第10話 言わない自由と、沈黙の文法
週明けの月曜、教室は市報の話でざわざわしていた。
貼り出された紙面には〈“公開ログ”で安全は作れるか?——高校の小さな実験〉と見出しが躍り、その下に棒グラフと名札とQR。人の顔は写っていない。壁だけが大きく写っている。
「お前ら、新聞デビューだな」
如月が指で紙面の余白を叩く。
「余白が主役のデビューは珍しいね」
「お前が言うとキャッチになるな。——で、次は?」
「“言わない自由”の設計」
「ついにMCが歌わないライブか。二曲目で解散するやつ」
「拍だけ残る名盤もある」
笑いがひとつ転がって、廊下へ逃げていった。
言わない自由。
僕らの条文に、いよいよ載せる時が来た。
***
放課後。
マンションのフックに付箋。〈“言わない自由”草案、投函〉
ポストには、細い罫線の便箋が三枚。白波文体の、迷いの少ない字が並ぶ。
『“言わない自由”条(案)
第1条 会っている時に、言わないことを選べる。
第2条 言わない=拒絶ではない。合図は拍に置換できる。
第3条 質問カードは“白紙提出”可。受け手は推測で埋めない。
第4条 “あとで言う”は約束ではない。言わないの完成形を認める。
第5条 沈黙の終了条件を拍数で宣言可(例:四拍)。
付録:“見る先”の指定(水面・本・空・壁)。』
読みながら、胸の中でメトロノームを回す。タ、タ。
言わないが拒絶に見えないように、拍を置く。なるほど、文法だ。
僕は余白に返事を書く。
〈賛成。第6条追加提案:“言わない”ログ(日付・拍数・見る先のみ)を壁に留める。顔は写らない〉
扉越し一分。
合図二回。返ってくる二回。
白波の声は、いつもより輪郭が薄い。言葉を削る練習の声だ。
「明日、試す?」
「明日。水面。四拍」
「了解」
合図はそれだけ。
短い会話が、約束の重さに足りる日が増えた。重さは拍で持ち替えられる。
***
火曜。公園の池。
ベンチは斜め。視線は水面。
**“言わない自由”**の初回テスト。
ルールは簡単。
——四拍だけ名前を呼んでいい。あとは“言わない”。
「ななせ」
「みなと」
タ、タ、タ、タ。
四拍が流れる。
それから、黙る。
言いたいことはいくらでもあるはずなのに、黙る。
黙っている間、視線は水面に置く。波紋が生まれて、ほどけて、どこへも行かない。
五分、十分。
沈黙の終了条件は決めてある。今日は二度目の四拍。
合図なしで、胸の中でタ、タ、タ、タ。
同時に、隣で小さくページを閉じる音。
終了。
交わした言葉は名前だけ。
それなのに、会ったことの面積は、思ったより広い。
帰り道は反対側歩行。
僕たちは何も言わない。
でも、言わないの中に意志がある。
言わないを、放置にしないための拍。
沈黙の文法が、体に入ってくる。
夜、**“言わないログ”**を壁に留める。
〈日付:火/拍:四+四/見る先:水面〉
記録は最小単位。やったことだけ。顔は写らない。
***
水曜。
進路面談のフォロー面談が全員に入った。先生が一言ずつ輪郭の調整をする日。
僕の番の前、白波の席に保護者説明文のコピーが置かれている。端に「了解」の青い丸。
輪郭は、今日のところ守られているらしい。胸の奥の何かが軽くなる。
「佐伯」
呼ばれて、席を立つ。
先生は書類をめくらず、机の上で指先だけ動かして言った。
「“言わない自由”、導入したな」
「はい」
「難しいやつから先に行く」
「拍があります」
先生は微笑に見える角度で口元を動かす。
「拍は教育の盲点だな。……保護者説明、もう一段丸くできるか?」
「角が立たない言い換え、考えます」
「数字は角に、言葉は輪郭に。——忘れるな」
忘れない。つまら判の出番だ。
***
木曜は無音日。
呼鈴は鳴らない。
まとめログを書く。
〈起床 6:30/朝食 バナナ+牛乳/自習 80分(英語)/裏返し 23:00/作業:保護者文の言い換え検討/心:“言わない”の中に余白があると、予定外は静かに育つ〉
今日の一行:沈黙は関係の“共有財産”〉
深夜、ポストに白紙のカード。
裏に小さく〈白紙提出=成功〉。
言わない自由 第3条が、静かに立ち上がる。
***
金曜。
“言わない自由”は早くも誤解を生んだ。「冷めた」「距離を置いた」——教室の隅で、単語がひとり歩きする。
如月が肩をすくめる。
「説明する?」
「しない。“言わない自由”は外へ“言わない”も含む」
「おお、宗派が深くなった」
説明しない代わりに、壁に小さな紙を一枚増やす。
〈“言わない自由”ログ:言葉0/拍8/見る先=空〉
見えるものだけ。
噂は繊細だ。**“わからない”と“悪い”**を短絡に繋ぎがちだ。
間に、拍の一拍を挟んでやれば、短絡はほぐれる。
放課後、扉越し一分。
合図二回。返ってくる二回。
白波の声は、輪郭が戻っている。
「土曜、行ける?」
「行ける。“言わない自由・外部環境版”のテストしよう」
「本屋?」
「美術館。視線の置き場所が過密にある」
「了解」
***
土曜。市立美術館。
集合は時間のみ。合図はなし。
ホールの時計が14:00を指す時、僕らは別の入口から同時に入った。
チケットの半券をもぎられ、足音が樹脂床の上できしむ。
展示は抽象画が多い。
視線の置き場所が、壁一面に無数。
言わない自由を発動するのに、これ以上の環境はない。
最初の部屋で、僕は青の平面の前に立ち、四拍だけ胸で数える。
タ、タ、タ、タ。
名前は呼ばない。
隣の壁で、別の平面の前に立つ人影が視界の端をかすめる。
言葉の代わりに、足の重心で拍を作る。
シューズのソールが、わずかに床を押す。押して、戻す。
拍のモールス。
返ってくる、押しと戻し。
会話じゃない。対話でもない。
合流に近い。
二部屋目。
線が密に重なる作品の前で、白紙カードを一枚、壁際のベンチにそっと置く。
〈白紙提出〉
——十分後、カードは裏返って戻ってきた。
裏には拍子記号のような三本線。
〈三拍〉
沈黙の終了条件が、楽譜みたいに指定される。
胸でタ、タ、タ。
終わり。
次へ進む。
三部屋目。
立体作品。金属が輪を重ねて、空間に拍を作っている。
近づくほど、輪の影が床に落ちて、二重の拍になる。
影の拍に合わせて、僕らは置かれた椅子に斜めに座る。
口を開かない。
それでも、同じ時間を、同じ密度で過ごせる。
出口手前のラウンジで、**“言わないログ”**を記す。
〈日付:土/拍:三・四・三/見る先:平面・線・輪〉
係員の人が不思議そうに覗き込み、「新しい鑑賞法ですね」と笑った。
「丸い武器で見てます」
説明になってないけれど、敵意の角を落とすには十分だった。
外に出ると、光が濃くて少しまぶしい。
言わないの圧がほどけて、身体に空気が入る。
「よかった」
白波が、言葉を少しだけ使って言う。
**“よかった”**は、言わないの出口としてちょうどいい。
僕もひとつだけ言う。
「戻れた」
彼女は頷く。
戻れるは、いつだって評価軸になる。
***
日曜。
無音日と**“言わない自由”**が重なる。
呼鈴は鳴らない。
まとめログだけが壁に増える。
〈無音日ログ+“言わない自由”拡張
起床 6:40/朝食 パン・スープ/自習 70分(数学)/裏返し 22:30/作業:市報感想の返信(輪郭ことば)/心:言わないは減点ではなく仕様。
今日の一行:話さないで守れる距離がある〉
深夜、ポストに角丸付箋が一枚。
〈残:58日/“言わない”が増えたぶん、“見る先”を増やす〉
“見る先”のリストに新項目が追加されていた。
「信号機の黄」。
止まるでも、進むでもない。待つの色。
待てるは、たぶん、終わりを設計した人の動詞だ。
***
月曜。
朝のHRで、市報が正式に掲示板に貼られた。
輪の写真。棒の写真。QR。
黒板の前で成宮先生が短く言う。
「続きは、もう学校の実験じゃない。各自の生活でやれ」
実験は終わった。
生活が始まる。
生活は、ラボより散らかっていて、だからこそ手順が効く。
昼休み、如月がパンをもぐもぐしながら親指を立てる。
「“言わない自由”ライブ、アンコールは?」
「“言わない”の外に一行**。それだけ」
「何て?」
「“怖いを方法に”」
「バンド名、やっぱりそれだわ」
放課後、扉越し一分。
合図二回。返ってくる二回。
白波の声が、透明で、迷いが少ない。
「次の無音日、“黄信号”で終わらせよう」
「いい。待てるで終わる」
「待てるは続けられるの友だち」
「うん。続けるの敵は、たいてい焦り」
「焦りは、拍で割る」
「割り算、得意になった」
付箋が滑る。
〈火曜:黄信号/四拍→解散〉
ロジックが軽く、でも抜けなく絡む。
沈黙の文法は、いつの間にか母語みたいになってきた。
夜、可視化シートの余白に二行。
〈言わない自由=沈黙の所有権。
拍があれば、沈黙は共有地になる〉
角に小さく、残:57日。
***
火曜。
放課後の交差点。
黄信号が点滅する。
僕らは向かい側に立ち、四拍だけ胸で数える。
タ、タ、タ、タ。
それで、解散。
言葉はない。
でも、約束はある。
怖いは、方法の中に置かれたままだ。
呼鈴は鳴らさない。
壁にはログだけが増える。
写真のない写真は、今日も紙面の上で長生きを約束する。
生活は手順。恋は予定外。
予定外は、言わないに育てられて、拍で見守られている。
僕らはその文法を、今日も一つだけ増やして、眠りについた。