その1
七月下旬、世間一般的に学生が夏休みに入った海の日の翌日、関東甲信越地方で梅雨明けが宣言され、テレビの気象予報士がカメラの前でビニール傘を投げ捨てた。
だけど、空を見上げたわたしの頬は雨に降られたわけでもないのに濡れている。
わたしは昨日、海の日があった今週の木曜日、同じ会社に勤めていた先輩で恋人だった春人に振られた。
「悲しくなんて、ないのに……」
昨日、彼から別れを告げられたとき、わたしはたぶん最高の笑顔でそれを受け入れた。
昨日の自分になんでそんな顔をしたのか問いたい。問いただしたうえで、なんで引き下がらなかったのかお説教をしたい。
失って初めてこんなに心にぽっかり穴が開いてしまったことに気付く。
しかも、春人はわたしに別れを告げたその日のうちに、別の女と付き合いだした。
もう付き合っていたのか、別れを告げたら付き合う約束をしていたのか、今のわたしにはわからないし、わかりたくもない。
でも、知らないことは自分の都合の良いようにも、悪いようにも勝手に想像して考えてしまう。
「最悪だよ」
どっちが良かったかなんて、今となってはどうでもいい。
わたしはすべてを失った。
春人はもうわたしには笑いかけてくれないし、わたしの手を引いてもくれない。
もう、わたしと会うことはない。
わたしは春人に振られ、そのままの勢いで今日会社に辞表を出してきた。
そのときの周りの人間の驚き顔と、社長の怒り顔はわたしが暢気に笑っていたせいか。
「だって、全部吹っ切れちゃったんだもん」
子供っぽいとか、責任感ないとか社長は上の空のわたしに言っていたけど、無心で机を片付けて、少ない荷物の入ったダンボールを抱えて、今、この場所にいる。
夕日のまだ沈みきらない、池袋東武百貨店の十六階ビアガーデン。
ここは敷地面積が広く、ビールサーバーまで遠いことを不便と思う人もいるかもしれないが、一人になりたいわたしにはちょうどいい。
ジョッキに水滴のついた半分まで減った中ジョッキの生ビール、ずっと放っとかれて萎びてしまった枝豆。
「春人と別れ、会社を辞めて、もうなにもないよ」
母はわたしが東京に出ることをものすごく反対していて、毎週電話で「こっちに帰っておいで。すぐに見合いをセッティングするから」って、わたしの旦那の顔なんか関係なく、孫の顔が見たくて仕方ないみたいだ。旦那の代役としてケンタッキーの人形を、孫の代役としてキューピーの人形でも持っていけば誤魔化せるぐらいには盲目だ。
今年の春に高校を卒業して就職して、三ヶ月ちょっとで退職。
ここで母に言われるまま田舎に帰るのは癪だけど、貯金もないからマンションの家賃も払えないし、アルバイトの経験もないし……そもそも三ヶ月で失恋を機に退職したっていう、他人様からみたらふざけた履歴書を見て、笑顔で採用してくれる懐の深い会社なんてないだろう。
面接官は決まって三ヶ月で退職した理由を聞いてくるだろう。
「え、あなた失恋して、お仕事を辞めてしまわれたんですか? それはそれは」ってわたしの傷口を自ら穿り返すだけになる結果は目に見えている。
生温くなってもう飲む気のないビールジョッキの水滴でテーブルをなぞる。
なにもかも惨めだ。
もう一度空を仰ぎ見ると、先ほどまでの綺麗なオレンジ色はなく、徐々に紺色が世界を覆い尽くし支配しようとしている。
下を向くと笑っていられるのに、上を見ると涙が出る。
わたしの涙腺は上下反対に神様がつけてしまったに違いない。
春人を見上げていたわたしはいつも笑っていたはずなのに、俯いていると、いつも「笑え」って頭を撫でてくれるのに……。
初恋の喜びも、失恋の悲しさも、全部春人に教えられた。
だけど、これからはちゃんと地球の重力に従って下を向いて泣くことを覚えよう。
上を見上げて泣いていたら、子供っぽいし、まだ慣れていない化粧が涙で剥げてボロボロになってしまうのも見られてしまう。
顔を真正面の誰もいない方へと向けると、辺りを照らすライトに照らされた影がわたしの横に真っ直ぐ伸びる。
「あなたの涙を地球に吸わせるのはもったいないですよ」
人の気配を感じて、泣いているのを見られないように下を向いた瞬間、涙がテーブルの上に落ちて弾けて、ビールジョッキの作った水滴と混じった。
「俯かないで。ほら、空を見上げてください。空の向こうにはぼくたちの知らない、広大な宇宙が広がっているんです」
たぶん、この声はわたしに言われているのだろうけど、涙を流し、喉をしゃくるわたしは振り向きたくもないし、追い払う元気もない。
ここで働いているウエイターさんたちはわたしのことを見て見ぬ振りをして、なるべく客をこちらに近づけないようにしていた。それなのに、わたしに声をかける男性は陽気に、まるで歌でも歌う少年のような軽やかな声で、感情があるのかないのかわからない平坦な一本調子の声で、わたしの背中に語り続ける。
「あなたの悲しみなんて、この広大な宇宙に比べればちっぽけなこと。さあ、見上げてごらん。この素敵な空を」
わたしは癖のように、顔を上げてつい空を見上げてしまう。
先ほどまで薄っすらと明るかった空も、周りのライトが明かりを増したことで、夏の夜空の明るさがわからなくなってしまった。
「ほら、俯いていては見えない世界が見えた。笑うときも、泣くときも、上を向きましょう。そしたらきっと、あなたは一人にはなりません。どんな苦しみも悲しみも、乗り越えられます」
きっと、この声の主は決まってこう言うんだ。「一緒に笑おう」って。
「笑えるわけないよ!」
一方的に言われる前に、わたしは涙で化粧もなにもめちゃくちゃになった顔で、怒鳴って振り返った。
その先にいた彼は笑っても、怒っても、驚いてもなく、ただただ無表情だった。
「笑えますよ。あなたは怒った。それはつまり感情がある。怒れる人、泣ける人は、笑えて喜べる人なんです」
わたしは言葉を失った。
この男性の言葉に胸を打たれたわけではない。
この男性たちの姿に圧倒され、度肝を抜かれてしまったのだ。
「どうしました? 笑う気になりました?」
彼はまるで空を掴むかのように大きく両手を広げて言った。
真っ黒のフルフェイスのヘルメットを被った人間が。
「あの……」
このビアガーデンのパフォーマーかなにかかとも思ったけど、他の客はあからさまに目を逸らし、我関せずを決め込んでいる。
もしかして、わたしがこの席で一人で泣いているから、店側がわたしを追い出そうと送り込んだ刺客かとも思ったが、ウエイターたちも困ったように囁き合っている。
「お、驚かせてしまったのなら、すみません。わたしたちは決して、怪しい、ものでは……ないです」
フルフェイスのヘルメットの右後ろに立った、今にもYシャツのボタンが弾き飛びそうなぐらい恰幅のいい男性は口元が大きく開いて通気性のいいプロレスラーが被っているタイガーのマスクを被っていた。露出した部分、頬の上の部分に大量の汗を浮かべて、だらだらと流しながら。
わたしはそれを見て、サウナマスクかなにかかとも思わなくもなかった。
それ以上に気になるのは、ぽこんと飛び出たお腹も然ることながら、ぺこぺこと頭を下げ、言葉の端々からも自信のなさを感じられるほどに物腰が弱いところ。
「十分怪しいと思うが?」
そして、そのタイガーの言葉を遮ったのはフルフェイスの左後ろに立つ細身にひょろ長い体をした男性。そちらはパーティーグッズ売り場などで売っているリアルな馬面の被り物を被っていた。
フルフェイスのヘルメット男と同じぐらい暑そうだ。
「な、なにものですか?」
真夏に真っ黒のフルフェイスのヘルメット男、明らかにビール腹の出たタイガーマスク、見た感じから怪しい馬の被り物。
そんな奇抜とか奇異とか、奇妙とか珍妙とかでは言い表しきれない三人がわたしの後ろに立っていた。
「あなたの味方でしょうか」
リーダーなのか、空がどうとか言っていたヘルメットは迷うことなくそう言った。
田舎の母へ、東京には変な人がいます。
「驚かせてしまったのならすみません」
わたしが言葉を失っている間に同じテーブルについた三人。
右隣に座ったフルフェイスのヘルメットの男は感情の薄い、少年のような声で謝罪を述べてきたが、頭にはもちろん真っ黒なヘルメットをのせている。
「えっと、あの、これでどうか涙を」
わたしの正面に座るタイガーはズボンのポケットからレースのフリルのついたシルクのハンカチを出してきた。
「あ、大丈夫ですよ。わたしのは別に持ってますから」
Yシャツの胸ポケットからタオル地の大きなハンカチで顔の露出した部分を伝う汗を拭うタイガー。
「それは、その、新品です。どうぞ、涙を拭ってください」
タイガーから差し出された新品のハンカチを借りて、涙で流れたアイシャドウを拭う。せっかくの新品も黒く染まってしまった。
「それは、あの、プレゼントします。いらなければ、捨てて、ください」
自信なさそうにおどおどしたタイガーは椅子に座っても、ペコペコ頭を下げている。
そのとき、困り顔のウエイターがビールを三人分持って、男性三人の前に置いた。
ウエイターはどんな一団なのかと、探るようにゆっくりとジョッキを置きながら、三人の顔が見えないのでわたしを見てきた。
わたしは咄嗟に化粧の崩れた顔を隠すようにそっぽを向いた。
「はあ……なんなの、もう……」
ウエイターの奇異の視線をやり過ごそうと左を向いた先には面長の馬の被り物がいた。
ウエイターが遠ざかっていくのを待ってか、椅子にふんぞり返って憮然とした態度で腕を組んでいた馬の被り物は、じっとわたしを見ていたかと思うと、ため息をついて首を横に向けた。
人間の顔でほんのちょっと横を向いてもわかりにくいかもしれないけれど、面長の馬顔が横を向くとはっきりわかる。これ嬉しくもない発見。
「なによ。なにか文句ある?」
馬の横顔を見ながら、鼻を啜って強がってみる。
「いいや。おれはあんたには興味も文句もない」
「そう、なら放っておいて」
わたしはビールジョッキに手を伸ばして、取っ手を掴んだまま手を止める。
タイガー以外の二人はどうやって食べたり飲んだりするのだろう。
「ねえ、あなたたちはなにものなの?」
なんで、春人に振られて、会社を辞めてきたばかりのわたしは、名前も顔も知らない三人の男たちとテーブルを囲んで楽しくもない飲み会をしているのだろうか。
「なにもの、と問われるとお恥ずかしい」
そりゃそうでしょうね。
真夏にそんな格好をしているのもだけど、場所が場所だ。
フルフェイスのヘルメットはバイクにでも跨っていれば様になるのだろうけど、首から下はユニクロのTシャツにエドウィンのジーンズ姿。これがライダースーツとかなら、山にでもツーリングの帰りと言い訳ができるかもしれないが、この格好でバイクか……。
スクーターとかなら似合うかもしれない。首から下限定で。
どう説明すればいいのかわからないけど、とりあえず、上と下がごっちゃで整合性がなく、乗っているべきはずのバイクの想像が一切できない。奇を衒ってママチャリとか?
「いえ、実はぼくたちのこの集まりに特に名前など『○○会』とか名称はないんですよ。よければ、つけてもらえます?」
表情の一切わからないフルフェイスのヘルメットの向こうの顔はどんな顔をしているのだろう。
男前とかそういうのではなく、笑顔なのか、嘲笑なのか、馬鹿にしてるのか。
「その集まりってのはなにをするの?」
「あ、そうでした。それがわからないと名称もつけられませんものね」
無視して話を逸らしたつもりだけど、そっちに持っていかれるとは、どうしてわたしをあなたたち被り物集団に招き入れたいんだ。
「ぼくたちは恋をしています。いえ、ぼくは過去形で恋をしていました」
両手を肩幅まで広げたヘルメット男はまるで地上に降り立ち、空を仰ぎ見る宇宙人のように見えなくもない。
宇宙や深海に行く人たちが、頭に被っているものとバイクのヘルメットがどうも同じに見えてしまう。
中学生の頃、自転車通学だったわたしは、ヘルメットの着用義務に律儀に従い、工事現場で働いている人の被るような耳の出る、軽めのヘルメットしか被ったことがない。
わたしの同級生で自転車通学をしている子たちは男女問わず、髪型というものを諦めていた。オシャレをして、髪型をビシッと決めたい人は素直に朝早く歩いて登校するしかないのだ。
「へえ……」
恋をする集団ですか……。学校の部活とかなら面白いかもしれないけど、社会人になってまで変なグループには入れられたくない。
「あ、すみません。わたしも、その、お恥ずかしながら……」
ビールの泡で口の周りを白くしたタイガー――ヘルメットと馬は一切飲み物にも食べ物にも口をつけない(つけられない)のに、やはりというかなんというか、見た目に逞しいタイガーだけはビールを飲み干しそうである。
「……おれも用がなければ、ここにはいない」
馬はどうも素っ気無いというかなんというか、ヘルメットとタイガーとは一風変わっていて、いい意味で男の人って感じがする。
まあ、よく喋る二人が物腰が弱すぎるだけなのかもしれないけど。
「恋をしてる人と、失恋をした人が集まってなにをしてるの?」
わたしの問いに、ヘルメットは首をちょっと傾げた。
もしかして、今さら考えてるの?
「話をして……ときには相談を、ときには慰めあったり」
言い淀むヘルメットの言葉を引き継いだのは馬の前にあった枝豆に手を伸ばして数個を鷲掴みにしたタイガー。
「あの、わたしたちは、会社や学校で、それぞれの立場があります。友達、同僚、クラスメイト、先輩、後輩、上司に部下……。でも、大人になると小学生のときのような、親友とか幼馴染って、いないし、作ろうと思っても作れないんです。気の許せる、なんでも、話せる人、と言うのでしょうか? そういう方、お嬢さんにはいますか?」
高校を卒業して東京に出てきたわたしには友達なんていない。
同期入社の女の子が一人、いたけれど……その子は、春人と昨日から付き合っている。
「いない」
「ここは、年齢も性別も、関係ありません。悩みを隠さずに悩み、相談し、アドバイスをもらう……ときには意見の食い違いもあるでしょうけど……それでも、他人の意見、自分が腹を立てる意見というのは、自分の中の今まで見えていなかった真実なんです。怒りもし、泣きもするでしょう。でも、それでいいんです。わたしたちは気のおけない友達ではなく、恋に悩むという一つのことを共有する仲間なんです」
もふもふ、枝豆を食べ、過呼吸気味に酸素を欲しながらビールジョッキを傾けるタイガーの無精髭の生えた弛んだ二重顎と口元は笑顔に見えた。
「さすが年の功」
ふっ、と口下手な馬が嫌味っぽく鼻で笑うと、タイガーは照れ臭そうにマスクの紐のある後ろ頭を掻いた。
「今の社会のシステムには恋は考えられていないんです。それなのに婚姻率、出生率が減っていると国は国民に対して、催促するように発表するんですよ」
ヘルメット越しに真面目なことを言われても、わたしはどう反応していいのか困る。
「小学生のときに、学校の授業で性の勉強をしても、恋の勉強もしないし、教えてももらえない。恋愛に正解も答えもないから仕方ないのかもしれませんけどね」
そういえば、わたしはテレビドラマや少女漫画、学校のクラスメイトの経験談から恋というものを自分の頭で考えたり憧れたり、理想のプロポーズなんかを妄想した気がする。
でも、恋には正しい答えなんてなくて、理想も想像も妄想も、気分次第でまったく違うものに変わる。ただそこにわたしがいて、かっこいい男の人に告白されるっていうのだけが一緒。
「そこで、ぼくたちはこうやって恋に挫けたり悩んだりする、臆病な人たちで集まって、互いに互いをサポートしようと思って、こういう集まりを作ったんです。もちろん人生相談でも、友達にもできないような悩みを互いに打ち明けていければ、きっと素晴らしい仲間になれると思うんです」
ヘルメット越しの物腰の弱い声ながら、タイガーとは違って流暢に紡がれる言の葉は綺麗で流麗で、どこか考えさせられる。
そう、まるで恋愛映画に出てくる主人公のような臭いセリフの言い回し。
「顔を知らない、顔を明かさないからこそ心の奥から出る本音ってあると思うんです」
わたし、この三人を知らないだけでなく、わたし自身は顔だけでなく涙で化粧も落ちてスッピンまで晒してます。
空も暗くなり、このビアガーデンの屋上を照らすのは無数にある熱を持つライトだけ。
タイガーは手を上げてウエイターを呼び寄せて、からあげと枝豆とビールのおかわりを注文した。
「あの、わたし丸出しですけど?」
「女がはしたない言葉を使うな」
運ばれてきたからあげがテーブルに置かれるのを嬉しそうに割り箸を割って見届けていたタイガーは顔をあげ、闇の奥に表情を隠したヘルメットは小さく体を震わせて笑っているようだった。
「別に、脱いだりはしないわよ。化粧とか以前に、三人は顔を隠してるのに、わたしは丸出しじゃない」
三人は今さら気付いたのか、互いに視線を交わらせ、
「ハサミ、持ってるか?」
馬がぶっきらぼうに、誰に言ったわけでもなく尋ねた。
ヘルメットは肩を竦め、タイガーは首を振った。
「はい、持ってるんだよね。偶然、今日会社を辞めて荷物も全部持ち帰ってきたから」
就職した後、百円ショップで買った、ほとんど使っていないハサミを足元に置いたダンボールの中から出して馬に渡す。
「用意がいいじゃないか」
春人に振られ、会社を辞めなければ、わたしはハサミも持ってないし、週末のアフターファイブに、こんなところに一人でいなかったよ。
そもそも、わたし高卒で就職したんだから――これ内緒。
女はいつだって若く見られたいものだっていうけど、今はちょっと大人の気分を味わいたかった。自暴自棄ってやつかも。
それでもビールのおいしさなんてまったくわからないから、半分も飲めない。
わたしは失恋して仕事まで勢いで辞めてしまう、正真正銘の子供。
「ところで、この集まりは三人だけなの?」
馬が背中を向けてハサミでなにかを作業しているので、わたしは空を見上げていたヘルメットに尋ねた。
タイガーはからあげがおいしいのかホクホク顔でビールを手放せずにいる。
「いえ、もう一人いるんですけど……その方は忙しない方で、いつも恋をしています」
「そうですね。あの子は、いつも、恋をしている。そして、真剣で、本気」
からあげを食べ終えてしまったタイガーマスクは近くにウエイターが来るのを首を伸ばして待っている。
「じゃあ、その子を含めた四人なんだ」
その子と、言ってしまったが、タイガーから見たら子供かもしれないけど、わたしから見たら年上かもしれないが、この三人のことは年齢はもちろん、性別と大よその性格しかわからない。
ヘルメットは少年のような声とロマンチックなセリフを吐き、空を見ている。
タイガーは小太りで、どこか常に緊張した気弱な人。
馬はどこか他人を見下しつつも、純情な世話焼きタイプ……かも?
「ええ、そうですね。他にも何人かいましたが、結婚してここを卒業したり、恋を諦めてしまったり……色々です」
「仲間内の恋とかもあったの?」
こんな顔の見えない仮面舞踏会みたいな集まりで、誰かが誰かに恋をするなんてあるのだろうか。
「えっと、今日来ていない四人目の子に、ぼくは告白されましたけど、お断りしました。好きな人、いましたから」
ヘルメットはちょっとだけ申し訳なさそうに、その子のことを教えてくれた。
女の子なんだ。
「それ以外、ぼくは知りませんし、恋人ができたからといって、報告に来ることも、連れて来る必要もありません。長いこと顔を出さなければ『ああ、上手くいったんだ』と残されたぼくたちは喜び、祝杯をあげます」
「それってつまり……恋を諦めたのか、恋が成就したのかもわからないんじゃない?」
「ええ、そうですね。でも、ぼくたちは喜びます。ここが必要ないということは、本音で向き合える、素直に打ち明けられない恋心も打ち明けられる人が見つかったんだ、幸せなんだって思いますから」
このヘルメット、実際の視野角もだけど全然周りを見ていないんじゃないだろうか。
わたしのように失恋をして、逃げ出す人間だっているのに、目の前からいなくなったら全部成功って考えちゃってる。
「適当ね……」
「厳しいですね……。でも、ぼくたちは相談されなきゃ、詮索しませんし、誰も会話しないまま終わることも珍しくありません」
相談には乗るが、他人のプライベートに踏み込むこともないと。
「ぼくたち互いに本名を知りませんし、知らなくていいと思ってます。携帯番号とアドレスぐらいは知っていますが、これが個人情報のすべてですね」
「携帯に、飲み会の、場所が送られてくるんですよ」
タイガーが枝豆をすべて食べ終えてもウエイターが来ないので腰を浮かせて、手を上げている。
「それを送っているのがぼくです。この時期は主にビアガーデンです。広いですし、開放的ですし、空が近く、この格好でもほとんど入店が許されるんです」
そりゃ、普通の居酒屋やファミレスにヘルメット、タイガーマスク、馬の被り物なんて入ってきたら入店お断りだよ。
そのままコンビニに行ったら確実に強盗だと思われて、警察が呼ばれること請け合い。
「あ、もちろん、店内のトイレで変装してるんですよ」
そんな格好のまま池袋を歩いていたら、絶対に誰かに絡まれる。
「変装する意味は?」
プライベートを明かさずに恋の相談とか言うけれど、名前も聞かないのなら顔を見せたりするぐらい、どうってことないと思う。
今の時代、携帯電話の番号とメールアドレスの方が個人情報だと思うし。
「――被ってみればわかる」
そう言って、わたしの前に馬から茶色い紙袋が差し出される。こういう持ち手のない紙袋って洋画でおばあさんがフランスパンとかオレンジとかを入れたりして抱きかかえてるよね。日本のパン屋さんでは早々見ない。
広げてみると、律儀にハサミで目の位置に穴を開けてくれたようだ。
「……これを、被れと?」
三人の視線が一斉に注がれている気がする。
周りはみんな被り物を被り、わたしだけ被っていないのは変なんだけど、わたしもその変人の仲間入りをしろって言うのだろうか。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」
馬に言われても、赤信号を本当に渡って車に轢かれたときのダメージの軽減率は、わたしの紙袋ではほとんど無だ。ヘルメットなら跳ね飛ばされても頭は守れそう。
「一回だけ」
わたしはどうも流されやすい人間である。
春人といたときも、わたしはすべて先導されていた。
告白をされたのも、付き合おうと言われたのも、デートの行き先も、全部春人が決めて、私が決めるのはファミレスの注文ぐらい。しかも、春人が決めてから五分ぐらい遅れてやっと、春人と同じものにするという体たらく。
がさごそ、耳障りな音がわたしの聴力を支配し、明るすぎたライトの明かりもほとんど視界から消えた。
二つだけ明けられた小さな目の穴から、視界の狭まった世界が左右に分かれて見える。
「似合うぞ、紙袋」「ええ、似合いますよ、紙袋」「お似合いです、紙袋」
馬、ヘルメット、タイガーがそれぞれ「似合う」と絶賛。
わたしはこいつらの神経を本気で疑いたくなった。
「あの、これ口が開いてないから、なにも食べれないんだけど」
「脱げばいい」
恥ずかしいものを人に被せて、今度は脱げと軽々と言ってくれる。
なんか意地でも脱ぎたくなくなったぞ。
「あなたたちだって口開いてないじゃない」
「いえいえ、そんな」「なにを言うか」
ヘルメットと馬が声を重ねて否定したけど、わたしはこの二人言ったのだ。
タイガーは夏で暑いからなのか、この集まりが毎回居酒屋で開かれ食べたり、飲んだりすることを前提としているからか、口元が大きく開いている。
しかし、ヘルメットと馬は首から上が全部隠れていて髪型も、髪色すらもわからない。
そういう意味では一番、わたしの人生と接点のないタイガーには親近感が湧く。
会社にはこういう大人の男の人はいなかったけど、物腰の弱いところとか、東京の人でも怖くはない。
「いいですか、ぼくのはこうですよ」
ヘルメットは、頭に被るヘルメットを少しだけ持ち上げた。
すると覗くのは白い肌と、ほんのちょっと無精髭の生えている鼻の下、上唇までがお目見えした。
別に顔が見たいとかいうわけじゃないけど、そこまで隠されると逆に気になるのが人間ってやつだろうか。
「こうして、ビールも飲めます。飲みませんけど」
ビアガーデンに来てビールを飲まないヘルメット。
その分のビールは今やタイガーの大きなお腹の中。
「これの弱点とすれば、これを上にずらすと目が見えなくなることでしょうか」
「じゃあ、脱げよ!」と思わず言いたくなったけど、アホらしくなってやめた。
わたしのことなど気にもせず、ヘルメットはおつまみのおかきを指で摘んで口の中で味わうように転がした。
小食動物みたいな食べ方をするヘルメット。
「いいか、紙袋。見て驚けよ」
なんだろう。
あんまり会話とかに入ってこない、どこかヘルメットともタイガーとも距離を置いている馬は、わたしをからかうかのように、テーブルに肘をついて言った。
馬面を間近で見ると気味が悪い。
「少ししか見せないからな」
馬は馬の被り物の口に両手を当てて、上下に裂くように開いた。
なにが出てくるのか、とか変に考えてしまった。あまりにも目の前の光景がグロテスクで衝撃的すぎて。
でも、もちろん出てきたのは馬の口の中身なんかではなく、人間の鼻と口と思われるものが闇の向こうにぼんやりと見えただけ。
「人間だね」
「なんだと思ってたんだ?」
「馬とは思ってなかったのは確か。しかし、あんたえげつないことするね。馬の口をがばーっなんて」
わたしは馬がしたように顔の前でワニが大きく口を上下に開くように重ねた手を開いて見せた。
「安心しろ、ボタンをつけた改造済みだ」
「どこをどう安心すればいいのよ」
タイガーが大きなお腹を揺らして笑っている。
ヘルメットも同じように、重たい頭を前後に揺らして笑っている。
「はあ……。あんたたち、変だね」
アホらしくなって、わたしは紙袋を脱いで丁寧に折り畳んで膝の上に置いた。
さよなら、わたしの意地。
同族と思われる方が、わたしへの他人からの視線ダメージはでかい。
「あんたほどじゃない」
馬が再びボタンを留めて、口を閉じたが、馬の口以上に奥の人間の口は開く。
「どうです? 少なからずぼくたちを知って、紙袋さんはぼくたちと仲間になって見る気になりましたか?」
ヘルメットが優雅に微笑んだかのような穏やかな口調で、わたしを迎え入れようとしているが、
「あの、でも、わたしは――」
そのとき、ピピピと目覚まし時計のような電子音が間近で鳴った。
「ちょっと失礼する」
馬はなにに対して失礼なのかと思いきや、テーブルの下に身を屈ませて、足元に置いたリュックからノートパソコンを取り出し、肘でテーブルの上を乱暴に自分の前から押しやった。
「なにが始まるの?」
「いえ、一つの儀式……愛の形はそれぞれってやつでしょうか」
ヘルメットは訝しむわたしの言葉すらも感情も声音も変えずに曖昧に応える。
わたしはパソコン画面を覗こうと首を伸ばすと、あからさまに嫌がって画面をわたしの見えない方に向けてしまった。
「地味にむかつくよね、こういうの」
そういえば、春人も携帯とかは絶対に見せてくれなかった。
男の秘密か……。
馬は携帯とパソコンをケーブルで繋いでインターネットを満喫している様子。
「家じゃダメなの?」
「人の価値観は人それぞれですよ。大事なこと、好きなこと、それって結局他人には理解をしてもらうのは難しいんです。だからこそ、ぼくたちは相手を詮索しない。必要以上に相手に干渉しないし、束縛もしない。それがここのスタンスです」
「でも、彼の定例儀式のおかげで、わたしたちは、時計を見ずとも、今が八時だとわかるんですよね」
タイガーがいつの間にか注文したチヂミを食べながら言う。
「わたし、そろそろ帰ろうかな」
ヘルメットはぼけっと空を見上げ、タイガーはビール片手に食事を続け、馬はわたしに背中を向けて懸命にキーボードを叩いているが、そんな被り物を被っていては画面も手元も見え難いだろうに。
それにしても、この集まりはわたしがいなかったら会話すらないまま、同じテーブルにつくだけで食事もろくにせず、無為に時間を過ごしていたのではないだろうかというぐらい、仲間内での会話がない。
「誰かと約束でもあるんですか?」
ヘルメットが興味あるのかないのかわからない口調で尋ねてきた。
「生憎と彼氏とは別れたばかりなので用という用はないけど、仕事も辞めちゃったし、これ片付けなきゃいけないし、仕事を探さなきゃいけないし……」
これとはもちろん足元に置かれているダンボールの中身。やること盛りだくさん。
今日まで務めていた会社は高校に来ていた求人を受けて受かった小さなハウスクリーニングの会社。掃除が好きとか、掃除が得意というわけではなく、ただ地元を離れて東京に出たかったというだけ。就職の動機が職場が東京だったから。
面接のときは、笑顔で「掃除が大好きなんです!」って元気に宣言した。
しかし、わたしの現実はそこで電話を受けたり、先輩たちの身の回りの世話(コピーやお茶や顧客資料の整理)を焼いたり、仕事を覚えながらの事務作業が主で、春人みたいに小さなワンボックスカーに乗って個人宅に向かって掃除をするなんてことはなかった。
「仕事見つけられなきゃ家賃払えないし、そしたら実家に……田舎に帰らなきゃいけなくなっちゃうかな」
それだけはどうしても避けたい運命だけど、頼れる人のいない異国の地。
日銭を稼いでお金を工面しなければ、今の日本ではまともな生活もできなくなる。
「田舎、どちらなんですか?」
「北海道だけど」
「おれはカニな」
「わたしはウニなんかを」
「じゃあ、ぼくはいくらをいいですか?」
誰も送るなんて言ってないし、それは帰れってことか?
「残念ながら海のない内陸なんで、魚介類は取れません」
本当にこの三人はわたしに興味のないか、カニもウニもいくらもないって言ったら、そっぽを向いて自分の世界に戻っちゃった。
「では、北海道に戻るときになったら教えてください。この集まりだけでなく、紙袋さんが帰郷するとき、ぼくたちはあなたを送ります」
空を見上げながらヘルメットは遠い異国の地を思い出すかのように静かに言った。
「そ、考えておく」
実はちょっとだけ嬉しい。
入社三ヶ月、突発的に退職届けを出して、終業前に片付けを終えて、今日の仕事をほっぽり出して会社を辞めたわたしのことを送るなんて人がいなかったし、送迎会も開かれなかった。
当たり前と言えば当たり前なんだけどね。
でも、新入社員の歓迎会のときは、春人が幹事をして開いてくれた。春人はわたしより何年か先輩でも、少人数の会社全体からすれば中の下で、上司から使われ、若さを理由に率先して営業やハウスクリーニングの仕事に暇さえあれば借り出されていた。
「では、今日はそろそろお開きにしましょうかね。わたしも、行く場所がありますし」
食べるだけ食べて、飲むだけ飲んで、エネルギーを補給したタイガーはこの場を仕切るように手を打って立ち上がった。
「ええ、そうですね。頃合です」
終始空を見上げていたヘルメットは、仰向けでいたときに首の後ろを傷めたのか、右手で擦りながら、左手に持った携帯をわたしの方へと向けてきた。
「赤外線。いいでしょうか?」
番号を交換しろってことらしい。
「明日か明後日か、来週か……人が三人集まればここでまた飲み会をします。もしよければ、いらっしゃいませんか?」
「だから、わたしは仕事を探して――」
ヘルメットに続いて、タイガーも馬も揃ってそれぞれの携帯を差し出してきたけど、タイガーの携帯赤外線対応してないんですけど。
「あ、いやいや、すみません。手動入力でした。こういうの、久しぶりでして」
この集まりは愉快だし、春人といるときみたいに気を張る必要もない。
わたしが愚痴を零しても、誰もなにも言わない。
それどころか、三人が前向きというより後ろ向きな性格なので、気が楽だ。
「東京にいる間だけね」
そう、わたしは友達ができたんだ。
ヘルメットと馬、それぞれと赤外線で番号とアドレスを交換したけど、登録名が、ヘッドとホースだったので噴出しそうになった。
友達用、仕事用、合コン用と電話帳のタイプを使い分けている人はいるけれど、これは何用なのだろうか。というか、この集まりの名前が決まってないので、『○○会』用とかの命名はなんなのか気になるが、慣れていることから何度もしてきたのだろう。
本名を明かさず、番号とアドレスとニックネームの交換を。
わたしなんて使い分けていないので、仕事で失礼のないように番号とアドレスとフルネームで登録してしまっている。
「えっと、名前は紙袋っと」
ヘルメットに真っ先に修正されたが、馬も同じように操作している。なんかわたしの名前が踏みにじられたようで悔しい。
「紙袋さん、わたしもいいですか?」
もうわたしの名前は紙袋でもなんでもいいよ。
プロフィールを開いて、わたしは電話番号とメールアドレスをタイガーに見せると、タイガーはテーブルに置いた携帯電話を、初めてピアノを触る子供のように両手の人差し指だけで操作して、入力した。
わたしも機械は得意ではないけど、ここまで酷くはない。
「よし、できた。送りますよ。わたしの番号」
目の前で送られたメールを目の前で受信した。
久しぶりに反応した、わたしの携帯電話。着メロなんてどれぐらい聞いていないかってぐらい、春人と別れてからは誰ともメールも電話もしていない。
それが顔も本名も知らないおじさん相手なんて……笑える。あはは。
「あ、そうそう」
三人と交換し終わって、さあお開きだと思ったらヘルメットことヘッドなんだけど、ヘルメットでいいや。
そのヘルメットが手を打った。
「ぼくたちは平日もここをプライベートで利用するかもしれませんが、そのときはどうか見て見ぬ振りをしてください。それを暗黙の了解として……いえ、この集まりは選ばれた人間にしか入れない、プライベートと切り離した特別な時間にしたいんですよ」
「ほら、変身ヒーローの素顔は隠しておきたいってやつです」
ヘルメットとタイガーが矢継ぎ早に言う。
「だから、わたし、あなたたちの素顔知らないんですよ。それに用がなければ、ここには来ません」
未成年、というのはスッピンを晒したこと、こんな場所にいてビールを半分も飲んでしまったことが自制させた。
それにもう仕事もないわけだしね。
今度は借りているマンションの近くで仕事を見つけるよ。
「それに口外する相手なんていません。東京に友達なんていませんから……」
仕事の同期入社の女の子とは朝、更衣室で会えば挨拶をするだけで、仕事終わりに遊びに行くことも、飲みに行くことも、昨今流行の女子会というのを結成することもなかった。二人だから会よりコンビ。お笑い芸人みたいだ。
それに女の勘というのか、彼女とはどうにも合わないタイプ――嫌われてたかも。
わたしは田舎者で、土埃にも平気で塗れるけど(だからハウスクリーニングなんて、綺麗にするために汚れるのなんてお似合いだと思ったんだ)、彼女はお城に住む箱入りのハムスターのようで、小さく、愛らしい顔をしていた。
アイドルの誰かに似ている。履歴書の特技の欄にうそ泣きとか作り笑いとか書けそうなぐらい、表情がコロコロ変わり、上司に怒られればすぐに肩を震わせて嗚咽を漏らす。
彼女が泣いていたとかに関わらず、わたしはずっと笑っていた気がする。
春人も類にそぐわぬ立派な男で、いつもヘラヘラ笑って、春人を見上げているわたしよりも、小さく縮こまって俯いて泣いている彼女の方がお好みだったようだ。
「じゃあ、やっぱり、紙袋さんはぼくたちの仲間になるべきです。もちろん、あなたが幸せを掴むまでで構いませんし、北海道に帰るまででも構いません。ぼくたちはいつでもメールも電話も受けますし、相談にのります。あなたの味方ですし、あなたはぼくたちの味方です。助け合いの精神、素敵じゃありません?」
立ち上がったヘルメットは手を差し伸べてきた。
「ぼくと紙袋さんは特に境遇の似ている。――宇宙人を理解しようとする、仲間です」
「う、宇宙人?」
日本のどこかの県で懸賞金を懸けられてまで見つけ出そうとしているツチノコクラスに存在不確かな宇宙人ですって。
「ええ、我々は宇宙人であり、宇宙人と対話せし存在です」
確かにわたしはヘルメット男を宇宙人と重ねたけれど、わたしやヘルメット、タイガーに馬が宇宙人だなんて思えない。
「宇宙人なんているわけない」
「はい、いませんよ。でも、いるんですよ」
よくわからない。
陽気に言葉を紡ぐヘルメットは空を仰ぎ見る。
それは宇宙にいる宇宙人と交信しているせいなのか……。
田舎の母へ、先ほどの変な人は、宇宙人でした――って信じないよね。
「『宇宙人の集会』――この集まりの名前、どう?」
正直投げやりだったが、ヘルメットは真剣に悩んでいる様子。
しばらくして手を打って、星の見えない夜空に向かって人差し指を突き出した。
「『宇宙人の集会』、いいですね。言い得て妙とも言いますし、的を射ています」
ヘルメットは嬉しそうに手を叩いたので、タイガーも馬もそれぞれに鞄とリュックを手にしたまま、音のない拍手を贈った。
「あの……本当にいいの? わたし、あなたが宇宙がどうとか言ってたから、それで、その……」
ここまで気に入られると、逆に気を使われているのではないかと思ってしまう。
わたしに決めてと言った手前、わたしの顔を立てようとしているのではないだろうか。
テーブルを離れて歩き出すヘルメットを先頭にした、タイガーと馬。
紙袋を被り続ける覚悟も、再び自らの意思で被ることもできなかった。
すでに夜の八時過ぎ。
このビアガーデンも人の入りは最高潮で、空席など見られないし、こんな中途半端な時間に席を離れる人もそういなかった。
だから、満席のテーブルとテーブルの間――好奇な視線を向けられる、前の三人をわたしは恥ずかしながら追いかける。
適当に離れるのと、適当に近づくのと、どっちが変に見られないか、わたしにはわからないけど、色々なものを雑多に詰め込んだダンボールを抱えているわたしにも、周りの視線は突き刺さっているのかもしれないし、女性はわたしの崩れた化粧を変に思っているのかもしれない。
「宇宙人という単語、すごくいいです。なぜ気付かなかったのか、不思議でなりません」
ヘルメットは自分のヘルメットを、ぺしぺし平手で叩く。
「人間というのは、宇宙人なんですよ」
ヘルメットは振り返ったが、顔なんて見えないので、後ろ頭とあまり変わらない。
「銀河系の惑星の中の一つが地球だから~とか?」
アメリカ人が日本にいたら、その人をわたしたちから見れば外国人。
でも、わたしたち日本人がアメリカに行けば、アメリカ人から見た日本人のわたしは外国人となる。
「いえ、そういう謎かけとかそういうのではなくてですね……」
広い屋上を喋りながら歩いていると、会計まで来てしまう。
「あ、伝票……。いくらですか?」
わたしは客がほとんどいない、ビアガーデンがオープンしたばかりの時間からずっと居座っていた。それなのに注文したのは生ビールの中ジョッキと枝豆だけ。
あとは同席した三人――主にタイガーが追加注文した形になる。
「いえ、ここはわたしにお任せください」
伝票を持っていたのは一番飲み食いしていたタイガー。
ヘルメットと馬はほとんど食べていないし、飲んでいない。
ビアガーデンに何をしに来たんだって感じ。
「そんな、悪いですよ」
わたしはダンボールを足元に置いて、バッグから財布を取り出す。
「お願いします」
わたしがもたもたしている間に、タイガーは伝票をレジで差し出して清算してしまった。
「あの、すみません。これ」
恐る恐るなけなしの二千円を差し出すも、タイガーは首を振り、分厚い財布を持った手を振り、わたしに押し返した。
「それより、荷物多くて電車で帰るのは大変でしょう。タクシー代です」
逆に二万円を差し出された。
「そんな、もらえません。わたし、電車で平気ですから」
タイガーの財布の中身、この暗がりで見間違いじゃなければ、五十万ぐらいは平気で入ってるぐらいに分厚い。あれが一ドル札とかだと思っておきたいんだけど、簡単に二万円も差し出してくる辺り、あれ全部一万円札かも。
このタイガー、なにもの?
とにかく、そんな大金を今日知り合ったばかりの、素顔も本名も知らない人にもらえるわけがない。
「家、どちらですか?」
屋上から店内に入るのを惜しむように、空の下で空を見上げていたヘルメットが上を向いたまま尋ねてきた。
「八王子」
「ここからだと山手線で新宿か渋谷まで出て京王線ですね。ぼくと途中まで一緒ですけど、ぼくはまだ予定があるので一緒に帰れません」
「そ、そう」
残念ではなく、本気でよかった。
ヘルメットを被った変な人と一緒に電車に乗ったら、絶対に変人の仲間に思われる。
すでに屋外のビアガーデンでも注目の的なのに。
「わたしも、これから新宿駅の方に出ます。ちょっと約束があるのです」
「……おれの家は埼玉。真っ直ぐ帰る」
みんなバラバラだ。
「では、ここでお開きにしましょう。また後日。――紙袋さん、いつかあなたが、相談したいこと、ぼくたちを集めて『宇宙人の集会』を開きたくなったら、ぼくにメールでも電話でもください。すぐに他の方の予定を尋ねて集会を組みますし、ぼく以外の二人に直接用があれば、直接連絡してください。きっと、力になりますよ」
「はあ、ありがとう。正直……ちょっと救われたかも」
もし、あそこで声をかけられなかったら一人でわけもわからぬまま、このビアガーデンが閉まるまで空を見上げて泣いていたかもしれない。
わたしは淡白なのか、本気じゃないのか……自分でもわからないけど、この三人と話している間は、春人のことを少しは忘れられた。
「それはよかったです」
今日偶然に出会ったわたしたちは、出会ったこの場所で別れた。
『宇宙人の集会』、我ながらダサいネーミングセンスだと思う。




