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幕末京都の御伽噺  作者: 鏑木桃音
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怒りの渦

ついに突入蛤御門の変。

去年8月18日長州藩は京を追われた。

長州人には京を追われた理由がわからなかった。

長州藩は帝の叡慮に従って攘夷を実行したのだ。それなのにどうして京を追われなければならないのか。我等を追い落としたのは、攘夷を横浜一港の鎖港でごまかそうとする幕府の砦・会津藩と、自藩の利益しか追わない売国奴の薩摩藩だ。長州藩が武力によって都を追われたように、長州藩も武力によって政局を取り戻すのだ。長州藩は兵を率いて上京する準備を着々と進めていた。

池田屋事件の知らせは、こんな状況の長州藩に届いた。

去夏から溜っていた長州藩の怒りは頂点に達し、三田尻港から京を目指して続々と出兵した。


6月21日 長州藩家老福原越後3000人の兵を率いて大坂の長州藩邸に到着し、その一部を率いて伏見の長州藩邸に向かう。

6月24日 長州藩家老福原越後は、男山(石清水八幡宮があるところ。)で兵の一部を分離し、残余の兵を率いて伏見の長州藩邸に入った。


男山に兵を分置したことにより長州藩の戦闘意志は明確になった。

このため伏見街道、竹田街道、西国街道は封鎖され、長州の臨戦態勢は市中知るところとなった。東海道には出京する人が殺到する。三郎は兄夫婦を見送った。お姫さんも見送った。お互いの無事を祈る言葉を交わして。

 

6月24日から始まった長州藩の兵の配備は7月13日にはあらかた終わった。

山崎(天王山、男山)勢  家老益田右衛門介・久坂玄瑞・真木保臣等500人

伏見長州藩邸 家老福原越後等1600人

嵯峨天龍寺勢 家老国司信濃・来島又兵衛・桂小五郎等900人


一方京都守護職松平容保は、6月27日、勅命により建礼門前のお花畑を貸渡され、凝華洞に立て籠った。


長州勢は、朝廷や各藩留守居役、公家、所司代に対し、毎日のように嘆願書や哀訴状を出し続けた。


その書状は奉行所にも流れてくる。(※気力があれば読んでください。)

「天下の禍変は目前に迫り、回天の大猛断をもって速やかに攘夷を行わなければ、神州も異国同然の精神に成り下がるのではないかと杞憂に堪えず、あえて申し上げ奉ります。

黒船来航以来、度々の攘夷の仰せ出でに従って我等は尽力して参りましたのに、去年八月十八日俄かに三条殿等と我らの藩主父子が勅勘を蒙り、四月に攘夷を実行しない関東に大政委任遊ばされました。恐れながら、攘夷を率先してきたこれまでと齟齬があるのではございませんか。

宮中は陰謀渦巻き、奸臣が天聴を覆い掃攘の英断を遮っているのだと推察いたします。ですがそれでは我らの無念はどこに訴えたらよいのでしょうか。

武備充実は子供も申します。しかし、皇国の君臣の義は異国の道徳とは両立しえず、故に昨年、必勝の御成算無くとも大義のためにご聖断遊ばされたものと承知しております。元来国家の栄辱は戦の勝敗ではなく、国体の立つ立たないにあるのです。

三条殿や我らの藩主父子を玉座近くにお召しになって、心の内をお聴き取りくだされば、その至誠は伝わり疑いも晴れるはずです。どうか非常の御寛容と、回天の御神断をもって、三条殿と我らの藩主父子に攘夷を仰せ付けいただきたくお願い申し上げ奉ります。    松野三平 濱忠太郎」


「松野三平って誰?」と松之助さん

三郎は、松野三平の名は知らないが、この圧倒的な憂国の士感には心当たりがある。久坂玄瑞に真木保臣だ。


久坂玄瑞は長州藩の復権に全身全霊を傾けていた。

去夏、京の政局の中心にいたにもかかわらず政変を防げず、藩主父子を一年近くも謹慎させている責任を感じていた。それにもかかわらず、藩主は、久坂の推す卒兵上京論を採用したのだ。卒兵上京は藩の命運を懸けた大博打であり、君恩に報いるためにどうしてもこの計画を成功させねばならなかった。

久坂は山崎から度々入京し公家を中心に周旋して回った。公家たちは概して長州藩に同情的だった。それなのにいつまで経っても、朝廷からは、長州藩が望んでいる沙汰は出なかった。

なぜ出ないのか、それは守護職松平容保が兵を率いて凝華洞に住み着き、長州勢の掃討を強行に主張しているからだ。やはり容保は長州藩に立ちはだかる壁であった。容保及び会津藩を輦轂(れんこく)の下から駆逐しない限り、長州藩の嘆願が聞き届けられることはないように思われた。

一方、禁裏御守衛総督一橋慶喜は、毎日伏見に使いをだし、伏見長州藩邸の家老福原越後と退却交渉を続けた。


畿内から退却して、穏やかな手段で嘆願書を提出せよ。


退却しなければ、藩主の入京許可の評議の妨げになる。


退却は叡慮を安んじるだけでなく、異国の術策を避け、国家の危難を避けることになるのだ。


公武の折り合いがつけば入京を仰せつけになるだろう。


毎日毎日根気よく。その度に、一橋公の言葉を伝える使者が、伏見の藩邸から山崎と嵯峨に走った。

一橋公ですら長州贔屓なのだ。ならばその言葉に従って、一旦兵を退き嘆願し直せば、長州の訴えは聞き届けられるのではないか。まだ兵端を開くべき時期ではないのではないか。伏見藩邸の家老が迷う。久坂も迷う。

しかし、それとは反対に、追い詰められた長州勢の士気は開戦に向かって高まっていく。久坂が留まりたくても周りがそれを許さなくなっていた。


11日以内に各所の兵を京畿より退けよ。


明日17日を限りに全軍退却せよ。さもなくば相当の朝命があるものと心得よ。


7月17日 長州勢は、石清水八幡宮の社務所で作戦会議を開き、武力をもって守護職松平容保と会津藩を取り除くことを決定した。久坂の一時退却論は退けられた。


7月18日 久坂は宣戦布告書を議奏正親町(おおぎまち)実徳邸に投げ込んだ。

禁裏御守衛総督一橋慶喜は諸藩に命令を下す。

「去年八月十八日の処置は叡慮にあらずと言いたてて、兵威を借りて嘆願し、朝廷を脅かす所業は不届き至極。よって諸所に集屯している長州藩の者を征伐せよとの朝命である。ついては、以後上京してくる者はもちろん、駐屯している者も残らず誅伐せよ。」


各藩の配置(時計回りに洛中を囲みます。)

伏見稲荷山 大垣藩、彦根藩

九条河原(竹田街道)会津藩、桑名藩、見廻組、新選組

丸内藩、小倉藩は遊軍とする

豊後橋(観月橋) 鯖江藩、仁正寺(にしょうじ)藩、園部藩

男山へ 宮津藩

山崎へ 郡山藩、津藩

樫木原 小浜藩

老の坂 亀山藩

三条  加賀藩

嵯峨天龍寺へ 薩摩藩、膳所藩、越前藩、小田原藩、松山藩

肥後藩、久留米藩は奇兵とする

鷹ヶ峰 備前藩

上賀茂 因州藩

下賀茂 出石藩

鴨川南 尾張藩

京都長州藩邸・対馬藩邸 筑前藩


九門の配置 (南門から時計回り)  

堺町御門  越前藩        

下立売御門 津藩         

蛤御門   会津藩        

中立売御門 筑前藩        

乾御門   薩摩藩          

今出川門  彦根藩、久留米藩   

石薬師門  阿波藩

清和御門  土佐藩、加賀藩

寺町御門  肥後藩


禁門の配置(南門から時計回り)

建礼門  一橋家(一橋兵、水戸兵、幕府直属兵)

公卿門  会津藩

台所門  桑名藩

准后門  彦根藩

朔平門  岡藩

建春門  尾張藩

七年史 参考

手紙部分は七年史掲載のものを4分の1、5分の1かもに要約、圧縮したものです。かなり軽くなっていますが雰囲気を壊さないように心がけました。気力があれば読んでください。

 三郎と清子について一行で終わり。まちっとやりようあるでしょうが!


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