「君を愛したくない」が口癖の旦那様の様子がおかしいのですが
はらはらと、白い結晶が切なく降りしきる日に、私は辺境伯様の元へ嫁入りをした。
私を娶った辺境伯様――フードリヒ・グリューン様の持つお屋敷は私の育ったお屋敷より、よほど豪華だった。
それもそのはずで、私の家は侯爵家で、フードリヒ様は辺境伯。
王都から離れてこそいるけれど、保持する力は絶大だ。国境の軍事を任されているのだから、力を誇示するためにもお屋敷は豪華であるべきなのだ。
我が国と隣国は、長年の間緊張状態が続いている。
極度の緊張状態は、いつ戦争に発展しても可笑しくない。
そんな中、私がフードリヒ様に嫁入りをしたのは、王家の命だった。
私が生まれた侯爵家は秀でた文官を輩出する家で父も文官としてそれなりの地位にいる。
陛下は軍部派であるグリューン家との強いつながりを求めて、年の差があまりない私に嫁ぐように命じたのだ。
公爵である宰相閣下のところの令嬢が本当は一番適任だったのだろうけれど、彼女はとっくに他家に嫁に入っている。
さすがに道理が通らないとなって、私に白羽の矢が立った。
侯爵令嬢として育てられたから、幼い頃から自分の結婚には政治が付きまとうと理解していた。
愛のない結婚だけれど、悲しくはない。寂しくもなかった。
私の父と母も政略結婚だと聞いた。
それでも二人は仲睦まじいのだから、私たちだってお互いに歩み寄れば温かな家庭が築けるはずだと、信じていたから。
はらはら、はらはらと、雪が舞う。
粉雪のような雪は積もれば人の命を簡単に奪うのだと嫁入り前に父に教えられた。
『アネット、お前は雪に慣れていないのだから、雪の降る日は外に出てはいけないよ』
厳しくも優しい父が、少しだけ寂しそうな顔をして、そう告げて私の頭を撫でたのは五日ほど前だ。
『いつかお嫁に行くのはわかっていたけれど、いざその日が来て、場所が遠いとこんなにも寂しいのね』
そう口にして微笑んだのは母だった。
二人とも私の結婚を「仕方ない」と受け止めていたけれど、私はそれが不思議だったのだ。
私はきっと、父と母のように温かな家庭を築いてみせる。
心の中で強くそう思っていた。だから、私に悲壮さは一切ない。
馬車から降りて、積もった雪に足をとられないように注意しながら、慣れない雪道をお屋敷へと歩き出した。
▽▲▽▲▽
外観だけではなく、お屋敷の中の調度品は何もかもが一流のものだった。
応接室で私は周囲を見回したいのをぐっとこらえる。品のない行動はしてはいけない。
顔を合わせたフードリヒ様は、きらきらと輝く長い銀髪を緩く結った美丈夫で、晴れた日の空のような色の瞳を持っていた。
お父様より背の高いフードリヒ様を見上げて、私はにこりと微笑んだ。
「初めまして、フードリヒ様。アネットと申します」
領地を離れられないフードリヒ様とは事前の顔合わせもできていない。
私たちは初対面だ。最初の印象が大切だから、にこにこと微笑む私に、けれどフードリヒ様はため息を吐きだした。
「……私は、君を愛したくない」
「?」
言われた言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
フードリヒ様は私から視線を逸らして、ぽつりと再び言葉を口にする。
「君を愛さない私を、君も愛さなくていい」
どうしてそんな悲しいことを言うのだろう。
疑問がぐるりと胸の中を回ったけれど、私はなんと言えばいいのかわからなくて戸惑ってしまう。
「私、は」
口の中がからからに乾いていた。私は勇気をかき集める。
「私は、フードリヒ様と温かな家庭を築きたいです」
まっすぐにフードリヒ様を見つめて告げた私に、彼は僅かに目を見張ったようだった。口元が動く。
「そうか」
それだけだ。たったそれだけ。
そして、私たちの間には沈黙が降りた。
初夜も何もなかった。
フードリヒ様は頑なに「君を愛したくない」と告げて普通に寝てしまったからだ。
私は戸惑いながら、フードリヒ様の隣で寝た。夫婦なので寝室が一緒だから。
私に背を向けて寝ているフードリヒ様は、一体何を考えているのだろう。
ぼんやりとした思考は、いつの間にか睡魔に飲み込まれていった。
私は積極的に愛を伝えることにした。
朝起きれば「おはようございます、フードリヒ様。大好きです」と口にして、昼食を食べる時も「美味しいですね、フードリヒ様。大好きです」と伝えて、夕食の席でも「北の料理は見慣れないモノばかりで珍しいです、フードリヒ様。大好きです」といい続けた。
少し文脈が繋がらないことも多かったけれど、愛の言葉は伝えるだけいいと私は思っているから、ことあるごとに「大好きです」と口にし続けた。
フードリヒ様はその度に「私は君を愛したくないんだ」と頑固に口にし続けたけれど、一度も私の愛を否定はしなかった。
そうした日々が半年ほど続いた頃、恐れていた事態が起きた。
隣国が挙兵をしたのだ。
一年の大半を雪に閉ざされている土地で、僅かに雪が解ける季節のことだった。
「フードリヒ様、出立をなさるのですか」
近頃、フードリヒ様は以前にもまして忙しそうにしていた。
食事の時間を惜しんで執務室で摂られるようになって、夜も私が寝入った後に寝室に戻ってきて、私が起きるより早く起きて政務に取り掛かっている。
私だって、起きて待っていようと思うし、早く起きて朝のご挨拶を、と思うのだけれど、私が音を上げるレベルで夜も遅いし、朝も早い。
だから、私はメイドにお願いして食事を届ける係を変わってもらった。
執務室に食事を届けた最初の日はフードリヒ様に「メイドのようなことはしなくていい」といわれてしまったけれど「私がしたいのです。せめて少しだけでもお顔が見たくて」と伝えるとなにも言われなくなった。
「そうだな。恐らく一週間以内に、私も戦地に赴く」
「そう、ですか」
覚悟していたことだ。
隣国との緊張状態が続いていて、辺境伯に嫁ぐのはそういうことだと。
それでも恐ろしかった。私の生活からフードリヒ様がいなくなってしまうことは、もう考えられなかった。
「君は王都に戻るといい。ここも安全かわからなくなる」
「いいえ、私はこの地でフードリヒ様のお帰りをお待ちします」
凛と背筋を伸ばして。
きっぱりと告げた私に、フードリヒ様が少しだけ目を見開いた。空色の瞳に困惑の色が乗っている。
私の身を案じてくださるのは嬉しいけれど、ここには領民もいるのだ。
辺境伯の妻だけが王都に逃げるなど、領民に示しがつかない。
「私はフードリヒ様の妻です。役目を全ういたします」
「……そうか」
フードリヒ様が戦地に赴いて不在の間、屋敷を纏め領民の旗印となるのは私の役割だ。
私の言葉にフードリヒ様は視線を落とした。そして。
「君は強いな。……だから、愛したくはない」
「そうなんですね」
最近ではフードリヒ様の口癖の「君を愛したくない」にもすっかり慣れてしまって、私は「そうなんですね」とだけ返すようになっていた。
フードリヒ様がどんなに口で「君を愛したくない」といい続けても、ふとした瞬間の優しさや気遣いが、私を嫌っていないと伝えてくる。
今だって、戦地になるかもしれないからと私を逃がそうとしてくれた。
(そういうところを、お慕いしています)
ふんわりと微笑んで、私はフードリヒ様が食べ終わったお皿の乗ったトレーを下げる。
背中を向けた私をじっと見つめる、熱のこもった視線に気づくことはなかった。
▽▲▽▲▽
そして、フードリヒ様の出立の日がやってきた。
あの会話を交わしてからまだ五日だった。
国境はよほど激しい戦いになっているのだろう。
屋敷の外はまだ空気はひんやりとしていたけれど、雪はなく行軍には最適だと屋敷に出入りする騎士たちが口にしていたのを聞いた。
鎧を身にまとってよく躾けられた馬に乗ろうとしているフードリヒ様に、私はそっと声をかけた。
「フードリヒ様、この地からご無事を祈っております。必ず、必ず生きてお帰りください……!」
声が、震えてしまった。
祈るように握り締めた指先もまた、少しだけ震えていた。
王都でぬくぬくと育った私にとって、戦争は遠い場所で起こるもので、こんなにも身近な人が戦地に赴くのが初めてだった。
文官の家系なのも、理由の一つかもしれないが。
「アネット」
「名前……」
初めて、呼んでもらえた。ずっと「君」とだけ呼ばれ続けていたから。
私が軽く目を見開くと、フードリヒ様は罰が悪そうに視線を伏せた。
そして、兜を外してわきに抱えて私を見る。
「私はずっと、君を愛するのが恐ろしかった。君を愛してしまえば、死ぬのが恐ろしくなるとわかっていたからだ」
初めて吐露されたフードリヒ様の内心に、私はさらに大きく目を見開いた。
邪険に思われているわけではないと知ってはいたけれど、そんな風に考えていたなんて思わなかった。
私はたまらずフードリヒ様の手を取った。
鎧で覆われた冷たくて固い手を両手で握って訴える。
「死ぬのは誰でも恐ろしいものです。私を愛してください。愛はきっと――生きる活力になります」
「……そうか」
フードリヒ様が柔らかく目を細めた。
私が始めて見る表情で穏やかに微笑んだフードリヒ様は、距離が近づいた私の額に口づけを落とした。
「アネット。君を、愛している。私は必ず、君の元に帰る」
「はい。はい……!」
胸がいっぱいだ。
愛の言葉は嬉しいはずなのに、それ以上にフードリヒ様を喪うかもしれない恐怖があった。
「では、行ってくる。我が妻」
「お帰りをお待ちしています、フードリヒ様」
そっと、手を放す。フードリヒ様が馬に乗る。最後に一度だけ微笑んで、フードリヒ様は出立された。
私は、見かねた執事が声をかけてくるまで、フードリヒ様が視えなくなってもずっと、その場から動けなかった。
▽▲▽▲▽
生きた心地がしないまま、半年の時間が流れた。
戦地の情報は耳にしていたから、フードリヒ様がご無事なのは理解していたけれど、それでもやっぱり、毎日足元がぐらぐらと揺れるような不安定な日々だった。
ああ、いっそ。追いかけてしまいたい、と何度も思った。
戦地で私なんて役立つわけもないのに、足手まといにしかならないと理解しているのに、それでも衝動的に屋敷を飛び出したいと思ってしまうことが何度もあって。
だから、勝利した、と早馬が知らせてくれた時、私はその場にへたり込んで泣いてしまった。
「フードリヒ様が、フードリヒ様が勝たれたわ……!」
「はい、左様でございます」
「フードリヒ様がご無事だと聞いたの……!」
「そのように言付かりました」
「フードリヒ様が……!」
わんわんと泣きじゃくる私は年不相応でみっともなかっただろうに、屋敷の人たちも早馬で知らせてくれた騎士も、誰一人笑うことはなかった。
ようやく落ち着いて私が「取り乱してごめんなさい」と赤い目元を擦りながら伝えると「いいえ、いいえ。奥様。皆、同じ気持ちでございます」と執事が頭を下げた。
「フードリヒ様のご帰還はいつになるのかしら」
「それなりにかかるかと思います」
逸る気持ちを抑えられずに問いかけて、当然の返しを貰って少し落ち込んだ。
でも、その間に私にできることをしておこう。
寝室を今まで以上に綺麗に整えて、美味しい食事を用意する。
私は指示を出すだけだけれど、女主人である私の指示がなければ皆動けないのだから。
そうして、一日千秋の思いで待つこと一か月。
ようやくフードリヒ様が帰還された。
「お帰りなさい、フードリヒ様!」
屋敷の前につけた馬から降りるフードリヒ様の鎧は少し汚れていたけれど、破損はない。
すばやくそれを確認して、帰宅を喜ぶ私に、フードリヒ様は兜を外してそのまま投げ捨てた。
「フードリヒ様?」
「アネット! 会いたかった!!」
勢いよく抱きしめられて、少しだけ目を白黒させてしまう。
ぎゅうぎゅうと抱きしめられるのは鎧のせいもあって少しだけ痛かったけれど、それ以上に安心感と幸せがあった。
「お帰りなさい、旦那様」
そっと、フードリヒ様の銀色の髪を撫でる。
私がよしよしと頭を撫でると、フードリヒ様はやっと落ち着いた様子で、少しだけ体を離した。
「ああ、今帰ったよ。アネット」
そう口にして、笑み崩れた私の旦那様。
平和にはまだ遠いのかもしれないけれど。
これから、私たちは夫婦らしく二人で平和の為に頑張りましょうね。
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