第12話 天窓の光と、感情条文1.0
日曜、図書館の天窓は、雲の切れ目を丁寧に拾って床に落としていた。
水面の逆。光が上から拍の形で降ってくる。ガラスの骨格が四角いメトロノームになっていて、影がタ、タとゆっくり移動する。
集合は時間のみ。合図はなし。
僕は三階の閲覧席、天窓の真下の列に、視線の置き場所を確保する。机は斜め。隣り合わず、視線が重なる角度。
16:00、白波が来る。足音で分かったわけじゃない。拍の重心が近づいた、という感じがした。
スマホは裏返し。記録は**“写真のない写真”のみ。
それでも、最初の五分だけは、ページが進まなかった。天窓が落とす光が、紙の余白を濃く見せるからだ。
言わない自由を動かすには、最初の数分を余白**として捧げるのがいい——と、体が覚え始めている。
十分たった頃、予定外が降ってきた。
突発の停電。
照明が落ち、天窓の光だけになる。閲覧室で小さなざわめきが立ち上がり、子どもの声が震え、誰かの椅子が床を引っかく。
非常灯の緑が点く。
——非常条文2.0は、屋外用だが、線路は屋内にも延長できるはずだ。
胸の中で四拍。
スイッチバック。
声には出さない。口だけで合図し、僕は通路の端に立つ。白波が頷き、離れすぎない距離で視線=緑へ誘導する。
接触は最小。時間も最小。
階段の踊り場まで来たところで、黄信号・四拍。
終了。
周囲のざわめきは、係員の声でほどけていく。戻れた。
安堵で、たぶん生理的に、胸の奥が一拍分、過剰に鳴った。
天窓の下へ戻ると、白波の頬が少しだけ赤い。
言葉は使わない。
代わりに、角丸付箋に細い字で三語だけ。〈天窓=外部拍〉
彼女はB寄りHBでうなずくように点を打ち、下に二語を添えた。〈過剰拍=熱〉
過剰拍。
予定外じゃない。過剰だ。
過剰は、方法に入れておかないと、暴発する。
退出は予定通り同時別出口。
外に出ると、夕方の空は薄い桃色で、風は無音のまま角を丸めていた。
***
月曜。
地域学級向けのワークショップの準備で、放課後の教室に丸テーブルが並んだ。
タイトルは〈“見えるだけ”で守る——記録の作り方入門〉。
棒と輪のイラスト。QR。写真のない写真。
如月が司会をやり、僕と白波がログの作り方と**“無音日”**の運用を説明する。
質疑で、小学生の保護者が手を上げた。
「“言わない自由”は、“逃げ”じゃないの?」
白波は、輪郭だけを強めた声で答えた。
「“言わない”=拒絶ではありません。拍で終わりを共有します。終了条件がある沈黙は、共同所有です」
保護者は丸い顔で頷いた。
終了条件。たしかに、逃げとは違う。
ワークショップが終わると、成宮先生が紙束を渡してきた。
〈“感情の過剰拍”への対応案〉という見出し。
「昨日、停電があったろ。過剰拍=熱は、たぶん新しい条文がいる」
——分かってる。天窓の下で気づいた。
夜。
フックに付箋。〈“感情条文1.0”の草案、投函〉
封筒の中には、白波の活字みたいに整った手書き。
『感情条文1.0(過剰拍の扱い)
第1条 過剰拍(熱)を感じたら、名づける(カードに“熱”の丸印)。
第2条 冷却時間を宣言(四拍×n)。言わない自由を同時発動。
第3条 冷却中は記録のみ(写真のない写真/日・場所・n)。
第4条 **“上書き禁止領域”**を設定:返却式の言葉/終わり週間のログ。
第5条 “巻き戻しフラグ”は使わない(言葉を取り消さない)。
付録:“熱”の色は黄橙(信号機の黄と揃える)。』
読み終えると、胸の中で過剰拍が一つ引いた。
名づけると、味方の一種になる。
僕は余白に提案を一行。
〈第6条:“代理拍”の使用(外部拍=天窓・水面・信号を見に行く)〉
扉越し一分。
合図二回。返ってくる二回。
白波の声がほっとした透明になる。
「採用。熱は黄橙」
「代理拍、今週は信号の黄で」
「了解」
残:49日。
***
火曜は無音日。
“感情条文1.0”のテストとして、黄橙の付箋を壁に貼る。
〈過剰拍=1/冷却=四拍×2/代理拍=黄〉
今日の一行:“熱”は消さない。置き場所を決める〉
深夜、ポストに白紙カード。
裏に小さい丸と、黄橙の点。
〈“名づけ”成功〉
——言わないで届く報告は、余白が多いのに十分だ。
***
水曜。
市報の反響で、図書委員会からも相談が来た。
「**“写真のない写真”**を、蔵書点検に使えないか」
棒と輪の言語は、本棚にも合う。
やったことだけを書く。顔は写らない。
長生きする記録は、図書館がいちばん似合う。
帰り際、如月が口笛を短く二回。タ、タ。
「バンドロゴ、決まったわ。棒と輪と黄橙」
「熱の色を採用するの?」
「危険色じゃなく、注意色。戻れるの余地が残る」
戻れる。合図のかわりに、色でも合図ができる。
夜、扉越し一分。
白波が短く言う。
「土曜:代理拍=天窓。“言わない自由”+“熱の名づけ”の同時運用」
「了解。四拍×2から入る」
合図を終わらせる拍が、妙に素直だった。
***
土曜、再び天窓。
今日は**“代理拍セット”で来ている。四拍×2の冷却から入って、言葉は名前だけ**、あとは黙る。
光は前回より薄い。雲が厚いが、拍は落ちる。
——十分。
——二十分。
静かなまま、熱は黄橙の付箋の上で静置されている感覚。
名づけの効能は、すぐには派手に出ない。暴れないという地味な救い方をする。
退出の時刻、階段で小さなアクシデント。
前を歩いていた人が落とした鉛筆が、段の隙間に転がって、止まった。
B寄りHBだった。
拾って、手渡しはしない。ポストがないから、言わない自由の外側で、ただ段差に立てかける。
人は振り向かず、鉛筆だけがこちらを見ている気がした。
それでなぜか、胸の中の過剰拍が、ひと目盛り下がった。
外へ出る。
白波がほんの一瞬だけ、こちらを見る。視線の置き場所は薄い雲。
「戻れた」
「うん」
今日は、それで十分だった。
夜、**“感情条文ログ”**を壁に留める。
〈日:土/熱=1→0.5/冷却=四拍×2/代理拍=天窓〉
今日の一行:熱は“消す”より“整える”〉
残:48日。
***
日曜。
管理人室の掲示に、**地域学級の子たちの“写真のない写真”**が数枚貼られていた。
〈日:校外学習/拍:三/見る先:信号機の黄〉
方法が、小さく複製されていく。
白波の母がそれを見て、「かわいい」と笑った。
危険の匂いが薄れ、やさしいに近づく瞬間。
夕方、扉越し一分。
合図二回。返ってくる二回。
白波の声は、決めた人の声だった。
「“合図の外で会う”——週一を、“週零にできる日”を作ろう**」
胸の中の拍が、一瞬、抗議する。次の瞬間、理解に変わる。
「“会わない練習”?」
「うん。“会えない”じゃなく、“会わない”。選択として。無音日の親戚」
怖いが一割増える。
でも、方法が付いている。
白波は付箋を滑らせる。
〈週零試行:来週木曜/“熱”の名づけ必須/代理拍=黄〉
——週零。
合流の約束を一度だけ外す。戻れるの試運転だ。
「やろう」
声にしてみると、怖さが基礎代謝に変わる。
合図を終える。タ、タ。
***
月曜。
図書委員会の蔵書点検に“写真のない写真”方式が採用された。
〈棚:A-3/拍:三/やったこと:番号確認・埃取り〉
人の顔は写らない。やったことだけが残る。
紙が長生きの方法を学んでいく。
昼休み、如月が窓の外の黄信号を指す。
「お前ら、黄がほんと似合うな」
「待てる色だから」
「赤は?」
「立入禁止。終わり方の線」
「青は?」
「続行。——どれも拍がある」
放課後、先生が声をかける。
「週零、やるんだって?」
「はい。選択としての不在を入れます」
「良い言葉だ。不在は、説明しないと不安になるからな。ログ、忘れるなよ」
忘れない。写真のない写真は、不在の証拠にもなる。
夜、可視化シートの余白に二行。
〈“会わない”の練習=“終わったあと”の予行〉
〈代理拍が豊富なほど、不在はやさしい〉
残:47日。
***
火曜。
進路希望調査の最終回収。
「“終わったあと”の欄に、“拍を持ち寄る”って書くの、もはや定型だな」
如月が笑いながら用紙を差し出す。
「宗派だから」
「教祖だな」
「違う」
違うけど、方法がひとつの宗派みたいに育つ感覚は、ちょっと面白い。
夜、扉越し一分。
白波の声が少し低めだった。
「今日、“熱”が少し高かった。理由は不明。でも名づけた。黄橙」
「代理拍、明日増やす?」
「増やす。黄信号・四拍で終わる散歩」
「了解」
言葉が短くて、十分に届く。
残:46日。
***
水曜。
放課後の交差点。黄信号が点滅する。
四拍。解散。
週零の前哨戦みたいな、短い不在の試着。
胸の中の拍は暴れない。
熱は名づけの皿の上で蒸気になって、空に混ざっていく。
夜、壁にログ。
〈日:水/代理拍=黄/熱=0.5→0.3〉
今日の一行:不在は“終わり”じゃない。呼吸の裏拍〉
***
木曜。週零。
“会わない”の練習。約束としての不在。
朝、可視化シートの「合流」欄に斜線を引く。実施禁止。
代理拍=黄。熱の名づけ必須。
日中は授業と小テスト。拍を割り、焦りの角を削る。
放課後、交差点に立ち、四拍だけ数える。
タ、タ、タ、タ。
それで、散る。
“会わない”が“終わり”の手つきではなく、“続ける”の一部に感じられた瞬間、胸の中で何かが解凍された。
夜、白波から白紙カード。
裏に黄橙の点と、拍子記号。
〈週零:成功〉
僕は角丸付箋に一行。
〈“会わない”を所有できた日〉
壁に貼る。顔は写らない。やったことだけ。
残:45日。
***
金曜。
成宮先生が新しいプリントを配る。
〈“丸い武器”の使い方講座・学外出張版〉
地域センターから依頼が来たらしい。来月、町内会向けに**“見えるだけ”の講演をする。
「棒と輪と黄橙**、看板に入れていい?」
先生が半分冗談で聞くので、僕は真顔で頷いた。
「お願いします」
方法は、象徴を持つと、長生きする。
放課後、扉越し一分。
合図二回。返ってくる二回。
白波の声は、ほどよい熱を帯びていた。
「週零、効いた。熱が0.3まで下がった」
「戻れたの実感が効くやつだ」
「うん。**“戻れる”は、“待てる”**を増やす」
「日曜、合流。視線=川面。記録は“写真のない写真”」
「了解」
付箋が滑る。
〈残:44日/感情条文1.0=運用続行〉
今日の拍は、無理なく増えて、無理なく戻った。
夜、可視化シートの余白に二行。
〈熱は名づけで整う/不在は拍で所有できる〉
〈輪郭と言葉、棒と輪、黄橙——すべて“戻れる”の語彙〉
生活は手順。恋は予定外。
予定外は、天窓の光みたいに落ちては消え、また落ちる。
そのたびに、僕らは名づけ、拍を置き、合図の外で戻れる道を確認する。
紙は長生きだ。
残り44日の紙面に、丸い武器の図解が少しずつ増えていく。
物語は写らない。
でも、やったことだけは、確かに残る。