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秩序を破ることナカレ

 ある日の体育の授業で、俺は同級生によるバスケの試合を眺めていた。人数の都合上三グループできてしまい、一つのグループは審判やら得点係をすることになったのだ。体育館の床と靴が擦れ合う甲高く小気味のいい音がそこらから聞こえてくる。


 「そんな女子の方ばっか見んなって」


 隣にいたマキヲが、ニヤつきながら俺に言った。


 「見てねえよ」


 「三谷さんが知ったら泣くぞ」


 「だから見てないって」


 しつこいマキヲに対して、怒りよりも鬱陶しさを強く感じた。


 「てか前から思ってたけどさ、体育やって大丈夫なの?」


 「なんで?」


 マキヲはいつもおかしなことを言う。きっと今の発言もその類だろう。


 「だってこの間頭打っただろ?」


 「誰が?」


 「お前が」


 驚いたことに、今度の会話でおかしかったのは俺の方だったようだ。そうだ、俺は一ヶ月ほど前に記憶障害のようになって、頭を打っておかしな人間扱いを受けたのだった。慣れというのは怖いものだ。すっかりそんなことも忘れて、俺はついさっきまでぼうっとバスケットボールの試合を眺めていたのである。


 「あの時のお前は面白かったよ」


 「なんで?」


 「だって馬鹿みたいなこと言って喚いてばっかいたから」


 「は? ちょっと混乱してただけだし。お前なんて常に馬鹿みたいなこと言ってんだろ」


 「は?」


 脳の頼りなさにゾッとしたものの、もう以前のように寂寥感が記憶とともに湧いてくることはなくなった。だってここが本来いるべき俺の世界なわけで、今後生きていく道なのだから。一時的な記憶障害のようなものを脂ぎったおじさんになっても、背の曲がったヨボヨボのお爺さんになっても引きずるなんてわけにもいかないのだ。


 「本当にもう大丈夫なのかよ?」


 マキヲが尋ねてきた。


 「大丈夫だよ。体育だってお前よりできるよ」


 「は? 野球部舐めんな」


 そんな会話をしていたら、誰かが放ったボールが綺麗にゴールへと入った。


 それを確認して、得点板をめくってピンクのビブスチームに一点入れた。


 「おい奥村、今のスリーポイントだわ」


 「まだ頭治ってないんじゃね?」


 蛍光ピンクの群れたちからそんな声が聞こえた。


 「うるせえ、黙ってろよ」


 俺はそう叫んで、ピンクチームの点数をゼロにした。


 そう、これが俺の生きる世界なのだ。


✳︎✳︎✳︎


 次の日、俺は甲田ドリームセンターにバスで向かった。


 平日は学校に行って、週末は甲田ドリームセンターに行く。それがここ最近の日常と化していた。元来の約束であれば蛹の解放における協力を俺がする代わりに、センターは俺に起きた謎の出来事の究明をするはずであった。だが、石垣美希の蛹解放を受けてセンターそのものの動きに変革が起こり、現在ではすっかり蛹化した人間の治療法を探る集団ではなく、世界で唯一蛹を解放することのできる集団として人々に見られていた。


 無論、そっちの仕事が忙しければ本業である夢の研究は十分に行われなくなり、俺の夢や記憶障害に関する調査は全くもって進展する気配がなかった。まあ、記憶障害を起こした当の本人がもうその事実すら忘れかけているのだから、それで解決な気もしないでもない。それでは約束と違いタダ働きになってしまうのではないかと両者ともに思い、何かしらの俺への見返りが必要なのではないかと公平公正な話し合いのもとになされた。


 結果として、俺は蛹を解くアルバイトをすることになった。つまり今は給料制で蛹化した人間を救っているのである。石垣美希を救出した後にも三人の蛹化した人間を解放することに成功した。もう、お手の物である。そんなわけで、今週末も甲田ドリームセンターに呼ばれたのだ。


 駅前でバスから降りて、すっかり歩き慣れた道を通ってドリームセンターのある雑居ビルへと向かう。そして急な階段を上り、毎度の如く聞こえる誰かの悲鳴を尻目に最上階へと向かう。段ボールが今にも崩れてきそうな廊下を通ってドリームセンターに入ると、そこには誰もいなかった。


 散乱した書類や骨董品の数々がそこに生活感を与えており、今にもどこかから万里小路が出てきそうな雰囲気がある。だが、珍しく本当に彼は不在であった。まったく、せっかくの休みを割いて来ているのだから時間を守ってもらわないと困る。


 部屋の違和感の原因は、万里小路がいないこと以外にももう一つあった。いつもは固く閉ざされているはずの所長室のドアが、無遠慮に開け放たれていたのだ。これまで見ることのなかった部屋の一部が視界に入り、なんだか背徳感が湧いた。万里小路との普段の会話から察するに、その部屋にはセンターの「所長」がいる。だが、会ったこともなければ声を聞いたこともないので、果たしてその人がどんな人間なのか、それすらもわからない。


 「おい、万里小路。コーヒー」


 所長の正体について色々と沈思黙考していた最中、そんな声が例の部屋から聞こえてきた。


 「おいってば、帰ってきてるんだろ」


 意外にもその声は青年のもののようであり、とても所長という役職の持ち主が発する声とは思えなかった。


 「なあ、いないの?」


 少しいじけたような声で、所長らしき人物はそう言った。


 「すみません、万里小路さん今、出払ってるっぽいです」


 「え、君は?」


 壁越しでそんな会話が始まった。


 「えっと、数週間前からお世話になってる奥村です」


 「そうか、奥村くんだったか。ごめんよ、怒鳴っちゃって」


 「いえ、大丈夫です」


 その場を沈黙が満たした。相手の顔が見えずとも、相手の素振りがわからずとも、沈黙とは気まずいものである。時計の秒針が動く音だけがその場に響いた。決して見えているわけではないが、壁の向こうにいる所長も気まずそうに手いじりでもしているに違いない。


 「コーヒー、淹れましょうか?」


 「いいの?」


 待っていましたと言わんばかりな声色で、所長らしき人は尋ねてきた。


 「まあ、はい。たぶん美味しくないですけど」


 「ありがとう、それじゃあできたら持ってきて」


 そんな経緯で、俺は薬棚から難解な暗号を解読してコーヒーを淹れることになった。以前に万里小路が偽のラベルを貼ってコーヒーを隠していたのを見ていたので、どこにインスタントコーヒーがあり、どこに砂糖があるのかはわかっているつもりでいた。だが、実際に蓋を開いてみるとどれも似たような色をして、同様の形をした瓶に収められている。結局、一つ一つの瓶を開けては匂いを嗅ぎ、時には指先につけて舐め、インスタントコーヒーと砂糖を発見することができた。


 材料を揃えた頃には疲弊しきっており、所長には悪いがコーヒーそのものは適当に淹れてしまい、所長室の前へと持っていった。


 「ここに置いておけばいいですか?」


 「なんで?」


 俺の問いに所長は反問した。なんだか、どこかで聞いたことのある声である。ふと、その時そんなことを感じた。


 「いや、変に入って邪魔とかしたら悪いですし」


 俺の言葉に、所長は笑った。


 「そんなに気を使わなくていいよ。それに、この部屋はそっちより汚くないから、書類の山を倒す心配もない。だからほら、たまにはこっち来てごらんよ」


 所長に言われるがまま、俺はコーヒー入りのマグカップを載せたお盆を持って、所長室へと足を踏み入れた。


 実際に入ると、所長室は万里小路の仕事場兼応接間の半分程度の広さしかないものの、本当に掃除が行き届いているためか、大きな窓がデスクの向こうにあるためか、とても開放感があった。部屋には小難しそうな本が詰まった本棚が並んでおり、奥には木製の大きなデスクが鎮座している。そして、さらにそのデスクの向こうで、背もたれが大きな革張りの椅子がこちらに背中を向けていた。


 「ありがと、デスクに置いておいて」


 大きな窓に椅子ごと身体を向けたまま、所長は言った。椅子の背もたれがあまりにも大きいために、所長の姿を一ミリも残さず覆い隠してしまっている。そのため、部屋の入り口側からは彼の姿形が全く把握できなかった。


 頑なに姿を見せない所長に猜疑心を微かに抱きつつ、俺はコーヒーをデスクまで運んだ。


 所長が身体を向ける大きな窓は目と鼻の先に雑居ビルがあり、せっかくの窓なのにほとんど光を取り込めないでいる。コーヒーを運んでいる最中に向こうのビルの壁に、海外風の女性のイラストが描かれているのが見えた。露出の多いドレスを着た女性が床に座り込んでおり、こちらを力強い目つきで見つめている。ありきたりだが、大きさも大きさなので印象に残る絵であった。


 「あの絵、すごく素敵だよね」


 所長はどうしてか俺がその女性のイラストに注目していることを察知して、そう言った。


 「なんであんな、誰も見れないところに描いてあるんでしょう」


 「それはかくかくしかじかあってだね、以前はこの壁は道路に面していたらしいんだ。それで、当時四階を借りていたのがダーツバーなんてやっちゃうような海外かぶれな男で、壁に看板代わりにあれを描いちゃったらしいんだ。大したもんだろ」


 「なるほど」


 「それでね、僕は暇さえあるとここからあの絵を見ちゃうんだよ。だって、届きそうで届かなくて、自分しか見ることのできない美しいものって素敵だろ?」


 「はい、そうですね。なんか夢みたい」


 突然語り始めた彼に話を合わせるべく、俺はそう返した。


 「いいこと言うね、まさに夢のようなんだよ」


 所長が上機嫌からなのか、大きな革張りの椅子が小さく揺れていた。


 「そもそもさ、夢って素晴らしいものじゃない? だって、人間に選択肢を与えてくれるわけだよ。現実を見るか、非現実を見るか。宗教だってもともと救済って観点から始まったわけでしょ? 現実に打ちのめされた時の救済としての夢。夢は、この人類が持つ第六感なんだよ」


 「そうなんですかね」


 「そうだ、夢の宗教を作っても楽しいのかもね。夢ってものには正体不明の魅力がある。だから夢について研究する人が世界中にたくさんいる。君はさ、どうして僕らに協力してくれるわけ?」


 所長が椅子を軽く回転させ、こちらを一瞬だけ覗いたように見えた。


 「現実を受け入れるためです」


 「現実を? 面白い発想だね。たしかに、夢があるから現実を生きられるのかも。いいねえ、日本人が外国人を意識して初めて日本人と名乗ったように、物事ってのは比較対象がいるから具体化する。夢の存在を強く意識することで現実もありありと理解できるってことだね。それじゃあ、夢の多いこの世界は楽しいでしょ?」


 「え?」


 所長は突然、あたかも別の世界を知っているかのように語った。平然とそんなことを口にするので、俺はその言葉をすぐには受け止められなかった。


 「ほら、前の世界よりも。幸せでしょ?」


 「ああ、はい」


 そんな会話をしていると、玄関のドアが開く音とともに万里小路の声が聞こえてきた。


 「それじゃあまた、向こうの世界の話でも聞かせてよ」


 そう言うと、所長は椅子から手だけを出して、俺に手を振った。やはりその手の雰囲気は若く、もはや子どものもののようにも見えた。


✳︎✳︎✳︎


 万里小路がセンターに戻ってきて一通りの準備を済ませると、一行はセンター所有のワンボックスバンに乗り込んで、今日の目的地へと向かった。他人の車の中は妙に気を遣ってしまい、落ち着かないものである。ドアをどの程度の強さで閉めるべきか悩み、時には初めて遭遇するタイプのシートベルトを前に悪戦苦闘する。そんな他人の車が嫌いだ。しかし、バイトなので仕方がなく、俺は他人の車の匂いに全身を包まれながら数十分間車に揺られた。


 移り行く外の景色を見つめているのが暇そうに見えたのか、万里小路は今度の被害者のカルテを俺に手渡した。今回治療する蛹はつい最近、市内でできたものであるそうだ。つまり石垣美希の事件以降にも市内で夢泥棒事件が発生したということである。カルテによると被害者である老人が蛹化しているのを、その家の家政婦が発見して事件が発覚したそうだ。前日の夕方ごろにはいつもと変わらぬ様子で外にいたことが目撃されているため、事件はその日の夜から未明の間に起きたと考えられる。


 驚いたことに、その事件が起きた日というのは、俺が夢泥棒と接触したあの日と一致していた。俺がもしあの日やつを止めていたら、この老人が蛹になることはなかったのだ。とは言え、俺は所詮ただ夢泥棒事件の被害者の治療ができるのであって、対夢泥棒の秘密兵器を持っているわけでもないのも加味しておきたい事実である。俺はあの日、どうすべきだったのだろうか。そもそも、なぜ俺はやつに襲われずに済んだのだろうか。もし俺がやつならば、自分が作った蛹を破壊できる人間なんて排除する以外に選択肢はない。なのにやつは、意味のわからない御託を並べて去っていってしまったのだ。やはり、俺の知り合いだったのだろうか。だとしたら、俺はこんな冷酷な事件を起こし続けるその人を止めてあげなければならない。


 夢泥棒のことで頭をいっぱいにしているうちに、ボックスワゴンは目的地へと到着した。


 蛹の治療はいつも被害者の家で行われる。なぜなら被害者は皆、自宅の寝室で被害に遭い、蛹がベッドや寝室の壁にべったりと張り付いてしまうため、上手く剥がすことができなくなってしまうからだ。今回も例に漏れず被害者は自宅で襲われたそうで、ボックスワゴンは山の裾野に位置する大きな和風邸宅の前に停まった。車を降りると俺と万里小路は蛹の治療に用いる機材を車から取り出して、それを荘厳な門の前まで運んだ。そして、「保田」という表札の下に設置されたインターホンのボタンを押した。


 「はい」


 すぐに中年女性の声が応答した。


 「甲田ドリームセンターの万里小路と申します。本日は蛹の治療に参りました」


 「はい、少し待っててください」


 その言葉から数十秒後、引き戸を開ける音とドタバタと走る音が聞こえて、門が開いた。


 「どうも、お待ちしておりました」


 門から顔を出して、エプロンを着けた中年女性が言った。


 「甲田ドリームセンターの万里小路です。こちらは奥村くんです」


 「どうも」


 俺の顔を見て、女性は驚いたような表情を見せた。それも当然である。だって、公的な機関による要請で来た蛹の治療をする組織が、こんなにも民間療法や新興宗教じみた安っぽい雰囲気を放っていれば驚いてしまうものだ。ましてや、二人組の片割れが高校生なんだから、あんぐりと開いた口が閉じなくても至極当然だと俺自身も思う。


 一通り自己紹介を済ませると、女性は一行を蛹化した老人のもとへと案内してくれた。女性は老人の蛹化を発見した件の家政婦であり、プライベートでの老人との親睦が深かったことや、老人に家族がいないことなどの理由から、未だにこの邸宅に出入りして蛹の様子を見たり部屋の掃除をしたりしているそうだ。


 邸宅には古風な中庭があり、それを囲うようにして縁側が設けられている。歩くと微かに軋む縁側を渡って、女性は俺と万里小路を連れて老人の寝室へと入った。


 「ここです」


 老人の寝室は家全体の雰囲気同様に古風で、畳の部屋にタンスがあり、あとは布団が真ん中に敷かれているのみであった。その布団の上に、大きな緑色の塊が鎮座している。


 ターゲットが見つかれば話は早い。俺と万里小路は慣れた手つきで両手に持っていた機材を広げて、蛹の横に設置した。これらの装置は最初にはなかったものの、石垣美希が蛹から出ることを拒んだのは、極度のノンレム睡眠の状態にあるからではないかと万里小路が考え、中の人間がより簡単に出られるように作った代物だ。その仕組みはよくわからないものの、実際にこの装置を使った際には蛹の中で何かに襲われるという事態もなく、すんなりと被害者に接触して解放してあげることができたのだ。決して蛹の中では死なないとは言え、もう二度と猫の大群や招き猫に襲われたくはないので、俺もこの装置の設置を手伝った。


 蛹の治療に最適な空間が完成し、早速俺が蛹の中に入る段階へ突入した。いつものように万里小路が蛹の中心部分をまさぐり、蛹の入り口を探る。その間、家政婦の女性は治療の先行きが不安なのか胡散臭い俺たちを心配してなのか、寝室の中を見つめていた。


 探り始めてから数分後、ついに万里小路は小さな切れ目を見つけ出して、その手がかりを大きく引っ張って人が入れる大きさの入口を作った。


 「さあ、始めましょう」


 「はい」


 万里小路に促されて、俺は蛹に入る準備を始めた。


 「あのう」


 女性が心配そうな声で言った。


 「なんですか?」


 「ご主人は少し神経質なところがあるので、気をつけてください」


 落ち着かない様子で女性は俺にそう言った。


 「大丈夫ですよ、どうにかなりますから」


 俺はそう言って、蛹の中心にできた黒洞々たる闇の中へと足を入れた。


✳︎✳︎✳︎


 気がつくと、そこは西洋風の豪華な食堂にいた。部屋の至る所に曲線を重視した装飾が施されており、それらが煌びやかな雰囲気を作り上げている。そんな中、俺はやけに座り心地のいい椅子に座り、冗談みたいに長い縦長テーブルを目の前にしていた。テーブルには純白でシワ一つないテーブルクロスがかけられており、その上には等間隔に銀の燭台が置かれている。間取りから見るにどうやら俺は下座に座っている。普段ならそんなことは気にしないのだが、その部屋の発する高圧的な雰囲気とあまりにも長いテーブルによって、自分自身を卑下する気持ちが必要以上に煽られるようだった。


 「ようこそ、我が夢の世界へ」


 数十メートル先の上座に突如、燕尾服に身を包んだ紳士風の老人が現れた。胸元では今時珍しいループタイが光を反射している。お察しの通り、彼が今回の被害者である。カルテに顔写真が載っていたのですぐに判断ができたが、蛹の中に入ってすぐに中の人間に会うとは意外であった。これまで数人の治療しかしてきてないが、どの時も最初は本人がそこにおらず、それをまず探す必要があるのだ。本人の姿を見つけるにはいつもその人間の世界を一つ一つ探索して、より深層へと入り込んでいく必要があるのだが、その工程が莫大な時間を要するのである。そのため、第一層から本人が登場してくれるのはとてもありがたい。これも万里小路による装置の効果かもしれない。今日は早く帰って、久々の完全な自由時間を謳歌できるかもしれない。


 「ずっと一人だったので、ゲストはとても嬉しいものだ」


 白い髭を撫でながら、老人は言った。


 「そう言ってもらえて嬉しいです。ずっと一人で寂しくないんですか?」


 蛹から出る思考に切り替わるよう、俺はそう尋ねた。


 「うむ、孤独とは寂しいものだ。だが、誰とも触れ合わずに一人になって自分の考えに耽るのも、捨てがたいのだ」


 「だからここに閉じこもっているんですか?」


 「そうだ。自分との対話がしたくてね」


 「なるほど」


 これまでの蛹の治療法で会得した、いくつかのノウハウがある。たとえば、蛹の中では本人の言うことを否定してはならないということだ。蛹の中はその人の心の全てであるため、それを否定すると世界を否定してしまうことになる。それでは相手も蛹から出る気にはなれない。できるだけ相手の話を聞き、肯定してあげることが蛹の解放に繋がる。


 加えて、理由はわからないが蛹に閉じ込められた人は感情をむき出しにしがちなので、そういった点からもあまり怒らせるようなことはしない方が得策なのだ。


 「だが、時には人と食事するのもいいことだ。君、腹は減っていないか?」


 その問いが発されてすぐに、白米と味噌汁の入った茶碗を持った使用人のような服装の女性が現れ、俺の目の前に古風な日本人の朝食セットのようなものを置いた。


 「さあ、遠慮せずに食べなさい」


 言われるがまま、俺はその食事を食べ進めた。やけに真剣な目つきで、それを老人が眺めてくるので少し焦るようだった。


 そんなことを考えながら白米を食べ終え、味噌汁を飲み干し、漬け物も食べきった。たかだか食事なのにも関わらず、妙な緊張感があったので完食した瞬間胸の中に安堵の思いが広がった。


 「君、何もなっていないな」


 「へ?」


 老人の目は真剣を通り越して、もはや怒りに満ちているようだった。


 「御託をいくら並べようとも、態度が本当の思いを表す。秩序に対する姿勢こそが、その人間の誠意を示す」


 「え?」


 老人は何かを唱えるように話し始めた。


 「秩序、すなわちマナーを守れない人間には、誠実さを示す手立てはない。その場限りの言葉で心が動くのは、所詮志のない人間だけである。さらばだ、渡し箸」


 低い声で老人はそう言うと、今まで以上の力強さで俺を見つめた。


 まずい、まずい。長いテーブルに乗って、何か目に見えない根源的恐怖のようなものがこちらへ迫ってきているような気がする。これは現実でないことを自分に言い聞かせるものの、相手の気迫に押されてつい震えてしまう。


 いつの間にか俺は気分が悪くなり、先程食べたものを全て吐き出してしまった。視界が歪み、目に映るもの全てが三重に見える。テーブルの先に、老人がまだいることは辛うじてシルエットから理解することができた。


 「秩序を破ることなかれ」


 老人のその言葉を最後に、俺の意識はどこかへと行ってしまった。


✳︎✳︎✳︎


 意識が明瞭になって目を開くと、そこはさっきまでいた西洋風の空間とは異なって和室だった。部屋の中心には餃子のような形をした緑色の何かがある。周りにはさまざまな電子機器が並び、SF映画に出てきそうな太い管が数本、餃子に刺さっている。


 そうだ、ここは現実なのだ。俺は蛹の中で老人に飯を食わされて、老人は食わせたくせにマナーがなってないだなんて言って怒って、俺はここにいる。一つ一つの記憶は明確に思い出せるのに、今に至るまでの過程を連続的な記憶として遡ることができない。無理もないだろう、だってこんなことは初めてなんだから。


 「奥村くん、今日は随分と早いじゃないか」


 「違うんです。追い出されたんです」


 「え?」


 部屋に嫌な空気が立ち込めた。これまでの治療では皆、最初は拒みつつも蛹から追い出すことはなかった。それなのにあの老人は、ものの数分で俺を夢から追放した。そんな相手からどうやって解決の手口を見つけ出せばいいのかがわからない。一方的に喋って人間を拒絶する人間が、果たして俺の言動に彼が絆されることはあるのだろうか。前代未聞の状況に、俺も万里小路も前後不覚の状態に陥ってしまったわけだ。


 未開の領域を眼前に屈託していても仕方がない。そんなわけで、俺はもう一度蛹の中へ入った。


✳︎✳︎✳︎


 白地に差し色として金の装飾がなされた洋風の空間。まさしくさっきの場所である。


 「ようこそ、我が夢の世界へ」


 仏頂面の口だけが動いて、そんな言葉が発せられた。


 先程とほとんど同じ台詞を老人は淡々と続けた。金太郎飴の金太郎以上に紋切り型のやりとりが続いて、食事のシーンに突入した。


 「さあ、遠慮せずに食べなさい」


 今度はマナーを意識して、できるだけゆっくりと食べる。その間、老人は小さな目を光らせて、俺の一挙手一投足を注意深く観察していた。


 緊張で震える手を強引に鎮めて、俺は味噌汁の最後の一口を飲んだ。


 「御託をいくら並べようとも、態度が本当の思いを表す。秩序に対する姿勢こそが、その人間の誠意を示す」


 「え?」


 老人はまた、何かを唱えるように話し始めた。


 「秩序、すなわちマナーを守れない人間には、誠実さを示す手立てはない。その場限りの言葉で心が動くのは、所詮志のない人間だけである。さらばだ、渡し箸」


✳︎✳︎✳︎


 そして、目を開けると視界いっぱいに蛹があった。


 「また駄目でしたか?」


 「はい」


 どうやらこの問題は、根気と量では解決できないもののようであった。三度目、四度目も同様に追い出され、老人の言葉にも変化は起きなかった。このまま救い出せないのではないかという考えが本格的に部屋の中を占領し始め、とりあえず五度目の突入は早まらないべきだという結論に終わった。


 その日は邸宅から撤退して、帰りに駅前の本屋でマナーに関する本をいくつか買った。もちろん、お金がもったいないので領収書をしっかりと貰い、後で万里小路に請求した。


 五度目の突入は次の土曜日である。一週間で、俺は老人を満足させられるほどのマナーのなった人間へと成長しなければならない。これも仕事の一環である。そう自分に言い聞かせて、俺はいかにもマナーにうるさそうなショートカットの女性の写真が著者として帯に載った、分厚い本をバイブルのようにどこにでも持って歩いた。


 そんなことをしていると自ずと俺自身もマナーに小うるさい人間になってしまい、昼食をともに食べるたびにマキヲに嫌な顔をされた。


 食事マナーを中心に読み進めると意外なマナーが多く、一つ心当たりのあるマナー違反を見つけた。


 そんなこんなで一週間が経過し、俺は再び老人宅へと足を踏み入れた。閑静な雰囲気漂う中庭を横目に縁側を進み、例の寝室へと入った。家政婦の女性は心配そうに俺と蛹を交互に見つめ、万里小路は機材を蛹に取り付けている。その間も、俺はショートカットの女性の朗々とした声を想像しながら、彼女の書く説教じみた文章を読み続けた。


 「奥村くん、準備できたよ」


 時は来た。再戦の時である。自分の顔は鏡やそれに代わる何かがない限り見ることはできないが、その時の自分の表情は容易に想像ができた。口は一文字に結び、目は相手だけに集中する。まさに決戦に赴く武士の如く、俺は蛹の中に入った。


✳︎✳︎✳︎


 目覚めると、そこは見覚えのある大きな食堂であった。目の前には廊下と見紛うほどに長いテーブルが設置され、その先に忌まわしき老人がいた。


 「ようこそ、我が夢の世界へ」


 聞き慣れた決まり文句を受けても、もう俺は怯まない。ゲームの街にいるキャラクターのように同じ話しかしない老人を前に、俺はこれ以上となく落ち着き払っていた。なぜなら俺には、マナーへの知識があるからだ。


 母のカレーの次に慣れ親しんでしまった米と味噌汁と漬物が、ついに目の前に並んだ。


 「いただきます」


 そう言って、俺は食事に手をつけた。ゆっくりと、所作に気をつけながら米を噛み、味噌汁を飲み、漬物を味わった。老人の半ば睨むような目線がどれだけ恐ろしくても、俺は食事をやめなかった。


 「ごちそうさまでした」


 俺はそう言って、一膳の箸を箸袋で作った箸置きの上に乗せた。これなのである。この行為が、全ての肝であったのだ。それまで、俺は茶碗の上に箸を置いてしまっていた。家には箸置きも箸袋もないので当然のようにしてしまっていたが、それも立派なマナー違反なのである。無知とは恐ろしいものだ。マナー違反を指摘する相手に対して、俺は何度も渡し箸を見せつけてしまっていたのである。


 「お見事」


 老人はそう言って、真顔で拍手をした。


 「君は若い。まだ食い足りないだろう?」


 「え?」


 俺の困惑する顔を見て、老人は初めて笑ったようだった。


 その後も多くの料理が提供され、多くのミスリードと戦った。おかわりをさせることによる受け箸、大量の小鉢料理による移り箸、突如現れた隣席の人間による拾い箸、食べづらいものを提供することによる横箸と刺し箸。どれも予習済みではあったものの不意に出てしまい、何度も夢から追い出されては最初から再挑戦を繰り返した。それでも、先週とは違って何が間違っているのかを冷静に判断することができるため、疲労を感じつつもイラつきはしなかった。


 実に十二度目の挑戦で、俺は汁気の多い煮物を完食した。その前の挑戦では、涙箸で失格にされてしまったのである。


 「お見事。これで腹も膨れただろう」


 老人はそう言って、無機質な拍手を十数メートル先から送ってきた。これまでになかった新たな流れである。テーブルに広げられた大量の食器が片付けられ、目の前には一杯のお茶が出された。新たな試験段階への突入だろうか。


 「案ずるな、君の誠意は受け取った。今は閑話休題の時である」


 老人はそう言って、そこに毒が入っていないことを示すかのように、自身の前にあるお茶を飲んだ。


 「最初は話を聞く価値もない人間だと思っていたが、その秩序に対する積極的な姿勢は、見事であった」


 老人の言葉から察するに、老人はゲームのキャラクターとは違って、俺がやり直した全ての記憶があるようだ。


 「ありがとうございます」


 そう言って、俺もお茶を一口飲む。


 「ところで君、常に三角食べをしていたな」


 老人の目が、俺を真っ直ぐと見つめた。まずい、夢から追い出すときのあの視線である。


 「マナー違反なんですか?」


 俺の問いを聞いて、老人の目は平素のものに戻った。


 「決してマナー違反ではない。だが、あれは決して美しいマナーなわけでもない。子どもが給食を残しても平等に栄養を摂れるように考えられた、子ども用の秩序なのだ」


 「それって、駄目なことなんですか?」


 「駄目ではない。だが、その思考は好ましくない。与えられた事実を常に疑いなさい。選択肢は誰かがくれたもの以外にもあることを意識しなさい」


 老人は言った。


 「君、今とてもつまらなそうな顔をしているな。非現実の世界でも説教を食らっているからか」


 「別に、そんなことないですよ」


 口先だけでは否定しておく。


 「非現実にだって説教があり、教訓もそこに眠っている。時に、現実を理解する鏡となって、夢は君の前に現れる。夢がカオスであるべきだと誰が決めた? そんなものは固定観念だ。ステレオタイプであることが規格外であることだってある。世界とは脆く、儚いものなのだよ。何が現実かは人が決めるものではない。君が信じるものだ」


 半ば哲学のようなことを語りながら、老人はお茶を飲み干した。


 「さて、それでは喋ったのでそろそろ腹が減ったろう」


 「へ?」


 悲鳴をあげる俺の胃袋のことなどつゆ知らず、老人はそう言った。


 困惑している間にまた老人に睨まれて、意識が遠のいていった。しかし、今回は吐き気や眩暈の伴わない、眠りに落ちるような安らかなものであった。


✳︎✳︎✳︎


 重い瞼を開くと、そこには木造建築の小料理屋のような建物があった。小さくて古めかしいながらに管理が行き届いており、高級感のある佇まいである。一方で青い暖簾は所々にシミができ、場所によっては黒ずんで群青色や紺色に染まっていた。


 どうやら、次はここで新たな試験が待ち受けているようだ。


 引き戸を開けて暖簾に腕押しして、俺は店内を見た。店内のほとんどはカウンターが占領しており、その上には種々雑多な料理が盛り付けられた大皿が並んでいる。そんなカウンターの奥に、例の老人がいた。それも割烹着姿で。壁には大きな文字で「粋」と筆で書かれた色紙が飾られている。


 「いらっしゃい」


 老人はそう言って、俺に席へ座るように促した。


 「お腹、空いているでしょう」


 そう言って、なんだかコスプレ感が拭えない老人は、俺に背中を向けて料理の準備を始めた。


 ものの数十秒で、老人はどこからか揚げたてのトンカツを持ってきた。揚げ物の音もしなければ、キャベツを千切りにする歯切れのいい包丁の音さえ聞こえなかったのに、トンカツはついさっき世界に誕生したような艶を放って、こちらを見つめてくる。まるで料理番組の差し替えのようである。


 「さあ、食べなさい」


 今回ももちろん食べ慣れた白米と味噌汁、それと漬物がついてきた。


 三角食べは不要、刺し箸と涙箸に注意。そう心に言い聞かせて、俺は六等分された中の一番左のカツに箸を伸ばした。油のせいで箸が滑るようだったが、焦ってはいけない。しっかりと挟んで、一口食べた。


 「やはり、君は何も理解できていないようだ」


 「え?」


 老人は鋭い眼光を俺に向けた。まずい、非常にまずい。


 「でも、別にマナーは破ってないですよね?」


 上質な油にコーティングされた口を開いて俺はそう言った。


 「ルールを守ることが全てではない。その先にあるものを見極めなさい。何が正解で何が答えか、時には現実を疑うのだ」


 老人はその言葉を言い終えると、また俺の目を見つめた。


 「秩序を破ることなかれ」


✳︎✳︎✳︎


 また、俺は不快感を抱きながら和室に立っていた。なぜ追い出されたのか、全く理解ができなかった。マナーは完璧であったはずだ。それに、老人の言葉からも今回はマナーの話ではないようだ。では、マナー以外の秩序とは何なのだろうか。考えてもわからない。


 「トンカツ マナー」


 なんて言葉で検索してみても、何も有力な情報は得られない。どうするべきなのだろうか。


 いつまでも煮詰まることのない秩序という概念について考えていると、万里小路が焦った様子で話しかけてきた。


 「まずいです、奥村くん。蛹の心拍数が下がっています」


 「どういうことですか?」


 焦る様子に煽られて、脇腹に冷や汗が伝うのがわかった。


 「中の人物が、命の危機に瀕しているんです」


 その声は、動揺したように震えていた。


 すぐに家政婦の女性を呼んでそのことを伝え、医者を呼んでもらった。医者が来ても救急隊が来ても無論、その蛹を部屋から引き剥がすことはできなかった。次第に事態は大ごとになっていき、部屋には大勢の大人が集まり、蛹の周りにはノンレム睡眠を解除する装置に代わって、生命維持装置のようなものが並んだ。


 もう、蛹に入ることはないのかもしれない。移り行く視界の出来事に、そんな思いが浮かんだ。


 「あのう」


 普段の気弱そうな雰囲気が輪をかけて強くなった家政婦の女性が、話しかけてきた。今も蛹に周りには、さまざまな大人が並んで蛹を剥がすために右往左往している。


 「もう、あの中に入ることはできませんか?」


 「なんでですか?」


 「ご主人、あんな状態で亡くなるのはあまりにも可哀想だから」


 女性の瞳に心からの優しさを感じた一方で、亡くなることを前提とした語り口に大人の冷酷さを垣間見た気がした。冷酷と言えど、やはりこのままではなす術もなく死んでしまうのも事実である。もしそうなったら、棺桶なんかはどうやって準備するのだろうか。不謹慎ながら、そんな疑問が浮かんだ。


 「わかりました。行きます」


 あの老人を助けられるのは、俺だけなのである。なら何度拒絶されようとも、手を差し伸ばさなければ寝覚めが悪いって話だ。


 「どいてください」


 俺はそう言って救急隊員にどいてもらって、弱々しく縮こまり始めた蛹の穴に突入した。


✳︎✳︎✳︎


 蛹の中に入ると、俺はすぐに店内に入った。


 「いらっしゃい」


 老人はそう言って、俺を座らせた。


 「あのう、話があるんですけど、いいですか」


 「なんです?」


 「今あなたは、現実の世界で死にかけているんです」


 俺の言葉に、老人は多少なりとも動揺した様子であった。


 「だから、こんなことはやめて、現実に戻りましょう」


 「こんなことではない。秩序を守るためには、時に命の犠牲も厭わない」


 老人はそう言うと、またトンカツをどこからか出した。最初は一番左であったので、俺は左から二番目を食べた。そして追い出された。


✳︎✳︎✳︎


 こうなれば一つ一つの攻略法を勉強するのでは遅い。さまざまなマナーやルーツに詳しい人がいれば尋ねることができるのだが、大部屋にここまで大人が密集していても、トンカツは何から手を出すべきなのか知らない。そもそも、トンカツにそんな決まりがあることすら知らない人しかいなかった。人海戦術も駄目で、さっきまでは頼もしかったルール講座も駄目。どうするべきか、考えろ。


 いや、時間がないのだ。いっそのこと、思考をやめてしまえ。俺は畳の部屋で頭を抱えるのをやめて、また蛹の中に入った。


✳︎✳︎✳︎


 「いらっしゃい」


 トンカツが出るたびに、俺は腹の状態とも相談せずに左から順々にして、口にするようにした。どれも不味いわけではない。だが、食べた量が量なので油に溺れてしまいそうな錯覚に陥った。


 そしてついに、俺は肉感の強い右から二切目のトンカツを食べ、追放されずに済んだ。


 「トンカツは脂身側と肉側があり、最初は肉側の端から二番目を食べるのが乙である」


 「乙なものと秩序が関係あるんですか?」


 「不服そうだな。だが、乙であり粋であることは、ルールの延長線上にある。どこかで誰かに規定されたものだけが秩序ではない。秩序は不文律の中にもあるのだ」


 なぜ老人が命を危険に晒してでも、秩序を求め続けるのかが理解できなかった。ここらで切り上げて蛹から出る道を選べば、老人はまだ助かるかもしれない。なのに彼は今、ゆっくりと俺がトンカツを食べ終えるのを待っている。


 「回数で勝負とは、随分と焦っているようだな」


 老人は次の料理を準備しながら言った。


 「だって、あなたが命の危機に瀕しているから」


 「それを理由に試練の突破を強引に押し進めるのか?」


 「当然でしょ、人の命が懸かってるんだから」


 老人は俺を見つめた。この目つきは俺を追い出そうとする際のものである。嫌というほど見たからすぐにわかる。今度は何が悪かったんだろうか。敬語を使わなかったからだろうか。いや、そんなのどうでもいい。俺は何も間違えていない。俺がこの老人のルールを主体に動く筋合いなんてないのだ。


 俺は老人の落ち窪んだ目を見つめ返した。


 「まあいい。次の料理を食べなさい」


 意外なことに、俺はその場に居続けることができた。


 その後も蕎麦や天ぷらの通な食べ方が要求された。トンカツの際と同様にトライアンドエラーを繰り返して、俺は強引に粋な人間になりきった。味もつけない真っ新な状態で食べる蕎麦も、塩だけで食べる天ぷらも美味しくはなかった。


 腹がこれ以上となく膨れ上がり、もう限界が近かった。そんな中で小籠包をレンゲの上で破って、俺は汁を先に飲んだ。これもやっぱり、火傷はしないもののそのままかぶりつく時ほど美味しくない。


 「お見事」


 俺が小籠包を食べ終えると、老人はそう言って拍手をした。


 「随分と強引であったが、いいだろう。粋な振る舞いとは経験が蓄積されてできあがるものである。その点で、君の答えへのプロセスは間違いではないのかもしれない。周りに影響されぬ強靭な心は、時には無茶もできるようだな」


 そう言って、老人は熱いお茶をカウンターに出した。


 「もう腹はいっぱいだろう。ともに一服でもしようじゃないか」


 お茶を飲み干すと、俺は眠るように気を失った。


✳︎✳︎✳︎


 気がつくと、目の前には鯉が優雅に泳ぐ生け簀があった。隣には有名なビールの名前が印字された、ボトルクレートに腰かける老人がいた。その口元にはタバコが咥えられている。


 「吸うかい?」


 俺の視線に気づいたのか、老人はそう尋ねてきた。


 「いや、未成年なんで」


 俺の言葉には耳も貸さず、彼は俺に白い棒状のものを渡した。


 「これもコミュニケーションという一種の秩序を保つための道具だ」


 そんな言葉を投げかけられては、吸わなければならないのが今の俺の立場である。仕方なく、皮の分厚い老人の手のひらからそれを受け取った。


 手に取ったのはいいものの、吸おうにも老人は火をくれない。だが、そこで火を頼むのもなんだか無粋な気がする。どうすればいいかわからないまま、なんとなく俺はそれを口に咥えた。もちろん、火はないので煙なんてどこからも出ることはなかった。それでも、老人のように紫煙を燻らせようと息を吸ってみる。すると、口の中にハッカの香りとココアの甘味が広がった。


 「夢の中では、お菓子を食べるが如く喫煙できてしまう」


 老人は口からゆっくりと煙を吐いて、そう呟いた。


 「夢?」


 「そう、非現実で奇々怪々なこの世界を、夢と呼ばずしてなんと言うか」


 老人は鯉を見つめながら、小さく口を動かし続けた。


 「夢はカリギュラを引き起こし、ルサンチマンの解放を促す。もしかしたら、私はこの夢の中でわがままな赤ん坊のようになってしまっていたのかもしれない」


 「それがわかってるなら、早く目覚めて病院行ってくださいよ」


 俺の言葉に、老人は首をゆっくりと横に振った。


 「決して後悔はしていないのだ。最近ではどこも発祥不明のルールが跋扈して、自由な人々の意思や行動が制限されてしまっている。若者は幼い頃からそれが当然だと信じ、何も疑わぬままに大々的に名言化された法に則って生きている。そうだろう?」


 老人はそう言って、こちらを見た。俺はそれに応えるように、気持ち程度に頷く。


 「ただ、私は誰かに伝えたかったのだ。正しいこととは、秩序とは、法律の仲間ではないのだよ。人の家のキッチンで料理をする時や、誰かのパソコンを借りる時はなんだか行動がおぼつかなくなるだろう? それは相手の秩序を破壊することを恐れているからだ。秩序とは、それほどまでに恣意的なものを孕んでいるんだよ」


 老人はまた、鯉を見つめた。


 「果たしてあてがわれたものが本当の正義か、考えてみなさい」


 彼はそれを伝えるために、俺にあれほどの試練を与えたのだろうか。それについて尋ねたい思いが心に芽生えたものの、無粋なので俺はただ、偽物のタバコを吸った。


 「もう、あっちに戻るつもりはないんですか?」


 俺の問いに、老人は小さく頷いた。


 「でも、きっとあなたがいなくなったら悲しむ人がいます」


 「この世界での私はわがままなのだよ。人のことも顧みないくらいに」


 しばらく、鯉の作る波紋を見つめる時間が続いた。耳には時折水の跳ねる音が入ってくるものの、その他のさまざまなノイズは聞こえなかった。


 突然、意識が遠のき始めた。視界が揺らぎ、強烈な眠気だけが脳内に広がる。まずい、まずい、まずい。


 老人は目を瞑った。


 「私が目を瞑るのと、君が目を瞑るのでは話が違う。君のは現実からの逃避。私のは自分との対話だ。もし困ったら、静かな場所で目を瞑ってみなさい」


 「ちょっと待って」


 俺が言葉を言い終える前に、老人は言った。


 「どうやらここは、禁煙だったようだ」


 視界が真っ暗になった。


✳︎✳︎✳︎


 視界が明瞭になり、俺は和室の一角に佇んでいた。大人たちが焦り、大きな声が応酬する。そんな中、俺はただ畳を踏みしめ、そこに立っていることしかできなかった。


 ふと、脳裏に老人の微笑む顔が浮かぶ気がした。


 「秩序を破ることなかれ」


 その言葉が、胸の中に残っていた。

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