異水のいざない
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──ようこそ、異邦人よ──
声は甘く、澄んでいた。
まるで澄み切った湧き水が、耳元で囁いているかのようだ。
だけど、私─泉澤 雫─は、その声に一瞬も安らぎを感じなかった。
一種の戦慄すら覚える。
何故ならその声は本当に、この異世界の"水"そのものから響いているからだ。
私がこの世界に召喚されて、既に半年が経つ。
元の世界では、しがない会社員だった。
ある日突然、見知らぬ祭壇の上に立っていて。
目の前にいたのは、この世界の『水神』を崇める民族の司祭達。
彼らは私を、世界の危機を救う『救世主』だと崇め奉った。
この世界は、豊かな水に恵まれている。
最初こそ、この世界に安堵を覚えた。
元の世界の喧騒とは無縁の、まるで田舎のようなゆったりとした時間の流れ。
仕事や情報に追われることもなく清らかな水音に包まれる日々は、まるで夢のようだった。
しかしその夢はいつかは覚めるものだ。
平穏はやがて、悪夢へと変貌していく。
どこまでも続く、まるで海のような広大な湖。
岩肌を滑り落ちる清らかな滝。
そして街中に張り巡らされた水路。
この異世界では、水は神聖なものとされている。
人々は水の恩恵を享受し、水を崇め。
穏やかに暮らしているように見える。
司祭たちは朝な夕な、湖畔で水神への讃美歌を捧げ、恵みに対する感謝の儀式を欠かさない。
その声は厳かで、集まった信者達の瞳は一点の疑いもない。
彼らは聖なる水を口にし、病める身体を清め、ただただ水神への絶対的な信頼と感謝に満ち満ちている。
その姿を見る度に、私の胸には言いようのない不安感が募った。
最初の一週間程は、本当にただの気のせいだとしか思えなかった。
水面に映る光がほんの僅かに、だが確かに歪んで見える。
それは意識して見なければ見過ごしてしまうような、取るに足らないほどの異変。
この世界の水に、どこか違和感を感じるのだ。
特に、夜。
微睡み始めると、微かに水音が聞こえるようになった。
最初は、水路を流れる水の音だろうと気にしなかった。
空耳かと思い、疲れているせいだと自分に言い聞かせた。
だが、その声は日ごとに鮮明になり。
単なる水の流れる音では片付けられないものへと変わっていった。
二ヶ月が過ぎた頃には、水音はもはや単なる自然の音ではなくなった。
それは、まるで無数の声が混じり合った、不気味なざわめきのように聞こえるようになったのだ。
──……雫……──
微かに、私を呼ぶ声が混じっている。
まるで水の中から直接、私の脳に語りかけてくるようだった。
私には『水神』という存在が、どこか不気味に思えてならなかった。
子供達は無邪気に水路の水を掬い、手を洗い顔を洗い、遊ぶ。
彼らが飲む水。沐浴する水。
その全てが完璧なまでに澄んでいて、淀み一つない。
その輝く水面を、私はただ見つめることしか出来ない。
その完璧さが、逆に不自然に感じられた。
彼らには見えない、感じ取れない何かが、この水には潜んでいる。
そう確信しながらも、その真実を誰とも共有出来ない孤独が、私を深く沈ませていった。
ある日、私は街の最も古い水路のそばを通りかかった。
そこは水神の聖域に近い故、普段は誰も近づかない場所だという。
苔が生い茂り、水底が見えないほど深く、薄暗い。
水面が不自然に静まり返り、周囲の音が吸い込まれているようで。
微かに鉄錆の臭いがする。
その水路から例の声が、かつてないほど強く響いてきた。
──……雫……わたしを……見て……──
足が勝手に、水路に向かって歩いていく。
水面に、ゆらりと影が映る。
それは、私自身の影のようでありながら。
しかし、その奥にはぼんやりと無数の小さな泡のようなもの。
何かが蠢いているようにも見えた。
水は、この世界では清らかだとされているはずなのに。
その水面に映る影は、どこか濁っていて。
陰鬱な雰囲気を纏っていた。
視界の端、薄暗闇の中で、水面が僅かに鼓動しているように波打つ。
その水路の水に触れてみた。
ひんやりとした感触。
瞬間、指先からまるで電流が走ったかのような感覚が全身を駆け抜けた。
そして、私の脳裏に、鮮やかな幻影が浮かび上がった。
それは、かつての日本の風景だった。
都会の喧騒。
ビルの谷間を流れる川。
雨上がりのアスファルトに映るネオン。
そしてそこにいるのは、見慣れたはずの、元の世界の私の姿。
幻影の私は、どこかやつれていて。
都会の喧騒の中、一人きりで立ち尽くし。
水たまりに映る自分の顔を、虚ろな目で見つめていた。
幻影は、瞬く間に消えた。
足の力が抜けて、その場にゆっくりへたり込む。
この世界の水は、元の世界の記憶を私に見せている? だとしたら、何故?
司祭に相談しようかとも思った。
だが、彼らは水の異常を一切認めないだろう。
彼らにとって、水は唯一の神であり、世界そのものだ。
一度、儀式で水面に映る司祭の顔が一瞬歪んで見えたことがあった。
それを口にした時、司祭達は刃のような眼差しで私を貫き、
「水神の恵みは常に清らかであり、疑うこと自体が冒涜である」
と切り捨てたのだ。
あの刃な冷たさを思い出せば口を閉ざす以外なかった。
私の疑問は、彼らの信仰を揺るがす異端でしかない。
彼らの信仰が深ければ深いほど、私の心には得体の知れない恐怖が募っていった。
私はこの異世界で、完全に孤立して。
この世界は誰も、私を理解出来ない。
この恐怖を一人で抱え込み、水の囁きに沈むほかない。
水に蝕まれていく自分を、ただ甘受することしか出来なかった。
夜が深まるにつれ、水の声はさらに増幅し。
ざわめきが、微睡みを妨げる。
──……ここに……いるよ……──
──……帰って……おいで……──
──……待って……いるよ……──
声は、故郷の家族の声。友人の声。
そして、もう会えないはずの、愛しい人の声に変わっていく。
それは、私の郷愁を巧みに刺激し、心を揺さぶった。
召喚されて三ヶ月目、水の違和感はさらに顕著になった。
夜、ベッドに横たわると水音はもはや微かなざわめきではなく。
はっきりと耳に届く、数多の囁き声へと変貌した。
一つ一つの声は聞き取れないが、それがまるで私の心を探るかのように、まとわりついてくる。
幻影も、次第に鮮明になっていく。
水たまりに映る、疲弊した私の顔。
そしてその水面にうっすらと浮かび上がる、故郷の街の風景。
幻影の向こうには、私が置き去りにしてしまった現実が広がっているかのように見えた。
──……渇きを……癒そう……──
──……この水を……飲めば……──
水は夜毎、私を呼び。
私はほとんど眠れなくなっていた。
日々、体は疲弊していき、儀式の間ずっと座っていることも苦痛になった。
囁きは、直接的な誘惑へと変わる。
この世界の水は、異質だ。
完璧な清らかさの裏に、何か得体の知れないものが潜んでいる。
水面の微細なきらめきが、目に刺さる。
けれど私は、その声と幻影に抗えなくなっていた。
元の世界への郷愁。
そしてこの異世界での孤独が、心を蝕んでいた。
この澄み切った水はきっと、何もかもを呑み込もうとする深淵なのだ。
水に触れるたびに走るあの感覚は強度を増し、指先から腕へ、そして全身へと駆け巡るそれは。
単なる幻覚ではなく、神経を直接刺激されているような生々しさがあった。
幻影もまた、私の神経を直接刺激し、脳裏に故郷の幻影を焼き付けた。
断片的な日本の風景から、次第に具体的な私の記憶へと深化したそれは。
渋谷の交差点、喧騒。
馴染みのカフェ、コーヒーの豊かな香り。
私の部屋の窓から見えた夜景、ちらつく雪と肌に凍みる寒さなど。
故郷への郷愁を激しく掻き立てると同時に、私を捕らえようとする甘い罠。
水たまりに映る私の顔は、日に日にやつれ、その瞳からは光が失われていく。
ある日の真夜中、気づけば最も深い水路の前に立っていた。
月明かりすら届かない、漆黒の水面。
そこから、あらゆる声が、私を呼んでいた。
愛しい人の声が。故郷の景色が。
私を水へと誘う。
──……もう……大丈夫……──
──……すべてを……忘れて……──
水面に映るは、憔悴しきった顔。
その瞳は虚ろで、希望も絶望も映していなかった。
ただ水面へと引き寄せられるように、身体は傾いていく。
手が水面に伸びる。
理性では止めようとするが、身体が言うことを聞かない。
まるで水に溶けた無数の手が私の手首を掴み、引きずり込もうとしているかのように。
抵抗する意思とは裏腹に、指先はゆっくりと、だが確実に水面に吸い寄せられていく。
ひんやりとした感触と、脈打つような生ぬるさ。
指先が水に触れた瞬間、意識が深淵へと引きずり込まれる。
全身の細胞が分解されていくような感覚。
同時に、過去の記憶が光の粒子となって水の中へ散っていく。
もう、何も考えられない。
ただ、この深淵に身を委ねるだけだった。
数ヶ月間、異世界で感じていた全ての違和感が。
この瞬間、一つの真実として理解出来た。
この世界の水は、死者の魂を宿していたのだ。
元の世界の私が、なぜ疲弊していたのか。
何故、水たまりを見つめていたのか。
全てが、水底の記憶として流れ込んでくる。
私は、溺れていたのだ。現実の絶望に。
元の世界での疲弊は、異世界の水が誘う"安息"への下準備だったのだ。
水は、全てを呑み込む。
愛しい声も、故郷の景色も、全てが水の中へと消えていく。
そして、私の意識もまた。
水底の無数の魂の一つとなった。
翌朝。
街の司祭達は、救世主がいなくなったことに戸惑い、悲嘆に暮れた。
彼らは、私が水神の元へと還ったのだと信じた。
この世界の人々は変わらず、水面を慈しむように見つめ、その純粋さを讃える。
彼らの瞳には、水神への絶対的な信頼と感謝が宿っている。
この完璧な水こそが、世界の全てだと。
しかし、街の最も古い水路の底からは、新たに一つの声が響くようになっていた。
──……おいで……──
それは、かつての私の。
そして無数の魂の声が混じり合った、新たな誘いの囁き。
異世界の水は、今日も澄み渡り。
新たな魂を求めて、静かに蠢いている。
ご一読いただき、感謝いたします