死霊の花唄
死んだ時、最初に気づいたのは声が出なくなっている事だった。どれだけ喉を震わそうとしても自らの筋はもう衰弱し切ったかの様に脱力し、辺りに音が響く事はなかった。ただ、只自らがそこに存在しているのだという曖昧な感覚のみが残って、自分の存在に気づける誰かなど現れるはずも無かった。 そんなはずは無かった。君が僕を見つけるまでは。
「どういう事なんだろうね」
制服を着た、高校生ぐらいであろう君はそう言って勿体ぶった足取りで街を歩き、ふとこちらを見返す。その目の色の青さに、僕は暫しの間沈黙する。
「霊、って事なのかな?」
君のその問いかけに、僕は街行く人を視界の端で眺めながら、何故か震えない声帯で短く答える。
「ああ」
そうとしか考えられない。僕が自殺しようと、マンションの8階から飛び降りた所までは覚えている。落ちていく途中で急に強く打たれる様に意識は失神し、その後は自らの死体を見下ろす、得体の知れない「僕」が確かにそこに存在していた。そして彼女は、その現場を不覚にも見てしまい、そして、「僕」に気づいた。
「こんなこと言うのもなんだけどさ」
彼女は冷たい空気の流れる、暗い路地裏で軽く座って言った。
「何で、死のうと思ったの?」
彼女は、人間が「親身になる」という言葉で自らを覆い隠し誤魔化す時の狂気じみた笑顔ではなく、それが大した意味も持たない何かの様に、まるで僕達がこれからするはずだった軽い世間話の様に、短く告げるのみだった。僕はその彼女の瞳に、小汚い安堵を感じた。
「僕は、ずっと音楽家になりたかったんだ。有名になることなんて望んじゃいない、ただ一人で暮らしているだけの金と、自分が納得できるだけの曲が作れればそれで良かったんだ」
僕は自分の体に溜まった炭を一気に吐き出す様に、そう呟く。
「嘘」
彼女は僕に指を差して言った。
「嘘は、ついちゃいけないと思うな」
彼女がそう乾き切った笑いを浮かべているのを見て、僕は心の内を投げ出す様な笑いを零した。
「ああ、君の言う通り嘘も方便なんだろうが」
僕はそう言って一息つき、
「何にもない。何かを手に入れようとする活力も、希望も、才能も。何もかも失くしちまった、いや、最初からそんなものありはしなかった。僕は生きたくなんて無かった。一人になりたかった。」
その言葉を聞いた君は表情を何一つ変えず、こう答えた。
「あなたの曲、聞かせてくれない?」
彼女は遊んでいた指先で地面に弧を描き、そう言った。
その時、僕の胸の中で腐っていたぐしゃりと潰れていた何かが、うねって止まなかった。
「大したものじゃないがな」
彼女はキーボードでポロン、と音を鳴らしてみせる。その響きに、僕は懐かしさとも不快さとも似つかぬ心のゆらめきを覚える。
散乱している床に、昼間だと言うのに灯りもつけない部屋で彼女は笑って言った。
「そう言えば、名前、まだ言ってないね」
「栗山唯。唯って呼んで」
彼女はかしこまった様にしてそう言った。
「僕は守山賢斗、霊でも守山でも賢斗でも、好きなように呼んでくれ」
「じゃあ霊」
「...了解」
僕は少し落胆している自分を誤魔化す様に、話を続ける。
「さて、どうしようか」
僕はキーボードを束の間眺めていた。
「これに触れることは...できないだろうな」
彼女はキーボードで指を遊ばせながら、
「なら、歌ってみせてよ」
と言った。
「...。まあいいか」
霊になっても、この世界での僕の歌声は変わっていないだろうか。そんな他愛も無いことを思って、僕は声を紡いでいた。
「...思わなかった?」
だから唯が、終わった後にそう言葉を零した時、何のことを言っているのか分からなかった。
「こんなこと何の意味も無いとは、思わなかった?」
唯はそう続ける。
「...思ったに、決まってるだろ。思わなかったらーー」
「死んじゃおうって思った時でも、本当にこれは意味があることだった?」
唯の目に涙が光っているのを見て、僕は声を失った。
「少し、外で話さないか?」
空は曇り、今にも雨が降り出しそうな天気だった。唯は傘を片手に掴んだまま、僕と共にそんな空を眺めていた。
「さっきはごめん、霊を傷つけたかったわけじゃない」
唯はそう切り出す。
「そういうの、どうでもよくないか」
不思議そうにしている唯を前にして、僕は話す。
「もうそういう、面倒臭い人間関係は、生きている人間とだけやってればいい。誰が傷ついたとか、少なくとも僕らの中では、無しにして話さないか」
言い終わった時、僕はまた過ちを犯したように思えた。死んでも尚、そのしがらみから逃れられていないのは、他ならぬ僕であるとも思ったからだ。だが、唯は小さく笑って、
「そうだね」
と答えた。
「さっき、唯はこう聞いたな?」
「音楽なんて、何の意味も無いんじゃ無いかって、人生には、何の意味も無いんじゃ無いかって」
「自殺したやつの言葉なんか話半分に聞いておけばいいさ。でも僕はこう思う。音楽にはーー」
その時、頭上を打ちつける雨と、辺りに響く音と共に、彼の姿は消え、私の音も消えた。最初に彼を見た時、可哀想だなと思った。そう思って、自尊心を何とか保とうとする自分がいるのは分かった上で、彼の声を聞いていた。
人生ってもっと、輝いていると思っていた。私は何でもできると思っていた。いつも足りないのは、私以外の何かだと思っていた。その傲慢さのツケを、今払っているのだと言うことは、身にしみて解らざるを得なかった。
目の前の、自分のところに上履きが入っていない、その空間を空っぽな目で眺めて、私は表に出ない溜息のその息を胸の内に留める。クラスの女子グループから、疎まれ始め、いじめられ始めたのが高二の春だというのだから、これが始まってから早数ヶ月経つことになる。当時新クラスで、気分が高揚していた私を、彼女らは「調子に乗っている」と判断したらしい。その先の学校生活は、私が今まで体験した中で最大の苦痛だった。
昨日、「霊」が口ずさんでいたメロディが、いつの間にか私の頭の中で鳴り続けている。その事だけが唯一の救いだった。
「なぁ栗山ぁ!お前さぁ、何調子にのっちゃってるわけ?お前なんか人間ですらねえ家畜未満なんだからさ、黙ってブヒブヒ言ってろよこの豚が!」
リーダー格の女子がそう私を罵っている事を、周りは止めるでもなく、彼女の取り巻きが笑う声が響いているだけだ。
「あ、そうだお前さ、本当に生きてるのか確かめるために、一度屋上から飛び降りてみたら?きっとお前の汚ったない中身が飛び散って、ぐちゃぐちゃになるんだろうな、あぁ汚な、同じ空気吸ってるだけで汚れるわ」
もう、頭の中には何も流れない。彼女の声だけが、自分を縛り付けて離さないままだ。
鐘が鳴る音がして、私は下衆な笑いが響く教室を後にして、屋上へと向かう。全てがもう狂ってしまった。誰の声も聞こえなくなってしまった。自らの存在価値を立証することすら、面倒くさくなった。
「だからもう、静かにして....」
そう呟いて、眼下の景色を眺めてみる。ここから飛び降りたらどうなるだろうか。あと3歩。あと2歩。あと1歩。あと........
その時、強い風が吹いて、私は思考を遮られた様で不快感を覚えた。もう少しで死ねたのに。彼のいる世界にいけたのに。
風が空気を切る音が、耳に触れる。そのリズムに、耳が心地よさを覚えてしまう。「彼」の歌が、聞こえてくる。
キーボードを連想する。私が好きな、彼の曲のBの音を思い浮かべる。その儚さに、一気に引き込まれた感覚を覚えている。
「あ....」
気づけば私は、涙している。ふとぼやける視界を擦り、私は歌い出す。
その初めはいつも、彼の音だ。