動くゾウのぬいぐるみ
次の日は、朝からなぜか目が覚めてしまった。学校に行くのを諦めはしたが、まだ、漫画については諦めきれずにいた。高校を卒業するのが条件だが、もしそんなことがどうでも良くなるくらい良い漫画が描ければ・・・いやストーリーはいい。自分が得意なのは、キャラクターデザインなんだから、それを誰にも負けないものを描けばいい。友花莉は、朝から必死で絵を描き始めた。
「友花莉、学校は?」
「行かないよ。」母親の顔色の変化は、背中を向けている友花莉にもわかった。
「そっか。じゃあできる限りで良いから荷出ししていてもらっても良い?」
「わかった。やっとく。」母親は、いつも友花莉の味方でいた。多くを詮索せず、優しく見守ってくれていた。それがかえってつらかった。本当なら、学校に行きなさいって怒られても仕方がない。いつも友花莉は罪悪感を抱いて、胸が苦しくなる。今回もだ。友花莉は、少し横になることにした。
気がつくと母親は仕事へ向かい、新居に一人取り残された。そしてまた気がつくとまた眠っていたような感覚と、時計の針が今はもう昼であることを告げていた。さすがに寝てばかりは良くないと思い、重い腰を起こした友花莉は、何をしようか考えながら部屋を見渡した。
「まず、この部屋をどうにかしない事には良いものは作れないか。」友花莉は、ぶつぶつ言いながら、荷出しの作業を始めた。まずは机の上から始め、そこからベッド周りから部屋の細々という順番で荷出しをしていこうと計画を立て、ベッドに根を張ったお尻を力ずくで上げた。まずは机に向かった友花莉は、机の上の状況をただ漠然と眺めた。まず、荷出しはほぼ完了していた。スケッチブック、えんぴつ、色鉛筆などの絵を描く道具に加え、辞書や教科書など学校で使うもの、シールやマスコットなどの装飾系のものも、ちゃんと友花莉のやりたいようなものになっていた。そしてその机の上を、忙しそうに行ったり来たりしている何かも同時に目に入っていた。濃いぐんじょ色で、胴体と手足の先がふっくらしたゾウのぬいぐるみが、自分の足で立ち、自分の意思で教科書を持とうとしていた。だが、ぬいぐるみの力では、それが叶わないようだった。友花莉はぼーっとその様子を見ながら机に近づき、教科書を持ってあげた。するとゾウのぬいぐるみは、お礼を言うかのように短い右手を挙げると、今度は机から降りて、部屋を右往左往しながら、辺りを見渡していた。友花莉はその姿が可愛すぎて、起きている事の異常さも忘れて、様子を見守る事にした。ゾウのぬいぐるみは今度、ベッドに目をつけたようだった。友花莉がやろうとしてる事と一緒だった。友花莉は、やらなければいけないという使命感と、やりたくないというわがままが錯綜し、夢を見ているのだと考えた。それにしては随分と地味だったが、こんなに可愛いもふもふの生き物が出てくる夢なんて、しあわせな夢だと思っていた。するとゾウのぬいぐるみは、小さなクッションを引きずりながら、ベッドへ運びはじめた。その他にも雑貨やらなんやらを出しては、友花莉好みに飾り付けしていた。そして最後に大きなクッションを運ぼうと試みたが、またしても、どう頑張っても、ゾウのぬいぐるみには無理だった。だが、それでも果敢に挑戦する姿が、友花莉は愛らしく感じていた。
「これはあっちに持っていったら良いの?」ゾウのぬいぐるみは、小刻みに二回うなずくと、大きなクッションを友花莉にまかして、別の作業に入った。何事もなく普通に意思疎通ができてしまい、友花莉は困惑していた。だが、友花莉の中でこのゾウのぬいぐるみの正体について、一つの仮説があった。そこで、意を決してそれを確かめる事にした。
「のりお。」友花莉の呼びかけに、ゾウのぬいぐるみは作業を止め、黒い小さくてつぶらな瞳をこちらに向けた。なんだこの可愛い生き物は。友花莉は心の中で絶叫していた。
「なんでもないよ。」ゾウのぬいぐるみののりおは、何事もなかったかのように、また作業に戻った。そして友花莉の頭の中では、大推理が行われていた。のりおといえば自分が生み出したキャラクター。それと全く同じフォルムのぬいぐるみが、今、自らの意思で考え、歩き、行動している。これは超自然的な現象なのか?それとも誰かの人為的ないたずらなのか?もしそうであったとしたら、私が描いた絵が流出してしまっているという事。となると怪しいのはクラスメイトの誰か。でも、もしそうだったとしたら、たかが半日であんなに精巧なものを作って、自分の家に忍ばせられるなんて、そんなことができそうな人間は、あのクラスには居なさそうだ。友花莉が推理している間も、のりおはせっせと作業を進めていた。だとしたら考えられるのは、今見ている光景はやはり現実じゃなく、幻覚。まぁ、それが一番腑に落ちそうだと友花莉は思った。そこで友花莉は、ある実験をするために、のりおに近づいてみた。一生懸命何かしてくれているのに申し訳ないという気持ちもあったが、それ以上に好奇心が勝ってしまった。友花莉が近づきじっと見つめていると、のりおは手を止め友花莉を見て、首を傾げた。友花莉は、ゾウといえば鼻をさすると喜んでいるイメージがあったので、のりおの鼻の部分を優しく撫でてみた。ぬいぐるみの優しく柔らかい毛並みだった。のりおは鼻の毛が逆立って、ますますもふもふになり、可愛さが増していた。しかし当ののりおは、勢いよく逆立った毛を倒すと、叱責するかのように友花莉を指差した。のりおの指先はまるでクリームパンのように、丸くて柔らかそうだった。
「クリームパンみたいで可愛い。」すると前に出していた腕を今度は横に振り上げ、思いっきり友花莉の頬に一発ぶつけてきた。砂のような柔らかい素材が当たった音が微かに聞こえた。全く痛くはなかった。思わず言ってしまったこの言葉も、のりおの地雷だったようだ。すっかり怒ってしまったのりおは拗ねてどこかに行ってしまった。
「あーごめん。別に悪口じゃないのに。」弁解はのりおには届かなかった。
「あら、怒っちゃった。」友花莉は、のりおとの全てのやり取りが可愛すぎて、存在に対する不思議さが薄れていた。その時、誰もいないはずなのに、部屋のドアが開いた。
「のりお?リビングルームは終わったわよ?」そう言いながら部屋に入ってきたのは、自分とよく似た少女だった。長い黒髪にくっきり二重、服装もどこかで見たことのあるワンピースだった。友花莉は、前に会った事があるのではないかと思い、一生懸命記憶を遡って、彼女の正体を突き止めようと試みた。一方の少女は、バッチリと家主である友花莉と目があってしまい、時が止まったように目を見開いた状態で固まっていた。どこかで拗ねていたのりおも、突然止まった少女の言葉に、何が起こったのか気になったのか、またどこからともなく現れた。少女はそのままドアをゆっくりと閉めた。
「誰もいませんよー。」友花莉は、すかさず少女の後を追った。少女とのりおは、リビングルームへ行くと姿を消していた。だが、リビングルームはすっかり荷出しされて整理されていた。恐らく、先ほどの少女が、いろいろとやってくれたのであろう。だが、一体なんのために?そもそもあの子は誰なのだろうか?友花莉はリビングの座椅子に腰を下ろした。薄いカーテンまでしっかりかけられ、床に当たる日差しが細く光っていた。のりおと同じく幻だとしたら、完成したリビングルームは奇妙な館というべきものになってしまう。そもそものりおがやってくれていた自分の部屋も、机の上には絵を描くためのスケッチブックと鉛筆と消しゴム、色鉛筆くらいでそのほかの教科書とかは、まだ出されていなかった。となると考えられることは、幻ではないという絶対にありえない仮説だけだった。少女はまぁまだ説明がつくが、のりおについては、どう考えてもぬいぐるみが動くなんてありえない。いやちゃんと考えれば、少女ももし現実ならどうやって入ってきた?単純な不法侵入だしそれに、どうやって出ていった?今度は妖怪の説まで浮上した。確かに座敷童子的な良い妖怪の可能性もあった。それならのりおに関しても納得がいった。その時、まだ聞き慣れていない、インターホンのチャイムが鳴り響いた。家具も揃ったせいか前より聞こえ方が違うように感じながらモニターを見ると、相手は大久保だった。
「廣坂さん?大丈夫かぁ?」ちょっと元気すぎて友花莉にはしんどかった。
「あっ、先生。すいません、ちょっと体調崩してしまって。」
「熱は測ったか?病院は?」
「熱はないです。病院は行ってないですけど。」今病院なんていったら、恐らく精神病棟行きだろう。
「そっか、ならよかったけど。」
「ご心配をおかけしました。」友花莉は、絶対に扉を開けたくなかった。
「それともう一点あって、昨日の提出した課題なんだけど・・・。」友花莉は嫌な予感がした。
「名前のところに廣坂のりおって書いてあるんだけど、弟かお兄さんが居たりする?なんか間違えてると思うんだけど?」
「いえ、すいません。もしかしたらマンガを書いていて、その名残りで間違えて書いちゃったのかもしれないです。」我ながらひどい言い訳だった。しかし、大久保は首を大きく振りながら頷いていた。
「そっか。廣坂さんはマンガを描くのか。」
「あの、クラスメイトには言わないでくださいね。」しかし大久保には聞こえていないようだった。
「とりあえず、プリントを郵便受けから入れておくから来週のテストに向けて、ちゃんと復習しておいてよ。ほとんど出来てないから。」玄関で紙が数枚落ちる音が聞こえた。
「どう?明日は来れそうかい?」明日から授業が始まるらしかった。
「いや、ちょっとまだわからないです。」
「そっか、まぁ無理せず。私も明日学校で待ってるからね。でも、もし休むならちゃんと学校に連絡するんだぞ。」
「はい、すいません。」
「それじゃあね。」そう言うと、大久保はモニターから消えた。友花莉はモニターを消すと、玄関から課題のプリントを回収した。すると、ほぼレ点チェックのついた問題用紙が、友花莉の目に飛び込んできた。そして氏名欄を見ると、確かにはっきりとした字で、廣坂のりおと書いてあった。友花莉は自分の疲れを自覚し、再び睡眠を取ろうと自分の部屋に戻った。すると今度は、自分が持っているはずのない、ノースフェイスのカバンが、部屋の真ん中に置かれていた。
「まさか、これって・・・。」友花莉は頭が痛くなった。終いにはノースフェイスのカバンからのりおが出てきて何かをねだっているかのように、両手を上下に揺らし手招きをしていた。友花莉は力尽きたようにベッドに倒れ込んだ。
「大丈夫?友花莉?ちょっとのりおプリント勝手に持っていっちゃダメ。」
「ノースフェイスちゃん?」友花莉はそう言ったつもりだったが、意識を失っていた。少女は必死に友花莉の名前を呼び続けていた。