美人とオカメ
「なんと、夢泥棒の風貌についてこんな証言が出ているんです」
若い女性アナウンサーが言った。
「なになに? やっぱ気になるよね」
すっかりテレビでネタをやらなくなり、ただの賢くない市民代表のようなポジションを獲得した中堅芸人が、アナウンサーの話に食いつく。
「それがこちらです」
そうアナウンサーが言うと、大きなフリップがひっくり返った。そして、ワイシャツに太めのネクタイを結んだ、学生のようなイラストが現れる。その手元にはホッケーのスティックが握られていた。
「あれ、学生じゃない」
さっきの元芸人が言った。
「そうなんです、夢泥棒の目撃者である埼玉県所沢市在住のEさんによると、夢泥棒はホッケーのスティックを振り回す男子高校生のように見えたそうです」
「あら、なんか制服似てない?」
家を出る準備を急ぐ俺に、母が言った。
「こんな制服いっぱいあるでしょ」
「そっか。まあ、そうね」
我が家ではそんな会話で済まされたが、全国放送のニュース番組で流されたそのセンセーショナルな情報は、ものの数分でネットで話題となった。高校生の犯行という可能性に恐怖する者、あまりにも根拠がなさすぎて呆れる者、ここぞとばかりに最近の子どもへの教育に対して語り始める者、同級生をその人物だとして晒しあげる者など、反応はさまざまであった。無論、学校内でもその話題は上がり、ネクタイの色がたまたま同じだったことから、冗談半分の犯人探しなんかが始まった。
「犯人この中にいたりして」
マキヲがなぜか嬉しそうに言った。
「いや、こんなクソ田舎でホッケーの棒なんて持ってるやついねえだろ」
委員長のその一言で、俺たちの夢泥棒考察は終わってしまった。
❇︎❇︎❇︎
五月某日、俺は万里小路に呼び出されて、とある場所に来ていた。目の前にはお世辞にも綺麗とは言えない二階建てのアパートがある。建物そのものが古いことに加えて、今にも降り出しそうなネズミ色の空と、それを感じて飛び立つカラスのシルエットが、アパートをより不気味に装飾していた。右を向けば雑草が生い茂った空き地があり、左を向けばさらに古臭い雰囲気を放つ一軒家がある。最寄り駅から車で約五分の場所に、こんな寂れた風景が広がっているとは驚きであった。
「奥村くん、それじゃあ行きましょう」
以前よりも少しだけ緊張感のある声でそう言って、万里小路は歩き始めた。
壁面に「境ブルーミング」というプレートが貼られたそのアパートには部屋が二階と一階にそれぞれ四部屋あり、万里小路は所々錆びついた階段を上って二階へと向かった。そして壁に立てかけられた箒や、廊下に設置された洗濯機には目も暮れず、一番奥の部屋まで突き進んだ。
そこには「石垣」という表札がつけられた、すぐにでもこじ開けて入れてしまいそうな安っぽいドアがあった。ドアの横には骨の一部が錆びて茶色くなったビニール傘が置いてある。
万里小路は白衣のポケットを弄ると、一本の鍵を取り出した。そして、目の前のドアを開ける。その瞬間、湿気った空気と鼻につくほどの甘い匂いが部屋から溢れ、俺とその隣にいる万里小路を襲った。思わずその場で咳き込んで、前が見られなくなった。そんな俺を放って、万里小路は部屋へ入っていってしまった。
呼吸を整えるためにしばらくその場で深呼吸して、やっと落ち着き始めたところで俺も部屋へと足を踏み入れた。部屋は謎の空気を孕んでいた割に、いざ中に入ってしまえばただの多少の生活感が残る六畳の空間でしかなかった。安っぽいシンクのついたキッチンに、剥き出しの給湯器。隅には小さな棚があり、中には電子機器とDVDのパッケージが数本並んでいる。棚の縁に気持ち程度のデコレーションがマスキングテープで施されており、部屋の持ち主が女性であることがわかった。棚の上にはテレビが置いてあるものの、液晶は埃に覆われてしまっている。
そんな平凡な部屋に見受けられたが、棚の反対側を見た瞬間、部屋に充満する異様な空気の根源がわかった。そこには、新緑のように鮮やかな緑色をした、巨大な蛹があったのだ。部屋の隅で縮こまるようにして、それは薄い布団と白い壁にべっとりと張り付いていた。赤紫色の筋が数本通った緑色の身体は、一定のリズムで小さく膨らんでは縮むのを繰り返している。
「こちらの方が中に入っています」
そう言うと、万里小路はバッグの中から一枚の紙を取り出して、俺に渡した。
カルテのようなその紙には、女性の詳細な情報と蛹化の症状について記載されていた。右上には顔写真が貼られており、そこにはこれといった印象の残らないような女性の顔があった。どこかで見た気がする。だけど、どこで見たかわからない。そんな顔である。
名前の欄には「石垣美紀」と記載されている。年齢は二十六歳で、出身は栃木県らしい。やはりどこかで見た気がするが、どこで見たのかがわからない。
職業欄を見て、謎が解けた。そこには「フリーター(飯田書店勤務)」と書いてあったのだ。飯田書店なんて、何度も行ったことのある本屋じゃないか。それなら、一度や二度くらい接触しているはずである。だから、既視感があったのだ。
「準備はよろしいですか?」
勝手に悩んだり納得したりしてカルテと睨めっこする俺を見かねて、万里小路が尋ねてきた。
「ああ、はい」
俺の返事を聞くと、万里小路はキャンプなんかで使う大きめの懐中電灯を取り出して、蛹に当てた。薄暗い部屋で懐中電灯は本領を発揮し、これ以上となく力強い光で蛹を照らした。白いLEDの光に晒された蛹の表面には、先ほどまでは見えていなかった夥しい数の血管のような細い筋が通っており、さらに奥を覗き込むと青白い石垣美紀の顔がぼんやりと浮かんでいた。
つい小さな声が出て、俺は後退りした。
「最初は驚きますよね」
そう言いながら、慣れた手つきで懐中電灯を固定すると、万里小路はゴム手袋をはめた。
「まあまあ、怖がらないであげてくださいよ。彼女は被害者なんだから」
「はい、すみません」
俺の謝罪に耳を傾けず、万里小路は蛹の真ん中、つまり彼女の腹部が位置するあたりに手を当てた。万里小路が何かを探るたびに、ネチャネチャという気味の悪い粘着質な音が部屋に響いた。そして数十秒後、万里小路の指先は何かを見つけ出して、止まった。
「ここです。ここをですね、こうやってあげるんですよ」
そう言いながら、万里小路は両手の指先を見つけ出した蛹の窪みに入れて、それを開き始めた。窪みは先ほど同様の粘着質な音とともに次第に裂け、寸断されたゲル状の物質が崖に橋を渡すように何本もの糸を引いた。最終的にはその糸すら断たれ、蛹の中央には人が一人入れるほどの穴が空いていた。穴の奥には、全く光のない深淵がある。
「ここから夢のない世界に行けます。どうぞ」
汚れたゴム手袋を外しながら、万里小路が言った。
「ありがとうございます」
俺はそう言って、万里小路と入れ替わるように蛹に近づいた。
「中に入って少しでも危険を感じたら、頬を引っ張ってください」
「なんでですか?」
「言ってしまえば、そこが自分にとっての現実ではないことを自認できればいいんです。ただ、あまりにも現実っぽくてそれが上手くできないから、自己暗示みたいに頬を捻ってやると、結構スムーズに帰って来られますから」
「わかりました。ありがとうございます」
俺が右足を蛹の中に入れようとした瞬間、万里小路が俺を止めた。
「あと、夢泥棒がいるかもしれないので気をつけてください」
「え?」
夢泥棒が蛹の中にいる。謎の状況である。だって、夢泥棒は無差別に人を襲っている、謎の通り魔か何かなのではないのだろうか。今朝だって、夢泥棒についてテレビでやっており、その風貌に関する憶測や信憑性に欠ける証言がまた飛び交っていた。別に今から俺も入るわけだし、夢泥棒が蛹の中に入っていてもおかしくないのかもしれない。だが、だとしたらなんのために蛹に入るのだろうか。
「夢泥棒って、いったいなんなんですか?」
「それはですね」
万里小路は何か考えるように宙を見つめた。
「夢泥棒とは、つまり夢泥棒なんです」
「はい?」
「私からはそうとしか言いようがありません」
そう言うと、万里小路は俺の問いから発された会話を打ち切った。
いったいなんなのだろうか。何かしらを介して伝搬する、ウイルスのようなものなのだろうか。そんな考えが浮かんだが、どうにも合点がいかない。
まあ、そんなことで悩んでいても仕方がないので、俺は蛹の中に足を踏み入れた。
❇︎❇︎❇︎
さまざまな種類が重なった蝉の鳴き声、熱のこもった空気を切り裂く涼しげな風。目を開くと、そこは夕暮れ時の知らない場所であった。辺りを見渡しても目に入るのは道、電柱、田んぼ、山、それと時々民家。だだっ広い田んぼには見たことのない野鳥がいて、細長い足を真っ直ぐに伸ばして水面から身体を出している。
自身の生まれ育った場所を田舎だ、田舎だと言ってきたが、そこに広がる光景を前に、俺は考えを改める必要性があった。まさにこの光景こそが、田舎という言葉が表しているものなのだ。
どこに向かえばいいのかさっぱりわからないが、ここで立ち尽くしているわけにもいかない。俺の使命は単にこの世界に入ることではなく、石垣美紀を蛹から救い出すことなのである。山の方に行っても何もないと踏んで、俺は山を背に進むことにした。
全てのものの影が長く伸びた、橙色の世界を進んだ。額に汗を浮かべながら、今にも帰宅を促すチャイムが流れそうな道を歩いた。どこまで行っても田んぼばかりで、流石にここまで空が広いと圧巻である。知らない道に、知らない風景。なのに、どこか懐かしさすら湧いてくるようだった。
そんなことを考えながら歩いていると、突然道の先に何かしらの変化が現れた。あまりにも遠くて何かはわからないが、何か白いものが蠢いている。蜃気楼だろうか。それとも、俺が夏の暑さに浮かされたのだろうか。どちらかは判然としないが、不自然に伸びる一本道の先に白い何かがいて、それがこちらに向かってきていることだけは揺るがぬ事実であった。
立ち止まってしばらくそれを見ていると、なんとなくその輪郭が見えてきた。それは大きな白い何かではない。おそらく、白い小さな何かが集合したものなのである。さらに目を細めて、その集合体を見つめた。やはり小さな何かがまとまって、互いの上に乗ったり、ぶつかったりしながら、それは着実にこちらへ向かってきている。次第に蝉の鳴き声の合間を縫って、豪雨の日の雨音のような音が耳に入ってくるのがわかった。きっとあの物体の歩く音だ。これといった根拠はないものの、そんな考えが不意に浮かんだ。
道いっぱいに広がるそれは、近づいてくるほどに迫力と奇妙さを増していった。ついにはそれを構成する一つ一つの姿が認知できそうな距離感までやってきた瞬間、俺の耳に何かまた異様なものが土足で押しかけてきた。それは、猫の鳴き声であった。
にゃあ、にゃあ、にゃあ。それと時々、頭を踏まれて上がる機嫌の悪そうな悲鳴。いつの間にかそんな声が耳を埋め尽くして、蝉の存在など元からなかったかのように淘汰してしまった。その塊が大量の猫によって構成されていると言ってしまえば、どこか可愛げのあるものとして受け取られてしまうかもしれない。だが、実際にこの光景を目の前にして、同じことが言える人はそう多くないはずだ。波のようになって迫り来る白猫たちは、俺を視認しても全くそのスピードを落とす気配がなかった。
まずい。非常にまずい。
俺は踵を返して、ゆっくりと歩いてきた道を走った。いくら走っても、走っても、走っても、猫の声は遠くにいかない。むしろゆっくりとだが、着実にすぐ後ろまで迫ってきている。足が痛い。喉が痛い。息ができない。頭の整理がまだなされていないにも関わらず、疲労は遠慮なく身体中に充満して、脳に動きを止めるよう救援信号を出してくる。そんなことを訴えられても、止まることはできない。だって止まってしまえば、そのまま猫の波に呑み込まれてしまう。もしそうなればどんな目に合うかわからない。爪で身体中を引っ掻かれるか、それとも舐め回されるか。もしくは食われてしまうのか。意味不明に意味不明を塗り重ねたこの世界では、どんな目に遭うか想像することすら許されない。
ふと万里小路の言葉を思い出して、俺は自分の頬をできる限り強い力で捻った。
「これは夢だ、これは夢だ」
息が上がって上手く言葉が出ない。それでも、俺は自分に言い聞かせるために何度もその言葉を声に出した。頬をより強く捻る。そのまま肉がもげてしまうのではないかと心配になるほどつねる。だが、疲労からか意識の混濁からか、痛みはほとんど感じられなかった。こうなってしまえば、ただ走り続けるしか道はない。
それが「白い何か」であった時点で、そいつに背中を向けて走り出すべきだった。なぜすぐに走らなかったのか。そんな疑問が俺を責め立てる。いくら考えたって、それに反論する正当な理由は思い浮かばない。だが、猫が波になって襲ってくるとは誰も思わないじゃないか。
後悔先に立たずなんて言うけれど、正にその通りである。昔の人間は上手い教訓を残したもんだ。そうだ、その人も大量の猫に襲われてしまったのかもしれない。死に際に走馬灯なんて見る余裕はあるんだろうか。そんな疑問を映画や小説なんかを見て思っていた。だが、実際に危機に陥ってみると、切羽詰まった身体に反して余裕綽々な脳みそは、古事成語に対する根底からの理解にまで考えを巡らしている。人間の脳って、なんて不思議なんだろう。
そんなことを考えていると、俺は手をつく暇もなく顔から転んだ。
獣の匂いと肉球の感触に四方から包み込まれ、なんとも言えない浮遊感を覚えた。それも束の間、押し寄せる猫たちの体重と無秩序な鳴き声に、俺はただうめくことしかできなかった。
いったい実際にはどれくらいの時間が経ったのだろうか。痛みと臭いから意識が朦朧とし、背中の感覚はほとんどなくなっていた。視界は猫に包まれて、もちろん何も見ることができない。そこにあるのは、頬に接するアスファルトの感触のみである。
この猫地獄が永遠に続くのではないかと考え始めたところで、猫の脚の隙間から田んぼが見えた。そういえば、次第に背中にかかる重みは少なくなっている気がする。あと少し、もう少し。そうやって自分を励ます言葉を自分で発し続け、ちょうどそのバリエーションがなくなったところで、最後の猫が俺の背中から飛び降りた。なんてことないようだが、この状況で踏み台になるとは辛いものがある。
獣の塊が去っても、なかなか動くことができなかった。背中の痛みを労り、無味無臭の空気を五臓六腑に染み渡らせて、蝉の声に耳を貸す。そのための時間が必要だったのだ。
ありがたき恵みの空気を平然と吸っては吐くようになり、美しかったはずの蝉の声を煩わしいと思ったタイミングで、俺は寝返りを打った。そして、橙色の空を仰ぐ。
「え?」
あるものが目に入って、つい声が出てしまった。それも、これ以上となく掠れて高くなった格好の悪い声だ。
そこには、逆さまの猫の顔があったのだ。橙色の空を背景にした視界いっぱいの猫の顔は、どこかアイコニックな印象である。先程の大群にいた白猫とは異なり、その猫は顔の一部が黒くなったハチワレであった。だが、ハチワレと言ってもその分け目が浅く、白い部分が多いせいからか、なんだか中分け前髪のように見える。それに加えて、猫の割に目が大きくないことも相まって、その猫はなんだかオカメの面を彷彿とさせる顔をしていた。
「ねえ、起きなよ」
「え?」
オカメっぽいその小さな口から声が発されて、俺もまた声を出した。
「もう、寝坊助だな」
「え?」
「ほら、早く行こう」
そう言うと、猫は踵を返して歩き始めた。
どうすればいいかわからないものの、これを逃すともっとわからない状況に陥ってしまう。そう考えて、俺は腰の痛みと闘いながらオカメ猫の後を追った。
「ねえ、どこ行くの?」
喋る猫という存在をどうにも頭の中で咀嚼することができなかったが、これが現実でないことを自分に言い聞かせることで無理やり呑み込んだ。
「そりゃあ君、決まってるでしょ」
俺の問いに対してそう言いながら、オカメ猫はこちらを見た。
「え、わかんない」
「夢が見られる場所さ」
そう言うと、オカメ猫はさながらオカメの面のように目を細めて笑った。
その会話を最後に、目的地まではこれといった会話がなかった。ただ猫を追いかけて真っ直ぐの道を進み、山の方へと向かっていく。
山の麓に着いてしまうのではないかと考え始めた時分に、目的地の建物らしきものが見えた。田んぼと道しかない、ほとんど平な世界に傲然とした態度で佇む建物が一軒あった。横幅はそこらの建物よりも数倍大きく、縦幅は横幅ほど贅沢なサイズ感ではないものの、田舎の風景を背景にすると十分に威圧感のある高さを持っている。遠くからなのでいったいそれがなんの建物なのか理解できなかったが、密集するあまり積雪のようになった猫たちが、そこに入ろうとしているのはわかった。今度は襲ってくる気配もないので、俺はオカメ猫について白猫の密集する建物へと向かった。
建物には「両度キネマ」という看板がつけられていた。キネマの前をなんと読むのかが疑問に残ったが、オカメ猫があまりに先へと進んでしまうので、尋ねる機会を失ってしまった。そういえば、建物の周りにはもう白猫はいなくなっていた。
映画館に入ると、切符売り場に猫がいた。今度はサビ猫である。
「なんの映画、観ますかい?」
サビ猫はオカメ猫と違って、猫の鳴き声が混じったような訛りのある声で聞いてきた。
「美希ちゃんの夢を見せて」
オカメ猫がそう返す。
「わかりました。コーラとポップコーンはいりますかい?」
「欲しい?」
サビ猫の問いを受けて、オカメ猫がこちらに問いかけてきた。正直、さっきから喉がカラカラだったので、コーラという言葉には並々ならぬ欲求を覚えざるを得ない。
「うん」
「それじゃあ合計、千二百円でござります」
サビ猫はそう言った。
内訳はわからないがとても良心的な値段に心を弾ませ、俺は提示された金額を払った。
「それじゃあこれがチケットで、あっちから入ってください」
サビ猫の指示通りに進み、俺とオカメ猫は演劇用の舞台のような内装をした劇場に入った。劇場内は先客である白猫でごった返しており、オカメ猫を追うのが大変であった。
そんな俺の苦労も知らず「あそこ、空いてる」なんて言って、オカメ猫は先々と進んでしまった。まあ、立見は免れたので結果としてはよかったのだが。
「もうすぐ始まる」
オカメ猫がそう言うと、本当にすぐに劇場の明かりが消えて、白猫たちの騒めきもすっかり静まってしまった。
スクリーンが明るくなり、クリーム色の画面が暗闇の中に浮かんだ。そしてそこに、海外のショートムービーにありそうなタッチの、アニメで描かれた少女が現れた。幼い少女が本を読んで、たまにページをめくる。そんなシーンが、冗長的なまでに時間を割いて描かれている。
「長いよね」
隣の席に座るオカメ猫が言った。
「でも、退屈しないで。小さい時って、時間は永遠にあるように感じてたでしょ?」
オカメ猫に言われたこともあり、俺はその少女のキャラクターを眺め続けた。するとある時、少女は本を閉じた。そして、今度は絵を描き始めた。最初は謎のキャラクターを描いて、結局は描いたものをクシャクシャに丸めて捨ててしまった。次に飼っているのか拾ってきたのか画面の外から猫を連れてきて、その絵を描いた。驚いたことに、その被写体となる猫もオカメの髪のような柄をしている。
「これは君?」
俺の問いかけに、オカメ猫は首を横に振った。
「僕の姿はあいつに似せてあるけど、本質はあれじゃない。僕はもっと、他の歪なものから生まれているんだ」
そう言うオカメ猫の視線はこちらに向かず、常に映画の方に向いていた。
映画内では、少女が漫画を片手に、どうにかこうにか模写をしようと励んでいた。
「人のものを真似ても意味がないのにね。きっと、そういうメタファーなんだな」
独り言なのか俺のための解説なのか、オカメ猫はそんなことを呟いた。
画面が一瞬暗くなって、次のシーンへと移行した。今度は中高生になった少女の隣に、彼女より背が高くて目の大きな女性が現れた。
「あれはね、彼女のお姉ちゃんだ」
「あんまり似てないんだね」
「どうだろ、わからない。だけど、彼女の世界では全然別人に見えてるみたい」
少女は自身の姉に対して、憧憬の眼差しを向けている。だが姉が振り向くと、彼女はすかさず目を逸らしてしまう。そんなことを何度も繰り返して、次第に彼女は塞ぎ込んでしまった。姉はその場に座り顔を隠してしまった少女を心配しつつも、どう声をかければいいのかわからず困り果ててしまっている。少女は声も出さずに、肩も最小限にしか震えないようにして泣いた。よく見なければ気づかない。だけど、彼女の全てを手で覆い隠してしまった顔から、数滴の雫が落ちるのが見えた。一方で、彼女の姉は画面外から伸びる大量の手に引かれ、妹のことを気にかけつつもどこかへ連れていかれてしまった。
「泣いてる」
「うん、泣いてる。でも隠してる。だって、彼女は自分の泣き顔が誰も引き止められないのを知ってるから」
オカメ猫はそう言った。
また場面が切り替わって、今度は少女が何かを塗り潰している。油性ペンで何かを書く時特有の甲高い音が劇場内に響く。少女が読書していた時同様に、映画内の貴重な時間の多くがそのシーンのために費やされた。BGMも背景も何も装飾のない映像の中で、少女が単に手を動かす映像が続く。アニメーションは同じ動きをループさせているらしく、単調な映像が続いた。だが、聞くものを不快にさせるようなペンの音には一貫性がなく、時には攻撃的になったり、優しくなったりと波があった。そしてカメラが切り替わって、何をそんなに必死で描いているのかがわかった。彼女は何かを書いているのではなく、卒業アルバムの自身の顔写真を塗り潰していたのだ。
「何してるの?」
「この行為は少しピカレスクで、第三者から見れば悪いことなのかも。だけど彼女はこれで、自由を手に入れようとしている。過去の自分をひた隠して、心の均衡を保とうとしてる」
俺の質問に、オカメ猫はそう返した。
画面が暗くなった。今度は一瞬で新たな場面に移るのではなく、しばらくの間暗闇が続いた。BGM代わりに、生活音のようなものが小さく流れている。
「普段、映画は観る?」
あまりにも長くブラックアウトしているためか、オカメ猫がそう尋ねてきた。
「いやあ、あんまり観ないかな。テレビでやってたら観るけど」
「どうして? どうして観ないの?」
オカメ猫はその問いかけとともにこちらを見つめた。
「だって、二時間も座ってなきゃならないし」
「映画って素敵なんだ。だって、その2時間の間には現実と向き合わなくていいから。ちなみにテレビじゃ駄目なんだ。映画館がいいよ。テレビだとフッて画面が暗くなると、自分の顔が写っちゃうでしょ? だからテレビの映画は本当の映画じゃない。映画館なの。君にも、自分から目を背けたい瞬間ってあるでしょ?」
「ううん、どうだろう」
俺の返答に納得がいかないのか、オカメ猫はこちらを見つめ続けた。
突然、画面が明るくなって、目が眩んだ。またクリーム色の画面が広がり、そこには少女が立っている。彼女の目の前には、油性ペンで塗り潰したような真っ黒な穴がある。彼女の隣には、彼女の姉がいた。そしてその前にも、真っ黒な穴がある。
「あれは何?」
「なんだろう。僕が言ったら、君は僕を通してあれを理解してしまう。できれば君には、彼女のことを君自身の目で見て欲しいんだ」
姉の隣に両親らしき男女が現れた。二人は姉の頭を撫でる。少女はそれを横から見つめる。姉の前の穴が小さくなった。それに反比例して、少女の穴が大きくなる。少女は両親に何かを見せる。一応褒められるものの、両親は姉の横からは離れない。少女の穴が、また大きくなった。
いつの間にか、なんのきっかけもなく穴は成長するようになり、気づけば人が横になったくらいになり、軽自動車くらいになり、家一軒をも許容してしまいそうなサイズへと成長してしまった。その過程で、穴はさまざまなものを呑み込んだ。自分で描いた絵を呑んだ。母を呑んだ。父を呑んだ。姉を呑んだ。教師を呑んだ。彼氏と思われる男を呑んだ。出会う人全てを呑んだ。呑んで、呑んで、呑み込んだ。それでも穴は埋まらない。もはや辺りに何も呑むものがなくなってしまった巨大な穴は、とうとう少女とその腕に抱かれた猫を呑み込んだ。
「呑み込んじゃったね」
オカメ猫はそう言った。
映像は終わるのかと思っていたが、なかなか画面は暗くならず、主人を取り込んでもなお穴は拡大し続けた。ついには画角いっぱいになって、それは画面を飛び出した。それでも謎の概念としての「穴」は拡大を続け、劇場への侵食を始めた。手始めに最前列の白猫たちが悲鳴も上げずに呑み込まれた。それを皮切りに、前列から順々に白猫たちが闇に溶けていく。だが、一匹として声を出したり逃げようとしたりするものはいない。
「逃げないの?」
「逃げなよ」
オカメ猫は真っ直ぐに穴を見つめている。
「なんで?」
「だってそれで、美希ちゃんの心が救われるかもしれないから」
その言葉を残して、オカメ猫は穴に落ちていった。もちろん、その姿を見届けた俺自身も逃げ遅れて穴へと吸収されてしまった。
❇︎❇︎❇︎
扇風機の回る音がして、俺は目覚めた。くすんだ黒板、黒い机、それと骨格標本。そんなものが一瞬にして視界に入る。なぜか俺は、穴に呑まれて学校の理科室に来てしまったようだ。机に突っ伏すように寝ていた上体を起こして、辺りを見た。やはり目を開いた時の推測は当たっていたようだ。黒塗りの大きな机が六つ並んでおり、壁際にはビーカーや三角フラスコが並べられている。
「どうも」
机に座っていたオカメ猫が言った。そして一瞥をこちらに送って、理科室から出ていった。心細いので、俺は映画館に向かった時同様に彼について行った。
廊下に出ると、そこには予想外な光景が広がっていた。ドアを開ける前はてっきり理科室と同じように懐かしい風景が広がっているのかと思っていたのだが、記憶にある学校の廊下とは印象が違うのである。床の掃除は行き届いており、ワックスをかけたてなのか夕日に照らされて光沢を放っている。壁にはさまざまな種類の花があしらわれており、パッとしない廊下に差し色を加えている。他にも写真をガーランドのようにして飾り、華やかな雰囲気を演出していた。こんな学校の廊下は、文化祭くらいでしかお目にかかれない。
「こっちはきっと、あの子のお気に入り」
壁の写真は風景のものやオカメ猫のもの、それから石垣美希自身のものもあった。写真の中の彼女は化粧をしているのか、どこか大人びた顔をしており、事前に見せられた正面写真よりも明るい印象である。
「楽しいね」
そう言ってオカメ猫は本物のオカメさながらの笑みをこちらに向けた。
「う、うん」
突然のことに動揺が隠せなかったが、なんとか俺はそう返答した。
よく廊下を見ると化粧品やぬいぐるみなんかも飾ってあり、女子の部屋に足を踏み入れたみたいな気分になったが、かと言って特段何かをするわけでもなく足を進めた。
そんなものを見つつ進んでいると、廊下の突き当たりに辿り着いた。選択肢は引き返すか、右にある階段を下るかのどちらかである。俺の決定も待たずしてオカメ猫が階段を下り始めたので、俺もそれに続いた。
下の階の廊下を見て、上階との落差に俺は唖然とした。何がおかしいかと問われれば、別に何もおかしくないただの廊下なのである。ただ、強いて言うなら散らかっているのだ。床には段ボールが置かれて、写真や書類なんかも散乱している。
「またあの子、怖い夢見てる。夢の中は自由なんだから好きにすればいいのに、自分で自分を縛っちゃ、たまったもんじゃないよなあ」
オカメ猫は床に落ちた写真を見て、そう言った。写真には複数人の女子高生が写っており、一人だけ顔が塗りつぶされている。きっと、石垣美希自身の顔だ。よく見ると、床に散乱しているものは全て彼女に関するものであったが、どれもぞんざいな扱いを受けていた。
「夢?」
「そう、夢。夢って時々、現実以上に現実を押しつけてくるんだよ」
不思議なことに、オカメ猫からすればこの夢のない世界も夢に分類されるそうだ。たしかによく考えれば、ここも現実からかけ離れた世界なので夢と捉えられるのかもしれない。だが、夢がない世界だからこそ、こんなに沈んだ世界なはずだ。
ううむ、わからない。
「どうやら、ここは映画館よりも深層みたいだね」
「なんで?」
手に取った写真を置いて、俺はオカメ猫に尋ねた。
「なんでだろう、わかんないけどそう感じる。でも気をつけて。美希ちゃんは心に触れてくる相手を拒絶するかもしれない」
そう言って、オカメ猫は先に行ってしまった。
たしかに、この廊下は前の世界の道路や劇場ほど、温かみやノスタルジーを想起させるものを持っていなかった。雑然とした廊下を歩いては、たまに落ちているものを見て、を繰り返しながら進んだ。床に散乱した写真はどれも一人の顔だけが塗り潰され、日記や絵は破かれたり上から落書きされたりと、散々な保存状態である。
「隠れて」
床のものに目を向けながら歩いていると、突然オカメ猫がそう言った。
「なんで?」
「いいから、そこ開けて」
言われるがまま、俺は「2—D」と書かれたドアを開けて、オカメ猫とともに隠れた。その瞬間、床が揺れて廊下に散乱するものが揺れる音が聞こえた。その音が一定のリズムで教室にも響いてきて、こちらへと向かってきている。何か重いものが、跳ねながら歩いているのである。
俺とオカメ猫は身を丸めて、息を潜めた。ドア越しの数メートル先に、巨大な何かがいる。それが何かはわからない。だが、それが友好的な存在ではないことは、オカメ猫の態度や嫌に機械的な足取りから感じられた。
ある程度音が遠くなったタイミングで、俺は立ち上がってドアについた窓からそれを確認しようとした。しかし、もうその恐怖の根源はどこかに消えてしまっていた。
安全を確認してから外に出て、今度は何も見ずに前へと早足で進んだ。そして廊下もついには終わりを迎え、選択肢は下へと向かう階段のみが残されていた。この先に何があるのかはわからない。だが、階下からはこの廊下以上に強い、攻撃的なオーラが漂ってくる気がして足がすくんだ。それでもオカメ猫は二の足を踏むこともなく、器用に四本の足で階段を下っていった。
階段を下りて、またしても俺は息を呑む羽目になった。そこには、大量のホルマリン漬けの瓶が壁際に並んでいたのである。花、ぬいぐるみ、化粧品。一番上の階で華々しく飾られていたものが、今では黄色く濁った液体の中に閉じ込められているのだ。
「ここは?」
瓶に見向きもしないオカメ猫に対して、俺は質問を投げかけた。
「ここが僕とあの子の場所」
「え?」
「ここって素敵だと思わない?」
「何言ってんだよ」
動揺しながらも、俺はオカメ猫を追った。
「綺麗なものは綺麗なままであるべきなんだ」
「これのどこが綺麗なんだよ」
ある地点を境に、瓶の内容物によって無意味にカラフルだった廊下が一色だけの景色に変わった。つまり、瓶の内容物に一貫性が生まれたのだ。
「ここなんて、特にお気に入りなんだ」
そこには、壁一面に白猫を入れた瓶が並んでいたのだ。
「おかしいよ」
「おかしいなんて心外だな。これでも私、頑張って集めたのに。ひどいよ」
「急にどうしちゃったんだよ」
「何言ってるの? 私はいつも私。やっぱりあなたも私を認めてくれない」
オカメ猫は俯いて顔を隠した。
この仕草、知っている。そんな思いが浮かんだ。
「もしかして、君が石垣美希なの?」
オカメ猫は黙ったまま顔を覆っている。
どうすればいいのか困惑していたその瞬間、廊下が大きく揺れてホルマリン漬けの瓶が互いに触れる音が響いた。振り返ると、廊下の奥に人間よりも遥かに巨大な招き猫がいた。大きく無機質な目はこちらを一直線に見つめ、システマティックなリズム感でゆっくりとこちらへ向かってくる。
「とりあえずここは危ないよ。行こう」
そう言っても、オカメ猫は聞かない。それでも、招き猫はどんどん迫ってきている。
「おかしいって言ったことは謝るよ、ごめん」
「別にいいの。だって、みんなそうだから慣れてる」
「じゃあ行こう。このままだと何されるかわかんないよ」
「そんなの嫌。だけど、向こうに帰るのも嫌」
「向こうって?」
「あなたが来たところ」
招き猫はもうすぐそこまで来ている。
「世界はいつも私を嫌ってる。だって私が可愛くないし、馬鹿だし、何もできないから」
「そんなことないって」
「気休めはやめて。いっそのことここで食べられてしまいたい」
招き猫による揺れが、これ以上となく強く感じられた。
もうこうなったら仕方がない。寄り添ってあげても何も変わろうとしないので、俺は無理やり彼女の手を顔からひっぺがした。
「自分ばっかり見てないで他人を見ろ。俺を見ろ。言い訳すんな。君は自分のことばっか気にして、自分で自分を傷つけてるんだ」
オカメ猫の目頭からは大粒の涙が溢れていた。
それを見た刹那、俺はそこまで来ていた招き猫に呑み込まれた。
❇︎❇︎❇︎
気がつくと、俺は夕暮れの公園に立っていた。子どもの声とブランコが軋む音が聞こえてくる。自身から伸びた影は自分でも驚くほど長く伸びて、存在感を主張している。その先に、彼女がいた。今度はアニメーションでも猫の姿でもなく、正真正銘の石垣美希がそこに座り込んでいる。もちろん顔は塗り潰されていない。そして彼女の手には、黒い模様が浅いハチワレの猫が抱かれていた。
「ここでね、この子を拾ったんだ」
彼女は言った。
「そういえばお母さんにすごい反対されたんだけど、お姉ちゃんが庇ってくれたんだった。この子だけは私に懐いてくれて、楽しかったなあ。まあ、もう死んじゃったけど」
そう言って、彼女は悲しげな笑顔をこちらに向けた。
俺はどうすればいいかわからなくて、黙って彼女の近くに座るしかなかった。
「人生って、いつの間にか難しくなっちゃうよね」
彼女は猫をひしゃげた段ボールの中に戻してやった。そして、指先で足元の砂を弄んだ。
「いっぱい嫌になっちゃうことがある。スプーン洗うといっつも水が跳ねるのが嫌い」
「え?」
「何か取りに二階の部屋まで行ったら、何取りに来たのか忘れちゃうのも嫌い。あとね、USB挿す時にいっつも最初に挿れようとした方向が逆なのも嫌い。わからない?」
彼女は淡々とした口調で喋り、こちらを向いた。
「まあ、なんとなく」
「読んでる途中の漫画を開いて逆さにしてテーブルに置く人も嫌いだし、尖った靴履いてるサラリーマンも嫌だ。わかる?」
「はい」
彼女は砂をいじり続けた。
「気がついたら嫌なことがどんどん増えていく。好きだったはずのものが、時々狂おしいくらいに妬ましくなる。あなたなら、きっとわかるでしょ?」
「え?」
彼女の夕日に照らされた茶色い髪を見て、突然兄の姿が脳裏に浮かんだ。
「人が二人いたら、絶対にどっちかが優れててどっちかが劣ってる。悲しいけど、それが現実。だから人が二人いたら、コンプレックが必ず生まれるの」
彼女はこちらを見た。
「ならいっそ、一人の世界にいたいと思わない?」
「じゃあ、もうこの世界から出ないんですか?」
俺の問いに、彼女は答えなかった。
「誰かが周りにいるから、私は期待してしまう。期待すれば、必ず失望する」
「そんなのわかんないじゃないですか」
「やっぱり、あなたにはまだ理解できないみたい。ほら、また期待して失望した」
しばらくの沈黙があった。彼女のことを助けるべく来たのにも関わらず、彼女がここから出ないと言い出すのは誤算だった。
「たしかに、期待なんてほとんど叶ったことないかも」
俺は言った。
「でも期待が現実になることが全部じゃないと思う。それに生きてれば、色んなことがあるんじゃないの? 俺はまだそんなこと言えるほど経験ないけど。でも、とにかく続けてみなきゃ。何か取りに行くのに二階に上がって、忘れて帰ってきちゃうみたいなことも重要なんだよ、きっと。何かを取って帰ったらそりゃいいけど、忘れちゃっても他に何か見つけたりできるかもしれないんだよ。それって、こんな場所に閉じこもってちゃできないことなんだ」
「なんだか、先生みたい」
そう言って、彼女は少し笑った。
「初対面で言うのも変だけど、今君は世界の一部にばっかり注目しちゃってるんだ。だけど本当は、小さな幸せに気づける人なんじゃないの? 映画観たり、花を見たり、猫に囲まれたり、たくさん好きなもの持ってるように思ったけど」
彼女は黙って、俺を見つめていた。
「それが人に認めてもらえなくて、自分を認めてあげられなくて作った幸せだったとしても、俺からは立派な趣味に見えた。別に普通を押し付けてくるやつにそれをとやかく言われても気にしなくていい。だって、君には君の世界があるから。別に常に現実と向き合って誰かと接しろなんて言わない。ただ、この世界だと時々寂しくなっちゃうと思うから、俺は君を向こうの世界に連れ戻してあげたいんだ」
そう言って、俺は彼女に手を差し伸べた。
体裁のまとまった、思ってもいないことを言おうとした。だが、結局話は脳の動きとともにこじれてしまい、散らかった言葉を彼女に長々と浴びせることになってしまった。
「初めて会った人なのに、すごくお節介なのね」
「だって君の気持ちをあんなに見せられたんだもん」
彼女は決して納得したようではなかった。だが、観念したように微かに笑って、俺の差し伸べた手を握った。
触れ合った彼女の手のひらは、湿っていた。
❇︎❇︎❇︎
突然体が軽くなる感覚がして、気づけば俺は六畳一間の部屋に立っていた。
「奥村くん」
背後に立っていた万里小路が震える声で言った。
「え?」
「奥村くん、奥村くん」
尻餅をついた万里小路は、蛹を指さしている。
俺は先程まで自分が中に入っていた蛹を見た。そして俺は息を呑んだ。そこには、力強く大きくなっては小さくなって、を繰り返す蛹の姿があったのだ。俺も万里小路も言葉を失ってしまい、その小さな部屋には蛹が発する、ガムを汚らしく咀嚼したような音だけが響いた。
「これ、どうなってるの?」
「知らないですよ」
万里小路の大きな声に呼応して、俺も大きな声で答えた。
「中で何があったのさ?」
「ただ喋っただけですよ」
そんな半ば怒鳴り合うような会話をしていると、蛹から卵の殻が割れるような音がした。蛹の外殻が蹴破られたのである。
果たして、万里小路を見ている間に背後で何が起きているのか。さまざまな想像が不安を煽る。鼓動に反して、俺はゆっくりと振り返った。
そこには、石垣美希の姿があった。まだ目を瞑っており意識を取り戻していなさそうだが、何かに引っ張られるように寝返りを打ち、脚や腕を振り上げて、次々と自分にまとわりつく蛹を破壊した。
「助かったんだ」
万里小路が震える声で言った。
「信じられない。だが成功したんだ」
興奮した面持ちで彼はこちらを見た。
「やはり君を選んだのは正解だった。さすが所長だ。すごいぞ、世界がひっくり返るぞ」
小さな部屋で小躍りしながら万里小路は言った。
「助けた、俺が」
彼の言葉を聞いてやっと、自分のしたことの偉大さを理解することができた。
「そう、君が助けた」
「俺が助けた」
「世界で初めて」
「世界で初めて」
興奮のあまり手を繋いで、狭い部屋の中心で回った。そうなのだ、この俺が彼女を助けたのだ。
興奮が冷めると、万里小路は救急車と警察を呼んだ。子どものように美味しいところだけ食べるのではなく、後処理をするのも重要なのである。すぐに救急車がやってきて、すやすやと眠る石垣美希を連れていった。
そんなこんなで時刻はいつの間にか十時を回っており、後のことは大人で解決するので帰っていい旨を万里小路から伝えられた。帰り道、ずっと夏の空気感にさらされていたからか、春の夜風がとても冷たく感じた。
石垣美希は今後どうなるのだろうか。彼女が俺のどの言葉に反応したのかはわからない。気まぐれで蛹から出ることを決心したのかもしれない。それでも、彼女が蛹から出るきっかけを作れたことが嬉しかった。ともかく、今度飯田書店に行ってみることを密かに決心した。
「おい」
夜道に、どこかで聞いたことのある声が響いた。
「君だよ、君。振り向くなよ。振り向いたら殴っちゃうから」
俺が声の方を向こうとした瞬間、そいつはそう言った。
「お前誰だよ」
「教えないよ、馬鹿め」
ふいに、すぐそこにあるカーブミラーの中に相手の体が映っているのが見えた。顔は惜しいところで見えないが、その体はなんと俺と同じ高校の制服を着ていた。凸レンズによって体が異様に伸びてしまっているが、あの赤いネクタイは間違いなくうちの高校のものである。
「最近元気そうじゃん」
「だからお前誰だよ」
どこかで聞いたことがある声なのだ。だが思い出せない。身近な人と照らし合わせても誰とも合致しない。なのに馴染みがある。誰だ、俺は誰を忘れているんだ。
眉間にこれ以上となく深い皺を刻んで悩んでいたものの、やつの手に持つものをカーブミラー越しに見た瞬間、それが誰の声なのかなんてどうでもよくなってしまった。ワイシャツの袖を捲った腕の先には、ホッケーのスティックが握られていたのだ。
「だから教えないってば。そんなことより、今日は忠告しにきたんだ」
やつはスティックを弄んで地面を何度か叩いた。
「やめろよな、そうやって善人ぶるの」
「は?」
「本当は誰のこともまだ信じてないくせに、そうやって自己催眠でここの住民になっちゃって。奥村陽介くん、本当はこの世界の人じゃないんでしょ?」
知ったような口を聞かれ、動揺から振り返ってしまった。身体を回転させながら、後になってやつに殴られてしまうことを思い出した。まずい、まずい。
俺の心配をよそに、やつの姿はもうそこにはなかった。