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エピローグ

 なんだか、とても長ったらしい夢を見た気がする。現代文の授業が終わりを告げるとともに、俺は目を覚ました。春眠暁を覚えず、だなんて言うらしいけど、古い人はよく言ったもんだ。その人となら、国語が苦手な俺でも仲良くやっていける気がする。まあ、その人が中国の偉人か何かだったら、そもそも国語力なんて関係ないんだけど。


 ぼうっとする頭の中でそんな考えを適当に浮かばせながら、俺は伸びをした。


 「おはよう」


 居眠りしていた俺を馬鹿にするように、委員長が話しかけてきた。


 「お前、よだれ垂らしながら寝てたよ」


 「本当に?」


 俺は口元を拭いながら尋ねた。


 「嘘だよ」


 委員長は適当な口調でそう返した。


 「なあなあ、今日ラーメン食わね?」


 今度はマキヲが話に入ってきた。


 「俺、塾あるから無理」


 「陽介は?」


 マキヲはそう聞きながら、こちらを見た。


 「俺も、今日はいいや」


 誘いが撃沈に終わって悲しむマキヲを尻目に、六時間目の授業が始まった。


 授業中、さっきまで眠っていたからかどうにも頭が回らなかった。そして、何かを忘れている気がする。雨の日に傘で出かけて、帰りには雨止みとともに雨の存在も傘の存在も忘れて身軽になってしまっている時のような、どことない不安な感覚が心に住み着いているようだ。


 頭の中を整理して、一日を振り返ってみても、特に変わったことも忘れそうなこともないごくごく平凡な日である。そんなことを考えていると、いつの間にか六時間目は終わっていた。帰りのホームルームをして、荷物を持って下駄箱まで向かう。


 下駄箱前で、山田くんと会った。別に同じ学校な上にクラスメイトなんだから、視界に入っても特にこれといった言葉も感情も湧かない。


 「じゃあね、山田くん」


 なんだかテンションがおかしいのか、委員長やマキヲといて調子に乗っているからか、ついそんなことを口走ってしまった。まずい、これで無視されると妙な空気感になってしまう。


 「うん、じゃあね」


 山田くんはそう言って、小さく手を振ってくれた。


 帰り道、三人で道いっぱいに横広がって歩いた。時々自転車の人に嫌な顔をされる。


 「てかお前、部活は?」


 「ん? なんか根本が具合悪いらしい」


 委員長の問いに、マキヲは無関心そうな口調で答えた。


 「天罰だな」


 「だな」


 頭もろくに動かさずに、そんな適当な会話をする。決して体育教師の根本に個人的な恨みなんてなかった。だが、やつの具合が悪いという話かなぜだかとても吉報のように思えた。


 「あーあ、受験嫌だな」


 土手沿いの道にさしかかったところで、突然マキヲが大きな声で言った。


 「みんな嫌だよ」


 委員長が返す。


 「なんか、ここで叫んだら青春っぽいな」


 マキヲが言った。


 「なんて?」


 「『受験したくねーよ』みたいな」


 俺の問いに、マキヲは楽しげに答える。


 「なんか古臭いな」


 委員長が言った。


 「な」


 俺もそれに同意であった。


 二人と別れて、自転車に乗って家まで向かった。自転車に乗るのってなんだか面倒だが、風を切って前に進むのは嫌いじゃない。何にも邪魔されずに、涼しい風が自分を包み込んでくれる感覚が、守られている気がするのだ。


 やっぱり、何か忘れている気がする。ぼうっとする頭の中で、その正体がなんなのかを探ってみようと試みた。だが、微妙に思い出せそうで思い出せない。もう喉までは出ているし、何かきっかけさえあれば思い出せる自信がある。だが、今すぐには思い出せない。そんな歯痒い気持ちが帰り道の間中ずっと続いた。


 自宅のマンションに着き、駐輪場に行った。そして俺は、足を止めた。ちょうど今、駐輪場で幼馴染の三谷文乃が自転車に鍵をかけている最中だった。幼馴染とは言えど、長らく話していない。いつも彼女は俺の前で不満げな顔をするんだから、仕方がない。こんなことならマキヲとラーメンを食べに行くべきだった。噂に聞く店長の新彼女を見に行くべきだった。心の底から切実にそう思った。


 正直、彼女とはすれ違うのも気まずくて憚られる。昔は仲が良かったからこそ、こんな時に話しかけるべきなのか迷ってしまう。それがまた面倒なのだ。今ならまだ、自転車でマンションから出れば存在に気付かれないはずである。俺はそう考えて、自転車をUターンさせようとした。その瞬間、ハンドルを握る右手の親指の腹に、鈍い痛みが走った。


 「痛い」


 つい声が出て、三谷文乃がこちらを振り返った。


 いつできたのかもわからない傷の、瘡蓋が剥がれてしまったようだ。まったく、ついていない日である。そう心の中で思った折に、強い風が駐輪場に吹いた。春の風は生暖かく、どこからかラベンダーの香りを運んできていた。


 鼻腔をくすぐる花の香りに、指の腹にある滲むような痛み。ああ、そうだ。傷の理由がわかって、俺は納得した。


 三谷文乃は気まずそうに、そこに立っている。


 「よう」


 俺はそう言って、彼女に手を振った。

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