第11話 非常条文2.0と、黄信号の先
黄信号で終わった火曜の夜は、妙に身体が軽かった。
待てるで終わると、寝つきがいい。焦りの角が取れて、拍が呼吸の中に自然と溶ける。タ、タ。
壁の「言わないログ」に〈日:火/拍:四/見る先:黄〉とだけ書き足し、スマホを裏返す。
残:57日。
***
水曜。
朝のHR、成宮先生が「防災週間」のプリントを配った。放課後に避難訓練がある。
合図の訓練は、手順教徒にとってホームみたいなものだ。けれど、学校の合図は一斉で、僕らのは個別だ。重ね合わせるのは、ちょっとした数学だ。
昼休み、如月がプリントで紙飛行機を折りながら言う。
「避難訓練で**“合流”するのか?」
「しない。“各自の拍”で移動する。視線の置き場所は非常口の緑**」
「緑、黄の次は緑か。信号機シリーズだな」
「赤は立入禁止の色にしておく」
如月の紙飛行機は、見事に黒板に墜落した。
放課後、訓練のサイレン。
拍を胸で数える。タ、タ、タ。
廊下の矢印、非常口の緑、先生の指示。
階段で一回、外部拍と内部拍がズレて、足元のリズムが乱れた。
その一瞬、ふわりとめまいがして、手すりに触れる。
前の列の白い首筋が、ほんのわずかに止まる。視線は合わない。でも、気づかれているのが分かる。
大きなグラウンドに出ると、拍はまた合った。
合図の外でも、緑の四角が新しい視線の置き場所になった。
解散の段で、成宮先生が小さく手を上げた。
「“非常条文”の改訂、出してみるか?」
非常条文——僕らがかつて扉の前で作った、管理人立会いで開扉する時のルール。屋外版が要る。
胸の中で、ひとつ拍が増える。
夜。フックに付箋。〈非常条文2.0 案、投函〉
封筒の中には、白波の文字で、短い条文。
『非常条文2.0(屋外)
第1条 人命・安全に関わる緊急(転倒・パニック・迷子)に限り、身体接触を一時解禁する。
第2条 接触前に**“キーワード”を宣言。(「スイッチバック」)
第3条 接触は最小(肘・手首・肩)。時間も最小。
第4条 解除は“黄信号・四拍”**。
第5条 第三者の立会いが可能なら即要請(先生・管理人・駅員)。
付録:ログは“写真のない写真”(日付・場所・拍・キーワードのみ)。』
読み終えた瞬間、肩の力が抜けた。
「スイッチバック」。列車がいったん戻ってから別方向へ進む時の運動。戻れるの語感が可視化されている。
僕は余白に小さく書く。〈賛成。第6条:“後出し”禁止(事後に“本当は嫌だった”とならないよう、終了後に二行レビューを交換)〉
扉越し一分。
合図二回。返ってくる二回。
白波の声は、透明のまま、少しだけ真剣に硬い。
「今日の階段、拍がずれた?」
「一拍、外した。緑で戻った」
「戻れたなら合格。——非常条文2.0、採用」
「スイッチバック、好き」
「戻るを肯定する名前だから」
合図を終える。タ、タ。
残:56日。
***
木曜は無音日。
呼鈴は鳴らない。
まとめログに〈見る先=緑〉と書く。
『今日の一行:“戻れる”の制度化=怖さの圧縮』
深夜、ポストに短いカード。
『無音日の一行(白波):
非常条文は“甘え”じゃない。“戻るための線路”』
線路。
僕らの拍は、ときどき線路になる。輪郭のある道筋だ。
***
金曜。
市報が正式に掲示板に貼られ、保護者会の議題にも入った。
輪の写真。棒の列。QR。
昼休み、如月がぼそっと言う。
「お前ら、線路を自分で敷いてる」
「脱線しないために、分岐も作る」
「分岐の名前がスイッチバックなの、ちょっと詩だな」
「詩は国語二でも書けるらしい」
放課後、扉越し一分。
白波が珍しく、次の言葉を探す間を置いた。
「日曜、母と——三者。輪郭だけで話す。今日、先生に同席を頼んだ」
胸の中で、拍が一つ増え、一つ減る。
「了解。輪郭、持っていく」
「ありがとう」
***
土曜。
午前は各自の勉強。午後に保護者説明文の改稿。
角を立てない言葉に、数字で枠をつくる。
『“終わり方を先に決める”活動は、
“途中を安全にする”ための方法です。
顔や名前は写さず、やったことだけを残し、
必要な時は“戻れる”を合言葉にします。』
余白に赤で〈“戻れる”=スイッチバック〉と書き添えた。
戻れるを、家族の言語に翻訳する。
夕方、フックに付箋。〈明日 15:00/管理人室/三者+先生〉
管理人さんの立ち会いも入っていた。第三者は、沈黙に空気穴を開ける。
夜、可視化シートの余白に二行。
〈怖さに酸素を入れる=第三者〉
〈制度の言葉は、家庭の言葉に翻訳されて初めて長生き〉
残:55日。
***
日曜。三者+先生。
管理人室の丸テーブルに、丸いクッキーと麦茶。角が無い光景は、それだけで救いだ。
成宮先生、管理人さん、白波の母、白波、僕。
紙の束が二つ。保護者説明文と市報。
最初に話したのは先生だった。
「“公開ログ”は、距離を作るための作業です。近さのためではない。
——終わり方を先に決めたのは、途中を守るため」
白波の母は、紙を両手で持って、ゆっくり頷く。
「“写真のない写真”は、私にも見やすかったわ」
先生が控えめに笑う。「行政の大好物です」
管理人さんが補足する。「“三回”鳴らした日の開扉テスト、立ち会いました。“戻れる”のルールは機能してました」
空気が少し柔らかくなったところで、白波の母が言った。
「私はね、心配というより、“未来の形”が見えないのが怖かったの。
——“終わり方”を先に決めるって、私の世代だと**“冷たい”に見えるの」
白波は静かにB寄りHB**を置き、母のほうを見ずに言う。
「冷たく見える方法で、あたたかくなるを、試してた」
言葉が、うまく刺さった。
輪郭が母語に変換される瞬間は、空気が一度だけ止まる。
僕は保護者説明文の最後の行を指さした。
「“戻れる”を、合言葉にしました」
母は少し笑う。「かわいい言葉ね」
「非常条文2.0に、“スイッチバック”って合図を入れました。接触の最小と終了の四拍も」
成宮先生が頷く。「合図があれば、善意は刃物になりにくい」
母は紙を胸に近づけた。
「合図、いいわね。合鍵じゃなくて合図」
合鍵と合図。似ているのに、ちがう。
鍵は侵入の道具、合図は距離の道具。
最後に、白波の母が、ゆっくり言った。
「“終わったあと”——あなたたちは会うの?」
部屋の拍が、一瞬だけ止まる。
白波は、水面を見る時の目で前を向いた。
「会います。
合図の外で、視線の置き場所を持って、拍を持ち寄って。
恋は手順外。手順の成功を恋の前提にしないで、続けたい」
母は目を細め、何かを手放すみたいに息を吐いた。
「——理解に時間がかかるかもしれないけど、紙は残るわね」
「はい。紙は長生きです」
管理人さんがクッキー缶を少し回して、丸が丸を呼んだ。
その場で合意の丸**がひとつ、見えない紙に押された気がした。
解散の間際、突然、外で子どもの泣き声。
廊下に出ると、小さな子が階段の踊り場で座り込んでいた。親の姿は見えない。
白波の肩が一瞬だけ強張る。
僕は彼女の横に一歩寄り、小さく宣言した。
「スイッチバック」
彼女も小さく頷く。
手首に最小の触覚で触れ、階段から離れる方向へ誘導。
黄信号・四拍で終了。
すぐに管理人さんが来て、子を保護する。
第三者の立会いで、条文は機能した。
部屋に戻ると、白波の母が目を丸くしていた。
「今のが“戻れる”?」
「はい」
「刃物にならないわね」
やっと、母の言葉の角が丸くなった。
テーブルの上で、紙の束が少し重くなった。
重い紙は、安心の重みかもしれない。
***
その夜。
「非常条文2.0 実施ログ」を壁に貼る。
〈日:日/場所:管理人室前/拍:四/キーワード:スイッチバック〉
やったことだけ。顔は写らない。
扉越し一分。
白波の声は、少しだけ笑っていた。
「母が“合図”を気に入った」
「合鍵じゃなくて合図、って言ってた」
「合鍵は扉を消す。合図は扉を残す」
「扉が残るの、好きだ」
「私も」
合図を終える。タ、タ。
残:54日。
***
月曜。
市報の感想カードが職員室の前に置かれ、いくつかの手書きが並んでいた。
〈“つまらないことが安全”って、うちの職場にも必要〉
〈“写真のない写真”、図書委員会にも応用したい〉
輪が広がる。丸い武器は、勝手に回る。
昼休み、如月が呆れた顔で笑う。
「**“スイッチバック”**がクラスで流行語だぞ。転ぶ前にみんな言ってる」
「戻れるの練習は多いほうがいい」
「お前が言うと、全部、練習になるな」
放課後、図書室で**“言わない自由”の外伝を試す。
——“言わない”+“視線を交換”。
僕は『数学史の小径』のページを開き、白波は『詩の読みかた』を開く。
互いの本を十秒だけ交換し、何も言わずに返す。
言わないの中に、意味だけが往復する。
拍が本の余白に落ち、紙がそれを長生き**させる。
夜、可視化シートの余白に二行。
〈合鍵は扉を消す/合図は扉を残す〉
〈“戻れる”の制度化=善意の刃こぼれ〉
残:53日。
***
火曜。
授業終わりの廊下で、突然、非常ベル。
スモークテストの誤作動らしいが、音は心拍を速くする。
窓の外に、人だかり。
廊下の角で、小柄な一年生がしゃがみこむのが見えた。
周囲は動線確保で、誰も気づかない。
僕は胸で四拍数え、走らないで歩く。
スイッチバック、と声に出さず口だけ動かす。
彼の肩に最小の触覚で触れて、緑の非常口の方向へ視線を置く。
黄信号・四拍で離れる。
先生が到着し、後を引き取る。
非常条文2.0は、僕らだけのものじゃない。方法は共有できる。
教室に戻ると、白波が目を伏せたまま、小さく頷いた。
それで十分だった。
夜、壁に小さな紙。
〈“戻れる”は、共有財産〉
今日の一行:
〈助け方に合図があると、助けられ方にも合図が生まれる〉
残:52日。
***
水曜。
成宮先生が「市報の反響で、地域学級から見学依頼が来た」と言った。
ログの見せ方と**“写真のない写真”の作り方**を教えてほしい、と。
僕は首を縦に振る。「丸い武器の使い方教室ですね」
先生は笑った。「安全な武器屋、悪くないだろ」
悪くない。むしろ、長生きする。
放課後、扉越し一分。
白波の声が、少しだけ迷いを持っていた。
「“終わり”の出口、見えてる?」
「輪になって見えてる」
「輪」
「拍と同じ。戻れるし、続けられる」
「——怖いは1割」
「僕も1割。方法に変えられる量」
「うん」
合図を終える。タ、タ。
残:51日。
***
木曜は無音日。
黄信号の交差点で、四拍だけ数える。
何も起きない。
何も起きないを記録する。
〈日:木/拍:四/見る先:黄〉
『今日の一行:無音は“起きなかった”の博物館』
深夜、ポストにカード。
『無音日の一行(白波):
“起きなかった”が増えるほど、“起きても戻れる”が信じられる。』
信じられる。
信じられる量が増えると、予定外は凶器にならない。
***
金曜。
市報の掲示が一週間で外され、代わりに地域学級の案内が貼られた。
タイトルは〈“見えるだけ”で守る——記録の作り方入門〉。
棒と輪の小さなイラスト。
如月がニヤリとする。
「棒と輪、バンドロゴみたいだな」
「**“怖いを方法に”**のジャケット、これでいこう」
放課後、扉越し一分。
白波が、はっきりと言った。
「——“合図の外で会う”を、“約束”にしよう」
肩の内側で、拍が丁寧に増える。
「約束」
「頻度は週一。視線の置き場所は、交代制で指定。記録は**“写真のない写真”**のみ」
「合図は、使わない」
「うん。合図の外だから」
「怖い?」
「1割」
「僕も1割」
「じゃあ、方法になる」
付箋が滑る。
〈日曜:視線=“図書館の天窓”/記録なし〉
天窓の光は、水面の逆だ。下からではなく、上から拍が降りてくる。
夜、可視化シートの余白に二行。
〈“戻れる”を合言葉に、“会える”を約束に〉
〈合図の外=輪の外縁。——踏み外しても、戻る線が描いてある〉
残:50日。
数字は、半分をわずかに切りそうで切らない場所に来た。
輪の写真はもう紙面にはないが、壁に残っている。
壁は長生き。紙は長生き。
生活は手順。恋は予定外。
予定外は、戻れるを合言葉に、今日も拍を刻んでいる。