プロローグ 歯磨きしなくちゃ
歯磨き粉が残り少なくなっていた。
チューブから強めに押し出して、何とか今日の分は間に合わせた。帰りにドラッグストアに寄って買ってこないと。頭の中で予定表にメモを入れながら、歯ブラシをくわえる。
鏡には寝癖だらけの自分の顔が映っている。
目はここにはいない人のことを思い出していた。
ほんの数ヶ月前は、隣に並んで毎朝一緒に歯磨きする人がいた。
少しくすぐったい朝のおはようを言って、朝ごはんを食べて、学校に出掛けるのを送り出してくれる。当たり前のことが失われたなかで、もう一度得られた日常だった。
二人で美味しいものをたくさん作って食べた。
「あっちの世界って、歯ブラシあるの?」
ふゆは、ふと思い出したように彼に訊ねた。
あの時暮らしていた家は昔ながらの日本家屋で、冬場は隙間風で寒いけど、夏は心地よい風が吹き抜けて気持ちがいい。
銀色の髪を朝の風にそよがせている青年は、朝から忙しく鳴き始めた蝉の声も耳に入らないようで、ちょっぴり歯磨き粉がのった歯ブラシを興味深そうに観察する。
「ふむ。あちらで使うのは塩か、木の棒の先端を細かく裂いたもの、あるいは布か海綿だな。塩は口の中が辛くなるし、木の棒はやり過ぎれば血塗れになる。布や海綿はこちらの衛生を知ると、清潔かというといまいちなところだ」
彼は、エルランディアは、怜悧に整った顔を崩してニヤリと笑った。
彼に比べれば子どもでしかないふゆをからかうその表情が、今でも鮮やかに思い出せる。
「木の棒?」
「そうだ」
「塩?」
「そうだ。こっちだと、これの代わりだな。歯の表面を研磨する役割になる」
節の長い指で歯磨き粉のチューブをつかんで振った。
「布……?」
「それか、海綿だ。俺はなるべく清潔にはするがな、ぼろ切れを使うところもある」
想像できずに唸るふゆの頭をエルランディアが乱暴に撫でた。楽しそうな笑い声があがる。
大型犬にするような手つきだけど、あたたかくて大きな手だった。
愉快そうに細められた紺の夜空の瞳を見上げて、訊ねる。
「……ねえ、今日の夜ご飯は何食べたい?」
二人で暮らした日々の中、あの質問は合言葉みたいだった。
あちらの世界をあちこち放浪したと聞いたけど、魔法使いで賢者の彼に比べたら赤子みたいなふゆとの会話なんて楽しかっただろうか。
わからないけど、いつも口元に浮かんでいた笑みが本当だったら嬉しいと思う。
不思議な時間を過ごした季節はもう終わってしまった。
冬になってからの日常は、日の短さだけでなくグレーがかっている。
あの家も、もう燃えて、あの世界と通じていた扉は燃えてなくなってしまった。
「ちゃんと歯磨きしないと、」
自分に言い聞かせるように鏡に向き直って、朝の支度を始めた。
のんびり更新になると思います。隔週くらい?
またお付き合いいただければ嬉しいです。