彼女が死にますように
なじみのない街を歩いている。
バイト先の店長から頼まれ、他店へヘルプに行った帰りだった。
正面から、小柄な人影が向かってくる。狭い歩道をすれ違うための間を空け、俺はわずかに歩調をゆるめた。
肩が触れるか触れないかというところで会釈を返してきた相手を、視界の端にとらえる。
あっ、と思ったときには体が動いていた。
振り返り、すれ違ったばかりの彼女に向かって声をかける。
「すみません」
歩みをとめた彼女は、半身をひねって俺の姿を確認すると、いぶかしげに眉を上げた。
「はい?」
細い肩の下で、つややかな黒髪が揺れる。
俺は息をするのも忘れ、彼女を凝視した。
これまで何度も、夢に見てきた。
十年間、繰り返し胸に描き続けた姿が、目の前にあった。
■ ■ ■
その人と出会った日、俺は朝から公園で逆上がりの練習をしていた。
小四ともなると、大半の奴が逆上がりをマスターしていて、まだ成功させていないのは俺と、クラスでも特に運動を苦手とする数人ばかりといった状態だった。それまで俺は、まあ運動のできるほうだった。徒競走のタイムは上位、球技では毎回活躍を見せ、幼稚園の頃からスイミングクラブに通っていたこともあり、泳ぎも得意だった。
唯一つまづいたのが、鉄棒だ。
足を振り上げ、勢いをつけて回る。同級生が簡単そうにこなす姿を見ては、奥歯を噛みしめていた。
今日中に絶対逆上がりをマスターしてやる。
決意を胸に、俺は何度も挑み続けた。
どうしても、思うように体が動かない。たいがいのことは頭の中でイメージすればできたが、鉄棒に関してはうまくいかない。初めて味わう苦戦に、俺は打ちのめされた。
振り上げた足は虚しく宙をかき、次の瞬間には地面を叩いている。ひどい場合は尻もちをつく。いくら練習を繰り返しても、視界が反転することはなかった。
逆上がりができない子どもの中でも、俺はわりと絶望的な部類だった。
昼過ぎには、手の平にできたマメが潰れた。
そろそろ練習なんかやめて、家に帰ろうか。逆上がりができなくたって、困ることはない。
痛みに、気力が失われていく。いい加減、お腹も空いてきた。
だけど、ここでやめれば今日一日練習した時間が無駄になる。
もう少しだ。なんとなくだが、コツをつかみかけているような予感がする。
そこからはほとんど意地だけで、俺は練習を続けた。
気が付くと、辺りは静けさに満ちていた。さっきまで遊具の周りいた人影も、いなくなっている。
陽は落ち、外灯が俺を照らしていた。
これはまずい。胸の辺りに、ひやりとしたものが走った。
夕飯までに家に帰っておかなければ、母からどんな説教をされるかわからない。最悪の場合、お小遣いの減額も考えられた。
仕方がない。今日のところはこれが最後の挑戦だ。俺は帰る前にもう一度、鉄棒を握った。
助走をつけるように、体を前後に揺らす。ここだと思うところで、強く踏み切った。
ほんの一瞬、体中の血が回転したような感覚がした。自分の身体がどう動き、どう停止したのか、理解が追いつかない。
「え?」
とにかく俺は、逆上がりを成功させていた。
「やったー!!」
拳を高く掲げ、飛び上がった。
そのとき、背後からパチパチと手を叩く音が聞こえてきた。
振り返った先に、見知らぬ女の人が立っていた。色白で線の細い、黒髪のきれいな人だ。
目が合うと、その人は拍手をやめ、言った。
「すごいね、君。ずっと練習してたよね」
女の人にしては低めの、落ち着いた声だった。
「あ、えっと……」
俺が反応に困っていると、その人は慌てた様子で両手を振った。
「驚かせてごめんね。実は結構前からここでずっと君が逆上がりの練習してるの、見てたんだ。だから成功させたのが嬉しくて、つい拍手なんかしちゃった」
「あ、そうなんですか」
俺はもそもそと言い、その人から視線をそらした。
ずっと見られていたとわかった途端、恥ずかしくなった。
尻もちをついたり、鉄棒から滑って落下する場面も、目撃されていたのか。
俺が気まずそうにしていると思ったのだろう。その人は切り替えるように両手を打つと、
「ねえ、喉乾いてない? 何か飲もうか? わたし買って来るね」
公園の隅を指差した。自動販売機が光を放っている。
「え、でも」
知らない人から物をもらってはいけないと言われているんです。
断ろうとする前に、その人は駆けだしていた。
すぐに缶とペットボトルを抱え、戻って来る。
「はい、君のはこれ。コーラでいいよね?」
強引に、水滴の浮かんだ缶を握らされた。
熱をもった手が冷やされた途端、強い渇きを意識した。
そういえば、しばらく何も飲んでいなかったと思い出す。
普通ならば、見知らぬ人に渡された飲み物を飲んだりなんかしない。
しかし朝から続けた練習の疲れと、逆上がりを成功させた高揚感が、判断をにぶらせた。
「いただきます」
俺はすぐさま缶に口をつけた。甘い刺激が喉を通っていく。コーラってこんなにおいしかったっけ?
夢中で缶を傾ける俺の横で、その人は、
「やっぱり男子小学生といえばコーラだよね」
とひとりごちた。
それから聞いてもいないのに、
「わたしはいつもこれなの。ミルクティー。大好きなんだ」
と言って、ペットボトルのキャップをひねった。
俺は早くも空になったコーラの缶を、ぎゅっと握りしめた。
落ち着いて考えてみると、今のこの状況が奇妙に感じられた。
俺はどうして知らない人から、逆上がりの成功を祝福されているのだろう。
どうしてコーラをおごられているのだろう。
ついごちそうになってしまったけど、変な毒とか入ってないよな?
顎をそらし、喉を鳴らしてミルクティーを飲むその人の横顔を、俺はちらりと盗み見た。
子どもを狙う犯罪者というふうには、とても見えない。
「あっ」
そこで気が付いて、俺は目を凝らした。
泣いていたのかな?
その人の頬には、涙を流したような筋が、うっすらと残されていた。
「ん? 何?」
ペットボトルから唇を離し、その人は俺のほうに顔を向けた。
目が合った瞬間、はっきりとわかった。
外灯の光を受けて、頬に残る涙の痕がきらりと光っていた。
「ううん、なんでもない」
「そう?」
小さく鼻を鳴らすと、その人は俺の傍から離れた。
「じゃあわたし、もう行くね。君も早く帰らなきゃだよね」
空になったらしいペットボトルを片手に、ごみ箱のほうへ歩いていく。
大人のくせに薄く頼りない背中。その人の後ろ姿を見た途端、胸がざわついた。
「あのさあ」と、呼びかける。
見知らぬ子どもの成功を見て、大喜びする明るさと、今にも夕闇に溶けて消えてしまいそうな、寂しさの漂う佇まい。
ちぐはぐで危うげなこの人と、このまま別れてはいけない気がした。
「お姉さん、死なないよね?」
自分でも、どうしてそんなこと確かめたのかわからなかった。
「死んだりなんかしないよね?」
少しの間をあけて、その人は振り返った。声を上げて笑う。
「うん、わたしは死なないよ」
■ ■ ■
「えーっと……」
呼び止めておいて、一向に言葉を発しない俺を不審に思ったのか、相手は後ずさりをはじめた。
「用がないならわたしはこれで」
十年前の出来事に、思いを馳せている場合ではない。
俺は我に返り、慌てて問いかけた。
「ミルクティーは好きですか?」
咄嗟に口にした言葉としては、まあまあ意味不明だ。
知らない男から突然こんなこと言われたら、間違いなく警戒するだろう。
ナンパだとしても下手すぎる。
「え?」
相手はきょとんとした顔になった。
「ミルクティーは好きですけど」
「やっぱりそうですか!」
思わず一歩踏み出してしまった俺に対し、彼女のほうは引かなかった。
あくまで希望的観測だけど、こちらの話を聞こうとしてくれているように感じられる。
俺は素早く頭を回転させ、呼び止めた言い訳を絞り出した。
「あ、ごめんなさい変な訊き方しました。俺、この辺よく知らなくて。ちょっとお店入りたいんですけど、どこかいいところないかなーって、教えてほしくて」
「あなた、喉が乾いてるの?」
「へ? あ、はい、そうですそうです」
「ふうん……」
彼女はそこで、考える顔になった。ちょっと早いけど、まあいいかとつぶやく。
何が早いのだろう。疑問を挟む隙もなく、彼女は言った。
「わかった。じゃあついて来て」
踵を返すと、有無を言わせぬ調子で歩きだす。
「はい」
何か大きなものが動き出すような予感を抱きながら、俺は彼女の後を追った。
連れて行かれたのは、表通りから一本外れた場所にある、小さな店舗の前だった。
まだ営業時間前なのだろう。シャッターが下りている。
彼女は鞄から鍵の束を取り出すと、シャッターを開け、俺を中に通した。
「ここ、わたしの職場。まだ営業前だけど、飲み物くらいなら出してあげるから」
言われるままに、俺はカウンターについた。
奥に姿を消した彼女を待つ間、店内を見渡した。カウンターの他には、テーブル席が三つ。その奥の壁には、ダーツボードが並んでいる。
しばらくすると、彼女が現れた。髪をまとめ、スタッフ用らしき黒色のエプロンをつけている。
「お待たせ。何飲む?」
「あ、それじゃあ……」
カウンターの周りを探したけれど、メニューが見当たらない。
そこで一つ思いついて、訊ねた。
「男子小学生じゃないけど、コーラをお願いします」
「何それ」
彼女はふっと笑みをこぼすと、奥の冷蔵庫に向かった。
「てっきりミルクティーが飲みたいのかと思った」
「いえ、コーラでお願いします」
「好きなんだ? コーラ」
「はい」
「男子小学生はコーラ飲んでるイメージあるよね」
「そうなんですか」
「え? イメージない?」
「あ、まあ、そうですね」
「はい、お待たせ」
グラスに入ったコーラが置かれる。
「ありがとうございます」
半分ほど飲んでから、俺は尋ねた。
「ここ、ダーツバーなんですか?」
「うん、そうだよ。あ、ダーツする?」
「いえ、やったことなくて」
「そうなんだ? わたしもあんまりやらないなあ」
「え? スタッフなのに?」
「スタッフだからだよ。わたしはダーツで遊ぶためにここにいるんじゃないもの。わたしの仕事はお客さんに飲み物を作ること」
「ああ、そうですよね」
俺と彼女は少しの間、とりとめのない話をした。
営業時間を過ぎても、客はおろか他のスタッフもやって来ない。大丈夫なんだろうか、この店。
「忙しくなるのはもっと遅い時間なの」
俺の疑問を先回りして、彼女は言った。
「あの、お名前訊いてもいいですか?」
「アメリア」
「え? 外国人?」
「うん。オーナーが昔、アメリカ旅行したときに出会った人の名前なんだって。彼女との思い出を忘れないために、店名にしたとかなんとか」
「あ、いえ、お店の名前じゃなくて」
俺はそこで、まっすぐ彼女を見つめた。
「あ、わたし?」
彼女は気づいて、ちょっと声を高くした。
「柘植鮎子」
「つげ、あゆこ……」
「魚の鮎ね。古臭い名前でしょ? でも自分では気に入ってるんだ」
彼女の黒く澄んだ瞳に、照明がちらちらと映り込んでいた。川底を泳ぐ鮎の背の、美しく光る様を連想する。
なるほど。鮎子と言う名前は彼女にぴったりな気がした。
「あなたは?」
「多田長寿といいます。多くの田んぼに、長寿と書いてながとしです」
「長寿くん」
「はい。なんていうか、名前にこめられた親の願いがストレートすぎてちょっと恥ずかしいんですけど」
反面、名前で得をすることも多かった。初対面で覚えてもらいやすいし、縁起がいいと、お年寄りは俺の名前をありがたがってくれる。
子どもの頃は同級生にからかわれもしたが、今となってはいい思い出だ。などと考えながら、俺はグラスに手を伸ばした。
一口飲んで目線を上げると、鮎子さんはなぜか暗い顔をしていた。
「長寿、か……。皮肉だな。長く生きたって、ちっともいいことなんかないのにね」
俺の名前が、彼女の中のネガティブな記憶を呼び起こさせたのだろうか。
不安になって、声をかけた。
「あの、鮎子さん?」
「何?」
と訊き返してきた鮎子さんは、ぴりりと冷たい空気を放っている。
「えっと……」
咄嗟に言うことが思いつかず、俺は残りをコーラを飲み干した。
「おかわりください」
鮎子さんは無言で俺を一瞥すると、背中を向けた。すぐに新しいグラスを用意してくれる。
「ねえ、いつもさっきみたいにナンパしてるの?」
「ナンパ?」
「そう。女の子に声かけるとき、ミルクティー好きですか? って毎回訊いてるの?」
「え、あ、まさか。そんなことしませんよ」
「そっか、良かった」
「え?」
「もし毎回あんなことしてるのなら、教えてあげなきゃと思って。長寿くん、ナンパ下手だよ」
「いえ、ナンパじゃありません! ていうか俺、ナンパなんて今までしたことありませんよ!」
「そうなの? じゃあわたしに声をかけたのはどうして?」
「それは、だから……」
俺は改めて、鮎子さんを見つめた。
(やっぱりあの人にそっくりだ……)
もしかして本人なんじゃないかと疑うくらい、鮎子さんは公園で会った女性と同じ顔立ちをしていた。顔だけじゃない、声や喋り方、表情の作り方や背格好まで、記憶の中の彼女のままだ。
だけど、ありえない。
十年が経っているのだ。公園で会った彼女は、もう三十を超えているかもしれない。しかし目の前の鮎子さんは俺と同年代、二十歳前後くらいに見える。
「鮎子さん、お姉さんはいますか?」
「いないよ」
「じゃあ身内に三十歳前後の女性はいますか?」
「いないよ。ねえ、それより質問に答えて。わたしに声をかけたのはどうして?」
十年前に出会った女性に、とてもよく似ていたから。
そう答えたら、鮎子さんはどう反応をするだろうか。
気になったけれど、口には出さないでおいた。
打ち解けられたと思ったのは俺の勘違いか、ここへきて鮎子さんの態度は刺々しくなった。
「え、言ったじゃないですか。喉が渇いていたのでお店を探していて……」
「そんなの自分ですぐ調べられるじゃない」
「調べても出て来ないようなお店が良かったんです。ここ気に入ったんで、ちょくちょく来てもいいですか?」
「ダーツやらないのに?」
「実はちょうど興味があって、ダーツやってみたいなって思ってたところだったんです」
「へえ……」
鮎子さんは疑うように俺を横目で見ると、
「別にいいけど。わたし今月でここ辞めるし」
と言った。
「え? じゃあもう会えないんですか?」
俺は立ち上がり、カウンターから身を乗り出した。
「何その反応。やっぱりわたし目当てでお店通う気だったんじゃないの? ダーツに興味あるなんて嘘なんだ?」
「嘘じゃないです」
俺はむきになって言い返した。
内心、妙な流れになってきたぞと慌てていたが、表情には出さないよう気をつけた。
鮎子さんと言い争いがしたいんじゃない。
ならば俺は、彼女に何を求めているのか。
「そうやって素直になれない人って、結局後悔するんだよね」
ため息をつくと、鮎子さんはつぶやいた。
「ああ、もう……」
俺は頭を掻いた。
「わかった認めますよ。さっき道ですれ違ったときに鮎子さんのことが気になって、呼び止めました」
「わたしとお茶したかったんだ?」
「そうですよ」
「これからもわたしに会いたい?」
「はい。会ってくれますか?」
「いいけど、忙しいから時間とれるかなあ」
「会ってくれるなら、俺はいくらでも都合つけます」
「いいの? 次にいつ会えるかなんて、予定わからないよ? 待てるの?」
「待てますよ。来週でも来月でも、十年でも二十年でも」
「へえ、たったそれだけしか待てないんだ?」
鮎子さんはそこで、店の奥へと視線を投げた。
「ねえ、本当にダーツ初心者なんだよね?」
「はい、そうですけど」
「じゃあこうしよう? 今夜中にブルを狙えたら、来週また会ってあげる」
「ブル?」
「ど真ん中のことだよ」
壁際に設置されたダーツの筺体を、鮎子さんは指で示した。一見、ゲーム機か何かのようにも見えるけれど、派手派手しさはなく、シックなデザインをしている。
点灯している円形が、ダーツボードだ。その中心に、目が吸い寄せられる。
あんな小さな円、初心者に狙えるだろうか。
自信はない。
だけど、やってみないことには何もはじまらない。
「わかりました。約束ですよ? ど真ん中を狙えたらデートしてください」
「いいよ。狙えたらね」
鮎子さんは面白そうに目を細めた。
その表情の意味を、俺はすぐ知るところとなる。
■
「くそっ……」
人目も気にせず、声を上げる。
今ので、何投目だろうか。腕が痺れはじめたときから、数えるのをやめた。
最初はボードに当てることすら難しかったが、常連客だという会社員風の男性に手ほどきを受けてからは、安定して得点が入るようになった。
しかしまだシングルだ。ボードの中で面積が広い部分なので、初心者でも狙いやすい。得点の大きさで見ると、次に面積の広いダブル、続いてトリプルという順に難易度が上がっていくものらしい。そして俺が狙うど真ん中、ブルはダブルとトリプルの間という難易度だ。
初心者にはハードルが高い。
どうせできっこないと踏んで、鮎子さんは俺に難題をつきつけたのだった。
「多田くん、もっと力抜いて投げたほうがいいよ」
斜め後ろの席から、堂本さんがアドバイスをくれる。
ダーツの持ち方すら怪しかった俺を見かねて、声をかけてくれた男性だ。
「手首をやわらかくね」
堂本さんの連れの女性が言った。
「はい、すみません。ありがとうございます」
俺は息を切らしながら、二人に礼を述べた。
「頑張れ」
「いいよ。だんだん上達してきてる」
「もう少しでいけるよ」
フロアのあちこちから、温かい声が上がる。
午後八時を過ぎた辺りから客が入りはじめ、今はすべてのテーブルが埋まっている。
俺と鮎子さんの賭けは、すぐに店内にいる全員が知るところとなった。
一心不乱にダーツを投げまくる初心者まる出しの男について、奇妙に思った客の誰かが、店側に尋ねたらしい。
そういうわけで、今俺は注目の的となっている。
ダーツスペースの一角を占領するかたちとなり、とても心苦しかった。ダーツバーなのだから、ほとんどの人はダーツを目当てに来ているはずだ。それなのに、いくら俺が場所を譲ろうとしても、みんな優しく手を振って断るのだった。
「大丈夫だから続けて。応援するのも楽しいんだよ」などと言ってくれる人も、少なくない。
応援してくれる人がいるのなら、ますます諦めるわけにいかない。俺は決意を新たにした。
絶対にブルを狙ってみせる。
「じゃあ僕たちは帰るから。多田くん、頑張ってね」
「鮎子ちゃんとどんなデートしたか、後で教えてね」
午前零時を回る前に、堂本さんと連れの女性は店を出て行った。
「ありがとうございました」
二人の背中に向かって深く頭を下げたら、靴先にぽたぽたと水滴が落ちた。汗だ。軽い動作のように見えて、ダーツは案外体を使う。休みなく投げ続けていたから、なおさら体力の消費が激しいのだろう。
堂本さんからもらったアドバイスを頭の中で反芻しながら、再びダーツを放つ。
日付が変わると、徐々にギャラリーの声援は小さくなっていった。
やがて、周囲の音が聞こえなくなった。
俺はこれまでにないほど、深く集中していた。
一投一投を無駄にせず、常に感覚を確かめながら投げていく。
自分の手から離れたダーツが真っすぐブルに突き刺さるイメージを、頭に描いた。
そしてついに、イメージが現実のものとなる瞬間が訪れた。
――タッ……!!
かすかに、軽やかに、ダーツの先が小さな円をとらえた。
ドクンと心臓が脈打つ。
すぐには信じられず、軽快な電子音を響かせるボードを呆然と眺めた。
「やった」
つぶやいて、両手を握ったとき、ようやく実感が湧いてきた。
「やりましたよ、鮎子さん!! 俺、やりました!」
歓喜の声を上げ、カウンターにいるはずの彼女を振り返る。――と、目に入った光景に、「えぇぇっ……」と俺は身をのけぞらせた。
店内には、誰もいなかった。
さっきまでカウンターにもテーブル席にもお客さんが残っていたはずなのに。
彼らは一体、どこへ消えてしまったのか?
カウンターの中で、鮎子さんが拍手する。
「おめでとう、長寿くん」
「あ、ありがとうございます」
彼女のそばに寄ろうと一歩踏み出すと、かくんと膝が落ちた。
気が抜けてしまったみたいだ。
「大丈夫?」
「平気です。それより、お客さんたちは?」
「とっくに帰ったよ。うち、閉店三時だから」
「え、だって今……」
慌てて時計を見ると、時刻は午前五時になろうとしていた。
俺は客が帰ったのにも気づかずに、閉店から二時間もオーバーしてダーツを続けていたのだ。
そういえば、途中からギャラリーの声が聞こえなくなっていた。
てっきり集中しているからだと思ったが、違ったらしい。
「すみません俺、全然気づかなくて」
「いいよ、別に」
鮎子さんは慣れた手つきでグラスを拭きながら答えた。
「長寿くんが成功するかどうか、最後まで見届けるつもりだったし」
「あの、他のスタッフさんたちは?」
「帰った」
「え、帰った?」
改めて店内を見回すと、テーブルの上はすべて片付けられ、床も清掃済とわかる状態だった。
俺はそのまま土下座するような勢いで、鮎子さんに謝り倒した。
俺が時間も忘れて粘ったせいで、彼女は帰れずにいたのだ。
「だからいいって、そんなに謝らなくて」
鮎子さんは笑って言った。
「すっごい集中してたね、長寿くん」
「そりゃそうですよ。鮎子さんとのデートがかかってますから」
「ふふっ、今夜はなんか楽しかったな。長寿くんを中心に、お店の中が一体感に包まれてて」
数時間前の光景を思い描いているのか、鮎子さんは店内を眺め渡しながら言った。
もう明け方だというのに、彼女は髪も肌はさらりとしている。
一方、柱にかけられた鏡に映る俺の顔は、淀みきって見るからに不健康そう。肌はかさつき、髭は生え、髪はあぶらぎっている。目は落ちくぼんで、白目の部分が黄色っぽくなっていた。漂うゾンビ感に、我ながら戦慄する。
こんな男とデートするって、鮎子さんからしたら罰ゲームでしかないだろう。
果たして彼女は、オーケーしてくれるだろうか。
俺はそこで、今夜中にブルを狙えたらという条件を思い出した。
今はもう朝といっていい時刻。
もしや、クリアしたことにならないのでは。
「あの、それでデートの件は?」
俺はおそるおそる切り出した。
鮎子さんは呆れたように息をもらした。それから俺の目を覗き込んで言った。
「いいよ。デートしてあげる」
――ここまでが半年前の話だ。
最初のデートをきっかけに、俺と鮎子は交際をはじめた。
あの夜の出来事は、俺にとって奇跡だった。
鮎子という理想の女性に出会えたのだ。彼女とともに過ごすようになってから、俺は十年前のあの人の姿を、夢に見なくなった。
■ ■ ■
鍵の回る音がして、鮎子が部屋に入って来る。
「あれ? これ、どうしたの?」
シンクの前に放置したままの段ボールを示し、俺に尋ねた。
今朝の彼女は古着のスカートに、襟の高いブラウスを合わせている。見たところ、スカートはかなりの年代もの。以前に鮎子は、大正時代に作られた布地が好きだと言っていた。懐かしい感じがするからと。
ペンを机に放り、俺は答えた。
「なんかまた送られてきたんだ」
剥がし忘れたままの送り状。依頼主の欄には母親の名前がある。
大学進学を機にひとり暮らしをはじめた俺に、母は時々、缶詰やレトルト食品を送ってくれる。忙しいときや金欠のときなど、これまで何度も救われてきた。
しかし今週は二度目の荷物だ。こんなに短い間隔で送られきたのは初めてで、困惑した。おまけに段ボールの中身は今回もその前も、じゃがいもオンリーときている。
「うわあ、よっぽど豊作なんだね、じゃがいも」
段ボールを覗き込んで、鮎子が言った。
数年前から母は家庭菜園に凝っていて、これまでにも実りすぎた野菜を荷物の中に加えてくれることがあった。
鮎子もそれを知っていて、夏にトマトが送られてきたときなどは大喜びで齧りついていた。トマトは鮎子の好物だ。一方俺はトマトが大の苦手なので、鮎子が消費してくれてとても助かった。
「どう料理しようか」
段ボール二箱分のじゃがいもは、結構なプレッシャーだ。すぐに腐るようなものでもないけれど、長く置きすぎて芽が出てきてしまうと厄介だ。
「じゃがいもだと、肉じゃがかな?」
鮎子は考えるように、視線を上へと向けた。
「あとはカレーとか」
「コロッケポテサラ芋餅ガレット」
俺は呪文を唱えるように言った。昨夜、『じゃがいも 大量消費』と検索して出て来た料理名だ。
と、そこで飯のことを考えたせいか、ぐうと腹の虫が鳴いた。
まだ午前十時だが、早朝からレポートにかかりきりだったため、エネルギーを使ったらしい。
「よし」
立ち上がり、伸びをする。
「早速何か作ってみるかな」
段ボールの前にしゃがみこんで、中からじゃがいもを数個取りだした。
「鮎子、お腹空いている?」
「んー、普通かな」
「じゃがいも料理限定で、何か食べたいものある?」
鮎子は俺の質問に答えず、
「ねえ、時間大丈夫なの?」
さっきまで俺が座っていた辺りを目で示した。机の上には、書きかけのレポート用紙。
「提出、今日なんじゃないの?」
「平気だよ。五限に間に合えばいいから」
「とか油断して、思ってたより時間かかったらどうするの? 長寿くんは確かに集中したらすごいけど、直前までのんびりしすぎなとこあるよ? 見ていて危なっかしい」
鮎子は両手を腰に当て、かるく俺を睨んだ。細いウエストのラインが強調されるポーズに、俺はドキリとする。
折れそうな体躯と儚げな雰囲気を持つ鮎子を見ていると、守ってあげなきゃという思いがわいてくる。
「貸して」
鮎子は俺からじゃがいもを奪い取ると、シンクに向かった。じゃがいもを洗いはじめる。
「わたしが何か作ってあげる。長寿くんはその間にレポートの続きやっちゃって」
「作るって、鮎子料理できないじゃん」
「簡単なものならできるよ」
「あ、そっか」
そういえば先月、鮎子にもやし炒めを作ってもらった。まさか人生で初めて食べる彼女の手料理が、全然味のしないもやし炒めになるとは、思ってもいなかった。
「ほら、サボらないの」
鮎子に言われ、俺は机に向かう。
背後から水の流れる音と、鮎子の鼻歌が聞こえた。「ゴンドラの唄」という歌謡曲。彼女が何度も歌うので、俺までこの曲を好きになってきた。
二番のサビまできたところで、
「痛っ!」
鮎子が小さく呻いた。
「何? 大丈夫?」
再びペンを放り出し、駆け付けると、鮎子はうつむいて、左手の人差し指を見ていた。傍らには包丁と剥き途中のじゃがいもが投げ出されている。
「包丁で切った? それは?」
俺はまな板の横に、赤い点々が落ちているのに気づいた。
鮎子がぱっと左手を背中に隠す。
「どこ切ったの? 見せて」
「え? 切ってないよ」
「でも血が……いいから見せて。手当てするから」
「いいよ、ほんと平気だから」
なぜだか鮎子は強情だった。自分から調理を買って出て、すぐに怪我をしてしまったのが恥ずかしいのだろう。
一向に左手を見せてくれない鮎子に業を煮やし、素早く彼女の背後に回って確認すると、拍子抜けした。鮎子の左手に、切り傷などなかった。
「だから切ってないって言ったじゃない」
鮎子は呆れたように言うと、包丁に手を伸ばし、ついでのようにまな板の横を布巾で拭った。
「じゃあ今の血は何?」
「血? なんのこと?」
「そこにあったやつだよ」
たった今鮎子が拭ったあたりを示して見せる。
「え、見間違いじゃない? 血じゃないよ。じゃがいもの泥汚れがついたんだったかな?」
鮎子は首を傾げ、じゃがいもの皮むきを再開させた。
「そうかな……」
真っ赤の血と泥汚れを、見間違うものだろうか。
なんだか腑に落ちない。
だが実際に鮎子は怪我をしていなかった。
結局、朝から資料など細かい字を追っていたせいで目が疲れていたのだろうという結論を下し、俺はレポートの続きに戻った。
■ ■ ■
献血カードを受け取り、表に出る。吹き付ける風の冷たさに、思わず身を縮めた。
十月も半ばを過ぎると、薄手の上着では心もとない日が続く。反面、街の眺めはあたたかい。ハロウィンの装飾で、明るいオレンジ色が目につくからだろう。あちらこちらで、歯抜けのかぼちゃが笑顔を浮かべている。
家族連れやカップルの間をぬうようにして、俺は大通りを歩いた。
日用品の買い出しという目的を済ませ、時間が余ったので献血をして、後はもう帰るだけ。休日はどこへ行っても混んでいるし、俺の隣に鮎子はいない。こんな日は、家でゆっくり過ごすに限る。
向こうから歩いて来る女性が、一瞬鮎子に見えた。
だが距離が近くなると、背格好が少し似ているだけで、まったくの別人だった。
ひとりで歩いているときなど、俺はつい鮎子の姿をさがしてしまう。毎日のように顔を合わせているはずなのに、彼女への渇望が止まない。
時々、自分はちょっとおかしいんじゃないかと思う。
十年間、ひとりの人を想い続け、たまたま出会ったよく似た女性にすぐさま心奪われて――。
「お世話さまでした」
愛しい声が聞こえた気がして、俺は歩みを止めた。少し先の花屋から、鮎子が出て来る。
俺は素早く、近くにあった看板の影に身を隠した。
どうしてだろう。今、鮎子に声をかけてはいけないと思った。
鮎子はシンプルな黒のワンピース姿で、両手に青い花束を抱えていた。
彼女は普段、刺繍の入ったブラウスやレトロな柄のスカートなどを好んで身につけている。
今日のように地味な服装というのは、珍しかった。
(どこへ行くつもりだろう)
どうしても外せない用事があるから、次の休日は会えない。鮎子からそう告げられたとき、詳しく尋ねなかったことを後悔した。
花束なんか持って、一体誰と会うつもりなんだ。
駅のほうへ向かう鮎子の後ろ姿を見ていたら、無性に胸がざわついた。
やめておけよ。
こういう場合は、ろくな結果にならないぞ。
頭の隅で、制止の声が響いた。無視して歩き出す。少し距離を空けて、俺は彼女の背中を追いはじめた。
■
鮎子がバスを降りたのは、高台にある霊園の前だった。
驚いたことに、この辺りは俺の地元。実家までは目と鼻の距離だ。
電車を乗り継いで二時間半。その間、鮎子は花束に顔をうずめるようにして、深くうつむいていた。
改札を出て、バスに乗り込む彼女を見たときは悩んだ。電車では隣の車両を選ぶことで身を隠せたが、バスではそうはいかない。
財布の中を確認し、俺はタクシーに乗り込んだ。運転手に頼み、鮎子の乗ったバスを追ってもらう。ここまで来たからには、尾行を諦めるという選択肢はない。
整然と並ぶ墓石の間を、鮎子は迷いなく進んでいく。目指す場所がわかっているのだ。
きっと、何度もここへ通っているのだろう。
今日が父親か母親の命日なのかもしれないと、俺は考えた。彼女の両親はかなり前に亡くなっているのだと聞かされていた。
やがて鮎子は、黒い墓石の前で足を止めた。花を供え、線香を上げ、静かに手を合わせる。その後で鞄から缶を二つ、取り出した。一つを花の横に添えると、もう一方の缶を開け、飲みはじめる。
缶のデザインから、中身はミルクティーと判断した。
鮎子は墓石と向き合いながら、時間をかけて缶を空にした。
おもむろに立ち上がると、くるりとこちらに顔を向けた。
「やっべ」
俺は慌てて身を屈めた。
見知らぬ人の墓石の影に隠れる瞬間、鮎子と目が合ったような気がした。
案の定――、
「もうバレてるよ、長寿くん」
何もかもお見通しといった口調で、鮎子が言う。
「出ておいで。わたしの後つけてたんでしょ?」
「すみませんでした」
俺は観念して隠れ場所から出ると、引っ立てられる罪人の気分で鮎子の元へ向かった。
「花屋の前で鮎子を見かけて、どこ行くのか気になって……」
幸い、鮎子は怒っても呆れてもいないようだった。
「ご両親のお墓参りなら、俺も付き合ったのに。ていうかちゃんと挨拶したい」
「そうだね」
鮎子は口元だけでかすかに笑った。
その顔が少し寂しそうに見えて、俺は息を呑む。
「このお墓はね」
鮎子が墓石へと目をやった。俺もつられて視線を向ける。
おかしい、墓石には名前が刻まれていなかった。
「両親のものじゃないの」
鮎子が言った。
「ここに眠っているのは、わたしの夫なの」
「夫?」
すぐには意味がわからず、俺は馬鹿みたいに復唱した。夫。それはつまり、鮎子は過去に結婚していたということだ。でも鮎子って俺と同い年だよな? もしや十代で結婚したのか? そして早くも未亡人に?
「えっと、ちょっと待って」
頭が混乱していた。
なんとか情報を処理し、俺は尋ねる。
「あの、それじゃあこのお墓はその、鮎子がお世話になった人のものなんだね」
なんだお世話になった人って。
内心で、もうひとりの俺が突っ込む。
おかしな嫉妬心が邪魔をして、夫という単語を口にできない。
「え、まあ、そうだね、お世話になった……」
「うん、そういうことなら俺も線香くらい上げなきゃだよな」
自分自身に納得させるように言うと、鮎子から線香を受け取って、火をつけた。
鮎子の夫だった人。
一体どんな人だったんだろう。どうして亡くなってしまったのだろう。
疑問を胸に抱きながら、合掌する。こんな気持ちで拝まれても、この人は嬉しくないだろう。ましてや相手からしたら、俺は間男のようなもの。
すみません。でも俺、鮎子に対して本気ですので。
許しを乞いたいのか、マウントをとりたいのか。自分でもよくわからないまま、手の平を離し、顔を上げる。
振り返ると、鮎子は痛みをこらえるような顔で、ぎゅっと唇を引き結び、一点を見つめていた。
「どうしたの?」
尋ねてから、気が付いた。
鮎子は若い。つまりまだ夫と死別してそんなに時間が経っていないんじゃないか。
悲しみは癒えていないんじゃないか。
「なんでもないよ」
鮎子は取り繕うように口角を上げると、わずかに首を振った。
「さ、帰ろっか」
踵を返し、出口へと歩きはじめた鮎子を追う。
上着のポケットに手を入れようとした拍子に、薄く硬いものがこぼれ落ちた。
俺が腰を屈めるより先に鮎子が動いて、地面に落ちたそれを拾い上げた。
「何これ、献血カード?」
「ああ、今日行って来たんだ」
「へえ、意外だね。長寿くん、血抜かれるの怖くないんだ?」
俺の手に献血カードを乗せながら、鮎子が訊いた。
「うん、別に」
「男の人は女の人より血が苦手とか聞くけど。血を見るのも嫌とか」
「うーん、俺はその辺、平気なほうかな」
「そうなんだ」
ざあっと一陣の風が吹いて、足元をさらっていく。
舞い上がった枯れ葉を目で追ってから、鮎子へと視線を戻した。
鮎子は風にあおられた髪を手で押さえるようにして、空を仰いでいた。
見慣れた白い肌。整った横顔。憂鬱そうな眼差し。
この人は誰だ?
唐突に、俺は思った。
目の前にいるこの女性は、一体誰なんだ?
鮎子について、俺は何を知っているだろう。
ミルクティーが好きで料理が苦手。古着と昔の歌謡曲を好む。
半年以上一緒に過ごして、知ったのはたったこれだけ。基本的に鮎子は、自分の話をしない。
もちろん彼女が普段何をして、どこに住んでいるのかくらいは把握している。
出会った夜、店を辞めるなんて言ったのは俺の本音を引き出すための嘘で、鮎子は今もまだあのダーツバーで働いている。住まいは店舗の二階で、そこは女性スタッフの寮になっているらしい。
だけど、それがなんだというのだろう。
例えば明日突然、鮎子と連絡がとれなくなったとする。心配した俺は彼女の職場に出向いて尋ねるが、「柘植さんなら随分前に退職されましたよ」と告げられてしまう。寮も出ていて、鮎子が今どこに住んでいるかもわからない。ならば鮎子の友人に訊いてみようと思い立つも、彼女の交友関係をまったく知らないと気づいて絶望する。
こんな未来が起こりうるのだ。
その気になれば、鮎子はなんの手がかりも残さず、俺の前から姿を消すことができる。
吹けば飛んでいく。俺と鮎子はそんな頼りない関係なのかもしれない。
無性に、鮎子を抱きしめたくなった。
場所が場所だけに、堪えた。
代わりに、彼女の腕を取って言う。
「俺の実家、ここから近いんだ。ちょっと寄って行かない?」
俺と彼女をつなぐ、現実的な何かが欲しかった。
■
突然帰って来た息子に、両親はたいした反応を見せなかった。
俺そっちのけで、鮎子の相手ばかりしている。
まあこんなものかと思う反面、若干の寂しさを覚えた。
「帰って来るなら前もって連絡くらいしなさいよ。あんたはいつも気が利かないなんだから」
と母は俺にきつく当たるくせに、鮎子に対しては、
「ほんと、うちの長寿にはもったいないくらいのお嬢さんだわ」
と目じりを下げっぱなし。
一方父は、奥の部屋から新品のスリッパや座布団を出してきて鮎子にすすめたり、母と鮎子が話しこんでいる隙に、「寿司は何人前注文しようかね」とこっそり俺に相談してきたりと、歓迎ムードだ。
どうやら二人とも、きれいで礼儀正しい鮎子を気に入ったようだ。
鮎子は最初、緊張した様子だったが、母に家庭菜園を案内されたり、父と将棋をさしたりするうちに、打ち解けてくれたようだ。
夕食を共にする頃には、自然な笑顔を浮かべていた。
「母さん、お茶」
食事を終えると、父はいつもの調子で母に催促した。
「はいはい」
小柄なわりにずんぐりした体つきの母は、てくてくというオノマトペがしっくりくる動作で、家の中を移動する。
台所に入り、少しの間ぼうっとした顔で宙を見つめてから、父の元へ戻って来た。
「お父さん、なんだっけ?」
「お茶だよお茶」
「ああ、そうそう、そうだったわね」
母は少し恥ずかしそうに笑って、また台所へ戻って行った。
「聞いてくれよ。母さん、最近物忘れが激しくって」
父が指さした床の辺りには、俺が住んでいた頃にはなかったフロアマットが敷かれていた。促されるままそれを捲ると、焦げ跡が出てきた。
「先月はアイロン消し忘れて、床焦がしちゃったんだ」
「え、大丈夫なの?」
「そこだけ床張り替えるのも面倒だし、当面はマットで目隠しするよ」
「いや、床の話じゃなくて」
「なんだ?」
「だから、ほら、母さんの……」
言いあぐねていると、俺が抱いた疑念に気づいたのだろう、父はあっけらかんと笑い飛ばした。
「おいおい、ひどいな、母さんも俺もまだそこまで年寄りじゃねえよ。心配するな。母さんのはほら、天然ボケってやつだよ」
■
目が覚めると、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。
懐かしい天井を視界に入れ、昨晩は実家に泊まったのだと思い出す。
鮎子は起きているだろうか。
今日はもう遅いからと引き留められ、彼女も泊まっていくことになった。
客間の前まで行くと、ちょうど扉が開き、鮎子が出て来た。
「おはよう。洗面所借りてもいいかな?」
「うん。俺も行く」
二人で順番に顔を洗い、並んで歯を磨く。
リビングに行くと、台所のほうから母が顔を出し、
「おはよう。朝ごはんまだできないから、先にコジロウの散歩行って来ちゃってね」
と言った。
コジロウは八年前から庭で飼っている、黒い毛の柴犬だ。
「了解」
俺は下駄箱の上からコジロウのリードを持って、外に出た。鮎子もついて来る。
「犬、飼ってたんだね」
「あれ? 昨日気づかなかった? 母さんがやってる畑のそばに小屋があるんだけど」
「そうなの? 全然気づかなかった。気配もしなかったよ」
「そっか。柴は気難しいとか気性が荒いなんて言う人もいるけど、うちのコジロウはおとなしい犬だから、昨日は気配感じなかったのかな」
いつもなら足音に反応してすぐ小屋から飛び出てくるコジロウが、今朝はなかなか顔を見せない。鮎子を警戒しているのだろうか。
「おーい、コジロウ、散歩行くぞー」
とリードを揺らす。
散歩というワードを聞いてようやく、コジロウは小屋から這い出てきた。ちらちらと鮎子を気にしつつも、ちぎれんばかりに尻尾を振る。
道路に出ると、コジロウが行きたがる方向へと歩かせた。
「昔はここ、小さい商店になってて、よく友達とアイス買いに来てたんだよ」
「ここは高校まで一緒だった、藤井ってやつの家」
「あっち曲がると、小学生のときちょっとだけ通ってた習字教室があるんだ」
幼い頃から何度も歩いた道も、隣に鮎子がいると新鮮に感じた。
「長寿くんは、どんな子どもだったんだろう」
「別に普通だよ。あ、でもすっげぇ負けず嫌いで、ゲームでも鬼ごっこでもバスケでも、とにかくなんでも負けた後は隠れて悔し泣きしてた」
「あはは、隠れて泣くんだ? かわいい」
「誰かに泣いてるとこ見られるのも、悔しいもんなんだよ。あ、あいつ泣いているって思われたくないんだな」
「もしかして、結構プライド高い子だった?」
「そうかも。負けた自分が許せないから、次こそは絶対勝つんだって、裏でこっそり猛練習はじめたり」
「なんで? 堂々と練習すればいいのに」
「うーん、なんかそういう年頃ってあるじゃん? なんの努力もせずに、さらりとできるようになってるのがかっこいいっていう感じ?」
「ちょっとわかるかも。周りの友達から、すごいって思われたいみたいな」
子どもの頃の話をしていたら、いつの間にか卒業した小学校の前に来ていた。
久しぶりに見た母校は、昔と比べてほとんど変化がないように感じた。校舎に描かれた卒業生の絵も、校庭の遊具も、卒業した頃のまま。俺が苦戦した鉄棒も、変わらず校庭の隅に設置されていた。
「さてさて、ここにはどんな思い出が?」
首を傾げて俺の顔を覗き込むと、鮎子はいたずらっぽく問いかけた。
「え、学校に?」
「うん。好きな子とかいた?」
「ええー? いたかなあ」
右から左にゆっくりと視線を動かし、校舎全体を眺める。
好きな子はいた。けれど、ここにはいなかった。
俺がずっと想い続けていたのは、公園でたった一度会っただけの女性だ。
「そうだ、学校の裏に公園があるんだ」
「公園?」
「そう。そっちのほうが色々と思い出深いかな」
「見てみたい」
「いいよ」
と、そこでコジロウが低く鳴き声を上げた。
「ごめん。そろそろコジロウ、家に戻りたいみたい」
「あ、そうだよね。コジロウくん、お腹が空いてるのかな」
公園はまた後で行くことにして、家に引き返した。
コジロウを元の場所につなぎ、外の水道で手を洗ってからリビングに入る。テーブルには朝ごはんの用意ができていて、父はもう着席していた。
昨夜と同じくなごやかな雰囲気の中、四人で朝食を摂った。
食後のお茶を飲んでいると、母が言った。
「そうだ長寿、それ飲み終わったらコジロウの散歩行って来ちゃってくれない?」
■
帰りの電車に乗る前に、朝は行けなかった公園へ、鮎子を案内した。
数年ぶりに足を踏み入れたその場所で、俺は柄にもなくノスタルジックな思いに駆られた。
友達と駆け上った築山は、今見るととても低い。土管もジャングルジムも、あの頃のようにすんなりとはくぐり抜けられないだろう。
「うわあ、こんなだったかなあ」
感嘆の声をもらす俺に対し、鮎子の反応は薄い。まあ、そうか、鮎子にしてみたらなんの思い出もない、ただの小さな公園なわけだし、特に感想もないのだろう。
鮎子はずっと、呆けたように園内を見渡している。
「ここで逆上がりの練習したんだよ」
俺は鉄棒を見つけて、駆け寄った。鮎子はついて来なかった。俺は離れて立つ彼女に聞こえるようにと、声を大きくした。
「俺、子どもの頃すっげぇ負けず嫌いだったって言ったじゃん? 逆上がりできないのが悔しくて、休みの日にこっそりここで猛練習したんだよね。朝からはじめて、夕方になっても全然できなくてさ、やっと成功したってときに、後ろから拍手が聞こえたんだ」
鉄棒を握り、久しぶりの感覚を味わうと、体を前後に揺らした。
「振り返ったら、知らない女の人が立ってた。その人、俺が逆上がり成功したのを喜んでくれてさ。練習してるとこ、ずっと見てたんだって。それでなぜだかコーラおごってくれた」
片足を振り上げる。勢いにのって、一回転。久しぶりに挑戦したけど、逆上がりは難なくできた。両足を地面を着地させ、鮎子を振り返る。
そこで俺は、息を呑んだ。
「なんで……」
鮎子は泣いていた。両手で顔を覆い、小さく肩を震わせていた。
「鮎子? どうしたの? 何かあった? 具合悪い?」
慌てて鮎子の隣に戻る。
「大丈夫?」
鮎子は俺の問いかけに答えず、ふるふると首を振った。それから小さく、声をもらした。
「君だったんだ……」
「ええ?」
「あのときの男の子は君だっただね、長寿くん」
手の甲で涙を拭い、鮎子はまっすぐ俺を見つめた。
「その女の人に出会ったのは、十年前。だよね?」
「そうだけど、なんで鮎子が知ってるの?」
尋ねたところで、俺にはすでに答えがわかっていた。
普通に考えたら、ありえないことだった。
だけど、鮎子の表情が真実だと示している。
「長寿くんがここで十年前に出会ったのは、わたしなの」
そう言って、鮎子は静かに息を吐いた。
■ ■ ■
フィクションの中でしか存在しない、この世の理から外れた人物。
不老不死。
鮎子は自身をそう説明した。
「もうずっと見た目はこのまま。病気はしないし、どんな大怪我を負っても、この肉体はさほど時間をかけずに再生する。普通だったら即死するような状況ででも、わたしは死なない」
鮎子は座っていたベンチから立ち上がると、地面を探り、小枝を拾い上げた。それを躊躇なく自分の左腕に突き立て、手前にぐっと引く。滲んできた血をハンカチで拭うと、俺に左腕を向けた。
「見て」
そこには、傷一つついていなかった。
以前、料理中に鮎子が包丁で指を切った場面を思い出した。正確には、鮎子はどこも怪我をしていない状態だった。だけどまな板の横には、血痕らしきものが残っていた。
鮎子は怪我なんかしていない、ここにあったのは血痕ではなく泥汚れだと言い張ったけれど、やはりあのとき本当は包丁で指を切り、血を流したんじゃないか。
一瞬で塞がってしまった傷跡を誤魔化すために、鮎子は嘘をついたのだ。
「本当に鮎子は不老不死なの?」
とめどなく疑問が押し寄せる。
どうして不老不死なのか。いつからなのか。どのくらいの時間、不老不死として生きているのか。
「そうだよ。でも――詳しくは訊かないで。ごめんね、話したくないの」
鮎子は暗い顔でうつむいた。
「……わかった」
「ごめんね」
「いいよ。鮎子が話したくなったら話せばいい」
「ありがとう。長寿くん、わたしよりうんと年下なのに、しっかりしてるね」
「あれ? 今ってそういう冗談言ってもいい空気なの?」
「ふふっ、ごめん、ちょっと言いたくなった」
気持ちのほうは色々と消化不良だけど、ひとまず鮎子が笑ってくれたので安心した。
「でもこれだけは話させて。あのね、十年前のあの日、わたしは長寿くんに救われたの」
鮎子がベンチに戻ったので、俺も隣に腰を下ろす。
それから、鮎子が語る声に耳を傾けた。
周囲に不老不死と知られるのを恐れ、鮎子は数年置きに住まいを移しながら、他人と深く関わらないようにして生きてきた。
ひとりの青年との出会いが、鮎子を一つの場所につなぎとめた。
鮎子は覚悟を決め、青年に自分が不老不死であることを告げた。青年は鮎子を受け入れてくれた。
二人は事実上の夫婦として、ともに暮らしはじめた。
戸籍がない鮎子は、青年と正式な婚姻関係を結べない。二人は人付き合いを避け、静かな生活を送った。
あるとき、二人は旅に出た。行き先は、ほとんど名の知られてない小さな島。一週間の日程で、二人はゆっくり島の自然を楽しむつもりだった。
島に着いて四日目。
二人は朝からハイキングに出かけた。そこで足を滑らせ、切り立った斜面から落下した。
落ちた場所で数秒横たわった後、鮎子の体は回復した。
一方夫は、すぐそばで頭から血を流し倒れていた。呼びかけると呻き声をもらしたが、体に力が入らないらしく起き上がってこない。
鮎子は救助を求め、声を張り上げた。崖の上に向かって、何度も何度も「助けて」と叫んだ。だが、そう都合よく人が通りかかるはずない。自分たちの他に観光客など見かけない、静かな島だ。
そのうち夫は完全に意識を失い、鮎子は焦った。
ここには夫と自分しかない。
瀕死の夫を助けられるのは自分だけだ。
鮎子は夫を背負うと、山道を歩きはじめた。そうして日が暮れる頃、島で唯一の診療所に辿り着いた。
夫は頭の他に、落下の衝撃で内臓の一部を損傷していた。一刻も早く、手術をする必要があると医師は告げた。しかし、診療所にある輸血用血液だけでは、足りない可能性がある。
負傷してから、時間が経ちすぎていた。多くの血を失い、夫は危険な状態だった。
検査の結果、鮎子の血液を夫へ輸血することになった。
手術は成功し、夫は回復した。
夫の変化に気づいたのは、数年後だった。
「夫は百三十歳まで生きたの」
鮎子は言った。
「手術を受けたのが、七十歳のとき。それから六十年間、夫はまったく老いも病気もしなかった。そして百三十歳を迎えると徐々に元気がなくなってきて、眠るように亡くなったの」
「それは、鮎子の血を輸血した影響で?」
「うん、そうとしか考えられない」
とても信じられない話だった。
だけど実際、俺は過去に鮎子と会っている。
十年間俺の心を掴んで離さなかった女性は、不老不死の鮎子だった。
そして再び俺は、鮎子を見つけた。
きっと出会うたび、俺は彼女に惹かれてしまう運命なのだろう。
「十年前、長寿くんと出会ったとき、わたしは夫の納骨を終えた帰りだった」
鮎子はおもむろに立ち上がると、園内を移動した。
塗装の剥げかけたブランコに座り、足をぶらつかせる。
俺は彼女の隣に腰を下ろし、静かに話の続きを待った。
「百年以上を一緒に過ごしたの。これから先もずっと、夫はそばにいてくれるんだと思ってた。わたしはもうひとりじゃない。やっと安心できたところだったのに……」
百年。
途方もない年月だ。
そんなにも長い間ともに生きた人を、鮎子はひとりで見送った。彼女の中にどれほどの悲しみがあるのか、俺には想像できない。俺はまだ、大切な人との別れを経験していない。
「夫を失い、明日からどう生きればいいのかわからなかった。できるなら夫の後を追いたかった。でも無理、わたしは死ねない。昔から色々な方法を試してきたけど、どうやったって死ねなかった。だからこれからも生きていくしかないの。寂しくても辛くても、生き続けなきゃいけないんだ。そう考えたら、ますます死にたくなった。生きるのに疲れた。なんだかもう足に力が入らなくて、ふらりと入った公園でベンチに座った途端、立ち上がるのが億劫になっちゃった。そうしたら、逆上がりの猛練習をしている男の子が視界に入ったの」
「俺だ」
「そう、長寿くん」
鮎子が微笑む。
「最初はね、なんとなく眺めているだけだったんだ。だけど長寿くんからものすごい気迫が伝わってきて、目が離せなくなった。頑張れ、頑張れって心の中で応援している間は、悲しいことも辛いことも忘れられた。それで決めたの。もしあの子が逆上がりを成功させたら、わたしも立ち上がろう。もう一度だけ前を向いて、日々を過ごしてみようって」
逆上がりを成功させた俺を、鮎子は自分のことのように喜んでくれた。そのとき、彼女の顔には泣いたような痕が残っていた。
「あの日、長寿くんに出会わなければ、今頃わたしは荒んだ生活をしていたと思う。今のわたしが穏やかに生きていられるのは、長寿くんのおかげ。小さな負けず嫌いの男の子が、わたしに生きる勇気をくれたんだ」
鮎子からありがとうと言われ、俺は困惑した。
感謝されるようなこと、俺はしていない。ただ意地になって、逆上がりの練習をしていただけだ。
黙っていると、鮎子はからかうように続けた。
「長寿くん、今もまだ負けず嫌いだよね」
「へ? そうかな?」
「だって二度目に会ったとき、ダーツでブルを狙えるまで、一晩中投げてたじゃない?」
「ああ、そうか」
鮎子とのデートを賭けて、俺は閉店時間にも気付かないほど集中していた。
「あれだって一種の負けず嫌いみたいなものでしょ? ほんと言うとね、ダーツを投げる長寿くんを見ながら、わたし十年前の男の子を思い出してたんだ。目の前の彼が、あの男の子だったらいいのになって。大人になったあの子も、変わらず一生懸命で、目標に向かって一直線みたいな性格のままだったら素敵なのにって。だからこの公園に来て、あの男の子が長寿くんだったってわかったら、なんか色々とこみ上げてきちゃった」
鮎子は空を仰ぎ、照れ臭そうに語った。
十年間想っていたのは、俺だけじゃなかった。
鮎子もまた、俺を思い出してくれていた。
そう考えると、心が震えた。
と同時に、俺は虚しさも感じていた。
俺は意図せず、鮎子を救ったことになるらしい。
鮎子は俺に感謝してくれている。
だけど、本当にそれでいいのだろうか。
もっと他に、鮎子を救う方法があるんじゃないか?
俺はまだ、鮎子に何もしてあげていない。
「あのさ」
夫の話を聞いたときから、一つ考えが浮かんでいた。
「俺も輸血したらどうかと思うんだ、鮎子の血を」
「え、でもそうしたら……」
「鮎子の血を輸血した影響で、ご主人は百三十年生きたんだろう。それなら同じことをすれば、俺もご主人のように長く生きられるんじゃないかな。それに一度の輸血でそれだけ生きたんだ、何度も輸血を繰り返したなら、俺も鮎子と同じ完全な不老不死になれるかもしれない」
言い終えると、鮎子の反応を窺った。
鮎子はぱちぱちと目をしばたたかせた。
それから眉をひそめ、
「本気なの?」
と俺の顔を覗き込んだ。
「本気だよ。不老不死になれば、ずっと鮎子と一緒にいられる。俺は絶対に鮎子をひとりぼっちにしない。いい考えだろう? もちろん鮎子が嫌なら断ってくれていいけど」
「そんな、嫌なわけないじゃない」
鮎子は勢いよく立ち上がると、俺の膝の上に乗ってきた。
俺はブランコの鎖から手を離し、後ろから鮎子を抱きしめた。
「ありがとう、長寿くん。わたしと一緒に生きて」
■ ■ ■
献血時、俺はいつも400mlを採血される。一度に失ったとしても体に影響のない量。
そこから、鮎子の血を輸血する手順を考えた。
まずは通常の献血と同じように、体から400mlの血液を採る。その後に同じ分量だけ鮎子の血を入れることにした。
器材などの問題はすでに解決している。
亡くなった鮎子の夫は、大変な資産家だった。そのため二人は長い間、世間の目を忍んで生活できていたのだ。現在の鮎子が普通の生活を送れているのも、身分証や口の堅い世話人など、夫が手配を済ませてくれていたお陰らしい。
鮎子の夫は、いつか自分の命が尽きることを危惧していた。ひとり残る妻を案じ、生前ある医療施設を買い取った。施設には採血や輸血に必要な器材が揃っている。
亡くなる直前、夫は鮎子に約束させた。施設の管理を続けること。そしていつか、ともに人生を歩みたいという人が現れたなら、施設を活用すること。また、そのときに備えて最低限医療の知識と技術を身に付けておくこと。
鮎子の夫もやはり、俺と同じ仮説を立てていたようだ。
輸血を何度も繰り返した場合、完全な不老不死になれるのではないか。
だけど、一つ理解できないことがあった。
なぜ鮎子の夫は自分の体で試さなかったのだろう? 仮説を立てたのなら、挑戦してみたらいい。
どうして鮎子を残し、ひとり逝ってしまったのか。
鮎子は俺の疑問に答えた。
「夫は自分の外見を気にしてたの。並んで歩いていても、わたしたちは夫婦に見られない。いつも祖父と孫だと勘違いされてた。寿命が延びただけで体は若返ったわけじゃないから。夫は、永遠に七十代の体で生き続けるのが怖かったんだと思う」
今の俺と鮎子なら、問題なく同年代に見られるだろう。
十年経って、外見だけは鮎子は追いつけた。そう考えると、彼女とした再会したのは幸運なタイミングだった。
迎えた一回目の輸血の日。
俺たちは町外れにある小さな廃病院へ向かった。外観は古びているものの、時々鮎子が手入れをしていたため、中はきれいだった。
採血も輸血も、鮎子の手で行われた。夫の死後、看護学校へ通って手技を身に付けたらしい。
輸血を終えると、気分が悪くなった。そんな気はないつもりだったが、きっと心の底では緊張していたのだろう。
だけど、気持ちは満足していた。俺の体には今、鮎子の血液が流れている。何か絆ようなものを感じられた。
二回目の輸血。
鮎子は看護師の格好をして、俺の前に現れた。
「どうしたのそれ」
「いいでしょう? これで長寿くん、少しはリラックスしてくれるかなと思って」
「なんで?」
「だって前回は緊張してたみたいだし。見た目だけでも医療従事者っぽくしたほうが、安心してもらえるかなって。どう? 気分落ち着いてきた?」
「いや、そんな格好見せられたらむしろ興奮するっていうか」
「馬鹿」
鮎子に小突かれ、俺は意識して体の力を抜く。俺を気遣ってくれる鮎子が、たまらく愛しかった。
こうして二回目の輸血も、とどこおりなく終わった。
その夜、奇妙な夢を見た。
■ ■ ■
視界を遮られた状態で、わたしは座っている。足に伝わるのは、枯草と硬い地面の感触。
周囲では、人の声がさざめいている。松明が燃える音もする。
みんなはなんて喋っているのだろう。お祈りのような気がするけど、よく聞き取れない。
声がやんで、誰かの手がわたしの唇をこじ開ける。上の前歯に乾いた指が触れた。ぬるりとした感触のものが、口の中に差し入れられる。すると今度は強く顎を押さえられた。力に従い、わたしは口を閉じる。
食べろ。呑み込め。そんな圧力を感じた。口の中のものを、わたしは必死に咀嚼する。生臭くてまずくて、涙が出てくる。
やっとの思いで飲み込むと、すぐさま別のものを口に入れられる。とても硬くて、薄甘いもの。噛むのは大変だったけど、なんとか飲み下す。
それからわたしは、次から次へと得体の知れないものを食べさせられた。塩辛いもの、つるりとしたもの、ぴりぴりと舌先がしびれるもの、泥臭いもの、腐った臭いのするもの。それらを運んでくる指は、毎回違う。あたたかい指、冷たくて細い指、ごつごつと骨張った指、皺だらけの指。様々な年代の指が、わたしに穢れを運んでくる。
もう長いこと、村には雨が降っていないんだ。田畑は干上がり、食べるものもなくて、村人がたくさん死んでゆく。
だからわたしは選ばれた。生贄として。その身に穢れを取り込み、神を冒涜する存在として。
もうすぐわたしは死ぬ運命にある。穢れごと滝壺に落とされて。
わたしのせいで、川の水は汚れるだろう。
神は怒り、浄化のための雨を降らせる。
その雨が田畑を潤し、村人を救うのだ。
わたしの命一つで、多くの人が助かる。
目隠しが外され、わたしはゆっくりと瞼を開けた。
村人たちの視線が、わたしに集中している。
今のわたしの姿は、彼らの目にどう映っているだろうか。
村を救う、尊き者か。
あるいは、穢れを宿した醜悪な女か――。
■ ■ ■
目が覚めたとき、直感した。
俺が夢に見たのは、鮎子の記憶だ。
俺の中に流れはじめた血が、彼女の過去を想起させている。
その後も輸血を受けるたび、鮎子の過去を夢に見た。
鮎子は滝壺に落とされても死ななかった。
取り込んだ穢れの影響か、食べさせられた得体の知れないものの作用か、はたまた神を冒涜した罰なのか、鮎子は不老不死となり、いくつもの時代を生き続けた。
ある時代の鮎子はぼろを纏い、粗末な小屋で寝起きしていた。小屋では、鮎子と同じように困窮した様子のたくさんの女たちが生活していた。女たちとともに、鮎子は一日中休みなく硬い土地を耕した。
暗くなると、小屋の隅で膝を追って座った。その姿勢のまま、胸の前に鍬を抱いて眠る。
夜更けに、小屋は賊に襲われる。泣き叫び、さらわれていく女たち。鮎子は必死に気配を消して、鍬を握りしめる。賊が去るのを待つ。
そのように、ひとときも安心できない日々が続く。鮎子の眠りは常に浅い。
次の時代では、火の海の中を走っている。あちこちから人の叫び声と悲鳴が上がっている。火から逃げ惑う人々が、鮎子を押しのけ、突き飛ばし、踏みつけていく。
次の時代では、煤けた街角に座り、来る日も来る日も男の靴を磨いている。客はみんな鮎子の顔を見ようともせず、横柄な態度で革靴に包まれた足を突き出す。何が気に入らないのか、ひとりの客が鮎子を怒鳴りつけ、唾を吐き、対価も払わず去っていく。
またあるとき、鮎子は大きな屋敷に仕えていた。今までの時代とは違い、そこはいくらか居心地が良さそうだった。よく働く鮎子は、屋敷の主から大切にされていた。時々、茶や菓子をごちそうになったりもしていた。鮎子は初めて飲むミルクティーに、いたく感動していた。
最も新しい夢の中では、鮎子はぬかるんだ地面を歩いていた。一歩踏み出すごとに膝が揺れ、息が上がる。
「死なせない。絶対死なせないから」
背負った相手に向かって、鮎子は繰り返しつぶやいている。
島で怪我をした夫を、診療所まで運んでいるのだった。
胸が締め付けられるようだった。
鮎子が乗り越えて来た途方もない年月を思い、俺は泣いた。
どの時代の鮎子も孤独で、永遠の命の先に光などなく、生きることに絶望しきっていた。
大切な人を失うかもしれない恐怖は、きっと誰より深く強く、彼女の中に根差している。
鮎子をひとりぼっちにさせない。
改めて、俺は決意した。
鮎子の過去を夢に見るようになってから、うなされる夜が続いた。
目覚めると、眠る前より体が疲れている。食欲は落ち、目の下のクマは色濃くなった。
「長寿くん、少し痩せた?」
八回目の輸血の際、鮎子は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「体調悪いの続いてるみたいだし、今日のところは輸血やめておく?」
「いや、大丈夫」
俺はシャツを捲り、左腕を出した。
「鮎子もせっかく着替えてくれてるんだし。中止はしないよ」
違和感のあった看護師姿も、次第になじんで見えるようになってきた。
わざわざそんな格好をしてくれなくても、俺はもう緊張しない。不老不死への迷いはない。覚悟はできている。鮎子にもそう伝えていた。
それでも毎回、鮎子は白衣を着て輸血を行う。
きっと彼女なりの、筋の通し方なのだろう。
鮎子は何か言いたげに俺を一瞥すると、下唇を噛んだ。切り替えるように頭を振り、
「わかった。じゃあはじめよう」
俺の腕に触れた。
■ ■ ■
三つ並んだうちの、窓際のベッドに母は横たわっていた。半開きになった口から、薄くいびきがもれている。
「ああ、寝てるな」
父は持って来た紙袋をベッドサイドの棚に置き、少しの間母の寝顔を見下ろしていた。
「せっかく息子が来たっていうのになあ」とぼやき、備え付けの冷蔵庫を開ける。中から取り出した缶ジュースを、俺に放って寄こした。
「長寿、時間は大丈夫か?」
「バイト完全に休みにしてもらったから余裕」
缶を開け、中身を半分ほど飲んでから尋ねた。
「骨折したの、どっちだっけ?」
「右だよ。右太もも」
そう言われて母の下半身に目をやると、確かに右側だけ布団が盛り上がっている。
一週間前、母は外出先で階段を踏み外し、病院に運び込まれた。
「それにしても、もっと早く連絡できなかったわけ?」
母が入院したと父から知らされたのは、つい昨日のことだった。慌ててバイト先に連絡し、どうにかシフトを変更してもらって見舞いに来たのだ。
「うん、ちょっと骨折の他にも色々検査とかあったから、落ち着いたら連絡しようと思って」
父はばつの悪い顔になって答えた。
「検査って、階段から落ちたとき頭打ったとか?」
「ああ、うん。それでなんだが――」
父が言いかけたとき、母が目を覚ました。
「あれえ?」と子どもじみた声を上げ、俺と父のほうを見る母に、
「よく寝てたね」と話しかける。
「母さんの好きな大福、買って来たよ」
大喜びするかと思ったが、母はきょとんとした顔で俺を眺めた。
「――初めての先生かしら?」
深々と頭を下げる。
「どうもお世話になります」
「あはは、寝ぼけてるみたい」
笑って父のほうを見ると、父は頬を引きつらせ、曖昧にうなずいた。
どうしたんだろう。
首をひねり、俺は母へと向き直った。
「残念、俺は病院の先生じゃないよ」
「あらあ、そうなの? じゃあ研修医さん? 随分お若いのね。それともまだ学生さんかしら?」
真面目な顔で、母は言った。
俺はごくりと唾を飲んで、母の目を見つめた。
寝ぼけているのでも、冗談を言っているのでもない。本気で俺を研修医か医学生と思っているのか?
背筋が冷たくなっていくのを感じた。
父の手が、そっと俺の肩を叩く。
「長寿、向こうで話そうか。母さんごめん、ちょっと行ってくるな」
■
病院を出てから、どうやって実家まで移動したのか、よく覚えていない。
父の言葉が、絶えず頭の中を巡っていた。
「母さんは、若年性認知症と診断されたんだ」
病が進行するにつれ、母は記憶を失っていくという。これまで普通に理解できていたものがわからなくなり、誰かの助けなしでは日常生活を送るのも難しくなる。
父から説明を受け、母のいる病室まで戻ると、今度はちゃんと俺を息子だと認識してくれた。その前のやりとりについてはまったく覚えていない様子で、骨折したときの状況や意外においしいという入院食について、詳しく語ってみせた。認知症なんて嘘なんじゃないかというくらい、母は普段と変わらなかった。
しかし、病室を出るときになって、再び俺を別人と間違えていた。
まだ仕事が残っているから一度職場に戻るという父と別れ、俺はひとり実家に戻った。
玄関の前に立ち、はたと、父から家の鍵を受け取り忘れたと気づく。
仕方がない。仕事はすぐに終わるという話だったので、この場にとどまり待つとする。
しばらく庭先でコジロウをかまっていると、トイレに行きたくなった。そういえば、喉も乾いてる。俺は近くのコンビニまで歩いた。
父は、これからどうするつもりなのだろう。
信号が青になるのを待つ間、考えた。
今はまだ深刻な状況ではないだろう。しかしいずれは、つきっきりで母の面倒を見る必要が出てくるはずだ。そうなったとき、父は仕事を辞めるのだろうか。それで、生活費はどうする? 貯金は足りているのか。俺はどうする? 俺に何ができるだろう。
現実的な問題ばかり思案してしまうのは、一番辛い可能性について考えたくなかったからだ。
母が俺に向けたのは、まさに他人を見るような目だった。
怖い。
いつか母の頭の中から、俺という存在が完全に消え失せてしまう日が来るのが、たまらなく恐ろしい。
信号が青に変わり、横断歩道を渡る。
買い物に行くとき、駅まで出るとき、子どもの頃から何度も通ってきた道。
母から「横断歩道を渡るときは手をあげて」としつこく教えられた道。
母と二人で歩いた道。
それは親子の記憶のはずなのに、覚えているのは俺ばかり。
どんな美しい記憶も、共有する相手がいてこそ輝く。語り合える相手がいなくなってしまったら、ただ虚しいだけの記憶じゃないか。
人に忘れられるというのは、自分の存在が揺らぐことなのかもしれない。
用事を済ませ、コンビニの外に出ると、懐かしい顔を見かけた。向こうも俺に気づき、
「多田じゃん。久しぶり」
と笑顔を見せた。小中高とともに過ごした友人だ。
家の鍵がないので、外で時間を潰しているのだと打ち明けると、それなら少し話でもしようと友人は言った。飲み物を買い直し、店内の飲食スペースに座る。
互いの大学の話や、共通の友人の近況などを報告し合っていると、ふいに友人が、
「どうしてこっち帰って来てるの?」
と尋ねた。
骨折した母を見舞いに来たのだと説明する。
すると友人は考える顔になり、
「ちょい待ってて」
と席を外し、売り場に向かった。
大きなレジ袋を手に、戻って来る。
「これ、おばさんに渡して」
押し付けられた袋を確認すると、中に牛乳やヨーグルト、お菓子などがぎっしり入っていた。
「骨折にはカルシウムだろ? な?」
と言った友人の口調は、力強いものだった。
「ありがとう」
取り出したウエハース菓子のパッケージを見て、俺は吹き出した。いかにも幼児向けといったイラストの入ったお菓子と、それを食べる中年女性という組み合わせを想像し、笑いがこみあげてくる。
「これ、小さい子が食べるやつじゃん」
「でもほら、ここにカルシウムたっぷりって書いてあるし。体にいいってことじゃん」
友人がパッケージを指差して言う。
そういえば俺は昔から、目の前の友人が持つ真っすぐな性質を尊敬していた。
「おばさん、早く治るといいな」
「うん。カルシウム摂るように伝えておくよ」
また今度ゆっくりと時間をとって会おうと約束し、友人と別れた。
■
実家に入るのは、鮎子を連れて来たとき以来だった。
ほんの数か月前のことなのに、室内の様子はずいぶん変わってしまっている。
一番目を引いたのは、台所の焦げた壁紙だった。
「何したの、これ」
「うん、それな。母さんがガス台つけたまま忘れて、ぼやを起こして」
「え、何。母さんひとりで火使ってるの? 危なくない?」
「ああ、別に一日中調子が悪いわけじゃないから。じっとしてるだけだと退屈みたいで、母さん家のことやりたがるんだよ」
父がリビングを見渡すと、
「前みたいにうまくできるわけじゃないけど」
と付け足した。
母はきれい好きで、整理整頓が得意だった。
しかし現在のリビングは、嵐が通り過ぎたような惨状。食器に文房具、雑誌、日用品などの細々したものがあちこちに散乱している。
「出したものを元の場所に戻すのが苦手になったというか、元あった場所を忘れてしまうというか……」
床に広がった衣類を片づけながら、父は言った。
簡単にリビングを片づけ、座る場所を確保する。
これからについて話し合うことにした。
だけどすぐに、行き詰まった。認知症と診断が下りてから、まだ数日だ。俺も父も、この病気についてほとんど知らなかった。どのくらいのペースで、どのように症状が進んでいくのか。そのとき、家族のすべきこととは。
まずは互いに知識を身に付けようという結論に至り、俺は実家を後にした。父は泊まっていけと言ったが、明日は早朝からバイトのシフトが入っていると嘘をついて断った。
今日はもうこれ以上、実家の様子を目に入れていたくなかった。
壁を埋め尽くすように張られた、メモの数々。「お風呂を入れるときは右側のスイッチ」「町内会費は二十三日に払ってある」「コジロウの散歩は朝ごはんの後で」母が忘れてしまう事柄の記録。それらを見続けて、冷静でいられる自信がなかった。
■ ■ ■
輸血をやめようと言い出したのは、鮎子のほうだった。
「もう充分だよ、長寿くん。ありがとう」
廃病院の狭い処置室に、鮎子の乾いた声が響いた。
「え、どういうこと?」
「不老不死がどういうものか、わたしはあえて長寿くんに教えなかった。教えれば、長寿くんはきっと不老不死になるなんて考え捨てちゃうから。でもそんなのフェアじゃないよね。長寿くんにはすべてを知った上で、選択する権利があるんだから。ごめんね……ずるいことして」
鮎子は駆血帯を俺の腕から外すと、注射器を片づけはじめた。
「ここに来るのも、今日で終わりね」
「なんで」
俺は言葉に詰まった。このところ、舌がうまく回らない。寝不足と栄養不足が続いているせいだろうか。
「もしかして、俺の体調のせい? それなら大丈夫だよ。ちょっと疲れてるだけだから」
「違うよ」
鮎子はぴしゃりと言った。
「いい加減、見ないふりするのはやめて。考えないふりするのはやめて。長寿くんの中では、もう答えが出てるんでしょう?」
目じりを吊り上げた怖い顔で、鮎子は俺を睨んだ。
「不老不死に、なりたくないんでしょう?」
結んでいた髪をほどくと、乱暴に頭を掻きむしる。
「年を取らない、永遠に若い見た目のままだと周りに怪しまれるから、数年置きに住む場所を変え続けなきゃいけない。そのたびに人間関係もリセット。友達や好きな人たちとも別れて、何度も何度もわたしという人間は彼らから忘れられてきた。わたしのことを長く記憶にとどめてくれていた人もいたかもしれないけど、結局はその人が死んだら終わり。この世界で、わたしを知る人はいなくなる。誰の中にもわたしは存在しない。そんなの本当に生きてるって言えるのかな? 不老不死のくせして、わたしなんてまるで死んでるみたいじゃない……」
人と別れること。
人に忘れられること。
想像はできても、俺は今までまったくその本質を捉えられていなかった。
母の中から、俺という存在は消えつつある。
今は元気そうだが、いつかは父も弱って、やがて最期を迎えるだろう。
両親、昔からの友人、世話になりっぱなしの先輩、尊敬できる教師――俺を取り巻く、かけがえのない存在。
不老不死になれば、俺はみんなを見送ることになる。あるいは俺のほうから彼らとの関係を断つ必要が出てくる。
親しい人たちが全員亡くなれば、この世で俺を知る者は鮎子だけになってしまう。
ふたりぼっち、世界から切り離される。その恐怖に、果たして俺は打ち勝てるだろうか。
「……ごめん、無理だ」
口に出した途端、自分の不甲斐なさに腹が立った。
「俺、不老不死にはなれない」
鮎子をひとりにさせない。そう息まいていたくせに、結局俺は何もできない。
鮎子は沈黙し、長いため息をついた。
罵られる覚悟はできていた。殴られたっていい。俺は鮎子を裏切ったのだ。
無言のまま、鮎子は冷蔵庫に向かった。中から缶を二つ取りだすと、一方を大きく振ってから俺に手渡す。
「謝らなくていいよ。わたしと一緒に生きると言ってくれたこと、嬉しかったから。今すぐそれ飲んでくれたら許す」
プルタブを起こすと、盛大にコーラが吹きこぼれた。
鮎子が笑い声を上げる。
「いい気味だね」
コーラでベトベトになった俺を見て、鮎子はひとしきり泣きながら笑った。
「さて、わたしも飲もう」
涙を拭き、乱れた髪をかるくなでつけて、鮎子は言う。
彼女が手にしていたのは、コーラの缶だった。
「ミルクティーじゃないの?」
「いいの。今日はコーラの気分なの」
だけど一口飲んで、鮎子は眉をひそめた。
「うわっ、炭酸きつい」
文句を言いながら、それでも繰り返し缶を口に運ぶ。
ふと、可能性について考えた。
これまで行った輸血で、俺はどの程度寿命を延ばしたのだろう。
その答えがわかるのはきっと遠い未来。百年後か、千年後か。
不貞腐れた様子でコーラを飲む、鮎子の横顔を眺めた。
「ずっと一緒にいるよ」なんて、今の俺はとても言えない。
だから願う。身勝手な願いだ。
これからも鮎子とともに生きられますように。
どうかいつの日か、彼女が死にますように。