヘルメットしか映っていないけれど、ニールの話だと他のお客さんはいなくて、ニールが一人きりでヘルメットの歌を聴いていた。
それにしても、ヘルメットはなんて嬉しそうに、楽しそうに歌っているんだろう。
客は一人、さっきの渋谷のように足を止めてくれる人もいないのに、熱心に歌っているヘルメット。武道館や代々木体育館のように何万人も人がいるわけでもないのに、何万人も前にしたプロの歌手たちよりも楽しそうに、嬉しそうに、活き活きとしながら歌っている。
「こいつ、なにがしたいの、本当に……」
元気なヘルメットを見て、わたしは元気になるどころか、胸が痛くなるだけだった。
「こんなんで、あいつの歌は宇宙人に届くのかな……」
「届かないよ。絶対に」
わたしの呟きに、いつもはヘルメット肯定派のニールが否定した。
「ヘッドはね、一度死んでるんだよ。宇宙人はヘッドを宇宙に連れて行ってくれなくて、宇宙人になり損ねて、世界を憎んだまま、地球に残ってるの」
ニールの説明はいまいちわかりにくいけれど、なぜか宇宙人に固執するヘルメットを見ていると、キャトルミューティレーションじゃないけれど、宇宙人に体を弄くりまわさでもしない限り、二年か三年で、ここまでの変化は人間しないだろう。
高校生の頃、夏休みが明けたらいきなり茶髪になっているクラスメイトがいて驚いたことがあるけれど、そんな変化の次元を超越してしまっている。
日本人だった友達が気がついたら黒人になっていたぐらいの変化だ。
「だから、あいつはいつも空を見てるの?」
「うん、夜空限定。ヘッドはね、人間でも宇宙人でもない、ただのヘッドなんだよ」
わからないけれど、それで納得できてしまうぐらい、ヘルメットはヘルメットであって、他の何者でもない。
「じゃあ、いつから、あの黒いヘルメットを被ってるの?」
しかも、『宇宙人の集会』のときや、わたしの働くスーパーに乗り込んできたときだけ。
「もうすぐ一年かな……。うん、雨の日にあれを被り出したんだよ」
「傘の代わりとか言わないよね」
「傘はあたしが持ってる。あたしの傘はあたしの大好きな人、全員を入れてあげるの。もちろん、お姉さんもだよ」
「……ありがとう」
携帯が静かになっていたことも、再生されていたDVDもメニュー画面に戻っていたことに今さらながら気付き、耳を澄ませば聞こえてくるのは、さーと静かな音をさせて降る、夏の夜の雨音だけ。
「わからない……」
どうしたら、ニールを救えて、ヘルメットを救えるのか――。
ニールは携帯を弄って他の動画を無作為に再生し出したので、わたしはなんとはなしに視線を向けると、ギターを爪弾くヘルメットの後ろに、YAMAHAのキーボードのロゴマークが薄っすらと見えた。
「ねえ、ここに誰かいるの?」
携帯の画面には映ってはいない背後を指差す。
「……お姉さんはそれも知らないんだね」
「もしかして、なんていうのかな……二人組みの歌手。コンビじゃお笑いだし……」
デュオというのか、グループというのかわからないけれど、ヘルメットの音楽活動は一人ではないのだろうか。
「この人は、ヘッドを好きだった人」
「ヘルメットが好きだったんじゃなくて?」
ニールは首を振った。
ヘルメットにはすごく好きな人がいて、今でもそれを忘れられないで生きている。
でも、その好きな人はヘルメットの前には二度と現れなくて、ヘルメットが傷つけ、傷つけられてしまった人。
でも、このキーボードの人はヘルメットのことが好きな人で、ヘルメットが好きだった人ではない。実にわかりにくい。
「ヘッドが好きな人、あたしは大嫌いだから。殺してやりたいぐらい、大嫌いだから」
電源ボタンを長押しし、携帯の電源を落としたニール。
音のないDVDのメニュー画面だけがこの部屋の光源となり、音は雨音だけ。
ここはマンションの上階なので、いくら静かにしても地面に落ちる雨音はさすがに聞こえない。
せっかく雨が降ったのに、ニールもわたしも部屋の中。ニールのビニール傘に一緒に入ることも、ニールの傘が雨を弾くことも――いつも持ち歩くビニール傘を本来の目的で利用することが見れなくて、ちょっと残念。
「もしかして、ヘルメットってニールを入れたら四角関係?」
「……うん、そう言うとモテモテだけど、今はもうそういうのないから。でも、ヘッドは馬鹿だから、一人の人しか見てないよ。今も昔も――宇宙人に魅入られちゃったんだ」
随所に出てきて、言葉を濁すように使われる宇宙人という単語の真意を知りたい。
「でも、ヘッドのことはあたしが一番好き。だからいいの。いつか、ちゃんと振り向いてくれるから、絶対に」
ニールの元気のない笑顔は初めて見たような気がする。
「ニールは……ヘルメットにどうなってほしい?」
視線を落とし、しばしの沈黙の後、重たい唇から掠れた声を絞り出すように呟いた。
「……上だけじゃなくて、前を向いてほしい」
「それには同意」
正直、ニールは遊んでばかりでなにも考えていないのではないかとも考えたことがあるけれど、実はこの子にはこの子なりの考えがあって、夜遊びや、家出を繰り返していたりするのではないだろうか。
「あたしの家出の理由、知りたい?」
「え? そんな顔してた?」
「う~ん。あたしには、ヘッドに聞かされた馬さんみたいにはわからない。馬さんはお姉さんの顔を見るだけでなに考えてるかわかるんだって。好きなのかな?」
「まさか」
あの馬がわたしのことを好きなんて言ってきたら……ってもしもを考える以前に、そんなことになる現実の想像が出来ない。
「あたしは顔色を読み取るの、結構自信あるんだ。あと、危ない人とそうじゃない人を見極めるのも上手いかも。でもね、なんでお姉さんがそれを聞きたいかわかったかって言うとね、お姉さんが優しいから」
「わたし、そんな心配そうな顔してた?」
またわたしは感情をコロコロ顔に出していたのだろうか。
不安になって暗闇の中で、メイクを落とした、すっぴん顔をマッサージするように両手で頬を持ち上げるようにもみもみ。
「ううん、ヘッドと同じ顔してた。――みんな、夜の街で大荷物のあたしを見ると、家出したことがすぐにわかるし、なんで家出をしたか聞いてくる。けど、ヘッドもお姉さんも全然聞いてこない。それでも心配してくれているのがすごくわかるから、あたしの中に無理矢理入り込もうとしないで気を使ってくれてるのがよくわかるんだよ」
「気にならないって言ったらうそになる……。ニールかわいいから、友達のわたしがこんなに心配するんだから、両親はもっと心配してるんじゃないかなって考えちゃうよ」
頭を預けてくるニールの髪を撫でてあげる。
本当にこんな妹がいたら嬉しいなって思えるぐらいにかわいい。
「あたしのお母さんは三年前に病気で死んじゃったんだ」
あまりにもショッキングな情報がいきなり開示された。
「学校行っても友達いないし、あたしはどこにいても一人ぼっちになっちゃったときに、ヘッドに出会ったの。だから、外が好き。渋谷も池袋も立川も新宿も人の多いところが好き。どこかに行けば誰かがいる。一人じゃない」
「ねえ、お父さんは?」
「……ほとんど帰ってこない。あの人、市議会議員とかそういうので、お金だけはたくさん家に入れてくれるけど、あたし、あの人嫌いだから、お金は使わないで、あたしを好きになってくれる他の人に助けてもらってるの」
それってもしかして、ニールが家にいないことすら、市議会議員のお父さんは知らないのではないだろうか。
「だってあの人は、あたしもお母さんも好きじゃないんだよ。他に好きな人がいるからね。そういうもんじゃないのかなって今では思うよ」
悲しいことをニールは平気で口にする。
わたしは聞いているだけで涙が出そうになるのに、当の本人のニールが泣いていないんだから、わたしも必死に我慢。
「だから……ニールは、他の男の人に行っちゃうんだね」
「うん……。こんなあたしでも、お姉さんは幸せに出来る?」
いつだったか、わたしはニールを含めた『宇宙人の集会』のメンバー全員を幸せにしてやりたいと思ったし、今でもその思いは変わらない。
ただ、今となっては、現状維持でもそれなりの幸せは約束されているのではないかな。
わたしが好きな夏喜チーフ――もし、レミさんと付き合っていたとしても、その事実を知らず、今の片思いの状態を続ければ、ある程度の幸せな気持ちは維持できる。
ニールのこの生き方も、ヘルメットだって、タイガーなんてその通りだし、馬はわからないけど、恋をしているのは最初に聞いたし、それ以降なにも聞いていないので、嫌いになったり、振られたりはしていないんだろう。
幸せは現状維持――違う。
「違うよ……。タイガーの叶わない恋とか、ヘルメットの恋愛に臆病になってることとか、ニールのことも――馬はよくわからないけど――このままじゃダメだよ! ああ、でも、タイガーのはぁ……わたしにはどうしようもない」
「……どうしたの?」
頭を抱えて独り言を発するわたしをニールが心配そうに見てくる。
「恋ってなんだろうね」
「そんな難しいこと考えてたの? 熱、出ちゃうよ」
本当に知恵熱が出てきそうだよ。
「ごめんね、ニール。わたしって相談相手とかに向かないでしょ。相談されてるのに、余計なことまで考え過ぎちゃって、自分でも余計なお世話とかわかってるんだ。馬にもよく言われるし。でも、どうにかしてあげたい。どうにもならないかもしれないけれど」
「その優しさだけで嬉しいよ。世の中、どうにもならないことはどうにもならない。あたしだってわかるんだから、大人のみんなはもっとわかってくれるよ。お姉さんがなにかをしてくれる、それが失敗しても嬉しい」
以前、わたしがヘルメットを抱きしめたソファーで、今度はニールに抱きしめられてしまった。
なんだろう、このホームセンターで格安で購入した脚のないソファーの力は。人と人をひきつけ、抱き合わせる効力でも秘めているのだろうか。
確かに、これカップルシートみたいな感じで見本が展示されてたけれど。
「人間には人間を理解することは不可能なんだよ」
「うん……自分のことすらよくわからないし、難しいね。頭使うのやめて寝よっか」
「うん! お姉さんと一緒に寝るの大好き。お尻触ってこないし――」
それは今まで付き合った彼氏たちのことだよね?
ヘルメットとまで一緒に寝て、ヘルメットが手を出したりはしてないよね?
「って、なにわたしは馬鹿なことを考えてるんだか……」
テーブルを退けて、布団を引っ張り出して、床の上に敷く。
一人で寝ることしか考えていないから、布団も一枚しかないけれど、ニールと一枚の布団で並んで寝るのはこれで二度目。修学旅行みたいで楽しいもんだ。
「なんで、ニールはいつもビニール傘を差しているの?」
一枚の布団に一緒に入って、唐突に思い出したので聞いてみた。
豆電球の小さな明かりの中、外から吹き込む夏の微風がレースのカーテンを揺らす。
「雨って世の中の誰かの悲しい涙の集合結晶体なんだよ」
天井を見上げ、手を伸ばすニールの言葉はどこか哲学的だ。
「あたしは他人の悲しみには触れたくないの。ずっと、なにも考えずに馬鹿みたいに笑っていたいの」
「だから傘なんだ」
「ん。そう。透明なビニール傘だとね、傘を差しながら空を見ることができるんだよ」
天気予報やテレビ番組だと決まってビニール傘なのは出演者の顔に影を落とさないようにしているのだ。すなわち視界を開けさせ、明るく見せるため。理に適ってる。
「あたしがこの世の中で生きていくのは笑っているしかないからなの。空から落ちてくる悲しみの雨に触れて泣きたくないからね」
「……どうしたら、ニールは傘を捨てられる?」
「ずっと太陽が出てれば平気じゃないかな」
「そしたら日傘に替えなきゃね」
「日傘が必要なのはヘッドだよ。ヘッドひょろっこいから。ヘルメット被ってないとすぐに日射病で救急車だよ」
「確かにね」
あれはあれで熱中症予防効果がありそうだ。
「ニールはきっと傘を捨てられるよ」
「捨てないよ、絶対に。あたしは捨てられる女だからね」
ニールは彼氏を一週間か二週間でとっかえひっかえ。
どんな形であれ別れ、捨てられるニールであるが、それでもビニール傘は手放さない。
日本人はビニール傘なんて使い捨てのように大事にしないのに――。
「ニールって自分をビニール傘と重ねてる?」
「逆だよ。使い捨てにされるビニール傘とあたしは同じなの。だから、あたしはニールになったの」
「そっか……。じゃあ、次はニールを大事にしてくれる人と出会わなきゃね」
「うん!」
本当にニールのようなかわいい子には、ちゃんとした恋人を作って落ち着いてもらいたいと親心のように思ってしまう。




