第13話 川面の合流と、境界条文1.0
日曜、川面は曇り空をそのままコピーして、薄い銀紙みたいに光っていた。
視線の置き場所=川面。合図なし。“写真のない写真”のみ。
僕は護岸のベンチを斜めに確保して、反対側歩行で来る七瀬を待つ。風は弱く、鴨は議論を放棄して並んで流れていく。
16:00、彼女が現れる。足音で分かったわけじゃない。拍が、川沿いの欄干を一つ飛ばしで叩いたみたいに感じられた。
並ばない。斜め。視線=水。
名前を四拍で交換して、言わない自由を起動する。
「ななせ」
「みなと」
タ、タ、タ、タ。
それだけで、会えたの面積がじゅうぶんになる日がある。
五分ほどして、風が一段だけ強くなった。空の灰が濃くなる。
遠くで、雷。
スマホは裏返している。けれど、頭の片隅で注意報という文字が点滅する。
——非常条文2.0は屋外用。加えて、川には**“赤”**の概念が必要だ。
胸の中で四拍。
スイッチバック。
声にせず、口だけで合図。七瀬が頷く。
接触は最小。時間も最小。
僕らは欄干から一歩離れ、避難経路の緑に視線を置き、黄信号・四拍で終了。
戻れる。戻れた。
そこで、七瀬が角丸付箋に二語書く。
〈境界=赤〉
僕はうなずいて、一語だけ足す。
〈距離〉
***
月曜。
地域学級向けワークショップの余韻がまだ職員室の空気に混ざっている。
放課後、成宮先生が丸テーブルを叩いた。
「川沿い、昨日は雷注意報。——“赤”の条文、要るな」
要る。赤は立入禁止の色。**“待てる=黄”のさらに先に、“下がる”**がある。
夜、フックに付箋。〈“境界条文1.0”草案、投函〉
封筒の中に、白波の活字みたいな手書き。
『境界条文1.0(赤の扱い)
第1条 赤は「下がる」。合流・対面・作業・合図、すべて停止。
第2条 赤を宣言する権利は各自にある(対等)。
第3条 赤宣言後は**“代理拍”に切替(屋内・天窓・本・壁)。
第4条 赤の時間割:四拍×n+ログ。nは最小**から。
第5条 “罪”ではないことをログに明記(理由は色でのみ:黄橙/青灰など)。
付録:赤の記号=■(塗りつぶしの四角)。』
読みながら、胸の内の拍が丸い感じで落ち着く。
僕は余白に一行。
〈**第6条:赤の解除は“緑の四角+四拍”**で。第三者(先生・管理人)遠隔可〉
扉越し一分。
合図二回。返ってくる二回。
七瀬の声は、輪郭のはっきりした透明。
「採用。赤=下がる」
「**“罪ではない”の明記、救い」
「うん。“弱さ”じゃなく“管理”**にする」
合図を終える。タ、タ。
残:43日。
***
火曜は無音日。
“境界条文1.0”のテストとして、壁に赤の■を小さく一つ。
〈赤:20分/代理拍=本〉
今日の一行:“下がる”は、逃げじゃなくて距離の設計〉
深夜、ポストに白紙カードが返る。裏に緑の四角が描かれ、右端に四拍記号。
〈解除〉
言葉に頼らず、図形だけで呼吸が整うの、好きだ。
***
水曜。
地域学級の子たちが見学に来た。
棒グラフと輪、黄橙の点、赤の■。
「“赤”は何ですか」と小さな手。
「“下がる”の合図。怖いが方法に変わる色」
そう答えると、子の顔が安心の色に変わるのが見えた。
色にも拍が宿るのだと、目で分かる。
昼休み、如月が紙袋を抱えて現れる。
「棒と輪ロゴT、試作した」
袋から出てきたのは、前面に棒と輪、袖に小さく黄橙の点、背中に赤の■。
「安全なバンド」
「“怖いを方法に”、ツアー回れるな」
「物販:角丸付箋」
笑って、拍が一つ増えて、また戻る。戻れる笑い。
***
木曜。
週零ではない。合流の日だ。
放課後、交差点で黄が点滅する。四拍で渡らず、待つ。
黄の下で、待てること自体がご褒美になる日がある。
言わない自由のログを、角丸付箋一枚で壁に貼る。
〈日:木/拍:四/見る先:黄/注記:赤=0〉
夜、扉越し一分。
七瀬の声が少しだけ高い。
「土曜、地域センターの“丸い武器”講座、デモやる?」
「やる。“写真のない写真”ライブ版」
「言わない自由—四拍指定、やって見せよう」
「**赤の■**の説明も入れる」
付箋が滑る。
〈土曜 14:00/地域センター/棒・輪・黄橙・赤■〉
***
土曜。地域センター。
入口の掲示に〈“見えるだけ”で守る——記録と沈黙の道具〉。
成宮先生がMC、如月が写真(顔なし)係、管理人さんが安全管理。
僕と七瀬は、丸テーブルの上に角丸付箋と小さな棒グラフのカードを並べる。
前半、僕が**“写真のない写真”の作り方を説明する。
やったことだけ。顔は写らない。QRで照合。
後半、七瀬が“言わない自由”**のデモをやる。
四拍。
名前だけ。終了条件。
会場の空気が、少し甘く、少し涼しくなる。
質疑。
「“赤”を出すと、相手が傷つきませんか?」
七瀬は、輪郭を強めた声で答える。
「“赤”は“下がる”の約束です。“拒絶”ではなく**“管理”。——“罪ではない”とログに明記します」
「“黄”と“赤”の違いは?」
「黄は待つ**。赤は退く。緑で戻る。青で続ける。信号機=拍です」
最後列のおじいさんが「分かりやすい」と頷き、成宮先生が満足げに丸を空中に描いた。
講座の締め、短い実演。
僕らは壁だけを背にして、ログを三枚、連続で貼る。
〈言わない自由:四拍〉
〈赤:■20分→緑四角・四拍〉
〈写真のない写真:日・場所・拍〉
拍が会場に目に見えない目盛りを刻んで、ざわめきが均一になっていく。
拍の均一は、安全に似ている。
解散後、ロビーで一人の女性が近づいてきた。
名札に〈保健師〉。
「“赤は罪ではない”、保健の現場でも使いたい言葉です。“戻れる”の合言葉も」
紙の力が、別の領域で生きる約束をもらった気がして、胸の内で拍が一つ高く鳴った。
夜、壁に講座ログ。
〈日:土/場所:地域センター/拍:四×3/見る先:壁〉
今日の一行:“赤”は退路、“黄”は踊り場〉
残:42日。
***
日曜。
合流は川面の予定だったが、午前の雨が長引き、水位情報の掲示に赤に近い橙が灯っていた。
境界条文1.0の出番だ。
僕はフックに付箋。
〈赤宣言:本日合流中止/代理拍=天窓/赤=罪ではない〉
返事は緑の四角+四拍のカード。
解除は、明日に回す。戻れるは明日でもいい。
午後、家の天窓の下で四拍×2。
言わない自由のログを一つ。
〈日:日/拍:四×2/見る先:天窓〉
今日の一行:“下がる”を選べた自尊心は、明日の“戻れる”を強くする〉
***
月曜。
朝のHRで、地域センター講座の感想が回ってきた。
〈“四拍で終われる沈黙”を家でもやってみます〉
〈“赤は罪ではない”の紙、冷蔵庫に貼ります〉
紙が生活に引っ越していく。長生きの気配。
昼休み、如月がTシャツの背中を指差す。
「赤の■、家で**“今は話さない”**のサインに使ってる」
「普及しすぎてて笑う」
「棒と輪、社会実装」
丸い武器が公共財みたいになっていくのは、ちょっと誇らしい。
放課後、扉越し一分。
合図二回。返ってくる二回。
七瀬の声は、雨上がりに似た落ち着き。
「昨日の“赤”を選べた自分を、少し好きになれた」
「**“赤は罪ではない”**が効いた証拠」
「うん。——火曜、合流:本屋の“新刊台”」
「了解。視線=帯」
付箋が滑る。
〈残:41日/境界条文1.0 運用続行〉
***
火曜。本屋。
視線=帯。
新刊台の帯は、たいてい過剰で、そこがいい。過剰拍を紙に逃がす練習になる。
名前だけ交換して、四拍で沈黙。
隣の棚から子どもの声。「この本、写真ない」
母の声。「やったことだけ書いてあるね」
写真のない写真の語彙が、街にも少しずつ混ざっていく。
帰路は反対側歩行。
交差点の黄で四拍。
解散。
壁にログ。
〈日:火/見る先:帯/拍:四〉
今日の一行:“赤”の次の日の“黄”はご褒美〉
***
水曜。
成宮先生が職員室で、地域講座の学外出張版のチラシを配る。
〈“見えるだけ”は家庭内でもできるか?〉
副題に棒と輪、黄橙、赤■。
「お前ら、来月もう一回頼む」
「了解。丸い武器、錆びないように磨いときます」
先生が珍しく真顔で言う。
「——終わりが近づくほど、方法はやさしくなる。お前らのは、やさしい」
胸の奥で、拍が一つ増え、しずかに戻る。
夜、扉越し一分。
七瀬の声は、少しだけ照れを含んだ透明。
「**“赤は罪ではない”**を、母の冷蔵庫にも貼った」
「長生きするね、その紙」
「紙は長生き」
合図を終える。タ、タ。
残:40日。
***
木曜は無音日。
黄の交差点で四拍。
何も起きない。
“起きなかった”の博物館に、カードが一枚増える。
〈日:木/拍:四/色:黄〉
今日の一行:“下がる”と“待つ”が整備されると、“進む”は怖くない〉
深夜、ポストにカード。
『無音日の一行(白波):
“赤”を言えた日は、“青”に優しくなれる**。』
青=続行。
続行は、ときどき一番やさしい。
***
金曜。
授業終わりに突然の夕立。屋根を叩く雨音が外部拍になって、教室のざわめきを均一にする。
如月が窓を見て言う。
「青信号の雨だな」
「続行の雨?」
「今日の予定、予定のまま行けるってこと」
いい解釈だ。拍が一つ、軽く跳ねた。
放課後、扉越し一分。
七瀬の声が、決めてから話す人の声。
「——“合図の外で会う”の“約束”、紙にする」
紙。
紙は長生き。
彼女が差し入れたのは、角が丸い薄い契約書みたいな紙。
『合図の外で会う・週一 合意書(輪郭版)
・視線の置き場所は交代制。
・記録=写真のない写真。
・“赤”はいつでも宣言可(罪ではない)。
・“黄”と“四拍”で解散。
・“青”は各自の拍で続行。
・“緑四角”で戻る。
——期限:残40→0日まで(延長は**“輪”**で合意)。』
僕は笑いそうになって、笑わなかった。笑うと、拍が崩れる気がして。
代わりに、B寄りHBで丸を一つ。合意の丸。
丸い武器が、また一枚、武器庫に入った。
夜、可視化シートの余白に二行。
〈“赤=下がる/罪ではない”——境界はやさしさの外形〉
〈拍・色・図形。言葉の外側が、今日の言葉〉
生活は手順。恋は予定外。
予定外は、川面にも、天窓にも、帯にも、黄橙にも映る。
映るたびに、戻れる道が濃くなっていく。
紙は長生きだ。
残り40日。
棒と輪と色のセットをポケットに、僕らはまた週一の合流へ向けて、拍を整え始めた。