大切なスケッチブック
先ほど嫌いになりたてほやほやの大久保に連れられ、三組の教室へと向かった。この時は正直、無の感情だった。ただ時が過ぎ、一日が無事に終わってくれさえすれば、友花莉はそれでよかったのだ。学校中にチャイムの音が鳴り響いた。三組は廊下の中盤に教室がある。しかも手前から謎に六組があり、七組と八組が一つ上の階だった。つまり、今から四クラスの教室を通り過ぎなければならなかった。それもそれでめんどくさい。なぜなら、六組、五組。この二クラスはまだ新学期の興奮で盛り上がっていた。ところが四組は残念ながら担任が到着しており、生徒にはめんどくさいホームルームが始まっており、気が散っている何人かの生徒と窓越しに目が合ってしまった。そしてさらに最悪なことに、その目は友花莉を追い、恐らく隣の生徒に情報伝達をしているように思えた。これで私の学校生活は終わりを迎えた。友花莉はそう思いながら自分のクラスの前に到着した。
「おはよう。」大久保がさわやかな笑顔と大きな声で挨拶をしながら、勢いよく入っていった。すると教室がざわつき始めた。
「誰だぁ?大久保かよって言ったやつは。」大久保の言葉に、教室は笑いに包まれた。だがそのすぐ後に、生徒たちの視線は友花莉に向けられた。
「はい、ここで転校生の紹介です。拍手。」生徒たちは笑顔で拍手した。友花莉は、小刻みにお辞儀をいっぱいした。するとそれで教室に笑いが起こった。
「今日からこのクラスの仲間になる、廣坂友花莉さんです。」
「よろしくお願いします。廣坂友花莉です。」友花莉の自己紹介は、完璧に決まった。生徒から拍手が湧き上がった。友花莉にとっては、ちょうどいい程度の拍手だった。ただ単に普通の女の子で、数週間もしたら存在を忘れてくれていいくらいの気持ちだった。
「じゃあ、廣坂の席は一番後ろの席だな。宮城の横。」変な行動もとっていない。地獄の一年間を、安全に過ごす手筈は整った。あとは何事もなく時が過ぎれば、理想とする未来が待っている。友花莉は晴れた気分で、自分の席に向かった。その間に女子たちは、笑顔で手を振ってくれた。それをまるでウィニングランをしているかのように、手を振り返した。
「部活はテニスかバドだから、同じ部活の子は面倒見てあげてね。」突然、生きる災害、大久保が牙を剥いた。ここから怒涛に友花莉の人生設計が音を立てて崩れ始めた。思わず、転けそうになった足を必死に抑えた。今ここで耐えきれず、転けてしまえばもうクラス全員から変人の烙印を額に押されることだろう。それだけは絶対に阻止しなければならなかった。しかもさらに悪いことに、さっき手を振ってくれていた、席の前後と右と右斜め方向の女子が、全員女子テニス部とバドミントン部だった。そこから急に、テニス部対バドミントン部のニューフェイス争奪戦が始まった。女子テニス部の女子たちは可愛くてまだよかったが、問題だったのはバドミントン部の男子だった。汗臭いは、口臭いはと忙しいにも関わらず、友花莉の心のパーソナルスペースを土足で侵害してきた。
「ちょっと、男子があんま来ないでよ。ねぇ?廣坂さん。」友花莉は、渾身の廣坂スマイルで誤魔化した。だが、そんな女子テニス部員の方が、友花莉にとってはトラウマだった。かと言ってバドミントン部は論外だったが。友花莉の呼吸が、次第に荒くなり始めた。
「どうした?廣坂?」
「廣坂さん大丈夫?」クラスメイトは、急に起こった友花莉の発作に慌ててた。
「ちょっと保健室連れて行くから学級委員決めておいて。」大久保は、華奢な体に似合わず、私を肩に担ぐとそのまま一目散に保健室へと向かった。
「スケッチブック。」
「なに?スケッチブック?」
「カバンの中に。」
「あとで誰かに持ってきてもらうから、とりあえず廣坂は自分の心配をしなさい。」友花莉からしたら、そういうわけにはいかなかった。
「大丈夫です。もう治りました。」言ってびっくり。友花莉自身も、まさか良くなっているとは思えなかった。
「本当に大丈夫か?でも、確かに過呼吸も治ってるしな。」友花莉もどういうことかわからなかった。だが、とりあえず今はスケッチブックのために、平静を装わなければならなかった。
「まぁ、あんな圧で来られたらそりゃそうなっちゃうよね。とりあえずみんな心配してるだろうし、教室に戻って無事を伝えるか。」友花莉にとっては想定外かつ、不利益なことが起きてしまった。
「ご心配をおかけして、すいませんでした。」転校初日でクラスメイト全員に謝ったのは、友花莉が初めてに違いないとか思っていた。みんな優しかった。だが、一人左隣の一番窓際に座っている子犬みたいな目の男子だけは、私を見ようとしなかった。
「心配かけてごめんね。」友花莉は、なぜかこの男のぶっきらぼうが気になって個人的に謝った。するともぞもぞと、机の上においている腕を枕にしながら、ぶっきらぼうに一言だけ言われた。
「この後のことを考えたら、休んだ方がいいんじゃない?」あまりの冷たさに、開いた口が塞がらなかった。
「宮城相変わらず怖。」その宮城という悪魔の後ろにいた女子が、嫌味じみた口調で言った。
「別に俺じゃないから良いけど。」
「廣坂さん、気にしないで。こいつは誰にでもそうだからさ。だからモテないんだよね。」
だがしかし、実際に悪魔の呪いなのか?はたまた預言者か何かだったのか?友花莉は気づけば、結局、保健室のベッドの上にいた。どうやら、全校集会の途中で倒れてしまったみたいだった。
「気分はどう?」男の人の声だ。どうやらこの学校の
保健室の先生は、世間一般のイメージ通りの優しい雰囲気の先生だが、性別が違った。これは病気がちの友花莉にとっては死活問題だった。
「大丈夫?」保健室の先生は友花莉の表情を見て、色々と察しがついた顔をした。
「なるほどね。そういうことか。」
「そういうこととは?」友花莉は、嫌な予感がした。だが、それと同時に少し口調に違和感を感じた。
「あなた、もしかして男性恐怖症?それでこんな薬飲んでるの?若い時から大変ね。特に、こんな時期じゃ尚更。」違和感とかではなく、そういうものとして受け入れることができた。
「心配しないで。あなたは可愛いと思うけど、そういう感情は生物学的に皆無な体みたいなのよ。でも逆に、男子にはね。だからここ、男子来ないのよ。」確かに結構ストレートなタイプの界隈の方だと感じた。
「だからなんかあったら、ここでゆっくり休んでいきなさい。」
「ところで、なんで薬のことを?」
「クラスメイトの一人が、あなたがスケッチブックを大切にしてるからって、カバンを持ってきてくれたのよ。そしたら、なんかこの薬が入った巾着が出てきてね。」その巾着は確かカバンの奥に入ってたはず。
「ありがとうございました。いろいろと。また来ます。」
「いや、そんな意気込んでくるところじゃないのよ。ここは。」友花莉は恥ずかしくなった。学校に居場所があることに越したことはない。とは言っても、避難所くらいにしようと思った。
クラスに帰ると春休みの課題の提出をしているところだった。
「廣坂さんお帰り。大丈夫か?」大久保の言葉に釣られて、他の生徒たちも心配そうにこちらを見ていた。そして、決まって全員が頭の外傷の心配をしていた。恐らく思い切り倒れたのであろう。何せ記憶が全くなかったからだ。
「もう大丈夫です。バッグとか諸々ありがとうございました。」友花莉はそう言いながら、自分の席についた。
「な?みんな優しいだろ?」大久保は鼻高々だった。だが友花莉は、その優しさがいつまで続くか見ものだった。
「そうだ。廣坂さんも課題出してくれるか?」
「課題?」友花莉の顔が、また顔色悪くなった。だからと言って、またあのオカマ先生に会うには、もうすでにお腹いっぱいだった。友花莉はしどろもどろになった。しかも今までの経験上、一クラスに何人かは忘れている人間がいるはずだが、そんな様子は一切なく、みんな提出をしているか、もうその話は一区切りついているかのどちらかだった。いずれにしろ、友花莉にとってはここまでの間に、こんなに注目を浴びてしまっているのに、最後のフィナーレがまだ残ってしまっていることに絶望しかなかった。
「えっと課題は・・・。」一応、カバンを探すふりをするつもりだった。もちろんあるはずがない。何せそもそも課題なんて渡されてから見てすらいないのだから。だが、カバンの上の方に、はるか前に見覚えがある英語や数学の問題が印刷された紙があった。しかもやった覚えがないのに、しっかり答えまで記入されていた。
「どうした?忘れたのか?」大久保が少し茶化し、他の生徒たちも笑っていた。
「そのゾウさんが持ってるプリントで合ってるよ?」
「え?」友花莉は、隣の女の子が指している指の先を見ると、そこにはゾウのぬいぐるみが課題のプリントを持って、どこかどや顔をしているように感じた。友花莉には、一体何が起きているのかわからなかった。とりあえず友花莉は、課題を提出するために大久保がいる教卓へ向かった。
「廣坂。可愛いのはわかるけどもう高三だぞ。ぬいぐるみはさすがに・・・。」その瞬間、生徒全員が友花莉の机の上にあるゾウのぬいぐるみを見た。友花莉は、この学校で一年を過ごすのを諦め、不登校になることを決心した。