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風船屋とバルーン

作者: 鉈の蛇

 ふわふわ。空にたゆたう異物である。

 風ではなく、雲ではなく、浮いているのが当たり前という顔をしている。どこからともなく吹いてきた風に遊ばれて、泳ぐように空を浮遊する。しかしそれは間違いなく生きている様子で、ぱちぱちと瞬きを繰り返し、にゃおとわざとらしい声を小さく発していた。


 少女は頭上にやってきたそれを見上げていた。自らの意思ではないだろう、興味もなさげに視線を彷徨わせていて、時折視線が合う。その度、申し訳程度ににゃあと声を発する。サービスか何かのつもりだろうかと思うのだが、指摘はしない。

 そもそも会話ができるのかも不鮮明であり、生物なのか否かさえ定かではない。しかし挙動を見ている限り、生きているのだろうと察することはできて、流石に無視はできないと視線を外すことができなかった。


 気になった少女は声をかけてみることにした。

 好奇心に衝き動かされて、語りかけてみるとのんびりした声が返ってくる。第一声の時点で会話が可能なことは判明した。


 「あなたは風船?」

 「俺か? いいや、俺はバルーンさ」

 「それは名前? それとも形状?」

 「名前だよ。俺はみんなにそう呼ばれてる。友達なんていないけど」


 頭上をふわりと通り過ぎていく。目で追うのに困らない速度で、果たしてその動きは自分の意思なのだろうかと思うほど、体のどこにも力の入らない姿だ。語る声にも覇気など微塵も感じられない。威厳は感じられないが、だから親しみやすいとも言えるだろうか。


 風船みたいに軽く飛んで、尻尾をゆらりと動かす。

 可愛げはあるけれど不思議な存在。言葉を交わした後になっても生物だとは確信していない。少なくとも嫌悪感はなかった。


 「ここで何してるの?」

 「人を待ってるんだよ。戻ってくるのをね」

 「友達?」

 「いいや。だが知っている奴ではある」

 「会って何をするの?」

 「何もしない。またどこかへ行くだけさ」


 少女はふぅんと口にする。

 人を待っている、という事実を知って満足した。少なくともそれは一人で浮かんでいるだけではないのだ。誰か彼を知っている人が居るらしい。果たしてそれが人なのか、本当に生きている何かなのか、いつになったら現れるのか、謎はたくさんあるが考えても無駄だと思ってやめてしまう。


 得体の知れない生物、だけど怖くはない。語る声、ふわふわ浮かぶ体、眠っているのか起きているのかわからない目。のんびりした性格なのだとわかった。しばらく眺めていても何をするでもなく浮遊するばかりで、能動的に動く瞬間など一度としてない。

 不気味だと表現する人は居るのかもしれない。しかし少女はそう思わなかった。

 世界が広いのならこんな生物が居てもいい。そう思って観察を続けて、いつしかもっと知りたいと更なる興味を持っていた。


 街道は何も無い平原に挟まれて、のどかとも寂しげとも感じる景色にある。今日はよく晴れていた。青い空が広く見えて、美しい風景に囲まれていた。

 孤立するようにぽつんと立った大きな木の下、少女とバルーンは立っている。

 話す声は何者にも遮られず、小さな声で呟こうとも正確に相手へ伝わっていた。


 「どこから来たの?」

 「さて、どこからだったろう。ずっと旅をしてきた。遠くから来た気もするし、すごく近くから来た気もする。どこから来たのかは忘れてしまったかもしれない」

 「故郷がわからないの? それって寂しくない?」

 「寂しい? どうして?」

 「帰る場所がわからないじゃない」

 「それなら寂しくない。帰る場所なんて初めから知らないから」


 風に吹かれたわけでもなく、少し弾むように高度を上げて、頭上から少女を見下ろすバルーンは何でもないことのように言った。

 少女はそれを不思議そうに聞いて、逃さずに尋ねる。


 「自分の生まれたところ、わからないの?」

 「さあ? 忘れてしまったのか、そもそも知らなかったのか。俺にとってどっちでもいいんだ。帰りたいなんて思ってない」

 「でも、家族は?」

 「居ないよ。いや、居たかな? まぁどっちでもいいか」


 バルーンはさほど考えもせずに話している。

 煙に巻かれているのか、ただ考えるのが面倒なだけか。多分、そういう性格なのだろうと思いもする。めんどくさいと言いたげな力の抜けた口調から察するものは少なからずあった。


 一度として止まろうとしないバルーンを見上げて、忙しないと思いながら、少女はふと手を伸ばしてみるのだが、届かない。触れてみるとどんな感触がするのか、唐突に気になった。

 少女の行動を見たからだろう、バルーンがふわりと下りてくる。何を考えるでもなく指先にバルーンの体が触れて、体毛のざらりとした感触を知った。当然だと思いながら風船ではないことを確認した。やはり生物なのである。


 咄嗟の瞬間で、押すように触れたため、バルーンの体がわずかに回転するように空へ舞い上がっていく。与えられた刺激に抗う様子は見られず、押されれば押されたままどこかへ行ってしまう。自らの意思で風に乗るように、反対に、自らの意思などどこにもないかのようにも見える。

 不思議に感じて、少女は何も言わずに手を下ろした。


 そんな姿が羨ましいと感じる一方、あまりに不思議で、理解しきれない。

 風船になりたいわけではないが、もしも風船になれたとしたら、あんな風になれるのだろうか。そんな風にも考えた。


 「不思議だね。なんて言ったらいいのかわからないけど」

 「わからなければ言わなければいいよ。わからなければ俺は何も言わない」


 適当な奴、とは反射的に浮かんだ感想だ。

 バルーンはふわりと動いて、特に目的地もなく、流されるままに動くが故に、地面を転がるように小さく弾んでいた。遊んでいるようにも見えるが、改めて観察すると何をしているのだろうと思う挙動である。


 少女は大きな木の下に座って、バルーンと共に待つことにした。それを望まれたわけではないとはいえ、自らの意思でそうしたいと思ったのだ。

 バルーンが持っている人物はどんな人なのだろう。少なからずの期待を胸の奥に秘めて、けれど裏切られては堪らないと壁を作って、想像を楽しみながらバルーンの動きを目で追っかける。

 どんな人でもいいとは言わない。ただ知りたいという欲求があった。


 「これからどこへ行くの?」

 「さあ、どこだろう? 北か、南か。西か、東か」

 「行きたい場所があるんじゃないの?」

 「それを探すのもまた旅だよ」


 よく知っている。そう言うかのような態度だった。

 少女は、なるほど、と素直に呑み込んで、多くを聞こうとはしない。ここで聞いたものが全てなのだろうと察していたからだ。

 ひょっとしたら何も考えていないのかもしれない。質問して、答えが返ってこない状況を考慮して、ここで止めておいた方がいいという判断だ。バルーンの態度や語り口調を見ている限り、全てが気まぐれに済まされていても不思議ではない。


 力が抜けていて掴み所がなく、可愛げはあるけれど信用はない。

 風のようであり、雲のようでもあり、姿と性格は驚くほど一致していた。

 バルーンと友達になりたい。少女はふわりと動く彼を見つめて、頬を緩めてそんなことを考えていた。


 ふわふわ浮かんで、時折ぴゅっと動いて、上下が反転して空へ落ちていく。速度は速くないけれど落ち着きがなくて絶えず動いている。

 見ていて飽きない。生きているだけで楽しい生物だ。


 「友達が居ないと寂しくない?」

 「寂しくないさ。友達を必要としていないから」

 「でも……じゃあ、私が友達になってもいい?」

 「君が?」


 バルーンがふわりと顔の前までやってくる。

 受け取るように少女が両手でその体を掴んで、くるりと上下を変えてやり、初めて近くで正面から向き合った。

 意外につぶらな目をしている。間抜けな顔だが愛らしさはある。見た目からして宙に浮くほど軽いのかと思いきや、想像よりも重さを感じるなど、手の中でまじまじと観察できて、改めて知ったことが多かった。何を考えたわけでもない突発的な行動だったけれど、触れてみてよかったと思う瞬間である。


 「私が友達になったら寂しくないでしょ?」

 「今でも寂しくないよ」

 「だけど友達が居た方が楽しいよ。私はあなたと友達になりたいの」

 「そうかね? そうかも。じゃあそうしよう」


 軽く言ってむにゃむにゃと口を動かすと、バルーンは彼女の手の中から逃れて、ふわりと舞い上がった。少女はその動きを目で追いながら頬を綻ばせる。


 「じゃあ今から友達ね」

 「そうは言うが、友達ってのは何をするのかね?」

 「え? それは……」


 問いかけられて少女は困惑した。深く考えもせずに伝えたので、友達になって何をするのか、そこまでは考えていなかったのだ。

 ふわりと彼女の視線まで下りてきたバルーンは変わらぬ態度で質問する。それが心底わからないと言いたげだった。


 「友達になると何が変わるんだ? 今までと何か違うのか?」

 「友達になると……一人で居るより安心するよ」

 「一人で居ても安心するよ。今までと何かが変わるのかな?」

 「きっと変わると思うよ。うまく言えないけど……ずっと一緒に居るわけじゃないと思う。でも、また会う約束ができるじゃない」

 「ふーん。そんなもんか。友達はまた会いたいと思うのかな」


 ふわりとゆっくり離れていくバルーンは納得していないみたいで、感心しているようでもある反面、興味がないという態度にも感じる。

 その態度からは友達という概念を理解できていないことが伝わってくる。経験を伴わないことが大きな要因かもしれない。友達が居ないと当然のように語る彼が、友達について興味を示さず、知識がないと言い切るのは当然のことだと思えた。


 教えてあげたい気持ちはある。けれどどう伝えればいいのかがわからない。

 どこへ行くでもなくふわりと離れていったバルーンを見送って、その場を動かずにしばし思案して、少女はううむと小さく唸った。


 わかり合おうと話してみて、謎はさらに深まった気がする。

 その物体は生物か。一体何なのか。

 冷静に考えてみればわからないことだらけで、少女は呆然としていた。その間もバルーンはあちらへこちらへふわりと動いている。


 いつまでそうしているのかもわからず、停滞を感じた頃。

 少女がぼんやりしていると、バルーンが遠方を見て何かに気付いた。


 「来たぞ。待たせやがって」


 彼の視線の先を追うと近付いてくる人影を見つける。スーツを着て、帽子を深々と被った青年だ。すらりとした長身で遠くからでもよく見える。

 少女は待ち切れずに目を凝らす。

 歩む足取りは軽く、まるで雲の上を進むよう。右手にトランクを提げて、きれいな身なりながら旅の途中なのだという気配を感じた。


 しばらく黙って眺めて到着を待った。

 きれいな顔だ。目の前に立った時、まずそう思う。髪が長くて、隙がない所作を自然に見せており、初めて会う少女に微笑を向けている。悪い人ではないと感じたけれども、良い人にも見えないから不思議だ。


 不思議な雰囲気だ。今までに感じたことがない。けれど嫌だとは思わなくて、少女は立ち上がることも忘れて、目の前に立った青年を見上げる。

 彼は膝を折って彼女と視線を合わせて、優しい声を発した。


 「こんにちは」

 「あなた、バルーンの友達?」

 「うん? 彼に聞いたんですか? ええ、まぁ、友達のようなものです。違うとも言えますが」


 要領を得ない発言で、言いたいことはよくわからないけど知り合いであることは間違いないらしい。

 少女はじっくりと青年を観察して、しばらく視線を外さなかった。反応こそないものの、よほど気になったのか、バルーンが寄ってきても気付こうとさえしない。


 静かな時間が流れていた。

 バルーンに対して好奇心を覗かせて、しきりに質問していた少女は、見知らぬ青年が現れると人形のように固まってしまう。何も語らず、口を閉ざして、少なくとも自ら発言しようとはしなかった。それでいて片時も視線を離さない。

 彼女に触れるほど近い背後、傍から見ていたバルーンは、ずいぶん怯えているようだと判断していた。


 「君はどこから来たんですか?」


 沈黙を破るべく青年が口を開いた。少女に対して、警戒させないように優しい態度を見せている。

 少女は小さく頷いて、小さな声で答えた。


 「町からよ」

 「ここには一人で?」

 「そう」

 「心配する人が居るんじゃないですか。帰らなくていいので?」

 「いいの。心配する人なんて、居ないから」


 初めて少女が視線を外した。俯いて目を伏せると膝を抱える。何も言わずとも寂しげで、何やら事情がありそうだと察する。

 そもそも、彼女の外見を見ればそれは明らかだ。肌と服が薄汚れて、髪は整えることもなく伸ばされてぼさぼさ、靴さえ履いていない。この辺りは草の生えた柔らかい地面、草原が広がっているのに、足の裏には血が滲んでいる。ずいぶん遠くから歩いてきたのかもしれない。付近には町の影さえ見えなかった。


 少女の態度と言動からして察するものはある。

 青年は質問をやめて、彼女の隣へ座った。

 何を思ったのか、バルーンもまたふわりと彼らの視界の中へ現れて、留まるわけでもなく動いている。少女がその姿を見ると、意味もなく視線で追い始める。


 不気味なほどに静かだけれど、のどかな時間でもあった。

 風が泳ぎ、蝶がたゆたい、頭上を雲が歩いていく。

 心安らぐ一時である。


 少女は遠くを眺めながら、隣に座る青年を警戒しているのは明らかだった。それも仕方ないと思いつつ、青年は遠ざかろうとはしない。そうしてはいけないという想いを抱いていたようだ。

 どうすればいいのかは迷っていない。ただ彼女の思う通りに。気遣いから事を急ぎはせず、太陽は高い、時間ならいくらでもあると判断していた。


 「僕らはね、旅をしているんです」


 ぽつりと青年が語り始めた。

 少女は彼に目を向けることなく、バルーンのふわりとした動きを眺めながら、静かなその声に耳を傾ける。


 「旅はいいですよ。特にゴールを決めることなく、風の行くまま気の向くまま、自分が思う方向へ進むんです。どこへ辿り着くのか、それさえも楽しみで、辿り着いたその先でまた新しい何かに出会って、次へ進む力を得る。そんなことの繰り返しなんです。それだけと言われればそれだけだけど、自分を取り巻く環境をいっそ捨ててしまって、何も知らないどこかへ行くというのは、存外、心が躍っていいものですよ」


 つっかえることもなく朗々と語って、青年はどこか得意気だと感じて、よく喋る人だと少女は他人事のように考える。

 反応は薄く、質問はない。何を考えているのかさえ伝わってこない。彼女の無表情はまるでそれが本来の顔だというかのように、ぴくりとも変化せず、誰かに無理やり着けられた仮面のようだとも思う。

 返ってくるものがなくとも青年は動じない。少女の横顔をちらりと見ると仕方なさそうに笑って、それでもいいと許容した。


 バルーンがふわりと少女の顔の前までやってきた。

 天地が逆で、上は下、下は上。視界の端から唐突に現れて、笑うでもなく、怒るでもなく、悲しむわけでもない。

 茫然として漠然として、達観してもいる。心ここに非ずなのは興味がないのか、彼にとっては見知った景色か。語る声はのほほんとしていた。


 「他にやることがないんだよ。まぁ、飽きてもいないが」

 「君も、どこか遠くへ行きたいんじゃないですか?」


 問われて、バルーンを見ていた少女がようやく青年に目を向けた。

 感情を含まない瞳。見つめ合ってもわかり合えるものはない。その一方、ひどく寂しげにも見えるその様が、無性に愛おしく感じられる。


 「気をつけろ。こいつは人攫いだから」

 「失敬な。そんなつもりはありませんよ」

 「似たようなものさ。引き連れてるんだ。あいつらはどう思ってるかな」

 「みんな楽しんでいれば、人攫いにはなりません」

 「勝手な奴」


 けらけらと笑って、おっとっと、なんて言いながら風に吹かれてバルーンが視界の中央から遠ざかっていく。自分の意思ではないだろうけれど、どこか楽しげなその様子を羨ましいと思う気持ちは、少なからずある。

 認めてはいけない気がして、可能な限り目を逸らしていた。

 遠くへ行きたいのか。問いかけられたことで自覚させられた気がする。


 なぜこの場所へ来たのだろう。足を痛めて、何度も転んで、罪悪感に苛まれながらそれでも前へ進み続けたのは、どこかへ行きたかったから。

 それは逃避であり、冒険であり、挑戦でもある。

 思い返せば、初めて自らの意思で選んだ道だった。


 少女が小さく頷いた。先程の問いに対する返答なのは明白である。

 青年は笑みを深めて動き出す。彼女の前に膝を着いて、そっと手を差し出した。それを見ていたバルーンはやれやれと言いたげだった。


 「一緒に行きますか?」


 短くて最低限の誘いの言葉。差し出した手を見れば、何も言わなくても伝わっただろう。それでも敢えて伝えたのは、彼女が答えやすいと思ったからだ。


 少女は恐れている様子だった。

 自らの意思であることは間違いない。しかし裏返しにすると途端に、その決意は逃避とも表現されてしまうわけで、そこに原因不明な躊躇いを感じて、反射的に少なからずの動揺を見せた。


 本望と建前がぶつかる瞬間である。悩む少女はどうするべきかを真剣に考えて、答えを出すのに時間がかかる。その姿を見ながら青年は何も言わなかった。自らはただ手を伸ばして選択肢を与えるだけ。決めるのは彼女だと考えて、不用意に助言をしてしまうと彼女の意思をないがしろにしてしまうかもしれない。自分で決めることこそが大切なのだと信じて疑わなかった。


 少しの間、無言で待って、やがて恐る恐る少女が手を伸ばした。

 青年は優しくその手を握ると、そっと引いて立ち上がらせる。少女は抵抗せずに従った。並んで立って風景を眺めた。


 嫌になるくらい晴れた一日で、辺りに建物がないこともあって、ずっと遠くまで一望できる。目的地は見当たらない。それ故に好奇心は刺激される。

 景色を眺める青年の横顔を見て、危険は無さそうだと安心したのか、ようやく少女は肩の力を抜いた。

 バルーンが傍までやってくる。その頭を撫でて、にゃおというわざとらしい声を聞いて、一瞬、くすりと笑った気がした。


 「どこか行きたい場所はありますか?」

 「どこでもいい……どこか遠くへ」

 「わかりました。一緒に行きましょう」


 手を引いて歩き出す。

 目的地など定めていない。どこへ着くかもわからない。新しい旅が始まった。

 青年は少女の手を引いて街道を歩く。バルーンは自らの意思で、吹いてくる風に流されながらもついてくる。


 「ほら、人攫いだ」

 「違いますよ。僕はただの案内人。遠くへ行きたい人を運ぶ仕事。人攫いはその人の意思を無視して連れ出すけど、僕は本人の意思に沿って連れ出すんです。誘拐とはわけが違いますよ」

 「そうかなぁ。人を連れ出してるのは同じだろ」

 「願望の下ですから、また別物ですよ」


 どこへ続くとも知れない道を進む。その歩みに恐れは微塵も感じられなかった。

 旅は仕事。青年はそう語る。しかし一方では趣味のように、細かなことなど何も考えずともそれを行って、純粋に楽しんでいるだけの側面もある。その顔を知っているバルーンだからこそ、何を偉そうに、と思うのかもしれない。


 空にたゆたうバルーンと違って、青年は地に足を着いている。それなのにふわふわ浮かぶようにあちこちへ行き、人々の間をたゆたい、かどわかし、連れていき、それら全てが何でもないと笑っている彼が不思議でならなかった。姿は見えるのに中身が見えない、素知らぬ顔でふわふわ空を漂う異物。彼こそが風船なのではないかと思う瞬間がある。

 それでも、彼の言う通り、本人が自らの意思で進み始めた道なのだろう。彼が導くために手を差し出したことは疑いようもないことだが、振り返ってみれば青年が無理やり誰かを陥れ、旅に出るしかない環境へ追いやったことなど一度もない。

 彼もそうだ。バルーンもまた同様であり、思い返してやれやれと思う。


 遠くへ行きたいという欲求は誰しもが持ち得る物。誰が持ったとしてもおかしくはない。けれどその想いを手にした時、実際に遠くへ行ける人間は多くない。僕はそんな人たちの手を少しだけ引いて、大丈夫だよ、と伝えられる人間になりたい。


 初めて会った時に青年が口にした言葉を思い出した。

 今にして思えば、あれが始まりで全てである。

 ふわりと動いたバルーンは青年の前へ回り込み、目を覗き込んで、流れるままに横切っていく。そんなほんの一瞬に彼へ言った。


 「次はどこへ行くんだ?」

 「さあ。どこか行きたいところはありますか?」

 「特にないな。どこだっていい。ここじゃないどこかなら」

 「じゃあそこへ行きましょう」


 悠々と進む足取りは軽く。進む方向は一つだが、選ぶ道は数え切れないほど。

 今日も彼は楽しんでいて、バルーンはその後ろをついていくだけ。

 右手には紐に繋がった風船を持ち、ゆらりと動くそれを連れて、今はまだ真っすぐに伸びる街道を真っすぐに進んでいった。

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