甲田ドリームセンター
そこには、俺の姿があった。制服姿の自分を客観視するのは意外にも新鮮で、ブレザーをしっかりと着ているからか真面目そうな印象である。分けられた前髪は風に吹かれてカーテンのように揺めき、時々こちらを見据えた真剣な眼差しと目が合う。
振り返ると、そこにも俺の姿があった。こちらはスウェットパーカーに身を包んでおり、両手をポケットの中に入れている。こちらはあまり勤勉そうには見えない。そして、長く伸びた前髪の奥から、こちらを凝視している。
二人の俺は、俺を挟んで向かい合っているのだ。しばらくの間、これ以上となく気まずい沈黙があった。
「おい、現実を見ろよ。理想とか過去とかそんな曖昧なものを引きずるな」
制服の方の俺が言った。
「いいや、過去は重要だ。人間は過去の上に成り立つ生き物だ」
今度は私服の方が反論する。
「現実に順応しろ。お前の居場所は、思い出なんかじゃない」
「時には過去に想いを馳せるべきだ」
そんなやりとりが、金太郎飴のごとく変化もなくただただ続いた。
挟まれる俺。それを挟む俺。
「現実だ」
「過去だ」
そんな声が、両方の耳からそれぞれ聞こえてきた。全く、なぜ自分がこうも責められているのかがわからない。なぜ板挟みに合っているのか検討もつかない。
次第に子どもの喧嘩のように大きな声を張り上げ、こちらに向かって歩き始める二人の俺に対して、俺はうんざりした。
「いい加減にしろよ、どっちでもいいんだよ!」
❇︎❇︎❇︎
世にも奇妙なことに、俺は自分自身の怒号によって叩き起こされた。全ては夢だったのである。
青白く外から照らされた天井、小鳥の囀り、額の汗。そんなどうでもいい情報一つ一つをつなぎ合わせて、自分が悪夢によって早起きしたと理解するにはあまり時間は必要なかった。喉は渇きによって痛みを訴え、鼻は詰まって呼吸をするたびに間抜けな笛のような音を小さく鳴らす。時計が秒針を打つ音が、いつも気にしていない自分の正気を疑うほどにうるさく聞こえる。
もう一度眠ろうと目を瞑ると、瞼の裏に写真でも貼られていたかのように、ありありと夢で見た自分の顔が思い出された。あれはいったい誰だったのだろうか。いや、自分に違いない。じゃあ、なぜ自分同士が喧嘩するのだろうか。そう考えてみたものの、一向に答えは浮かばない。まあ、「思春期には心と身体のバランスが取れなくなる」なんていう言葉をどこかで耳にしたことがあるので、そういうことにしておいてやろう。
彼らは現実と過去について子どものように水掛け論を白熱させた後、怒鳴り合うという段階にまで発展した。まさに子どものそれである。
じゃあ、今の俺が重視しているのはどっちなんだろうか。そんな疑問が浮かんだ。
山田くんのドラゴン事件以前を過去とし、それ以降を現在と呼ぶのなら、きっと俺はどちらでもないと答えてしまう気がする。過去に縛られてどうしようもなくなってしまっては仕方がないという制服の俺の主張もわかる。だが同時に、精神衛生を保つには過去や夢なんかも重要だという考えにも頷いてしまう。今、俺の頭の中は度重なる青天の霹靂によって切り裂かれてしまっており、混乱状態にあると言える。頭を打ったことを免罪符にして、さまざまなことを曖昧なまま先延ばしにしている気がする。現在を受け入れるのか、過去の自分を貫くのか。まさに夢の中で、俺は自分自身に答えを催促されていたのかもしれない。できることならその二つを統合してやりたい。だが、それが難しいのも重々承知している。
今回はただの夢だったので叫べば全て消えてしまった。だが、もしも現実で二つの意識の取捨選択を迫られたら、俺はどっちの俺を選択するべきなのだろうか。
そんな就寝直前に入りがちな哲学世界に身を浮かべていると、いつの間にか眠りについていた。
❇︎❇︎❇︎
山田くんのドラゴン事件から早数週間。気づけば非日常の数々は日常と化して、一日という単位は決して長いものではなくなってしまった。あくびをすると、間抜けな口元を指摘するように大量の風が口腔に流入する。目の前には幼馴染の三谷文乃の背中がある。右を見れば河川敷があって、朝日に照らされた水が輝いている。
眩しい。そんな感想だけが浮かんだ。
学校に着くといつの間にか確執のなくなったマキヲと委員長と喋って、いつの間にか学校が終わる。八王子市の夢泥棒事件から、半月以上も近隣で新たな被害者が出なかったからか学校は厳戒態勢を解除し、授業も通常通り行われるようになった。部活動も再開し始めたため、自然と三人で帰ることはなくなった。
別に喧嘩を気にしているわけじゃないが、もう二人の前で山田くんの話をするのは控えた。それを鑑みると、結局俺は現在の自分を重視して、過去を蔑ろにしているのかもしれない。全くもって、二つを融合できていないのだ。夢の中で二人の自分に怒られても仕方がない。
俺の記憶がおかしいのか、今いるこの空間がおかしいのか、未だにどちらが本来の世界なのかはわからない。むしろ時間が経つに連れ、自信を持って自分の記憶が正しいと言えなくなってしまい、混乱に向かってしまっているようだ。
そんなことを考えてぼんやりしているからなのか、この世界にどこか馴染めないからなのか、ついに親に病院へ行くことを勧められてしまった。自分としては脳になんら異常はきたしていないので、甚だ遺憾である。だが悲しきかな、数週間前に頭を打ったことを皮切りに、おかしな言動を取るようになってしまったことは否定のしようがない。
そんなわけでその日の夕方に、俺は幼い頃から通う清野医院へと自転車を走らせた。清野医院は個人経営の小さな病院で、待合室のソファは破れ、唯一の診察室に続く廊下の蛍光灯はいつも切れかかっている。それでも別に誤診をされるわけでもないので、みんな手軽に行けるその病院に足を運ぶ。ちなみに、他に病院がないわけではない。田舎だと思って舐められては困る。駅の方に行けば、しっかりとした総合病院が居を構えている。だが、記憶障害だなんて何科に行けばいいのかよくわからないので、とりあえず馴染みのある清野医院に行くのである。
「それで、今日はどうしたのさ」
くぐもった声で、先生は言った。
「なんか、この間頭打っちゃって、そこから記憶が変なんですよね」
「頭打ったら、すぐ来なきゃ駄目じゃないか」
俺の言葉が終わるのを待たずに、先生はそう言った。
「すみません」
時計の秒針を打つ音が、何度か聞こえた。
「どんな感じで?」
先生の視線はテニスの試合を横から観るように、カルテと俺の顔を何度も往復した。
「記憶が所々抜け落ちてる感じです」
「記憶喪失みたいな?」
「ああ、違うんです。知ってる記憶と、現状が噛み合わない感じです」
「じゃあ、昔の記憶はあるにはあるの?」
「ちゃんとあります」
「なんだか不思議だな」
先生はそう言うと、後頭部を掻いてパソコンの画面を見つめた。
「他に症状は?」
「ええっと、最近変な夢を何回か見ました」
「どんな」
「自分が増殖して、勝手に喧嘩し始めるんです」
俺の言葉に、先生は唸った。そして今度は、目尻を掻く。
「ううん、専門外だからわからんな。いかんせんここだと詳しい検査もできないから、紹介状出します。二つね」
「二つ?」
「そうそう。総合病院ともう一つ、専門的な病院に行ってね。詳しくはそこで診てもらって」
その言葉で診療は終わり、待合室に戻った。薄暗い待合室には平日だからなのか人がおらず、静かな部屋に夕方のニュース番組の音だけが響いていた。
テレビでは、相も変わらず夢泥棒事件についての特集がされている。まあ、近隣で事件が起きていないだけであり、東京都全体ではいまだに連続して事件が起きているので仕方がない。それに、犯人が全く目撃されない謎の事件なんて、視聴率の取れそうな事件をマスコミが放っておくはずもない。
「夢泥棒は一説によると、夢を奪うことで人を蛹に変えているようだ」
厳しい声をしたナレーターが真面目にそんなことを言っているんだから、笑ってしまう。この世界の価値観とは、やっぱりどこかわかりあえない。つくづくそう感じた。
❇︎❇︎❇︎
次の週末、俺は紹介状を持って駅の近くにある総合病院に行って、一通りの検査を受けた。脳を診られた後に、精神を診られた。大掛かりになるほど、なんだか心外な気分になる。二時間ほど拘束された後、異常なしという結果をもらった。何かあったらまた来るように言われたものの、もうきっとここに来ることはないだろう。
母が同行してくれたので車の助手席に乗って帰った。やはり異常はないのだ。異常なのは、世界の側なのではないだろうか。でも、そんな狂った世界に正常と打診されたのでは、俺も狂っている一員になりつつあるというのだろうか。そんないくら考えても答えなんてない言葉たちを脳の中で遊ばせていると、家に辿り着いた。
さらに次の週末、俺は先生に紹介されたもう一つの病院に向かった。病院の名は「甲田ドリームセンター」というどうにも胡散臭くて、理由はないがタバコ臭そうなイメージの湧くものであった。場所はこちらも総合病院同様に駅の近くにあるそうだが、今度は母が仕事なため一人でバスに乗って駅へと向かった。
駅前でバスから降りて先生に渡された地図を頼りに足を進めると、小さな雑居ビルに辿り着いた。
灰色の壁に黒々とした雨染みができたその建物は、そこらいったいでも一際悲壮感を滲ませていた。一階には個人経営と思われるうどん屋があり、中では埃の積もった招き猫が、来るはずもない客を必死に招いている。上の階に行くための階段は一段ずつ四隅にしっかりと埃が溜まっている。壁にはテナントの一覧が書かれた表が載った紙が貼られており、乱雑に貼られたセロハンテープはこれ以上となく黄ばんでいた。表を見ると二階は「王芳の英会話教室」とあった。三階には「寝相占いの館 アハラン・ワ・サハラン」、四階には「ミキタニ蒙古襞矯正クリニック」がある。そして最上階である五階にて、やっと「甲田ドリームセンター」という名前を見つけることができた。
五階まで急な階段を上るのは、予想以上に体力の必要な行為であった。途中で謎の男の叫び声がして引き返そうと思ったものの、手元の紹介状を見て階段を上るのを再開した。別に診察を受けずとも異常がなかったと嘘をつけば、みんなの心配を取り除くことはできるだろう。だが、俺は階段を上った。俺自身の精神や頭には異常がない。だが、夢や記憶の中でなんらかのおかしな出来事が発生していることは事実であり、それを解明したいと言う気持ちが大きかった。それに、ここで異常がないとされれば、やはり世界がおかしくて、俺がまともであることが証明されるような気がして、俺は重い足を前に進め続けた。
そして、やっとの思いで俺は五階まで上ることができた。磨りガラス越しに入るぼやけた日光を浴びて、廊下は霞がかっているように見えた。壁際には段ボールが山積みにされており、いつ雪崩が起きるかわからないので俺は急いで廊下を通過した。そうして辿り着いた先には、「甲田ドリームセンター」という手作り感満載の釣り看板と、磨りガラスのついた無骨なドアであった。
とりあえず、ドアをノックしてみる。金属製の重いドアを叩いた時特有の、あまり響かない音がした。
返事がない。
もう一度、今度は強めにノックしてみる。
返事がない。
もう一度。
返事がない。
あと一回。
返事がない。
ううむ、困ったものだ。やはり何かの手違いだったのかもしれない。そもそも、ここが病院なのかも判然としないのに、なぜ何かしらの検査を受けようとしたのか、冷静になってみると不思議だった。
それでは帰る前にあと一回だけ。
そう思ってノックをした瞬間、大きな金切り声とともにドアが開いた。
「ノック二回はトイレ用でしょうが!」
白衣を着た中年の男がそう言いながら、こちらを見た。黒々としたまつ毛の生えた小さな目元が、こちらに向いた。
「あなたは?」
「ええっと、清野医院で紹介されたんですけど」
「ああ、患者さんねえ。入って入って」
そう言うと、男は意外にも外交的な笑みを浮かべて、俺を招き入れた。部屋は広くて客間のようにソファなどが置かれていたが、どれも薄っすらと埃を被っているようだった。壁には廊下同様に段ボールが積まれている他、元気のなさそうな観葉植物や、西アジアを思わせる骨董品なんかが所狭しと肩を並べている。
「所長、患者さん来ましたよ!」
デスクの奥にあるドアに向かって、男は叫んだ。
「いやはや、どうもよろしくお願いします。まあまあ、座ってください」
忙しそうに男は捲し立てて、俺を無理やりスプリングの存在が疑問に思われるソファに座らせた。
「どうも、私、マデノコウジと申します」
そう言うと、男は名刺を差し出した。名刺には「甲田ドリームセンター 万里小路智昭」としっかりと書かれている。
「どうも」
俺はそう言って、密度の高い名刺を受け取った。
「あちらに所長がいらっしゃるんですけどね、ちょっと難しい人なんで、放っておいてあげてください」
「はあ」
万里小路はデスクの隣にある、戸棚の方へと小走りで向かった。戸棚には漢方なのかなんなのかわからない粉末の入った大小様々な瓶が並んでいる。
「抑肝散」と書かれた茶色い粉の入った瓶を、彼は取り出した。それを二つのマグカップに何杯か入れると、お湯を注いだ。
「お砂糖入れます?」
「へ?」
突然の問いかけに、つい変な声が出た。
「コーヒー、お砂糖入れます?」
「ああ、はい、お願いします」
俺の言葉を聞くと万里小路は微笑み、戸棚の瓶に目を走らせた。そして、「八味地黄丸」と書かれた白い粉の入った瓶を取り出し、マグカップの一つに何杯かそれを入れた。
彼は取り出した瓶をしまうと、二つのマグカップを持ってこちらにやって来た。
「ミルク欲しかったら、言ってください」
「え?」
万里小路はその、謎の粉から生まれたコーヒーまがいのものを啜った。
「ただのコーヒーですよ、毒なんて入れてません」
「いや、そうじゃなくて」
俺の態度から察したのか、万里小路は笑った。
「あれね、所長が放っとくと馬鹿みたいにコーヒー飲んじゃうもんだから、漢方に紛れ込ませたんですよ。だから本当に、ただのコーヒーですよ」
彼の促されるままにコーヒーらしきものに口をつけると、そこからは本当にコーヒーの味がした。
「それで、今日はどんなご用件で?」
マグカップを置くと、万里小路はテーブルにあった紹介状を開きながらそう言った。
「あのう、最近記憶が曖昧で」
俺は三度目ということもあって単純作業のように、且つ伝わりやすいように一通りの記憶に関する矛盾について話した。
「それで、変な夢は見たりしますか?」
「変って、たとえば?」
「たとえばそうだな、自分が分裂するとか」
「はい、この間見ました」
「本当ですか?」
万里小路の顔は、驚きと喜びのようなものが織り混ざった表情に染まった。
「はい」
「これは大きな事件だ」
その言葉を皮切りに何やらぶつぶつと呟きながら、万里小路は奥の所長室へと歩いていってしまった。
そして大きな声が何度か漏れて聞こえてきたと思ったらドアが開き、万里小路はノートパソコンとともにこちらへと帰ってきた。
「落ち着いて聞いてください」
目頭が裂けてしまうのではないかと思われるほどに目を見広げて、万里小路は言った。
「はい」
「我々の研究にあなたの症状を当てはめるとですね、あなたはどうやら、一度蛹化をしているんです!」
「え?」
「まあまあ、戸惑ってしまう気持ちもわかります。ぜひ、これを見てください」
そう言うと彼はノートパソコンを俺の前に置き、興奮で震える手でマウスを操作して、ある動画を再生した。
「みなさんこんにちは、ティム・キャメロンです」
画面の下に、字幕が表示された。画面の中央には西洋人風の小太りな男が映っていた。鼻の下には灰色が少し残った白い髭が蓄えられている。
「今回は蛹化という事象について解説したいと思います。私が思うに、蛹化には夢という存在が深く関与しているのです。七百万年前に人類が誕生して、きっとそこから全ての人類が眠るたびに夢を見ては、それが現実でないことに安堵したり愕然としたりしたのでしょう。ですがいまだに、人がなぜ夢を見るのか、そして人がなんのために夢を見るかは判明していません」
動画内の男はアンティーク調の机に手をついた。
「そこで私の仮説なのですが、夢は人間を現実に留める役割を果たしているのではないでしょうか。人間が眠ってノンレム睡眠にある時、意識は無に還ろうとしてしまいます。ですが定期的にレム睡眠が訪れ、夢による仮想現実を作ることで、我々をこの世界に保ってくれているのです。つまり、夢をなくしてレム睡眠状態になれないと、人間は蛹化してしまうのだと私は考えています。ご理解いただけましたでしょうか? それでは、今回は以上で」
男がそう言うと安っぽいBGMのようなものが流れて、画面がフェードアウトしていった。
「これが蛹化と夢の関係性です」
「そうですか」
俺の反応に、万里小路は期待外れなようであった。
「あのう、それと俺って何か関係あるんですか?」
「ああ、そうですね。それではご説明させていただきますね」
「はい、お願いします」
万里小路はコーヒーを啜った。
「紹介状を見てお話を聞かせてもらいましたが、恐らく奥村くんは動画の説明であったノンレム睡眠のその先に行ってしまっていたんだと思います」
「はあ」
「つまり、夢のない世界へと半分入ってしまっていたわけです」
「だから記憶がちぐはぐってことですか?」
「そうです、何かの拍子であっちの世界に入っていたのではないでしょうか? そして、その世界で長い時間を過ごしたために記憶すら変わってしまい、そこで培った価値観と、この世界での価値観に齟齬が生まれてしまったわけです」
「じゃあ、元々俺はこの世界の人間だってことですか?」
「おそらく」
「でも、価値観とか記憶ってそんなに簡単に変わりますか?」
万里小路は少し悩んだ末、口を開いた。
「過去ってのは、強固なようで実は儚い存在なんですよ。今日だって明日になれば昨日になるし、明日だって明後日になれば過去になる。これまで信じてきた相手に裏切られるとか、そんな経験ありませんか? それだって、ほら、過去に積み上げてきたものが崩壊するということなのです。だから突然であったり知らない間にだったり、価値観や記憶なんかが変わってしまうことだって何ら不思議なことじゃないんですよ」
俺が理解しているのかどうか不安なのか、万里小路は俺の顔を見つめた。
「向こうの世界ってのは偽物か何かなんですか?」
俺の問いに、万里小路は首を横に振った。
「その世界がなんなのかは、普通は行けないのでわかりません。ですが、この世界のような夢がないという仮説だけは有名です」
夢がない。言い得て妙な気がした。人がドラゴンになればそれを信じられないし、蛹化なんて言葉を受け入れて怖がることもできない。それが今の俺を形作った世界の価値観だった。たしかに創造性に欠けていて、考え方によっては夢がないのだ。
「じゃあ、俺の頭がおかしくなったわけじゃないんですね?」
「はい、もちろん。要するに、向こうの世界に長時間いたせいでカルチャーショックを受けてしまっているんです。納得していただけました?」
「たぶん」
ほとんど理解も納得もしていなかった。だが、のっぴきならない理由でカルチャーショックを受けている。その解釈が曖昧なものの、一番心地よいように感じたのだ。
そろそろ帰ろうかと思ってコーヒーを口にしていると、万里小路が咳払いをした。
「最近、夢泥棒事件って話題になってますでしょう?」
「はい、そうですね」
俺はリュックを閉じながらそう返した。
「私どもはですね、こんな研究をしてるもんですから、蛹化の治療法なんかも研究しているんですよ」
「へえ、そうなんですか」
よくわからない世間話なので、正直早く切り上げたかった。
「この間、市内でも事件があったでしょう? 依頼されてその人の治療をしてみているんですが、どうやら興味深いことがあったんですよ」
「へえ、凄いですね」
「まあまあ、ゆっくりしてくださいよ」
立ち上がろうとした俺に、万里小路は言った。
「あのですね、蛹に他の人も入ることができるんです。そしてその先には、謎の世界があるんですよ」
「え?」
「蛹に入ると、おそらく向こうの世界に一時的ですが入れるんです。でもですね、誰が試してもその世界の何かに耐えられなくて、逃げ出してきてしまうんです」
「『何か』ってなんですか?」
早く話を終わらせて、駅前で漫画を買って帰りたかった。それなのに、万里小路は俺の目をじっと見つめて話し続けた。
「何かは判然としないのですが、私はそれが『夢がない』という漠然とした恐怖だと思うんです」
「はあ」
また、彼は訳のわからないことを言い始めた。
「そこで一つ話があるのですが、我々と協力しませんか?」
「はあ?」
❇︎❇︎❇︎
月曜日、俺はいつものように三谷文乃に叩き起こされて目覚めた。今日も今日とて朝ごはんを食べる時間はなく、朝食代兼昼食代を母から受け取ってマンションの駐輪場に向かう。
「病院行ったんでしょ?」
歩きながら三谷文乃が尋ねてきた。
「行ったよ」
「どうだった?」
「うん、なんでもないって」
「そう」
彼女は突然、俺の顔を覗き込んできた。
「その割に、なんかまだぼさっとしてない?」
「失敬な」
顔が近いことが気になって、その一言を返すので精一杯だった。だが、彼女は笑った。
自転車に乗って、またいつものように出発した。そしていつものように、少し先を行く三谷文乃の背中が視界に入る。
甲田ドリームセンターでの話によると、今そこにいる三谷文乃が本来俺の知っている三谷文乃であり、ついこの前まで思っていた冷たい彼女は、夢のない世界における彼女に過ぎなかったのだ。ううむ、どうにもよくわからない。だが、今の彼女は幼い時のように接することができるし、記憶の中で彼女が冷たくなってしまったのは、なんのきっかけも前触れない出来事であった。そう考えると、気づかぬうちに夢のない世界に俺が入っていたという万里小路の仮説も、理にかなっているように思えた。
「ほら、またぼうっとしてる」
いつの間にか随分と先まで行ってしまっていた彼女が、自転車を止めて前方から言った。
「いや、そっちが早いだけだよ」
夢の世界云々について考えていると、待っていましたと言わんばかりに万里小路から提案された協力関係について思い出した。内容としては、俺が夢のない世界を知る者として蛹治療に協力する代わりに、俺のあちらの世界で湾曲されてしまった価値観を戻す研究をするというものであった。また、万里小路の考えによると、理由はよく理解できなかったが、蛹化した人間を助ける過程を通して、俺は自然とまたこちらの世界に染まり直すことができるかもしれないそうだ。
ここが世界として成り立っており今後はここで生活するのならば、やはり多数派の価値観は持っておきたい。もう、山田くんの時のような寂しさは味わいたくない。価値観を矯正できるという話を聞いた時には、第一にそんな思いが浮かんだ。だが、心のどこかに引っかかるものがあり、万里小路にはその場で首を縦に振ることはできなかった。そして、あちらもなかなか食い下がるので、とりあえず今週末に返事をすることにしてその日はやり過ごしたわけだ。果たして、俺はどちらを選ぶのが正解なのだろうか。
過去を捨てて現在に染まるか、それとも過去を引きずったまま現在を生きるか。その疑問が、何日間も俺の頭に住み着いて、脳の中心で悠々と寝転んでいるような日々であった。過去なんて捨ててしまえと思うのだが、ふと以前いた世界のことを思い出して寂しくなってしまう。一方で、過去は保持しておこうと思っていると、誰かとの会話で相手の考えが全く理解できなくて、それはそれで寂しくなってしまう。そんなことの繰り返しである。
その週の金曜日、マキヲは部活とのことで、俺は委員長と二人で帰ることになった。
「なあなあ、ルーメソ食いたくね?」
委員長が、校門を出る間際にそう言った。
「ルーメソって何?」
「お前、頭打ってそれも忘れたのか」
委員長は少し面倒臭そうな顔をした。
「なんか、ごめん」
「いいけど」
少しの間があった。
「よし、それじゃあ俺が奢ってやるから行こうぜ」
委員長は先立って沈黙を破り、笑いながらそう言った。
「じゃあ、駅前行くぞ」
妙にテンションの高い委員長を背後に乗せて、俺は重いペダルを漕いだ。生温い風が気持ち悪いのと、人を乗せて自転車を漕ぐとバランスが取りにくいのが相まって、学校帰りの二人乗りは思ったほど楽しいものではなかった。それに、相手に背中を向けているので話が伝わっているのか心配になる。
「ルーメソも忘れちゃったのか」
委員長が背後から言った。
「だからごめんって」
「まあ、食ったら思い出すだろ。なんなら、全部の記憶蘇ったりして」
「だといいけど」
そんな会話をしながら、駅の方へと向かった。学校は家と駅の間に位置するので、自転車であればあまり駅まで時間はかからない。そして、ある程度駅の近くまで来ると委員長の道案内のもと、そのルーメソとやらに向かった。
生活感ある二階建て住宅の前に、気持ち程度の駐輪場がある。委員長に言われるがままに、俺は自転車をそこに止めた。
「ラーメン」と書かれた幟旗が入り口にはあった。店内からは出汁の香りが漂ってきて、道行く人々を誘惑している。どうやらここは、ラーメン屋のようだ。いいや、なんならこの店は委員長やマキヲと何度も来た馴染みの店にそっくりである。だが、一つだけ気掛かりな点がある。赤地に白文字で「ラーメン」と書かれた幟旗は、本来あるべき縦方向に直立しておらず、店の入り口に暖簾のように横向きにかけられていたのである。たしかに、これなら「ルーメソ」とも読めなくもない。
「店長、久しぶり」
店内に入ると、委員長がそう言った。
「おうよう」
厨房で寸胴を見つめていた、馴染みのある中年の店長がそう返す。
委員長は慣れた足取りでカウンター席に座り、俺を隣に座るよう促した。店内の床は、相変わらず油でベタつく感覚がする。やはりあのラーメン屋である。
「俺、醤油ルーメソ。お前は?」
「俺も」
「じゃあ、醤油ルーメソ二つで」
「はいよ」
店長は「ルーメソ」という言葉を平然と受け入れ、麺の準備を始めた。
「お前、頭打ったらしいな」
厨房から店長がそう言ってきた。どうやら俺がドラゴンに突っ込んで頭を打った話は、あまりにも間抜け過ぎて有名になってしまっているようだ。
「そうなんすよ。しかもこいつ、ルーメソ忘れたらしいんですよ」
「おい、それは困るぜ」
店長は大きな声でそう言って、これまた大きな声で笑った。
「醤油ルーメソお待ち」
そう言って、店長は屈強な腕で二つのどんぶりをカウンターに運んだ。中華風の柄が入ったどんぶりの中身は、やはりどこからどう見てもラーメンである。
「いただきます」
そう言って、二人で空腹を満たすためにひたすら鰹の香りが食欲をそそるラーメンを啜った。
「そういえば店長、椅子買えた?」
「おう、そうだな」
「店長、失恋するたびに店内ちょっと変えるんだよ」
委員長が楽しそうにそう教えてくれた。そうだ、覚えている。初めて三人でこの店に入った時にはカウンターもなくて、どこの出身かはよくわからないが、東南アジア風の顔立ちをしたパメラさんという彼女が、テーブル席までラーメンを運んでくれたのを覚えている。そして、その彼女と別れたのを契機にこのカウンターができたのもよく覚えている。やはり、提供する料理の名前が変わっても、俺の知っているあの店なのだ。
「違う、失恋してるんじゃない。定期的に気分転換して、新しくやり直してんだよ」
委員長の言葉に、店長はそう反論した。
こんなやりとりだって、元の記憶と一致している。
「あのなあお前ら、生き物ってのはある程度のスパンで細胞入れ替える必要があんだよ」
「細胞?」
「そうだ。細胞入れ替えなきゃ腐っちまうだろ? 恋人も店内もそういうわけよ」
俺が聞き返したことに対して店長は自信満々にそう答えた。
「なんだよお前、店長と共鳴してんの?」
「そんなんじゃねえよ」
委員長の冷やかしに、俺は力を込めた声で否定した。
口ではそうではないと言ったものの、心のどこかに妙に店長の言葉を噛み締めている自分がいた。たしかに人間とは、入れ替わっていかなければならないものなのだ。年齢に合わせた思考に変化しなければ子どもっぽいと馬鹿にされてしまうし、時代に合わせた思考を持たなければ陳腐な人間だと揶揄される。不易流動だの諸行無常なんて言葉もあるくらいだし、変化を拒むこと自体が遠い昔から否定されているのだ。
その後もしばらく店長の過去の彼女について思い出しては笑って、残ったラーメンのスープを飲んでいた。そして話題が尽きて、俺たちは店を出た。もちろん会計は、宣言通り委員長の奢りであった。
「やっぱお前って、頭打って以来なんか変わったよ」
自転車を漕いでいると、背後から委員長がそう言った。
「変わってねえよ」
「いや、なんかさあ、すごい落ち着いちゃったよ」
どうやら委員長の記憶にいる俺は、もっとこの世界らしい価値観を持った俺だったようだ。やはり今の俺は、この世界から浮いてしまっているのだ。
「ごめん」
「だからさっきから謝んなって。別に俺はそれでいいと思ってるよ、お前がいいならな」
自転車に乗っているので互いの表情は見えない。だが、その声からだけでもそこに着飾りも他意もないことが理解できた。
「山田くんの件の時はお前の変わり具合にびっくりしてああなっちゃったけどさ、俺もマキヲも、だからってお前と距離置かねえし」
「ありがとう」
「なんか調子狂うよな」
委員長はそう言って、俺の背中を軽く叩いた。
「やめろって、落とすぞ」
「黙ってこいでろよ」
俺は言われた通りに、黙って自転車を漕ぎ続けた。
「とにかく、それが言いたかっただけだから」
その言葉が終わるとともに、突然ペダルが軽くなった。
「え?」
振り返ると、後方の道路に立つ委員長の姿があった。その姿も、時間が経つに連れて遠くなっていく。
「じゃあ、また月曜な」
委員長が半ば叫ぶような声で後ろから言うのが聞こえた。
「おう」
俺はそう言って、自転車を走らせた。
今の俺は、しっかりと変化を受け入れられているのだろうか。そんな疑問がふと浮かんだ。世界が突然一転してから、できるだけ新たなものを受け入れようとしてきた。それでも、過去の自分を捨てられずにいるのも事実だ。委員長やマキヲは、変わってしまった俺からも変わらぬ一貫した何かを見出して、縁を切らないでいてくれている。そうだ、この世界は動揺しながらも、部外者のような価値観に染まった俺をどうにか包み込んでくれている。なのに、夢のない世界に侵食された俺は、どこかでそれを拒んでいる。
変わらないラーメンの味、変わらない友人たち。変わるものと変わらないもの。古い何かに縋ってばかりではいられない。変わったり、なくなったりしたものを悔やんでいても埒があかない。変わらなかったものを守るためには、変わってしまったものも包括して受け入れてあげなければならない。そうじゃないと、変わらなかったものまでも破壊してしまうかもしれないから。
その日の夜、俺は甲田ドリームセンターに電話をかけた。口の中には、まだルーメソの香りと塩味が微かに残っていた。