冥府の入口
これで忠伊さんともお別れか。
土御門邸
清子は、形代を手に天文座の端に立って、京の街並みを望んでいる。
「何をしているの?」もう春とは言え、まだ肌寒い。葛の葉が清子の肩に打掛を着せる。
「この美しい京の景色を、忠伊さんに見せているのです。」清子は振り返って言った。
梅小路は京の南西端。天文座からは京の街並みが一望できる。
御所に向かって甍の波が続き、その周縁には寺院が帯をなし、さらに外周を、山々が取り囲んでいる。この幾重にも神々に守られている感じが、いかにも京らしい。屋根の下には多くの人々の生活があるのに、王都はどこか神聖な空気を常に湛えている。
「見納めです。」忠伊の魂をあるべき場所に帰すのだ。
「確かに美しいな。」葛の葉は頷く。
「―――しかし、冥府もまた美しいぞ。」と笑顔を向ける。
「そうなの?」
「そうだよ。」
そう言うと、冥府のある西の方角を向き空を一撫ですると、詠うように呪文を唱えだした。
泰山は毫末も欺かず
松樹千年終には是朽ち
槿花一日自らの栄と為す
生去死来すべて是幻
それから暮れ始めた空に向かって左手で大きく円を描いた。すると、そこだけ空が切り取られたみたいに、真っ暗な冥府の入り口が現れた。
「ほら。」葛の葉はそう言って清子に向かって手を差し出す。
「え?」
「霊送りをするのだろう?」
「あ、えぇ。」
清子は、忠伊を形代から出し、両手で掬うようにして連れて行き、冥府の入口に向かって捧げた。しかし光の玉はぴくりともしない。清子は心配になって葛の葉を見る。
「もう、仕方ないなぁ。」葛の葉は、清子の手から光の玉をつまみ上げると、
「ほら、行くんだよ。」と言って、入口に向かって放った。
光の玉は、入口に向かってゆっくりゆらゆらと昇って行き、彼我の境に至ると、まるで落雁が水に崩れるように橙色が闇に溶けて消えた。
草木も眠る丑三つ時。月明かりを頼りに高速で進軍する一団があった。
一団は大坂城から平野の満願寺に向かっている。この捕り物に仕損じは許されない。そして捕り物の前と後とで、世界の違いに誰もが気付かないようにしなければならない。
そうでなければ、いらぬ騒動の種となるのだ。
兵は寺を何重にも囲んだ。
そして、一斉に篝火や提灯に火を灯し、ワァッと鬨の声を上げた。
天が割れるような音に忠伊は飛び起きた。
宿坊の板戸を開けると、外は真昼間のように明るい。
その光景に総てを悟った。
従者が駆けつける。住職も駆けつける。
「四方囲まれています。」
忠伊は瞑目した。
帝のために身を挺して尽くそうと心に決めて数十年。結局何も為せなかった。自分が不甲斐なく、無念の極みだ。だが最早如何ともし難く、これまでだ。
覚悟を決めて目を開けた。
「住職、世話になった。畳を汚すが許せよ。」
忠伊はそう言って、詫びとして刀を一振り住職に与え、従者共々座敷の障子を閉めた。
文久4年2月10日 中山忠伊自刃。
住職に手渡したのは、返すことのできなかった菊花の節刀であった。
清子は夢幻の光景をぼんやり見上げていた。
すると突然、葛の葉は、がっしと清子の腕をつかんで冥府の入口に清子の半身を突っ込んだ。
「うわぁ、何をする?!」清子は生命の危機を感じて暴れる。
「ほら、見て。美しかろう?」葛の葉の嬉しそうな声がする。
恐る恐る目を開けると、一面の野っ原で、白い小花がたくさん咲いていた。風は無く、遠くに大きな木が一本見える。
「わー、本当に綺麗。」
「そう。綺麗で穏やかで、穏やかで、穏やかなところなのじゃ。」そう言って溜息を一つつく。そして、
「ねぇ、このままここで暮らさない?」と甘い声で言う。
「・・・」今、すぐに?
「ね?」葛の葉が顔を寄せる。
いろんなことが一度に頭をよぎり頭が真っ白になった。でも何も考えられないからわかることもある。清子は後ろを振り返った。
その様子を見た葛の葉は、大きなため息をつく。
「あ~あ、冥府いいとこ作戦失敗か。」そう言うと、清子をそっと地上に降ろしてやった。
そして引き戸でも閉めるように入口を閉じた。
冥府は、死後の世界にふさわしく、嘘のように美しかった。
人はいつか死ぬのはわかっている。
だが人は、来世を信じるから死を受け入れることができるのではないか。
そして人は、終わりがあるから懸命に生きることができるのではないか。
生の無い永遠の死も、死の無い永遠の生も、同じだけ恐ろしい。
葛の葉は恐ろしい。
青ざめる清子の傍らで、葛の葉は、次はどんな作戦にしようかとルンルンで考えていた。
作中の呪文は白居易の「放言」の改悪です。今回は急急如律令ではありません。神様の力を借りる必要がないからです。ちょっと期待外れだったらごめんなさい。
いい年の息子を恋人というお母さんはちょっと気持ち悪い。娘を恋人というお父さんは途端に犯罪臭がする。葛の葉に性別はありません。