ノースフェイスの大きなカバン
「友花莉。友花莉。」誰かが自分の名前を呼んでいる。ぼんやりと耳に響いていた声は、だんだんと母親の呼ぶ声と認識できるようになり、目が覚めた。友花莉は目を開けたと思ったが、部屋は真っ暗で一瞬目を開けられているかどうか分からなかった。
「どうしたの?大丈夫?」電気がつくと、母親が買い物袋を手から下げている姿が目に映った。
「うん、ちょっと急に眠気が襲って。」
「びっくりしたわよ。帰ったら家中真っ暗で、寝てるのかなぁ?って思ったら床で倒れてるから。」
「ごめん、心配かけて。あ、持とうか?重いでしょ?」友花莉は母親が持っている買い物袋を強奪するように手をかけた。だがそれを、すかさず母親は阻止した。
「いいよ。ゆっくり休んで。」友花莉が引き下がるわけがなく、結局袋を台所まで友花莉が持っていった。
「そういえば、荷出しありがとうね。そうやって無理するから疲れて倒れちゃったのね。」
「へ?・・・いやそれは・・・。」
「何?」
「別に、私がやったわけじゃないというか。」母親は魚を入れた冷凍庫の扉を閉めようとして、手が止まった。中から冷気が幽霊のように、外に放出されている。
「じゃあ、誰がやったのよ?」母親は半笑いで尋ねると、止まった手を再び動かした。普通に考えたら、自分が書いた漫画の少女と動くぬいぐるみがやったなんて言えるわけもなく、大抵はなんて説明していいか悩むところであるはずだ。しかし、友花莉という人間はそれを平気で言えるのであった。
「どういうこと?じゃあ、友花莉はその女の子とぬいぐるみが作業しているところを見たってこと?」友花莉は頷いた。母親は部屋中を見渡した。
「だとしたら、その女の子もぬいぐるみも感性が友花莉そっくりというかなんというか、友花莉のセンスだわね。」母親は、言葉ではうまく説明できない友花莉の独特な感性を、家具のレイアウトに感じていた。
「まぁ友花莉が考えたキャラクターだから似ていても当たり前か。」母親は笑った。
「あとそれから私の部屋に、ノースフェイスのでかいカバンも置いてあって・・・。」
「ああ、友花莉が昔いつも使ってたカバンのことね。」母親のおかげで、友花莉はそのことをすっかり記憶の彼方に捨て去ってしまっていたことに気がつくことができた。だから、もしかしたら急にノースフェイスの大きなカバンを背負わせた奇抜なキャラクターを生み出せたのかもしれない。友花莉は、母親がそのことを本人である自分よりも早い段階で気がついていたことに、関心と母親への尊敬する気持ちが増した。その後、二人はようやくちゃんとしたテーブルを囲み、夕食を食べた。その間の会話は、至ってありきたりな会話だった。だがそんな雰囲気であっても、友花莉は母親の気遣いを感じとっていた。心の底では友花莉に学校に行ってほしいと思っていることぐらい、友花莉も分かってはいる。だがいつも、「無理しなくていいよ。」という母親の言葉に甘えてしまっていた。ご飯も食べ終わり、友花莉は少し後片付けを手伝いつつ、母親の仕事の愚痴を聞いた。そして夜の九時になりそろそろ漫画を描こうと思い立つと、友花莉はおもむろに自分の部屋へ向かった。そういえば今日は全く作業に取り組めていない。その危機感が友花莉を奮い立たせた。部屋の扉を開けると、まだそこにはノースフェイスの大きなカバンがある。母親が言うには、昔、自分はその大きなカバンを使っていたらしいが、全く記憶にない。どちらにしてもそれが引っ越しというタイミングで、再び自分の目の前に現れたというのも何かの運命かもしれない。そんなことを考えながら友花莉は机に座り、漫画を描く準備をした。
「よかった。大丈夫だったんだね。」急に聞こえてきた声に、友花莉は一瞬飛び上がった。友花莉は声のしたベッドの方を振り向くと、そこには先ほどの少女が座っていた。さらに足元ではモゾモゾと柔らかい毛が足を触っているのが分かった。見下ろすと、のりおが友花莉の足を心配そうに見上げながら撫でていた。
「のりおはあなたのことが好きみたいね。」少女の言葉の通り、のりおはどこか友花莉に懐いているかのように、小さくて真っ黒なつぶらな瞳を友花莉に向けていた。友花莉は急にのりおへの母性が芽生え、やさしく抱き上げ膝の上に乗せてあげた。のりおはそれに抵抗することなく、大人しく膝の上に座って、話を聞き始めた。
「あなたは一体誰なの?」
「私?」少女はのりおと目を見合わせると二人とも首を傾げた。
「これってもしかしてあなたの?」友花莉はノースフェイスを指差した。
「そうよ。のりおのお家でもあるわよ。」のりおも友花莉を見上げてうなずいていた。
「のりおは私が描いているマンガのキャラクターってことは、あなたも同じってことよね?」二人は不思議そうな顔で状況を整理しながら、一人でぶつぶつ何かを言っている友花莉を見つめた。「となると、あなたはノースフェイスちゃんってこと?」
「ノースフェイスちゃんって良いわね。私はノースフェイスちゃんよ。」少女は大声でそう言いながら歩き回り出した。
「ちょっと、ママにバレちゃうでしょ?」友花莉は大きなヒソヒソ声で注意した。
「え?私がいたらダメ?」今までの人生で初めて胸が締め付けられる悲しい顔を向けられた。
「ほら、ネタバレになっちゃうじゃん?」
「なんの?」
「なんのってマンガのだけど・・・。」
「へぇ、マンガなんて書いてるの?見せて見せて。」その言葉を聞きつけ、いつの間にか友花莉の腕から離れ、一人で遊んでいたのりおも興味津々に鼻をひくつかせながら近づいてきた。友花莉は戸惑いながらも、いつもの机の椅子に座り、スケッチブックを開いた。のりおは机によじ登り、ノースフェイスちゃんは友花莉の横からスケッチブックを覗き込んだ。
「これ私?すごーい。かわいい服だぁ。」ノースフェイスちゃんは小刻みに拍手をした。その笑顔はまるで天使のようにまぶしい光を放って見えた。
「ほらみて、のりおもいるわよ。」のりおも自分の絵を見て、両手を広げながらどこか嬉しそうに謎の踊りを披露してくれた。
「で、これはどんな内容なの?」ノースフェイスちゃんとのりおは興味津々だったが、友花莉はどこかうかない表情を浮かべていた。
「それがまだ内容までは考えられてなくて。」のりおが残念そうに腕を横に思いっきり振ると、どこかへ行ってしまった。
「のりお!」ノースフェイスちゃんは怒っていたが、怒っている姿まで可愛かった。彼女には自分には持っていない、可愛さと愛嬌があった。まさに自分が描くマンガにぴったりの存在だと感じた。そのとき、最高の閃きが頭の中で、天から指す光とハレルヤを奏でた。友花莉は急にノースフェイスちゃんの両手を、自分の両手で握りしめた。
「ねぇ、もしよかったらあなたのこと聞かせてくれない?」
「え?私?」
「そう、あなたが物語を書くヒントだと思うの。」友花莉は戸惑うノースフェイスちゃんの両手を逃がさないようにさらに力強く握りしめた。ノースフェイスちゃんはまるでヘビに睨まれたカエルのように、膠着して身動きが取れなくなってしまった。
「私のことを知ったところで・・・。」
「好きな食べ物、嫌いな食べ物は?あと好きなスポーツは気になるかも!それから今行きたいところとか・・・。」質問攻めをしていた友花莉の視界に急にのりおがドアップで入ってきた。すると単発的に何度も何度も友花莉の頬を叩き始めた。
「痛い痛い痛い。」実際は全く痛くはなかった。
「ダメ、のりお!」のりおは何かを訴えるかのように、友花莉を指差していた。しかし、ノースフェイスちゃんはそれをよりも先に、友花莉を優先した。
「ごめんなさい。ほら、のりおも謝って。」不服そうだが、頭を下げてはくれた気がする。
「こちらこそ、ちょっと興奮しすぎちゃって・・・。」
「それに私、どの質問もよく分からなくて?」ノースフェイスちゃんはまだ申し訳なさそうだった。
「分からない?どういうこと?」
「うーんと・・・。」そう言うと、ノースフェイスちゃんは、その後の言葉を探し始めた。
「それも分からないのかぁ。」ノースフェイスちゃんは黙って何度も頷いていた。友花莉は参ってしまった。せっかく良いアイディアだと思っていたが、こればっかりは仕方ないと、諦めるしかなかった。
「でもね!」友花莉はノースフェイスちゃんのその一言に、全神経を集中させた。「行きたいところはあるよ。」
「どこ?」友花莉の羨望の眼差しが、ノースフェイスちゃんに降り注いだ。「学校。昨日行ってから気に入っちゃって。」友花莉は一気に落胆してしまった。しかしそんなこともつゆ知らず、ノースフェイスちゃんは楽しそうだった。「今日もいけると思ったんだけどなぁ。ねぇ、明日は行くの?明日学校に行くために、荷出し頑張ったんだよ!」のりおもその言葉に合わせて、どこからともなく姿を現し、小刻みにうなずいた。両拳を軽く下に落とす仕草が日本で、いや世界で一番似合うのは彼女だろう。友花莉は明日も学校へ行くつもりがないことを打ち明けることができなかった。なぜ、母親には意図も簡単に言えるのに、彼女には言えないのか、歯痒さが友花莉の体をむず痒くさせた。
「学校ってすごい人もたくさんいるし、もしかしたらマンガを描くヒントがあるかもよ?」友花莉はその言葉に気づかされた。確かに、彼女の言う通りだった。あの地獄に天がつかわし天使を混ぜることで、一体どんなことが起こるのか?彼女は一体どんな表情を見せてくれるのか?それがマンガのネタになって将来のためになるのなら、嫌々でもあの地獄に、彼女のお供をする価値はありそうだ。
「そうね!明日は学校に行けそうだわ!」ノースフェイスちゃんは飛んで喜んだ。
「のりお聞いた?明日は学校に行けるってよ!」のりおもまたおかしなダンスを披露していた。二人は早速ノースフェイスの中身を整理しながら、友花莉よりも念入りに明日の準備に取り掛かった。
「明日って何がいるのか分からないけどまぁいいか?」のりおとノースフェイスちゃんは、学校に不必要なものばかりを大きなカバンに敷き詰めた。