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ある日、俺は殺し屋になった。  作者: タスク
第二章
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九話

 血だらけのハイヤーが救命外来の入口の前へ止まると、今朝見た外観とは大きく変容していた。


 まずガラス張りの正面玄関から覗くのは、真っ黒な闇だ。


 そしてそんな闇へ受診しにきた一般の来訪者は、平然と吸い込まれている。まるでその光景が当たり前かのように。


「どう見ても、いつも通りですけどね?」


 傍らで無理矢理身を寄せてくる幸奏が辟易した様子でそう呟いた。


「どこがいつも通りなんだよ。どう見ても異常だろ」


 まず人間に起こせる現象でないことは明白。


 そしてこの現象は特定の人間にしか見えないらしく、幸奏や朱の反応を見るに二人には正常な光景のようだ。


「ともかく氷華先生へ連絡しよう」


 幸奏に通話するよう促すが、当人は口を尖らせ不承不承といった様子でスマホを取り出し、氷華先生へコールする。


 だがものの数十秒黙ってスマホに耳を当てていた幸奏が、首を横に振ってスマホを上着のポケットへしまう。


「ダメですね。出られないのか、もう死んでるのか分かりませんが繋がりません」


「そうか……なら、直接行くしかないな」


 俺には真っ黒な闇が延々続いているように見える正面玄関口へ、ギターケースを担ぎながら意を決して一歩踏み込んだ。



***



 自然と目を瞑っていたのか、瞼を持ち上げるとそこに広がっていたのは、人一人いない暗い影のような世界。


 入ってきたはずの正面玄関は無く、俺は真っ暗で静かな廊下に立っていた。


 窓の外はどこまでも吸い込まれていきそうな闇が映り、リノリウムの床をスニーカーが踏み鳴らす音だけが谺する。


 まるで廃墟の病院を一人で探索するかのような、えも言われぬ恐怖心が沸き上がってきた。


 俺は慌ててギターケースから二振りの直刀と、幸奏の持っていた電動チェーンソーを引っ張り出し、刀を腰へ携える。


 電動チェーンソーにバッテリーを差し込み、スニーカーを鳴らしながらしばらく廊下を歩くが、一向に突き当たりにぶつかる気配がない。


 まるで延々と続く地平線の上を行ってるような不安がのし掛かる。


 時々振り返るが、廊下の奥を深い影が覆っており、今にも俺を飲み込みそうで怖い。


 一度立ち止まり、窓ガラスを叩き割ろうと電動チェーンソーのハンドルでゴツゴツと殴るが、薄っぺらなガラスがまるで分厚い金属の壁のように堅牢だ。


「チッ……」


 不安と焦りでつい舌打ちすると、歩いてきた廊下の奥から──ひたり、ひたり──水を打つように影から聴こえてきた。


 足音……そう、素足で廊下を歩く人の足音だ。


「だれだ……」


 足音の主に問うわけでもなく、自問自答のように呟いた言葉。


 ひたり、ひたり──と未だ俺へと近付いてくる足音。その正体がゆっくりと闇から伸び、色白い二本の細い足が露になる。


「ヒヒッ……ヒヒヒ」


 笑い声。しかも女の。


 ひたり、ひたり──少しずつ表れる肢体。不気味なほど白い足に膝まで掛かる、褪せた黄緑色の患者服。


 異様で異常。そんな印象を想起させる女だった。


「見ツケタ……」


 深い影が刻まれた口元が歪むのを微かに見える。


 にちゃり──歯茎は黒ずみ、ボロボロの黒い歯が光を折り──ひたり、ひたり──また近付いてくる。


「チッ……なんなんだよ」


 歯噛みしながらも、徐々に姿を表す女から視線を外せない。


 獣のように鋭い爪牙、青アザだらけの細い腕、逆立った長い毛は、美しさや気品とは乖離した醜悪な女。


 汚い笑いを浮かべ、遅鈍な動きで迫る。


「アナタ……見ツケタ。ヒヒヒ……」


 狂人──人語をマトモに介せない。ヒトから逸脱した異常者。


 そんな女の目は、角膜が割れ本来白色の結膜は赤黒く晴れ上がり、ダークブラウンの光彩に纏う、赤色の粒子が血涙のように頬を伝う。


 あの目の光の粒は何度も見た、異能者が発する特有のものだ。


「ドコ? ドコ行ッテタノ……」


「誰と間違えてるのか知らないが、俺とあんたは初対面……いや二度目だったかな?」


 異常な女は俺を粘っこい視線で絡めとり、吐き気を催す程の饐えた匂いの髪を、獣のような長い爪先で払う。


「ヒヒッ……ヒヒヒヒヒヒ」


 小刻みに肩を震わせ、奇妙に笑う異常な女。


「なんで笑ってんだろうなぁ……」


 半歩後ずさるため、足を下げた途端、笑い声が止み静寂が辺りを包み、ジンジンと肌にまとわりつく痛み。


「アナタ……カワイイ赤ちゃんヨ? 見テ」


 覚束無い舌足らずな話し方だった異常な女の言葉が、今度はハッキリと聞こえた。


 『赤ちゃん』女はそう言い、静寂のなか微かに耳に届く声が徐々に鮮明に鳴り始める。


 オギャア、オギャア──金切り音にも似た高く嫌な声。


 何度も、何度も、何度も。頭の中に反響し、痛みを覚える程にその声は大きくなった。


 オギャア! オギャア!──痛い、煩い、止めろ。


 次第に女の事なんてどうでも良くなるくらい、声が五感を支配する。


 目を閉じ、耳を塞ぎ、踞ってもまだ聞こえる。


「あぁ……あぁぁぁ!!!」


 気が狂いそうだ。赤ん坊の声がずっと!


「うるせぇ……うるせぇうるせぇ!!」


 消えろ。消えろ──と唱えても一向に泣き声が消えない。


 オギャア!! オギャア!!────お前が殺した。


「へ?」


 見上げた時には何もかもが遅かった。


 目の前に広がる光景、見上げたモノへの理解。


 玉のように無垢な眼球が無数にこちらを見下ろし、赤い歯肉から生えたての歯を歪ませ、ヒトの形をしたそのモノは赤ん坊の顔で出来た肉塊だった。

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