山田くんが、ドラゴンになった
山田くんが、ドラゴンになった。決して何かの隠喩だとか、ウィットに富んだ洒落なんかではない。三年B組出席番号三十一番の、あの山田くんが突如ドラゴンへと変貌してしまったのだ。
倒れる机、響く悲鳴、押し合う生徒たち。まさにカオスそのものである。俺は朦朧とする意識の中で、混乱の根源を見た。そこには、赤茶色の鱗に覆われたドラゴンが立っている。
ドラゴンがくぐもった声で鳴いた。神経質になった生徒たちはその音を聞き逃さず、短い悲鳴を上げながらめいめいに後退りをする。その音に今度はドラゴンが反応し、また小さく鳴いた。そんな悪循環が続く。
教室の出入り口付近にドラゴンが佇んでいるため、三十二人の生徒たちは皆、逃げることもできずに教室の隅で狼狽えるばかりであった。もちろん俺もその中にいる。
なぜ、こうなったのだろうか。何がどう転んで今の混沌に至るのだろうか。俺は体育館の倉庫のように無秩序に散らかった頭を整理するために、眉間にしわを寄せつつ目を瞑った。
❇︎❇︎❇︎
普段からよく、ぼうっとしていると人に言われる。そりゃあ、体育会系の人間特有の気張った雰囲気は持っていないし、頭のいい人間がする理路整然とした喋り方もできない。自分では十分に思考を巡らしているつもりだが、他人からは上の空のように映っているようだ。だが、この日は自他ともに認めるほど、ぼうっとしてしまう一日であった。
朝の七時半に起床して、朝食は食べずに家を出た。そして自転車に乗り込んで、学校に向かった。あまりにもありふれた日常のために、自転車に乗りながらあくびをした。それだけを覚えている。
一時間目の授業は英語で、中年の女性教師の甲高い声が朝っぱらから耳に響いた。
「ハロー、エブリワン」
無論、カタカナ英語である。その言葉にはLもRもへったくれもないことが、英語のできない俺にでも理解できる。
「ハウアーユートゥデイ?」
そんな問いを向けられた優等生な女子は、すぐに答える。
「アイムファインセンキュー」
なんて彼女の言葉を皮切りに、英語の授業が幕を開ける。果たして彼女は本当にファインなのか。日本の高校三年生の何割が朝の八時半から「アイムファイン」と心の底から言えるのだろうか。そんなことを考えつつも、俺は同じ問いを受けて「アイムファイン」と答えた。だって、その返答しか教えられていないから。
二時間目は数学で、自分が当てられないかヒヤヒヤしながらも、特に大きな問題もなく授業を終えた。その後の授業もゆっくりと、そしてぼんやりと、空を流れる雲のように過ぎていくばかりであった。昼に弁当を食べて、残り時間には友人と喋った。そして五時間目に、俺はいつの間にか眠ってしまっていたのだ。
そして、山田くんがドラゴンになった。悪夢と女子生徒の悲鳴に煽られて飛び起き、俺はその現実を目の当たりにした。起きてまず、それを夢の延長なのではないかと疑った。とりあえず、ありきたりではあるものの手の甲をつねってみる。自分の体をつねるのは、意外にも勇気がいるものである。なかなか力が入らない。自分の手の甲と格闘しているうちに山田くんは混乱したように四本の足で歩き回り、長い尻尾を振り回し始めた。そこで友人に叱責の混じった声で促され、俺は教室の窓際に避難した。
❇︎❇︎❇︎
そんな次第で、現在に至るわけだ。全くわけがわからない。やはり目の前の光景に現実味を感じられないのは、単に俺自身の頭に靄がかかっているからではなかった。明らかにおかしな出来事が安閑としていた教室にカオスを持ち込んだのだ。
国語の松本先生は、へっぴり腰になりつつも生徒の前に立っている。女子生徒はことあるごとに悲鳴を上げ、その声が妙なプレッシャーとストレスを教室に与えるようだ。一部の男子生徒が、スマートフォンを山田くんに向けた。
「やめなさい」
松本先生は半ば裏返った声で注意した。
鳴り響くシャッター音、そして悲鳴。それらの雑音を受け、山田くんは小さく鳴いた。いや、泣いているようだった。そういえば、山田くんは目立つのが苦手だった。高校一年生の時からクラスが一緒だが、小論文の発表の時にはいつも彼の声は震えていた。そんな彼が今、好奇と恐怖の混じり合った混沌の中に晒されている。それでも、体が大き過ぎて教室から出ることができないようだ。
「おい山田、やめろよ」
誰かが言った。
山田くんはこちらに振り向き、鎌首をもたげた。山田くんは自分の名前に反応したのだろうか。窓から差すぶっきらぼうな太陽光に照らされ、無数の鱗が赤く煌めく。その黄色い瞳は、真っ直ぐにこちらを見ていた。爬虫類特有の縦長の瞳孔が、微かに揺れている。それを見つめていると、そこには人間の姿の山田くんがいる気がした。
現場に現実味がなかったからなのか、意識がまだ判然としないからなのか、俺の足は不思議と前に進んでいた。半ば無意識の所業である。ただ、俺は怯える山田くんの姿だけを捉えていた。彼の優しさを知っているから、彼が不本意で暴れているのがわかった。だから俺は、彼を安心させたかったのかもしれない。
「奥村、やめろ!」
松本先生の声が後方から聞こえて初めて、俺は群衆よりも数メートル先に進み出てしまっていることに気がついた。そして、山田くんと目が合った。
「山田くん」
俺の声を聞くや否や、山田くんは尻尾を目一杯に振り回した。そして胸に鈍い痛みを感じた途端、俺の体は宙に浮かび上がった。
❇︎❇︎❇︎
目覚めると、そこには天井があった。細かいヒビのような模様から、それが学校の天井であることがわかる。小汚いクリーム色のカーテンが小さく揺らめき、視界に動きが与えられている。辺りを確認しようとすると下から軋む音がして、そこがベッドであることがわかった。そうだ、ここは保健室に違いない。ではなぜ、保健室で俺は寝ていたのだろうか。
開いた窓からは春の柔らかな日が差しこんでいる。太陽光を反射する金属が目に入り、山田くんの鱗が脳裏に過った。胸に痛みはなかった。ただただ朝から尾を引く気怠さだけが体に住み着いているだけで、特別な不調は感じられない。
やはりあれは夢だったのだろうか。
そんな思いが胸に浮かぶ。あまりにもその場が混乱していて頭が回っていなかったが、常識的に考えて人間がドラゴンになるわけがない。夢から覚めたと思ったら夢だった。自分自身では体験したことがないが、そんなことだって起きるかもしれない。
だが、それでは今自分がなぜ保健室にいるのかがわからない。夢と現の境が曖昧になって、記憶と記憶がそれぞれ分断されている。まるで熱に浮かされている日のようだ。
ベッドの上でいくら考えを巡らせても机上の空論の域を越えることはできない。重い頭を持ち上げて、俺は立ち上がった。そして、仕切り用のカーテンを開ける。
「あら、目覚めたの?」
保健室の木下先生が言った。
「ああ、はい」
思ったように声が出ず、掠れた言葉が喉から絞り出されるようだった。
「おうちに電話しておいたから、まだ寝てなさい」
「いやあ、でももう平気です」
時計を見ると、時刻はもう五時を過ぎていた。日は傾く準備を初めており、空気は夕暮れの寂しさを微かに匂わせ始めている。
保健室に沈黙が訪れた。一人で帰ってしまいたかったが、先生の視線が気まずいので一旦ベッドに戻る。
「災難だったわね」
自分が寝ろと言った矢先に、先生はそう声をかけてきた。
「何がですか?」
「山田くんのこと」
災難。その言葉をうまく呑み込めなかった。山田くんは今どうなっているのか。さっきの混乱は果たして事実であったのか。今、俺が考えている山田くんと先生の言う山田くんは同一人物なのか。あまりにも冷静なその言葉に、数珠繋ぎとなった疑問が溢れ出す。
「山田くん、何かあったんですか?」
聞きたいことが多過ぎて、思わずそんな質問が口から飛び出した。
「何かあったも何も、ドラゴンになっちゃったんでしょ?」
先生は俺がとぼけたことでも言っているかのように、宥めるような優しい声で答えた。
「それにしても、いくら仲良くても近づいちゃ駄目よ」
先生はドラゴンを平気で受け入れるどころか、談笑するような口ぶりで話を続けている。おかしい。あまりにも異様な状況だ。
「まあでも私もそれぐらいの歳の時には、興味本位で近づいたりしてたけど」
「あのう、山田くんって今どうなってるんですか?」
俺の問いに、また先生は笑った。
「何言ってんの。今頃、空に帰されてるに決まってるじゃない」
異様なほどに鼓動が速くなり、上手く息ができなくなる。コメカミには大量の汗が溢れて、虫が這うような寒気が全身を駆け巡った。
おかしい。この先生は何を言っているのだろうか。
白い歯の見える先生の笑顔が恐ろしく揺れている。そんな気がして、俺は保健室を飛び出した。
おかしい。おかしい、おかしい、おかしい。走っているせいで頭が回らなくなり、そんな言葉だけが脳内を占領した。それにしたっておかしい。何をとってもおかしい。なぜ平然とドラゴンを受け入れているのだろうか。そんなのおかしいじゃないか。だって、ドラゴンだ。しかも、一人の人間がドラゴンになってしまったのだ。そんなのおかしい以外になんて形容すればいいのだろうか。やっぱりおかしい。あんな人と喋っていたら俺まで頭がおかしくなる。いや、もうおかしくなってしまいそうだ。
ツルツルと滑る廊下を必死で走った。背後からは先生の声が聞こえる。それでも、歯を食いしばり、異様な保健室からただひたすらに逃げた。肩が上下しても、頭がぼうっとしても、俺は木下先生と教室から距離を置くために突き進んだ。だって、山田くんがドラゴンなるなんて、あまりにも馬鹿げている。そんなことを平然と生活の一部に取り込んでいる世界が怖かったのだ。
やっとの思いで下駄箱までたどり着き、俺は息を整えるために立ち止まった。上手く息ができず、喉からは血の香りが滲んできている。
「おい、お前何してんだよ」
誰かが言った。膝に手をついているため、即座に顔が見られない。息がある程度整うのを感じて、やっとの思いで頭を上げた。すると、そこには兄の姿があった。
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兄は俺を連れて、保健室まで謝りに行った。その後は職員室へ挨拶に行き、俺を尻目に知り合いの先生たちと談笑し始めた。そして太陽が本格的に傾き始める時刻になって、やっと俺は兄に連れられて校舎を出た。
「なんで不貞腐れてんだよ?」
車を運転しながら、兄が言った。背後からは無理に積み込まれた自転車の、揺れる音が聞こえる。
「別にそんなんじゃねえよ」
「ふうん」
兄の視線は常に道の先に向けられていた。
「そういえば、なんか新しい先生いたな」
「男の?」
「そうそう」
会話はそこで終わった。
兄の茶色い髪が、夕日に照らされて赤くなっている。窓ガラスに頭をつけていると、車の振動が直接体に伝わってくる。そんなどうでもいい考えがぽつりぽつりと浮かんだ。
この町は、とても平凡だ。東京の郊外も甚だしいような場所に、ベッドタウンとしての役割も果たせずにひっそりと存在している。住民の交通手段は主に車な上に、市内には高校が一校しかないので、学生なんかは自転車がなければ生活できたものじゃない。すると、自ずと女子高生の脚が太くなる。そんなどこにでもあるような小さな町だ。
最寄り駅まではバスで三十分かかり、新たなコンビニができると町中が大騒ぎしてそこに集まる。そんなところを切り抜くと田舎臭く思えるが、よく夏休みの昼頃にテレビで流れる小学生が主役の古い映画のような、ノスタルジーは微塵も感じられない。そんなどっちつかずで中途半端な場所だ。
だから、そこに敷かれたアスファルトの道も平々凡々でつまらない。窓を覗いても畑と古臭い一軒家と、時々駐車場が馬鹿みたいに広いコンビニが右から左に流れて行くばかりである。
「大学まだ始まんないの?」
「ああ、今週中には戻るよ」
兄は大学進学とともにこの町を出た。いや、この町から逃げ出すことに成功した、と言った方が正しいのかもしれない。兄ならばもっと偏差値が高く、電車で通学可能な大学に入ることもできたはずだ。それにもかかわらず、わざわざ遠くの大学を受験し、この町から出る言い訳を作ったのだ。受験生になって、そんな事実を知った。
「あ、お前鍵閉め忘れてたぞ」
「そっちだってガス消し忘れんじゃん」
また、会話が終わる。家族ならば沈黙なんて気にならない。その考えは否定しない。だが今はなんだか言葉の歯切れが互いに悪く、初めて知り合った人間同士のような気まずさが感じられた。
「お前さ、誰かが暴走するの見るの初めてだっけ?」
兄の質問の意味が、よくわからなかった。
「なに? 山田くんの話?」
「そう」
初めて。また、上手く咀嚼できない言葉が現れた。保健室での一件もそうだが、さっきから誰かと喋っているとどうにも胸焼けするような気分がする。
「まあ俺も最初は色々考えたけどさ、そのうち慣れるよ」
慣れる。やはり、喉から胸にかけて得体の知れない何かが這いずり回るような感覚がする。
「いや、意味わかんないよ。クラスのやつがドラゴンになったんだよ、なんでそんなみんな経験することみたいに言ってんだよ」
「おい、大丈夫か? やっぱり頭打ったのか」
兄の顔は真剣そのものであった。意味がわからない。また、世界が揺らいでいるような錯覚に襲われた。
「なんだよそれ、ふざけてんだろ。だって現実的に考えて人間がドラゴンになるわけないじゃん。ていうか、そもそも現実にドラゴンなんていないし」
「おい、落ち着けって」
「落ち着けるわけないだろ、みんなしてわけわかんないことばっか言って。もういい、降ろせよ」
「暴れんなって、事故ったらどうすんだよ」
兄の言葉で暴れるのをやめた。そして、気まずさと複雑な感情が混ざり合った、正真正銘の沈黙が車内に充満した。
「多分、色々ショックで頭の中混乱してんだよ」
先立って言葉を発したのは兄であった。
「ふとしたことで、頭の中が全部グチャグチャになるのもわかるよ」
「どうせわかってないよ」
兄は大人だ。今も側から見れば俺がヘソを曲げて、兄がそれをなだめているように見えるに違いない。それが悔しかったが、徹頭徹尾一貫した謎の価値観をみんなに押し付けられ、俺は反論する気すら失ってしまった。
「あんま暗い顔してると、蛹にされるぞ」
また、素っ頓狂な言葉がこちらに向かって飛んで来た。もはや胸の中からは怒りも疑問も消え去り、寂しさだけが残っている。だって、山田くんは突然異形に変身してしまい、どこかに連れて行かれてしまった。なのに、その事実を悲しむ様子の人間に会えないのだ。共感する相手のいない感情ほど、孤独感を煽るものはない。
高校に入学してから二年と数週間、山田くんとはずっと同じクラスであった。特別仲が良かったわけでもないが、クラスという同じ箱に常に一緒にいたのだから、少なからず他の人間には代わることのできない漠然とした仲間意識がある。そんな気がしていたのだ。
「そういえば、晩飯どうする?」
兄が尋ねてきた。
「なんで?」
「母さん遅くなるって」
「なんでもいいよ」
車は川を横断する橋を通り、見慣れた河川敷が視界の隅を通過した。
そういえば、一度だけ山田くんと二人で帰ったことがあった。互いに委員会で居残りを強要され、一緒に帰る相手もいないので並んで帰ったのだ。そうだ、その時にこの河川敷を、自転車を押しながら歩いたのだ。
「もし、超能力があるとしたら何が欲しい?」
橙色に染まった空のもとで、山田くんはそんな質問を投げかけてきた。一通りの話題を使い果たしてしまい、当時公開していたハリウッド映画の話題から、その質問に転じたのだ。
「なんでもあり?」
「うん、なんでもあり」
山田くんの足取りは少し速くて、いつもより早足気味で歩いたのを覚えている。
「じゃあ、空飛びたいな」
「なんで?」
「だって、なんか自由そうでいいじゃん」
気のせいかもしれないが、山田くんは俺のありきたりな答えに、期待外れと言わんばかりの表情を浮かべているようだった。
「そっちは?」
「ううん」
少しの間が空いて、河川敷からする野球少年の声ばかりが聞こえてきた。
「やっぱいいかな」
「え、なんで?」
「何もない方がいいのかも。そしたら、悩みもないし他の人と価値観もズレないし」
今度はきっと、俺が期待外れと言わんばかりの表情を浮かべていたと思う。そこで、その話題は終わってしまった。
河川敷も見えなくなって、ついに家まで続く一本道に車は入った。
世界はどうかしているのに、次第に意識は明瞭になっていく。車の窓から覗く空は、あの日のような鮮やかなオレンジに染まっていた。
❇︎❇︎❇︎
朝目覚めると、また自分の頬をつまみたくなった。
俺には女子の幼馴染がいる。漫画やアニメのように、一軒家で子ども部屋がたまたま向かい合ってしまったような幼馴染ではない。小さな頃から同じマンションに住んでいるタイプの、現実的な幼馴染だ。もちろん現在の関係は漫画のように高校生になっても仲がいいわけもなく、しばらく口を聞いていない。別にどこかで喧嘩をして決別したわけでもない。ただなんとなく喋らなくなって、同じ高校だとしてもなんとなく互いを避けているのだ。でも現実って、そんなもんだと思う。
その幼馴染、三谷文乃が目の前にいる。しばらく口を聞かなかった彼女が、五年以上の時を経て俺の部屋にいる。
「ねえ、早く起きなよ」
三谷文乃が上から覗き込むように俺の顔を見つめた。
「なんで?」
「何が?」
彼女の顔が、あからさまに曇った。
「なんでいるの?」
「いたら駄目なの?」
すぐに不貞腐れたような言葉を返してくるのが、昔と変わっていない。
「いや、そうじゃないけど」
しばらく見つめ合う時間が続いた。久々に凝視した彼女の顔は少し大人びつつも昔の面影が残っており、なんだか懐かしい気分になる。
「けど?」
「なんでもない」
そんな天変地異も微睡とともにうやむやになってしまい、促されるまでに俺は学校へ行く準備を始めた。
突然その形相を変えた世界を受け入れられないまま、次の日の朝になってしまったのだ。この摩訶不思議な世界に身を置いてからはや数時間、もうすぐ一日が経とうとしている。何かの間違いだと思って夢が覚めるのを待っていたが、寝ても覚めても世界はその様子を元には戻してくれなかった。それどころか、時間が経つごとに非現実的な要素を増やしていくばかりだ。なのに、世界はあたかも俺の方がどうにかしてしまったという口ぶりである。果たして、どちらが正解なのだろうか。ここまでくるともはや何がなんだかわからない。
「今日未明、東京都八王子市にて二十代女性が蛹化しているのが発見されました。こちらの事件は、先月十七日から多発している夢泥棒事件に関係するものだと考えられています」
時計代わりにつけられた朝のニュース番組で、中年のキャスターが冷静な声で言った。
「嫌だ、近い」
キッチンにいた母が言った。
「だって、もう市内でも出てるんだろ?」
今度はダイニングにいる父が、トーストを食べながら言った。
「あんたたちも気をつけなさいよ」
そう言って、お昼代とともに朝食もまともにとっていない俺を、母は学校へと送り出した。
「ねえ、夢泥棒って何?」
自転車に乗る準備をしながら、俺は三谷文乃に尋ねた。
「本当に大丈夫?」
彼女の顔はこれ以上となくしかめられ、俺を見る目には侮蔑すら入っているように思える。
どうやらこの世界では今、夢泥棒事件というものが現在進行形で発生しているそうだ。自転車にも乗っていたので詳細は聞くことができなかったが、どうやら昨日兄が言っていた「蛹」とやらと、夢泥棒には繋がりがあるようだ。
「先週、本屋の店員さんが襲われたのは?」
「へえ、そうなの?」
「本当に覚えてないの?」
彼女はまた、怪訝な顔をした。
「絶対病院行った方がいいよ」
「いいって、大丈夫だから」
「でもドラゴンに飛ばされて頭打ったんでしょ?」
「まあ、そうだけどさ」
そんな会話をしながら、河川敷の見える土手沿いの道を自転車で通過した。
教室に入ると、やはり山田くんの机は持ち主を失ってしまっていた。解せない。あまりにも解せない。だがそれを声だかに主張してしまうと、昨日や今朝のように変人扱いされてしまう。流石に約三十名の生徒にそんな目で見られるのには耐えられそうにないので、山田くんに関する言及は避けることにした。
そして席につくとまず、俺はSNSでありとあらゆるトレンドを調べた。ほとんどが既視感のあるくだらない内容で埋め尽くされているものの、一部には夢泥棒やそれに関連していると思われる謎の価値観や単語が残されている。
しばらくして、授業が始まった。授業も至って平凡なものであり、友人の顔ぶれは山田くんを除いて変わりない。誰と話していても昨日俺が無謀に山田くんのもとへ歩み寄ったことについて笑いながら話題に挙げられたものの、誰も山田くんが消えたことには触れなかった。そしてどこか歪で普遍的な時間は掴み所もなく流れ、昼休みになってしまった。
「お前、またスマホかよ」
弁当を食べながら、友人のマキヲが言った。マキヲは体育会系の雰囲気を全身にまとった、巨大な男である。そのあだ名は商店街の飲食店「とんかつマキヲ」の看板に彼にそっくりなキャラクターが描かれていることから誰かがつけたそうだ。
彼は嬉々として、自家製の巨大おにぎりを食べている。
「うるせえ、黙ってろ」
「なんでイライラしてんだよ」
今度はマキヲの向かいに座る、委員長が言った。委員長は細身で背が高く、その上頭もいいという天に二物を与えられたタイプの男である。その呼び名の通り彼は一年生の時から学級委員長をしており、いつも真面目な人間の皮を被っている。
委員長は、優雅にもコンビニで買ったサンドイッチを食べ、レモンティーを飲んだ。
「もしかして、頭打って人格変わったとか?」
委員長が言った。
「違うよ」
「じゃあなんでそんなアグレッシブにスマホの画面と向き合ってるのさ?」
委員長がまた質問を投げかけてくる。
「別になんでもないって」
「まあ、なんでもいいか」
マキヲがそう言って、俺に関する話題は終わった。
二人との会話はいつもと何一つ変わらない、平凡なものであった。何がしたいだの何が欲しいだの、誰と付き合いたいだの、中身もないようでなぜか楽しいと感じる会話。それには変わりない。だが、どこか言葉の節々では、妙な違和感がある。それを感じるたびに異論を唱えたい気持ちをぐっと堪え、その言葉や考えについてスマホで調べた。
いくつも意味のわからない話が現れては消えていったが、中でも際立って異彩を放ち、何度も話題に上がるのが夢泥棒とドラゴンについてだった。ドラゴンについては昨日の保健室や車での会話から察せられるように、特に深刻な話でもないようである。ネットで調べても日常に起きる小さなイベントのような感覚で述べられている。どうやら、昨日山田くんがドラゴンになってしまったのは、「普通」の価値観からすると教室に蜂が入ってきた程度の騒ぎだったようだ。そんなの、冷たすぎる。
一方で、案外人々が深刻に捉えているのが、夢泥棒についてである。ネットニュースに目を通すと、夢泥棒事件は主に東京の多摩郡を中心に発生しており、その扱いはさながら殺人事件であった。それがなぜ「夢泥棒」なのか、夢泥棒とは何者なのか。そういった詳細については書かれていなかったが、わかったこととしては夢泥棒に襲われると、蛹になってしまうということであった。「蛹になる」とはなんなのか想像がいまいち掴めなかったが、人々はそれを何よりも恐れているようである。
「八王子で蛹出たらしいな」
「らしいな」
委員長の話に、マキヲが応えた。
「俺だったら襲われる前に、どっかから飛び降りるな」
「なんで?」
委員長の興味深い言葉に、俺は質問した。
「だって、蛹化したら夢見れなくなるらしいし」
ううん、やはり要領が得られない。
「でも突然背後から襲われるらしいぜ」
「そんなの噂だろ?」
マキヲの言葉に、委員長がそう返した。
「いや、ネットに体験談載ってたんだって」
「馬鹿、夢泥棒見たやつなんてみんな蛹化してんだよ。それでどうやって体験談載せんだよ」
マキヲの考えなしの発言に対し、委員長の化けの皮が剥がれかけた。いつもの出来事である。だが内容が内容なので、今回はどちらが正しいのかよくわからなかった。
昼休みが終わり、五時間目の授業が始まった。国語の授業はとても退屈で、時計の動きが止まってしまっているように思える。やっぱり、授業は普段と何一つ変わらなかった。
五時間目が終わると、次は日本史の菊池先生が入ってくるはずなのに、担任の倉田先生が教室に入ってきた。
「ようし、それじゃあホームルームするぞ」
倉田先生がそう言った。先生の話からうかがうに、夢泥棒の件からここ数日間、五時間目で授業は終わり、部活も全て活動停止になっているそうだ。やはり、夢泥棒事件はこの奇妙な世界の中でも恐れられているようだ。
帰りはそれぞれ予定もないので、マキヲと委員長と一緒に帰ることになった。
普段は、マキヲは野球部の練習に欠かさず出るし、委員長は委員会やら勉強やらで忙しくて、三人で帰ることはなかなかない。いつもどちらかと二人で帰るか、一人で自転車に乗って帰るかの二択なのである。だが、今日は違う。
「三人で帰んのって、珍しいな」
俺の言葉に、委員長が笑った。
「お前が昨日倒れてたからな」
「いや、そんな意味じゃないって」
無駄に大きな家が並ぶ住宅地を、道一杯に広がって歩いた。俺とマキヲは自転車を押して、学校から家が近い委員長は身軽そうに歩いている。
「でもさ、受験始まったら毎日こうなんだろ?」
マキヲが言った。その額には、小さな汗の滴が浮かんでいる。
「なんで?」
「だって、俺引退するし、委員長も委員長じゃなくなるし」
しばらく、三人は口をつぐんでいた。
「受験だるいな」
「でもお前、スポーツ推薦じゃん」
マキヲの言葉に、委員長がそう返した。
「お前だって指定校だろ」
「うん」
「変わんねえだろ」
この町の人間は、みんな地元から出ようとする。別にここが嫌いなわけじゃない。ただ、地縁とか血縁とか、そんな面倒なものと距離が置きたくて、漠然と外に出る機会をうかがっているのだ。だから、進学を目指すほとんどの生徒が早いうちに受験を終わらせて、この場所から脱出するための権利を得ようとする。二人もそうなのだ。だが、俺は違う。
「陽介は? やっぱ一般なの?」
委員長が尋ねてきた。
「うん」
「なんで?」
「なんとなく」
そう、なんとなく決めた。この十七年間、ずっとなんとなく生きてきた。だから、誇れるものも推薦してもらえるような要素も俺にはない。すると消去法で、なんとなく一般受験することになる。大学だって、なんでいくのかわからない。だけど、なんとなくこの町から出たい。その思いだけは決まっていた。
「あーあ、受験嫌だな」
マキヲが大きな声で言った。
「みんな嫌だよ」
委員長が返す。
気づけば、例の土手沿いの道に辿り着いていた。
「ここで叫んだら、青春っぽいな」
マキヲが言った。
「なんて?」
「『受験したくねーよ』みたいな」
俺の問いに、マキヲは楽しげに答える。
「なんか古臭いな」
委員長が言った。
「な」
俺もそれに同意である。
橙色に染まった視界の隅では川が流れ、小さな音が耳に届く。誰かと歩調を合わせる感覚。次は何について話そうかと考える脳内。やっぱり、ここに来ると山田くんを思い出してしまう。彼が消えてしまったことを世間が軽視しても、どうしても彼が消えたことを忘れられない。彼を蔑ろにしようとするたびに、脳裏から昨日見たドラゴンの瞳が鮮明に蘇ってくる。
「山田くん、今頃何してんだろ」
「空飛んでんだろうな」
俺の言葉に、委員長がぶっきらぼうな声で返した。
「お前本当に山田くんのこと好きだな」
「いや、誰だってクラスのやつドラゴンになったら心配すんだろ」
「子どもかよ」
委員長は嘲笑的な表情とともにそう言った。
「じゃあ、お別れ会しようぜ」
それまで黙っていたマキヲが、突然そう提案した。
「は?」
俺と委員長の声が同時に出た。
「受験始める前に、胸に詰まったもん晴らそうぜ」
「だからそういうの古臭いんだって」
「だよな」
馴染みのあるやりとりに、それぞれが笑った。果たして主役が去ってしまった後のお別れ会はお別れ会と呼ぶのか、そしてそれは本当に実現するのかはわからなかったが、俺はマキヲの言葉に胸が軽くなった気がした。それまでみんなに目を向けてもれなかった山田くんと、俺の思いがやっとまともに受け止めてもらえたように思えたのだ。
「お別れ会、しよう」
「おう」
いつも否定しては人を嘲笑う委員長も、今度はそう答えてくれた。
与えられたものを受け入れなきゃならない。それがこの世界の不文律であることは十七年の人生でしっかりと学んだ。だけど、人に押し付けられたものをバカ真面目に抱え込むのもよくない。たまには、細やかな犯行をしたっていいじゃないか。
三人で歩きながら見る夕暮れの河川敷は、昨日よりも鮮やかな橙色に染め上げられ、川の流れはより激しく、まるで大きな生き物がそこに息づいているように見えた。
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山田くんお別れ会計画は意外にも順調に進んだ。開催日は次の土曜日で、場所は本屋の隣のカラオケ店。内容は集まるメンバーによりけり。そして計画が立案された二日後であり、お別れ会前日に当たる今日は、出席者集めの段階に突入していた。
お別れ会に招待するのは主に三年B組の面々である。なお、餞は盛大であった方がいいという考えから、自由参加型で山田くんと接点のある人間であれば、招待を受けてなくても参加可能な形式である。我ながら見事な配慮である。
実際にクラスメイトに計画のことを伝えてみると、そのリアクションはさまざまであった。受験や夢泥棒を理由に難色を示す者、明らかに社交辞令で興味を示す者、本当に興味を持って話を聞いてくれる者。意見が分かれてしまうのはごく当然のことである。あまり興味を持ってくれる人が多くなかったのが残念だったが、本当に来てくれそうな人間がいるという事実に安堵した気持ちの方が大きかった。
昼頃にはクラス中に話が通っており、俺たちは他クラスの人間にも声をかけることにした。
「陽介、お前C組行けよ」
マキヲが薄っすらと髭の生えた口元を緩めながら言った。
「なんで?」
「三谷さん、喜ぶと思うよ」
「は?」
どうやらこの世界では、俺と三谷文乃を冷やかすのが流行っているようだ。俺の記憶の中では誰も俺と彼女が幼馴染だということすら知らないはずなのに、おかしな話だ。まあ、毎日一緒に登校しているため、冷やかされる風潮は不自然ではないのかもしれない。
三谷文乃と記憶上では数年ぶりに喋ってから三日が経ち、いくらか自分の中でぎこちなさが抜けたように思う。だが、やはり俺にとっての彼女は、思春期の到来を境にそのキツい性格に磨きがかかり、価値観が合わなくなってしまったイメージなのである。たとえ今の彼女が幼い時のような距離感で接してきているとはいえど、なんだか心を開く気にはなれない。だが、まあ彼女も一年生の時に山田くんと同じクラスであったため、一応誘ってみることにした。
昼食を終えた昼休みの空き時間に、俺は委員長らとともに教室を出た。だが、それぞれ行く先は違う。委員長はA組に向かい、マキヲはD組に向かう。そして、俺はC組に足を進めるわけだ。C組は我らがB組の隣にありそうだが、意外にも遠い。なぜなら二つのクラスの間には視聴覚室と階段、そしてトイレが挟まれているからだ。
それらを通過しながら、俺は自分の足が次第に重くなっていくのを感じた。やはり、毎朝話すようになったとは言え、少し三谷文乃が怖いのは事実である。それに提案する内容も内容なので、馬鹿にされそうだ。だが、計画はそもそも俺の山田くんに対する思いから生まれたので、与えられたタスクに首を横に振るわけにもいかない。だから俺は、新雪の上を歩くようにゆっくりと、だが着実に一歩一歩足を進めた。
そしてついに、C組に辿り着いた。
「なあ、三谷いる?」
適当なC組の知り合いを捕まえて、そう尋ねた。
「おう」
俺の問いに、相手は口角を上げた。
「三谷さん、奥村が呼んでんだけど」
やつはわざわざ、教室中に聞こえる声でそう言った。教室に種々交々な声が湧き、それを切り分けるようにして三谷文乃がこちらに向かってきた。
「何?」
いつにもなく不機嫌そうな顔と声で、彼女は尋ねてきた。その顔は逆光で見えづらいが、微かに赤くなっているように見える。
「いや、ごめん」
「別にいいけど」
「ごめん」
やはり、彼女を目の前にすると何を話せばいいのかわからなくなってしまう。
「だから大丈夫だって。それで、なんの話?」
「あのさ、山田くんのお別れ会するんだけどさ、来ない?」
雰囲気としては、断られるのがオチである。あが、わざわざここまで来たからには話を済まさなければならないのだ。
「いいよ」
「え?」
「行くよ」
予想外の展開に、つい俺は笑顔になってしまった。
「本当に?」
「陽介いるんでしょ?」
「うん」
そんな会話をしていると、暇に耐えられなくなった三谷文乃の友人が話に入ってきた。
「え、デートの話?」
「違うって」
友人の問いに、三谷文乃はすかさず否定を入れる。
「じゃあ何? 行くとか行かないって」
「山田くんのお別れ会やるんだって」
「え、いいじゃん。みんなでやろうよ」
そんなこんなで話は広がり、三谷文乃を皮切りにC組の中でも計画の存在が知れ渡っていった。
世界は、なんだか好転していっている。そんな気がして、B組への帰り道は足が軽かった。ついでに頬も軽くなって、自然と笑みが溢れてしまうようだった。
そんな最中、事件が起きた。
「おい、奥村」
背後から、半ば怒鳴るような大きな声で話しかけられた。こんな品のない声の持ち主は学校に一人しかいない。体育教師の根本である。根本は去年度にやってきた教師で、いつもジャージを来ており、授業中には野球部だけの内輪ネタを持ち込んでしまうようなステレオタイプな体育教師である。一年前、体育祭前の朝練にてティアドロップのサングラスをかけて登場したことによって、出会って間もない生徒たちに衝撃を与えた。そんな男である。
ゆっくりと振り返ると、やはりそこには根本がいた。そして隣には、今年から来た国語の吉成先生が立っている。珍しい組み合わせである。
「なんですか?」
俺は震えないように必死で声のトーンを抑えて尋ねた。
「お前今何やってる?」
「教室戻ってるんですよ」
「いや、そうじゃなくてさあ。なんかお前ら三人でなんかしてんじゃん」
体育会系特有の抑揚とともに、その言葉は発せられた。
「山田くんのお別れ会しようとしてるんですよ」
「え?」
根本は細い眉毛をしかめた。
「いや、だから、山田くんのお別れ会するんです」
「そういうのやめろよ」
「え?」
今度は俺が太い眉毛をしかめる。
「あのさあ、受験がきついのもわかるけどさ、山田のこと理由にして遊ぶのやめろって」
「別に遊びたいわけじゃないですよ」
「でもみんなでカラオケ行くんだろ?」
「それは会場がないからであって」
「自分たちで遊ぶ分にはいいよ、自己責任だから」
「だから違うって言ってるじゃないですか。俺はただ、山田くんとしっかりお別れしたいんです。突然ドラゴンになっちゃって、だから空に送って、それで終わりなんておかしいじゃないですか。そんなの、あまりにも山田くんが可哀想じゃないですか」
つい声が大きくなり、廊下にいる人々の注目がこちらに注がれているのがわかった。
「可哀想なんてお前の主観だろ。そもそもなんでドラゴンになるのが悪いみたいに思ってんだよ。よっぽど蛹になるよかいいだろ。あのなあ、可哀想って言うことで、そいつが可哀想になっちゃうんだよ」
「なんで怒られてるのわかんないんですけど」
根本は呆れるように一瞬笑った。
「いや、怒ってないから。ただな、山田のこと勝手に被害者扱いして、それ理由に集まんのはよくないって話なんだわ」
「友達のこと思って何が悪いんですか?」
「だからさ、本当にそれ山田のこと考えてんの?」
埒があかない。そりゃあ、誰とも自然に会話ができないこの世界で、普段から話が通じないと思っていた人間と対話ができるはずもなかった。
「考えてますよ」
相手の反応も見ずに、俺は踵を返した。一瞬だけそれまで存在感がなかった吉成先生の顔が視界に入ったが、いつものように置物のようは毒にも薬にもならないような、よくわからない表情を浮かべていた。
廊下やC組、そしてB組の人間でさえこちらを見ている。恥ずかしい。前に進むごとに顔が熱くなっていく。最低最悪の気分だ。結局、教室の帰り道は往路同様に憂鬱なものになってしまった。
❇︎❇︎❇︎
明くる日の朝、つまりお別れ会当日の朝、三谷文乃が家までやってきた。午後三時にカラオケの隣の飯田書店の駐車場に集合なはずなのに、随分と早い出迎えである。
「どしたの?」
朝の十時、寝癖も治さないまま俺は玄関で応対した。
「あのさ、昨日行くって返事しちゃったでしょ?」
「うん」
なんだか悪い予感がした。それを晴らすためなのかわからないが、俺はしたくもないアクビをする。
「ママに話したらさ、夢泥棒事件もあるし行くなって」
「ああ、そっか」
「あと、他のCの人たちも結構そんな感じらしい」
「そっか」
三谷文乃が来ないのはその表情や状況から察することができていた。だが、流石にC組の人間の多くが同様に来ないとなると、動揺せざるを得なかった。
「ごめん」
「いや、全然大丈夫」
俺は笑みを浮かべて、落ち込む彼女を励ますという性に合わないことをしてみせた。それくらい彼女は申し訳なさそうな表情をしており、それくらい俺自身は悪くなる現実を受け入れられずにいたのかもしれない。
十二時半には朝食も兼ねた昼食をとって、二時半に家を出た。上はTシャツ一枚で家を出たものの、この時期の自転車で打たれる風は、まだ冬の鋭さを少し残しているようだった。
二時四十二分、飯田書店の駐車場に到着した。だだっ広い駐車場には休日だというのに車がほとんどいない。隅に設置された駐輪場には俺のものを含めて自転車が三台しかない。それも高校生が乗らないようなママチャリがほとんどだ。辺りを見回してみても、高校生らしき人間は見当たらない。どうやら、俺が一番乗りなようだ。
二時五十七分、委員長がやってきた。
「他の人は?」
十数分前の俺のように駐車場を見渡しながら、彼は尋ねてきた。
「まだ来てない」
「本当に言ってる?」
三時三分、マキヲが額に汗を浮かべながら登場した。
「あれ? 他の人は?」
彼も不思議そうな顔をしながら、そう聞いてきた。
「まだ来てない」
「まだ来てないも何も集合時間過ぎてんぞ」
「今来たやつが何言ってんだよ」
笑うマキヲに、委員長の冷たい声が言った。
三時十五分、あまりにも暇なので飯田書店に漫画を買いに行った。
「三十分になっても来なかったらさ、もう始めようぜ」
委員長のその言葉で、諦めるムードが駐輪場に蔓延するようだった。
適当にあしらってきた相手が来ないのは首肯できる。だが、明らかに乗り気な態度を見せていた人々に音沙汰がないのは、どうにも納得できない。果たして三谷文乃が言うように、夢泥棒が理由なのだろうか。そうなのであれば、夢泥棒は許せない存在である。きっと、理由はそれだけではない。今から受験勉強に勤しむ生徒だっているし、当日になって面倒になってしまう人もいるだろう。何より、昨日の根本の言葉に影響された人間が多いのではないだろうか。たしかにあそこまで言われたら、行こうという思いも萎えてしまうのも仕方がない。そうなれば、恨むべくは根本である。
なぜお別れ会をしてはいけないのか、怒られてから丸一日が経過しても理解することはできなかった。やつとしては俺たちが遊ぼうとしているようにしか見えないのかもしれないが、そんなのは色眼鏡以外の何でもない。大人とは、そういう生き物である。子どもの純粋な行為でさえ自身の汚れた価値観の中に収めて判断を下し、それが推測の域を越えないのに無理やり制裁を下そうとする。あまりにも自分勝手な生き物だ。
三時三十二分、ついに誰も現れず、三人で飯田書店の隣に位置するカラオケ店に向かった。八百円のフリータイムで部屋に入って、とりあえず長いソファに座った。それぞれの顔は、決して晴れやかとはいかない。
最初の三十分間、それぞれが山田くんとの思い出について話し、消えてしまった友人を思った。普段一緒にいたわけでなくてもそれなりに思い出はあるもので、それぞれがしっかりと彼について語った。そして、俺は一緒に帰ったあの日のことを話した。
その後、思いつきで始まった会は行き着く先も定まらないまま突き進み、マキヲが歌い始めた。最初はお別れ会っぽい歌が多かったものの、次第に何の関係もない歌が始まった。俺はタンバリンを持った。だが、どうしても歌う気にはなれなかった。
俺はいったい、今何をしているんだろう。そんな思いが、トイレを済ませて手を洗っている間に浮かんだ。お前は今、何をしているんだ。鏡に映った自分に、そう問いかける。しばらく汚い鏡を眺めていた。各部屋から聞こえる雑多な歌声も耳に入らず、まるで別世界に引きずり込まれた気分だった。だが、答えが返ってくることはなかった。
六時になって、カラオケ店を出た。下校と同様に委員長は徒歩で来たのでマキヲと俺は自転車を押して歩く。
「あ、てかあれ歌いそびれた」
「なんだよあれって」
二人の気持ちはいつの間にか、山田くんではなくカラオケに向いていた。
「陽介、なんでお前歌わなかったの?」
「腹でも痛いんだろ」
委員長の問いにマキヲが答えて、二人は笑った。
「本当にどうした?」
委員長はそう言って、俺の顔を見た。
「今日ってさ、山田くんのお別れ会じゃなかったっけ?」
「そうだよ」
俺の問いに、委員長が返す。
「じゃあなんでそんな楽しそうにできんだよ」
「お別れ会がしんみりしなきゃいけないなんて決まりないだろ」
「でも、悲しくないのかよ」
マキヲの言葉に、俺は彼を睨んだ。
「なんで悲しくなるんだよ。山田くんが死んだわけでもないのに。さっきから思ってたけどさ、お前ノリ悪いぞ」
「は? ノリとか今関係ないだろ。てか、誰かがドラゴンになってどっか飛んで行っちゃったんだぞ、悲しくないわけないだろ。家族が同じ目にあっても同じこと言えんのかよ」
「言えるに決まってんだろ」
マキヲの表情は至って真面目であった。
「意味わかんねえ、お前おかしいよ」
「おかしいのはお前だよ。やっぱ頭打っておかしくなったんだって」
「何言ってんだよ、俺おかしくないよな?」
味方が欲しくて俺は委員長を見た。だが、委員長は何も答えてはくれなかった。
「もういいよ」
俺は自転車のハンドルとサドルを掴んで向きを百八十度変えた。
「逃げんなって」
「別に逃げてねえよ」
自転車に乗って、ひたすらペダルを漕いだ。おかしい。おかしい。おかしい。こんなのおかしいじゃないか。人が突然消えても悲しまないなんておかしい。それが常識なら尚更おかしい。そんなの狂っている。結局、俺の気持ちを汲んでくれていると思っていた二人は、根本の言う通り山田くんを利用していたのだ。じゃあ昨日のあの瞬間、常識的には根本の主張が正しかったということになるのだろうか。そんなのおかしい。いなくなった人間を悔やむ人間の気持ちが、尊重されないなんて異様だ。そうだ、この世界は異様なんだ。
悪い夢なら覚めてほしい。日を増すごとに現実味を帯びるこの世界が、恐怖でしかない。早く目覚めろ、自分。体をつねって、つねって、つねっても、どうしても起きることができない。早くなくなれ、この変な世界よ。
目的地もなく自転車を走らせていると、あの河川敷の見える土手に辿り着いてしまった。生温い風が肌を伝い、河川敷からは野球少年の声が聞こえる。そんな能天気な世の中にうんざりだ。何もかもやる気が失せてしまい、俺は自転車を止めた。そして、青みを取り戻し始めた草の上に座り込んだ。
ここ数日間、いつも気がつくとここに来て、草の微かに青い香りに鼻をくすぐられながら馬鹿馬鹿しいまでに広い空を見上げている。この大きな空のどこかに山田くんはいるのだろうか。乱雑に散りばめられた千切れ雲に、地平線の上空だけ橙色に染まった、まだ青みの残る空。そんな無秩序な世界を、彼は今飛び回っているのだろうか。
「そんなところで浮かない顔してると、蛹にされちゃうよ」
聞き覚えのある、甘ったるい男の声が言った。
それは今年から学校にやってきた、国語科の吉成先生であった。あの根本との口論の際に、隣で完全な傍観者と化していたあの吉成先生である。
吉成先生はその甘ったれたような雰囲気や、新任であるという情報から一見、若い教師のように見える。だが、その顔をよく見ると目尻や口元に小皺が刻まれているのがわかる。つまり、年齢不詳というやつだ。
「あれえ、他の人たちは?」
「え?」
先生は今日も学校に行っていたらしく、ビジネスカジュアルな装いに身を包んでいる。
「山田くんのお別れ会するって言ってなかった?」
春の日差しに溶け始めた雪のようなタレ目で、先生は俺を見た。
「そんなの本当にするわけないじゃないですか。子どもじゃないんだし」
「ふうん、そうなのかあ」
先生はそう言いながら、俺の隣にゆっくりと座った。
よく喋ったこともない年齢不詳の教師と土手で二人、黙って座っている。その光景もまた、この世界のように異様だ。
「別に子どもっぽくないと思うけどなあ」
先生は河川敷を見つめながら、独り言を話すように言った。
「でも、みんなそう思ってますよ」
俺の言葉に、先生はほうれい線を作って笑った。
「根本先生とか?」
「そうです」
また先生は、ゆっくりと川の方を見つめた。
「たしかに、先生に怒られたり、同級生に馬鹿にされたりしたら悔しいよな。僕もムカつくと思う。高校生の時だったら殴りかかってるかも」
おっとりとした声で物騒なことを言って先生はまた顔に皺を増やして笑い、こちらを見た。
「でもさあ、だからって自分の気持ちを曲げる必要はないんじゃないかな。だって、奥村くんには奥村くんなりの考えがあったわけでしょ?」
「別に考えってほどじゃないですよ」
「うん、そうかあ」
俺の言葉に、先生は頷いた。
「ただ、なんか突然、記憶喪失というか、なんというか、認識の違いみたいなのになっちゃったんです」
「というと?」
先生の追求に、動揺からか一瞬頭が回転するのをやめてしまった。
「その、だから突然、知らない世界に来ちゃったみたいなんです」
「なるほど、じゅあこの土地のことも忘れちゃったの?」
俺が先日頭を打ったからなのか、先生の頭も既に壊れてしまっているのかはわからないが、意外にも先生は俺の奇妙な話を受け入れてくれた。
「違うんです。土地とか人とか、名前とかは全部知ってるんです。だけど、価値観とかがちょっと違って、たまに浮いちゃうみたいな」
「なるほど、随分変な話だね」
先生は自分の顎を触りながら、また河川敷に目を移した。
「人間ってさあ、意外と簡単にないものをあるように思えちゃうんだよ。たとえばほら、盲班ってさ、勝手に見えてないのに見えてるって思わせちゃってるわけだよね。盲班って習った?」
「はい、一応」
「だから記憶もさあ、そういうことあるんじゃない?」
「そういうこと?」
「うん、奥村くんが何か意識してできた世界があって、それが過去の記憶とすげ替えられちゃったとか、混同されちゃったとか。だって目に見えてるものだって勝手に補完されちゃってるわけだよ。ましてや記憶なんて、その人の中での認識に過ぎないんだ」
先生は自分で喋りながらも、時々困ったような顔をした。まあ、元々困り顔なのだが。
「じゃあ、その勘違い的なのって、どうすればいいんですかね」
「そうだなあ」
先生の垂れた眉は、今にもぼとりと草の上に落ちてしまいそうなほどに、余計に垂れ下がってしまった。
「とりあえず、今生きてる現実の自分も、記憶にいる非現実の自分もどっちも自分自身なんだから、受け入れてあげなきゃね。自分のことは、うんと甘やかさなきゃね」
「もし、そのせいで周りと価値観がズレたら?」
吉成先生はこちらに視線を移した。
「価値観がズレるのはそれだけのせいじゃないよ。みんな多かれ少なかれズレてて、でもそれをバレないようにしてるだけなんだよ。遊びに行ってお腹痛くなった時みたいに」
「お腹痛いって場合は、わざわざ言う人もいますよね」
「たしかに。でも、わざわざ自分が少数派だって主張する人もいるよね。AB型だって聞いてもないのに自慢げに言う人いるでしょ?」
「ちょっとわかんないです」
先生は、今度は空を見上げた。
「まあとにかく、人生って色々我慢しなくちゃいけなくて結構生きづらいもんなんだよ。でも、生きづらい世の中で隙間を縫いながら、どうにか自分の居場所を確保するってのも人生なんだな。それで、その動き方を勉強するのが、君ら学生の本分なんだと思うよ」
空は、すっかり橙色に染まってしまっていた。
「それじゃあ、お邪魔しました」
先生はその言葉を残して土手から去った。その後もしばらく、先生に踏まれて潰れたりひしゃげてしまった雑草たちを見つめていた。雑草はその身を地面に倒しながらも、根は土の中にしっかりと構えている。さっきよりも青いにおいが、鼻につくような気がした。
河川敷の野球少年たちが撤退する声に煽られて、俺は立ち上がり、自転車に跨った。
落ちかけの太陽、乗り慣れた自転車、それと眼下の河川敷。きっと映画やドラマのシーンであれば、ここに青春というジャンル名をつけるだろう。そう、俺は青春真っ只中の十七歳のはずなんだ。別に大きな問題を抱えて生きてきたわけでもないし、今後も今の運が続けば平凡な日々が続く。今は少し辛くても、中年になる頃にはもっと多くの障害物に邪魔されて、今のことなんて忘れてしまうだろう。なんなら、この頃を懐かしみながら酒を飲むんだ。そうに違いない。そう、きっとそうなんだ。
幼い頃には、押し入れの奥には別世界が広がっていると思っていた。あの頃は、世界が単純でいてちっぽけで、そして大きな世界が他にあると信じていた。でも今は、そんな大きくて複雑な世界が嫌になる。押し入れの奥に夢を抱いていた、単純な世界が羨ましくなる。
きっと今の思いだって、そのうち忘れられる。山田くんだって、きっと次第に記憶の隅の方へと行ってしまって、きっかけがなければ思い出さなくなってしまうだろう。
わかってる。わかってるはずなのに、どうしても胸の奥で何かが蠢く感覚に襲われてしまう。わかっているはずなのに、どうにも彼を悲しみとともに思い出してしまう。そう、わかっているはずなのに。
「みんなのバーカ!」
俺は叫んだ。そして、逆風によってシャツを帆のように張らされながらも全速力で自転車を漕いだ。
山田くんへ。君は今、どんな空を飛んでいるの?